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第2章
私たちの距離
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しばらく車に乗っていたら見慣れた景色が通り過ぎていき、思わず後ろを振り返る。
「あれ。今のところじゃなかったでしたっけ」
「ああ、うちはね」
すると意味深な答えが返ってきた。
マンションに戻るのかと思いきや、その道は通り過ぎてしまう。この車がどこに向かっているのかも分からずに進む道をキョロキョロ見回した。
そのとき、千秋さんはどこかの駐車場に入っていく。隣にはラグジュアリーホテルが見え、小さく戸惑う声が漏れた。
状況がつかめずにいる中、車を降りてどんどん進んでいってしまう彼に私はただついていくしかなかった。
自動ドアを抜け、ホテルのカウンターの前を通り過ぎる。慣れたように歩いていく彼が立ち止まったのはエレベーターの前で、よく分からずに黙って隣に立つ私は最上階に連れて行かれる。
次に扉が開いたとき、目の前は水族館のような空間が広がっていた。
「いらっしゃいませ。藤澤様お待ちしておりました」
ウェイターの男性に迎えられ、彼は親しそうに挨拶を交わす。
真っ白なテーブルクロスが敷かれた丸いテーブルが並び、お皿の上には折られたナフキンと綺麗に整えられたカトラリーが置かれている。そこは雰囲気のある高そうなレストランだ。
私たちは奥の一番良い席に通された。
大きな水槽が並ぶ店内で、他からは少しだけ孤立した夜景の見える席である。
「あの、どうして」
席に座った途端、私は感動する間もなくそう聞く。景色を見るよりも何よりもこの状況を理解する方が先だ。
「今日のお礼」
彼は私に優しく微笑みかけた。
「こっちの頼み聞いてくれて、あの人たちの前で頑張ってくれたお礼」
予想外の言葉に体の力が抜けていき、不意打ちの笑顔にもキュンとした。
「別に、あのくらい全然」
私はただ少し挨拶をしただけで大層なことは何もしていない。むしろ立っていただけだと言っても過言ではない。
それなのにこんな特別感のあるレストランに連れてきてくれてご褒美だなんて驚いた。
「普通の夫婦だったらな。でも俺らは違うから、こういうのはちゃんとしなきゃ」
でも彼はお酒のメニューを私に向けながら平然と言う。
「ここは特別な日に来るんだ。仕事がうまくいったときとか何かいいことがあったとき。いつもはこんな良い席じゃないけど、今日は奥様が一緒だから」
ずっと冷たくて感じが悪くてどこか掴めない人だと思っていたのに、こうして時折見せる優しさが不思議な気持ちにさせる。
それから真っ赤なワインが注がれて、次々に見た目から楽しいフランス料理が運ばれてくる。
最初は見る余裕のなかった綺麗な夜景もやっと視界に入るようになり、私の中で感動の渦が巻き起こった。
食事に夢中でそれ以降彼の言葉は何ひとつ耳に入ってこなかった。
「ふっ」
吹き出すように笑う声で顔を上げ、初めて食事の手を止める。訳が分からず笑われて怪訝な顔を見せた。
「いや、ごめん。あんまり嬉しそうに食べてるから俺の話聞いてなかったでしょ」
「ん? ごめんなさい、なんですか?」
怪訝な表情はスッと消える。真顔に戻り慌てて水を飲みながら、急に恥ずかしくなった。
「やっぱり、あんなところで適当に食べてこなくて正解だったか」
千秋さんは私の顔をまじまじと見ながら満足げで、ふとパーティーの風景が頭に浮かぶ。点と点がつながって、彼がさっさと帰ろうとした理由が分かった気がした。
彼のイメージにない行動に驚かされながら、急に可笑しくなってくる。
「なに?」
「千秋さんって意外とロマンチストなんですね」
私は偽りの妻だ。
それなのに自然とこんなおもてなしをしてくれるのは生粋のロマンチストだからかもしれない。
不覚にも少しだけキュンとして、千秋さんの本物の妻だったらきっと惚れ直しているところだろうと一瞬妄想を膨らませる。
「笑うなら二度としない」
照れたようにナフキンで口元を拭う彼の表情を見て、なんだか得した気分だ。
「そんな笑ったわけじゃないですよ」
私はまた笑みを浮かべワインに口をつける。
彼を見ていたらこの結婚も悪いものではなかったかもしれないと、そんな能天気な思いが頭をよぎった。
「ねえ千秋さん。お母さんのこと事前に教えてくれなかったの根にもってるんですけど」
メインディッシュとデザートまで食べ終えても尚、メニューをめくる私は思い出したように言う。
「いや急に分かったくらいの方が案外上手くいくんだよ。きっと知ってたら準備しようとしてガチガチに」
そう言いかけた彼とジッと目が合う。
「何急に」
「デザートもうひとつ頼んでいいですか?」
「そういうことか」
ここぞとばかりに甘えながら、今だけはめったにない妻の気分を存分に味わいたかった。呆れたように笑う彼をよそに、運ばれてきた美味しそうなデザートを口に頬張る。
「それだけ美味しそうに食べてくれたらご馳走のしがいがあるよ」
「こういうお礼ならいつでも大歓迎です」
私たちは今本物のカップルのようだ。
父への意地だけで決めた結婚だったけれど、こうして過ごすうちに千秋さんとなら偽装結婚も悪いものではなかったと感じられるようになる。
運転代行を呼び私たちは後ろの席で並んで帰る。なんとなく私はカップル気分のままで、今日を境に距離が近づいたのではないかと思い込んでいた。
しかしあんなに素敵な時間を一緒に過ごしても、結局繋がっているシートには妙な空間が生まれている。
近いけど遠い、それが他人の距離だ。夫婦でも偽りの関係であると痛感させられる。
今の私たちの距離は変わらず遠いままだった。
「あれ。今のところじゃなかったでしたっけ」
「ああ、うちはね」
すると意味深な答えが返ってきた。
マンションに戻るのかと思いきや、その道は通り過ぎてしまう。この車がどこに向かっているのかも分からずに進む道をキョロキョロ見回した。
そのとき、千秋さんはどこかの駐車場に入っていく。隣にはラグジュアリーホテルが見え、小さく戸惑う声が漏れた。
状況がつかめずにいる中、車を降りてどんどん進んでいってしまう彼に私はただついていくしかなかった。
自動ドアを抜け、ホテルのカウンターの前を通り過ぎる。慣れたように歩いていく彼が立ち止まったのはエレベーターの前で、よく分からずに黙って隣に立つ私は最上階に連れて行かれる。
次に扉が開いたとき、目の前は水族館のような空間が広がっていた。
「いらっしゃいませ。藤澤様お待ちしておりました」
ウェイターの男性に迎えられ、彼は親しそうに挨拶を交わす。
真っ白なテーブルクロスが敷かれた丸いテーブルが並び、お皿の上には折られたナフキンと綺麗に整えられたカトラリーが置かれている。そこは雰囲気のある高そうなレストランだ。
私たちは奥の一番良い席に通された。
大きな水槽が並ぶ店内で、他からは少しだけ孤立した夜景の見える席である。
「あの、どうして」
席に座った途端、私は感動する間もなくそう聞く。景色を見るよりも何よりもこの状況を理解する方が先だ。
「今日のお礼」
彼は私に優しく微笑みかけた。
「こっちの頼み聞いてくれて、あの人たちの前で頑張ってくれたお礼」
予想外の言葉に体の力が抜けていき、不意打ちの笑顔にもキュンとした。
「別に、あのくらい全然」
私はただ少し挨拶をしただけで大層なことは何もしていない。むしろ立っていただけだと言っても過言ではない。
それなのにこんな特別感のあるレストランに連れてきてくれてご褒美だなんて驚いた。
「普通の夫婦だったらな。でも俺らは違うから、こういうのはちゃんとしなきゃ」
でも彼はお酒のメニューを私に向けながら平然と言う。
「ここは特別な日に来るんだ。仕事がうまくいったときとか何かいいことがあったとき。いつもはこんな良い席じゃないけど、今日は奥様が一緒だから」
ずっと冷たくて感じが悪くてどこか掴めない人だと思っていたのに、こうして時折見せる優しさが不思議な気持ちにさせる。
それから真っ赤なワインが注がれて、次々に見た目から楽しいフランス料理が運ばれてくる。
最初は見る余裕のなかった綺麗な夜景もやっと視界に入るようになり、私の中で感動の渦が巻き起こった。
食事に夢中でそれ以降彼の言葉は何ひとつ耳に入ってこなかった。
「ふっ」
吹き出すように笑う声で顔を上げ、初めて食事の手を止める。訳が分からず笑われて怪訝な顔を見せた。
「いや、ごめん。あんまり嬉しそうに食べてるから俺の話聞いてなかったでしょ」
「ん? ごめんなさい、なんですか?」
怪訝な表情はスッと消える。真顔に戻り慌てて水を飲みながら、急に恥ずかしくなった。
「やっぱり、あんなところで適当に食べてこなくて正解だったか」
千秋さんは私の顔をまじまじと見ながら満足げで、ふとパーティーの風景が頭に浮かぶ。点と点がつながって、彼がさっさと帰ろうとした理由が分かった気がした。
彼のイメージにない行動に驚かされながら、急に可笑しくなってくる。
「なに?」
「千秋さんって意外とロマンチストなんですね」
私は偽りの妻だ。
それなのに自然とこんなおもてなしをしてくれるのは生粋のロマンチストだからかもしれない。
不覚にも少しだけキュンとして、千秋さんの本物の妻だったらきっと惚れ直しているところだろうと一瞬妄想を膨らませる。
「笑うなら二度としない」
照れたようにナフキンで口元を拭う彼の表情を見て、なんだか得した気分だ。
「そんな笑ったわけじゃないですよ」
私はまた笑みを浮かべワインに口をつける。
彼を見ていたらこの結婚も悪いものではなかったかもしれないと、そんな能天気な思いが頭をよぎった。
「ねえ千秋さん。お母さんのこと事前に教えてくれなかったの根にもってるんですけど」
メインディッシュとデザートまで食べ終えても尚、メニューをめくる私は思い出したように言う。
「いや急に分かったくらいの方が案外上手くいくんだよ。きっと知ってたら準備しようとしてガチガチに」
そう言いかけた彼とジッと目が合う。
「何急に」
「デザートもうひとつ頼んでいいですか?」
「そういうことか」
ここぞとばかりに甘えながら、今だけはめったにない妻の気分を存分に味わいたかった。呆れたように笑う彼をよそに、運ばれてきた美味しそうなデザートを口に頬張る。
「それだけ美味しそうに食べてくれたらご馳走のしがいがあるよ」
「こういうお礼ならいつでも大歓迎です」
私たちは今本物のカップルのようだ。
父への意地だけで決めた結婚だったけれど、こうして過ごすうちに千秋さんとなら偽装結婚も悪いものではなかったと感じられるようになる。
運転代行を呼び私たちは後ろの席で並んで帰る。なんとなく私はカップル気分のままで、今日を境に距離が近づいたのではないかと思い込んでいた。
しかしあんなに素敵な時間を一緒に過ごしても、結局繋がっているシートには妙な空間が生まれている。
近いけど遠い、それが他人の距離だ。夫婦でも偽りの関係であると痛感させられる。
今の私たちの距離は変わらず遠いままだった。
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