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第5章

ひとつのベッド

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「よしっ......」

 漏れ出した小さな声。意気込むように開けた扉の先の光景に、私はごくりと唾を飲んだ。

 そこは、リビングの向かいにある、千秋さんの寝室。

 お風呂から上がり、少し湿った髪の毛に指を通しながら、無意識のうちに髪型を整える。


 思いも寄らず、ここに泊まると言い出した彼のご両親のおかげで、私はこの部屋で一夜を過ごすことになった。

 妻を演じている以上、別々の部屋で寝るわけにはいかない。

 そう結論に至ったものの、目の前には一つの大きなベッド。それは同時に、このベッドで一緒に寝るということを意味していた。


 ここに住んでいた間すら、一度も入ることのなかった彼の部屋。ゆっくりとベッドに近づきながら、ふかふかの毛布に触れると、自然とため息が出た。


 静まり返る部屋の中で、ボーッと辺りを見回す。

 この部屋に入ったのは、あの日以来のこと。

 あれはまだ、千秋さんのこともよく知らない、偽装結婚の話すら聞く前のこと。二日酔いでボーッとしていたけれど、あの時の光景はよく覚えている。

 つい半年前のことなのに、色々なことがあったせいか、随分前のことのようにも思えた。


「あ」

 その時、開けっ放しの扉の向こうから聞こえてきた声。

 振り返ると、お風呂から出たばかりで、まだ湯気を帯びている千秋さんと目があった。


 濡れた髪から、たまに落ちる水滴。彼は首から下げていたタオルで、髪をわしゃわしゃと掻き乱すと、意識したように私から目を逸らした。

「ベッドは使って。俺はこっちで寝るから。」

 すると、冷たくそう言い残す。

 ベッドの反対側に周り、フローリングの硬い床に座り込む彼は、事前に用意していた寝袋を広げ始めた。

 私は、こちらに向けられた背中をボーッと見つめ、おもむろにベッドの中へと潜り込む。


 なぜかその時、無性に寂しさを感じた。

 自分でもよく分からない。ベッドを見てため息をついたり、一緒に寝る部屋を前に気合いを入れたり、正直困っていたはずだった。

 けれど、いざ別々に寝ると言われた時、身勝手にも少しだけ寂しさを覚えてしまった。


 千秋さんはその後、何も言わずにまた部屋を出ていった。遠くの方で、ゴーッと鳴るドライヤーの音。その間も、私は同じ体制のまま、一点を見つめていた。


 右側には、ぽっかりと空いた空間。ひんやりと冷たい、フローリングの硬い床。音が止み、彼が戻ってくるまで、私の心はモヤモヤしたままだった。

 本当は、言いたいことがすぐそこまで出かかっていた。けれど、言えない。言いかけるたびに何度も言葉を飲み込んでしまい、口をパクパクさせながら、なかなか言い出すことができずにいた。


「じゃあ、おやすみ。」

 黙り込んでいる間に、電気を消そうと立ち上がった彼が、私の前を通り過ぎて行く。

 その瞬間、私は最後のチャンスだと勇気を出し、握りしめた布団にギュッと力を込めた。

「いっ.....」
「ん?」

「一緒に寝ませんか、こっちで」

 やっとの思いで出た言葉。

 部屋は明るいままで、思わず顔を上げると、彼はひどく驚いた顔で固まっていた。きっと、私がそんなことを言い出すなんて、思っても見なかったんだろう。


「ほら、あの、ダブルベッドだし。両端に寝れば、別に遠いですから」

 誤魔化すように、慌てて付け加えた言葉たち。


「いや、でも」
「私が嫌なんですっ!」

 それでも引かない彼を見兼ねて、思ったよりもだいぶ大きな声が出た。私はハッとして顔が赤くなり、目を逸らす。

「明日、仕事なんですよね。そんなところで風邪ひかれて、看病しなきゃいけなると、困るので。」

 思わず、そんな思ってもないようなことを、口走っていた。

 全然、素直じゃない。
 私が言いたかったのは、こんなことじゃない。

 そう思いながらも、返事を聞かずにベッドへ横になる。出来るだけ端の方で身を縮こませ、彼から見えないようにと口元まで潜り込んだ。


 心は少し軽くなり、言えたことへの達成感にホッとする。

 しかし、返ってこない言葉にドキドキとしながら、ギュッと目を瞑った。


 すると、パチッという音だけが聞こえてくる。同時に、瞼の向こう側が少しだけ暗くなったのを感じ、思わず目を開けた。

 その瞬間、ベッドがきしみ心臓の鼓動が一気に加速する。その場で石にされたように、身動き一つとれなくなった。


 背中越しには、感じられない彼の熱。

 しかし、少し遠くに気配だけは感じた。

 必死に寝ようとすればするほど意識して、まるで寝られる気がしない。寝返りを打つこともできず、同じ体制のまま、その場で固まっているしかなかった。

「起きてる?」

 その時、千秋さんの声にギョッとする。

「起きてます。」

 少しだけ声に距離を感じながら、私は平静を装った。


「元気にしてた?」

 静まり返る寝室に広がる低い声。なんだか、変な感じがした。

「それ、今更ですけど。......でも、はい。」

「そっか。良かった。」

 私たちの会話は、きっと初めて会った頃よりもぎこちないものだった。

 思い返せば、初対面の印象は最悪。いつも少し馬鹿にしたような言い方をされ、いちいちかんに障る人だった。

 けれど、一緒にいるうち、いつの間にか雰囲気は柔らかくなっていったように思える。どこか、変わったような気がした。

 いつしか、暗闇で目を開けたままボーッとしていると、だんだん無心になっていた。

「私たちって、何だったんだろう。」

 ドキドキ脈打っていた心臓も落ち着きを取り戻し、自然とそんな言葉が飛び出していた。


「お互いのこと何も知らないまま、当てつけみたいに結婚して、この家に住み始めて。もう、私の人生なんてどうでもいいって、投げやりになってた。」


 桜と矢島さんの結婚。
 神谷さんとのお見合い。
 父とした初めての喧嘩。

 ボーッと口を動かしながら思い出すと、いろんなことがあったと懐かしくなった。

 けれど、そんな記憶はとうの昔にしまいこんでいて、今あるのは千秋さんとの暖かい思い出がばかり。


「でも、千秋さんと一緒にいるうちに、この家にいるのが落ち着くようになってて。偽装結婚でも、愛のない結婚でも、幸せだって思えたんです。相手があなたで良かった。千秋さんで良かったって、本気でそう思ってたんです。それなのに――」

 その瞬間、私は温もりに包まれた。

 後ろから回された腕。突然背中が熱くなり、がっしりとした体がまとわりつく。

 ギュッと強い力が込められた。

「なんで今.....」

 今までどんなに一緒にいても、縮まらなかった距離。優しい言葉に喜んでも、すぐに遠くへ行ってしまう。心の距離を感じてた。

 私たちが、こんなに近かったことはない。

 こんな風に抱きしめられたことなんて、一度もなかった。


 ひとりでにこぼれ落ちる涙。

「ごめん。」

 その言葉をきっかけに、枕に向かって流れる涙は止まらなくなっていた。

 彼の温かい頬を後頭部に感じ、耳元で囁かれた優しい声に言葉を詰まらせる。腕の中にすっぽりとおさまった私は、思わず背後から回されたその腕にそっと手を添えた。


「なんで今更、優しくするの。」

「ごめん。」

 頭の中はぐちゃぐちゃで、私は静かに涙を流した。


「なんであの時、キスなんてしたのっ.....。」


 涙声でそう呟き、胸がギュッと締め付けられる。


 あのキスがなければ、きっと後戻りできたはず。彼のことが頭から離れないなんてこともない。裏切られて、辛い思いをすることもない。

 否定していた想いも、自覚することはなかった。


 苦しい。つらい。
 そんな思いを抱えながら、私はその時初めて気づく。

 私はこんなにも、千秋さんを愛してた。


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