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第3章

守りたいもの

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「失礼します。お連れ致しました」
「いいわ、下がって」

 とうとう社長室へたどり着いた私は乾いた唇をギュッと噛み身構える。

 大きな二面窓の部屋に存在感のある木製のデスクが私を出迎える。デスクの側には観葉植物のサンセベリアが天井に向かってぐんと伸びていた。

 連れてきてくれた女性がすぐに立ち去り、閉められた扉の音ともに社長とふたりっきりになった。

 しかし、そこにいたのは私が想像する人物とは別人だ。大きな椅子がくるりとこちらを向いて見せた顔は、驚く私を見て微笑みもせずに立ち上がる。

 先程から聞こえていた声は女性のもので、顔を合わせた瞬間に動揺が増す。

 私を迎えたのは神谷社長ではなく夫人の方だった。

「主人は療養中でもう何ヶ月もあの椅子には座ってないの。今は私が社長代理を務めているわ」

 こちらへゆっくりと出てきた神谷さんはソファに腰掛け足を組む。

 お見合いの席で会ったときとはまるで印象が違ってみえる。漆黒の長いストレートの髪を後毛一本も残さずに後ろで束ねる彼女からは強い威圧感を感じた。

「その節は大変申し訳ありませんでした」

 ごくりと唾を飲み頭を下げる。

 お見合いの日に会ってから神谷さんと会うのは初めてだった。

「朝からずっと待っていたそうね」
「はい。今日は会っていただけるまで帰らないつもりでした」
「そう。それならもう帰りなさい」

 しんと静まり返る室内で緊張と恐怖に心臓が張り裂けそうになる。

「私があなたをここへ呼んだのは、別に話をするためじゃない。あんなところで一日中待たれても迷惑だから仕方なく呼んだだけよ」

 歓迎されていないのは分かっていたが改めて言われるとかなりこたえた。心にグサッと突き刺さりながら、耐えるように拳に力をこめる。

「帰れません」

 平常心を保とうと必死で大きく深呼吸をした。

「私のしたことは謝っても謝りきれません。何も知らなかったとはいえ恩を仇で返すような真似を本当に申し訳ありませんでした」

 部屋一面に敷かれたクリーム色の絨毯にベージュのパンプスが同化する。その画を見つめるようにして深々と頭を下げたがなぜか静けさに包まれた。

 しばらく体制を変えずに待っていたら、頭上からはスーッと息を吐く音が聞こえる。恐る恐る顔を上げたら神谷さんは煙草を一本咥えていた。

「あなたのしたことはね、ただ結婚を破談にしたってだけの話じゃないのよ」

 大きな窓には強い雨が横なぐりに打ちつけ、彼女の口元からは煙が真っ直ぐ立ち上る。
 
「この業界は横の繋がりが想像以上に強い。だからあなたとの噂は光の速さで広がったわ」

 遠くを見つめながらため息をつき、諦めたように話し出す。その鋭い目つきを見たら思わず顔が引きつった。

「あなたは自分の家族と縁を切ってまでうちの息子との結婚から逃げた。みんなその背景にどんなことがあろうと関係ないのよね。おかげで、家を捨てて逃げるほど一緒になりたくないなんて問題のある人なのねって変な誤解が生まれた」

「私、そんなつもりじゃ」

 そう言いかけた途端、灰皿に勢いよく落とされた煙草の火がプシュッと音を立てて消える。空気が変わった気がした。

「そんなつもりがなくたって、あってないようなことが面白おかしく膨らんでいくのが噂ってものなのよ」

 神谷さんの冷静沈着な口調は変わらず、声色ひとつ乱れない。諭すような言い方が余計に私の恐怖心をかきたてた。

「気分が悪いわ。もう帰ってちょうだい」

 おもむろに立ち上がる彼女は私に背を向けて自席に手をつく。その背中からはひしひしと怒りの感情が伝わってきて何も言えなくなった。

 しかし私はまだ帰るわけにはいかない。

 このまま帰ってしまえば意を決して来た意味がなくなってしまう。

「神谷さん。私が今日ここへ来たのは無理を承知でお願いがあったからです」

 言葉にするのも緊張する。この状況で頼み事などさらなる怒りを買ってもおかしくなく、手が震えた。

「もう一度だけ父の病院への出資を考え直してはいただきたいんです。どうかお願いします」

 どれだけ無謀なことかと分かっていながら、私は恥を忍んで頭を下げる。足元を見つめながら怖くて顔が上げられなかった。

「図々しいのは承知の上です。頼めるような立場にいないことも分かっているつもりです。でも」
「あなたは何のためにそこまでするの?」

 私の訴えを遮って呆れたような声が耳に届く。

 絨毯に沈む足音はだんだん遠のいていき、椅子のキコッと回る音がかすかに聞こえた。

 ゆっくり顔をあげたら、彼女の座る大きな椅子はこちらに背を向けていた。

 自分でも馬鹿だと思う。

 家族に失望して家を出てきたはずが、今その家族のために頭を下げているのだから私の行動はきっと矛盾している。

 でもこんなことをしているのは千秋さんの言葉に背中を押されたのがきっかけだ。

 『家族への愛が強すぎただけ』

 今までの生き方を肯定してくれた彼の言葉が私を突き動かす。その言葉を胸張って受け入れられるようになりたいと思った。

 それには目の前の問題から逃げてしまったあの日の自分の行動を正さなければならなかった。

「たしかにもう縁を切られて瀬川の家とは関係ない人間かもしれません。でもやっぱり私にとっては大切な家族には変わりないんです」

 すると椅子はゆっくりと回り出し、同時に神谷さんが顔を見せる。

「だったらうちの息子と結婚しなさい」

 目が合うなり強い視線を向けてきた。

「もし例の話を元に戻すというのなら出資の件を考え直してもいい。息子に対するあらぬ誤解もただ噂として消えるし、あなたは病院を守れる。お互いにとってはいい話よね?」

 想定外の話に頭が真っ白になり動揺を隠せない。まさか結婚話が再燃するとは想像もしなかった。

「私にもこの会社と社員を守る義務があるわ。一日も早く息子をこの椅子に座らせて、変な噂も一蹴しなくてはならない。病院に出資すると言ったって慈善事業じゃないのよ」

 真っ先に浮かんだ千秋さんの顔と父や病院の存在が天秤にかけられる。目を泳がせ焦る額にはじんわりと汗が滲み、どうすべきなのか分からなかった。

「本当に馬鹿な人ね」

 しばらくして黙り込む私の元にまたため息が聞こえてくる。目を丸くして見つめたら、彼女は顔を歪めて困ったように微笑んでいた。

「本気で悩んだりしてまた人生を棒に振る気? やっと自分の心に素直になれたんでしょ。何を迷ってるの」
「あの」
「あんまり図々しくて腹が立ったから意地悪しただけよ」

 頭が混乱し彼女の言う意味がすぐには理解できなかった。

「私はあなたのお父さんの弱みにつけ込んだ。卑怯だと言われても会社と家族のためにすべきことをしたと思ってる」

 神谷さんの目は一点の曇りもない。ただ一心に会社と家族の未来を守ろうとする気持ちであふれていて少しだけ羨ましかった。

 私も父からそれほどの愛がほしかった。

「だからあなたを許すつもりはないし、出資を考え直すつもりもない。もうする必要がないと言った方が正しいかしらね」

 そのとき耳を疑った。

「それってどういう……」
「きっとご実家の病院のこと何も知らずに来たんでしょう」

 私は今日、父から初めて必要とされ任せたいと言われたあの病院を守るために来たはずだった。

 振り返ればしっかり自分の意思で歩んできた足跡が刻まれていて、もう操り人形ではないのだとあの日の過ちを取り返そうとした。

 しかしもう遅かったようだ。愕然としてソファに手をつきふらふらと膝から力が抜けるように座り込む。

 矢島さんは何も言わなかったが瀬川総合病院は破産してしまったようだ。もう出資の必要がないとはそういうことだろう。

 私は現実を受け入れられず頭がぼんやりとする。自分が犯した過ちの重さに放心状態だ。

「もうここへは来ないこと。あなたが行くべき場所はこっちよ」

 いつの間にか窓ガラスに打ち付けていた雨も止み、辺りは静けさが増している。

 突然差し出された一枚のの紙を訳がわからないまま受け取り、顔を上げる。

 【ホテル セントラル白鷺しらさぎ、明日十三時】

 そう記されていたがさっぱり意味が分からなかった。

「ああ私よ、お客様がお帰りになるから下までお送りして」

 しかしそれ以上神谷さんの口から説明されることはなく、私はその紙を握りしめビルを後にする。

 それから真っ直ぐマンションへ帰る気にはなれず、湿気に塗れた空気を吸い込み大きく吐き出す。帰路に背を向け濡れた地面を歩き出したら、小さな水溜りがかすかにストッキングを濡らした。
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