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第1章「はじまり」

気配

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「――町長っ!!」

 突然ガタッと蹴破らんばかりにドアが開かれると、ずぶ濡れの者が部屋の中に入ってきた。

「リューゴではないか?」

 ジーネイルは目を見開き、自身がリューゴと呼んだ男に駆け寄る。
 対するリューゴは、肩を上下に動かして呼吸し、その場に立っているのがやっとだ。年恰好はジーネイルより若いが、雨風に冷やされたのだろうか顔色が悪い。

(……ブロンドの髪)

 男の髪は見慣れない金色で、潤んだ瞳は青色だ。リューゴという方は外国人かしらと未知は思う。

「リューゴ、そんなに慌ててどうしたのだ?」

 ジーネイルに体を揺すられてしっかりと顔を上げるリューゴ。彼の掛けた丸眼鏡には亀裂が入っていて、今にも砕けてなくなりそうだ。

「……大変です」

 息も絶え絶えに、その言葉には生気が感じられなかった。ジーネイルに食い入るような目つきで問い詰められ、リューゴは無理矢理深呼吸をした後に、ようやく口を開いた。

「あなたの息子のイグエンが帰って来たんです!!」

 ジーネイルの瞳から一粒の涙が流れ落ちた。体は小刻みに震え、彼はその場に立ち尽くしていた。

「イグエン……私は何ということをしてしまったんだ……」

 嗚咽が漏れる。悲しみが胸を締め付け、喉のあたりまで込み上げてくる。
 リューゴはそんなジーネイルを見兼ねて、

「町長、彼は戻ってきたんですよ。きっと町長を許してくれますよ」

 と慰めた。
 許す? 一体何を許すのだろうか。未知はふと廊下で盗み聞きした話を思い出す。

「彼は広場で町長を待っています」

 リューゴは窓の外を一瞥する。

「イグ……息子さんを優しく迎えてやってください……」

 彼の口の動きは次第に遅くなり、最後の方は声にならなかった。

「リューゴ……」

 ジーネイルが口を開くと同時に、リューゴは床に崩れ落ちた。

「……っ!?」

 俯せになったリューゴの背中から何か鋭いものでざっくりと斬られた傷が露になる。傷口からは鮮血が溢れだし、茶色の床を既に真っ赤に染めている。

「誰がお前にこんなことをしたんだっ!!」

 ジーネイルは丸めた拳で床を何度も殴り、見えない敵に怒りをぶつける。
 そんなことしないでくださいよと言わんばかりに、リューゴは顔を上げて薄らと目蓋を開けた。

「それは、言えません……」
「リューゴ、お前はこんな深手を負いながらも私に伝えにきたのだな。どうしてこんなことに……」

 拳は赤く腫れていた。ジーネイルは膝を突き、リューゴの顔をじっと見つめる。

「未知さん、私は広場へ行く。あなたはここで待っていなさい」

 ジーネイルの顔は背中で隠れて見えない。ただ声色は淡々としていて、感情がなかった。

「……許せ」

 ジーネイルは執務机の引き出しを開けて小刀を取り出すと、手早く懐にしまい込んだ。

(行ったらだめ――)

 未知の心の声が警告を発する。
 リューゴをよこした犯人は骨肉をえぐり取る程の恐ろしい武器を所持している。小刀では赤子の手をひねるようなものだ。イグエンは囚われ、がんじがらめにされている。犯人はイグエンの名前を出し、リューゴを使ってジーネイルをおびき出そうとしているのだ。

(――殺される)

 ジーネイルを制止しようと未知が手を伸ばした矢先、彼は馬のように疾走して行ってしまった。果てしない闇に包まれた土砂降りの中を。

「……あなたが未知さんですか。町長は……あなたを一人息子のイグエン様のように心配されて」

 リューゴは血の泡を吹きながら喋り、最後まで言い終わらないうちに激しく咳き込んだ。彼の瞳に映る光は次第に弱まり、しまいには真っ黒に染まった。

「あのっ……」

 錆びた鉄のような血の臭いが鼻に染み付いて離れない。足元までとくとくと迫る血に吐き気が襲い、近づくことすらできない。
 おそらく彼は呼吸も脈もないだろう。未知は手で鼻を押さえ、その場に立っていた。

「町長さんは待っていなさいと言っていたけど……!」

 私はここにいてはいけない。ここにいたら、手遅れになる。
 未知は両手を無我夢中に振って走り、ドタドタと砕けんばかりに階段を駆け降りて脇目も振らずに外へと飛びだした。
 玉のような雨が全身を濡らす。髪や制服が肌に貼りついて気持ち悪く、思うように動けない。びちょびちょに濡れた靴を脱ぎ、裸足でひた走る。

「……うっ」

 坂道を駆け下りて平らな通りに出た途端、未知は石畳に足を取られて全身を強打した。

「何、これ……」

 石畳は轍のように一直線にえぐられ、所々地中が垣間見える。石の破片が辺りに飛び散り、誤って踏んだら大怪我をしそうだ。最近このあたりで大規模な地震が起きたのだろうか。通りは酷い有様だったが、不思議なことに両脇に並ぶ家屋は無事だった。

「ひ……人がいる」

 窓を挟んで人が立っている。
 人は未知の方を向いたまま、ぴくりとも動かない。転んだ自分を見て、相手は嘲笑っているのだろうか。無言で、視線だけが胸に突き刺さる。
 突然ピカリと稲光がひらめき、窓の向こうの様子が明らかになる。

「え……」

 微動だにしない相手は人ではなく、石像だった。
 肌と衣服は同化し、灰白色に染まっている。髪の毛の一本一本が、強ばった表情が綿密に彫り込まれている。それは、この世に生をうけた者に見えた。
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