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「そろそろ、帰ろうか」

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「き、きらいと、言いましたね」
「言った。嫌いだ。好きだけど」
「なんという……どちらかにしてください!」
「どちらかって」
「ああ、聞きたくない。クリス、黙って」
「黙らない。僕はヴィーが好きだし、薬は効いてきた。そうだろ?」
「クリス、それでも、わざわざ危険を侵すことを自由とは言わない。あなたの身に何かあることで私がどれだけ……」
「ヴィー……」
 などと言い合っている彼らを置いて、俺はそっと休憩室を出た。
 正直。
 正直なところを言っていいだろうか。なんというか……こう……虚しさが溢れている。好きにしていればいいのだ、もう。
 午後からの案内がないというのなら、それはそれでこちらも好きにしよう。なんとかなるだろう。
 個室に戻ると妻が「クリス王子は大丈夫でしたか?」と聞いてくる。それだけで癒やされた。臣籍降下し、自分の領地をいい子で守る気もない俺と、政略結婚のように結ばれた彼女である。
 しかし彼女が俺の邪魔をしたことはないし、穏やかに家を守ってくれていた。意地の張り合いのような喧嘩をしたことも、嫌いだと言われたこともない。
 ああ、すばらしい。
「……着替えに少し時間がかかるそうだ。ところで……午後からは、君に似合う服でも仕立てに……いや、帰国に間に合わないか。異国の布でも見に行こうか」
 すると妻は「まあ」と驚いて笑った。
「あなたがそんなことを言うなんて、珍しいことね」
 そうか、珍しいのか。
 少々の反省をしていると、王子が機嫌良さそうに戻ってきた。午後から案内ができなくなる、などとも言われない。どうやら彼が勝ちを収めたようだった。



「クリス王子は少々お疲れです。……ああいえ、ただの運動不足ですよ。こうして私がお支えしますので、お気になさらず」
 犬耳の彼はにこにことそう言った。
 片腕に、彼のそばでは華奢に見える王子の腰を抱いている。どうやら王子の勝ちというよりは、互いに意見のすり合わせを行ったらしい。いいことだ。
 いいことだが、微妙な気分になるのは致し方ない。よくやるな……。
「はい。すみません、つい先日足をくじいたのを思い出しまして、無理を止められてしまい、このようなざまです」
 王子は申し訳なさそうだが堂々としている。まあ気持ちはわかる。こうなれば堂々としている他あるまい。
「……おとうさま! セリアも疲れました!」
「ああ、うん……そうか」
 娘は単純にかわいい。無邪気で、真っ白だ。あんな人前で痴話喧嘩するような大人にはなりませんように。
 娘を抱き上げようとしたが、するんと腕から抜けて犬耳の彼のもとへ走っていく。
「わんわん」
「これ!」
 俺は慌てて娘の脇に手を入れ、持ち上げる。
「えー……」
「どうしたんですか?」
 王子は彼に支えられながら、愛らしい角度に首を傾げ、娘に聞いた。すると娘ははっとして、俺の後ろに姿を隠す。あのなあ。
 娘よ、俺とてさっきまで痴話喧嘩していたカップルに関わりたくはないのだ。どうしてもというのなら自らの力で掴み取れ。
「あのう……」
「セリア様もお疲れですか?」
 子供に対しても王子は丁寧だ。まさに品行方正という姿をして、しかし腰をしっかりがっちり男に掴まれている。
 そして娘はその男をちらちら見ている。
「ああ! ヴィーが大きいから高い高いしてほしいんですね!」
 そうだろうか。
「……私は別に構いませんが。本当にそうですか?」
 犬耳の彼は理解し難いという顔で娘に聞いた。すると娘はもじもじしたが、ここが勝負どころだと幼いなりにわかっているのか、頷いた。



「きゃっ、きゃっ」
 と娘が喜んでいる。聞こえないがそんな感じだ。
 我々がいる店の外で、犬耳の彼は片腕に王子を抱え、肩に娘を乗せ、通りを行ったり来たりしている。妻は最初かなりそちらを気にしていたが、今は珍しい布地に熱中している。この国特産の布だそうで、さらりとしているのに吸水性に優れる、だとか。
 娘には国から連れてきた優秀な護衛がつき、人払いもしているので、大丈夫だろうとは思う。仮にも王子の護衛が子供さらいになるとも思えない。
「ねえ、あなた」
「……うん?」
「こっちの赤とこっちの赤、どちらがお好きかしら?」
「……」
 布を差し出されたが、こっちの赤とこっちの赤の違いがわからない。いやそんな馬鹿な。俺は目を細め、顔を近づけては離し、なんとかその違いを把握した。
「…………そうだな」
 違いはわかった。わずかな日当たりの違いで認識しただけのような気もするが、ともかくわかった。ではどちらが好きか、という議題だ。
 正直に言えばどちらでもいいが、どちらが好きかと聞かれているのだ。イエスかノーかで返答するべきではない。1か、2かだ。
「きゃっきゃっ」
 娘は楽しそうだ。店の前を通ったので、少しだけ声が聞こえた。父は少々ばかりの困難の中にいる。
「ふふ」
 すると妻が笑った。
「いやね、あなた。お仕事みたいな顔よ。気分で教えてくださればいいの」
「気分か」
「そう。ほら、私は後ろを向いているから、お決めになって」
「待ってくれミモザ、これは俺には難しい問題だ」
「だめよ。そしたらあとで、あなたのは私が選んでさしあげますから」
「ああ……」
 考えてみれば今まで、俺の着るものはすべて妻がデザイナーと話し合っていた。稀に夜会に呼ばれても、浮かずにいられるのは彼女のおかげだ。
 今日ばかりは努力しよう。
 俺は気合を入れ、眼に力をこめて布を睨んだ。



「あっははは!」
 私の腕の中で殿下は楽しそうだ。お疲れだという設定はどこに消えたのだろうか。
「きゃっきゃっ!」
 私の肩の上でセリア嬢も楽しそうだ。耳をときどきふにふにするのはやめて頂きたい。まあ時々であるし、乱暴ではないのでよしとしよう。
「わんちゃん、もっと早く!」
「わんちゃんではないですが……」
「ヴィーですよ、セリア様。ヴィーグ・ロフォード」
「と申します」
「はあい。ヴィー! もっと早く! 早く!」
「あっはは」
 なんだかなあ。
 私はそう思いつつも、殿下がご機嫌なので悪くない。さきほどはなんだかんだと叱りつけてしまったが、わかっていただければそれでいいのだ。
 王子のヒートが落ち着き、冷静になったところで、きちんと何が悪いかを伝えている。



『あなたのわがままでマルファス殿を危険に晒しました』
 これは効いた。けっこうがつんと効いた。
 おっしゃる通りだ。ヒートが来ていながら、立場も妻子もあるマルファス様のそばにいることは、彼を危険に晒すことだ。つまり僕は危険物だ。そうか。
 僕だって好きでオメガなわけじゃないのだが、僕がいなければ皆は平穏に生きられるというわけだ。ふん。
 などと拗ねたりもできないのは、ヴィーが僕だけを心配しているからだ。あきらかにマルファス様とかどうでもいいや、という顔で言うのだ。ただの嫉妬で、僕を説得したいだけで言うのである。
 そんなふうに大事にされたら、僕だって誰かを思いやったりしたくなるわけだ。だからしょうがない。
「あはははは!」
 ああ、楽しい。
 ヴィーの腕の中は世界で一番安心できる場所だ。ヴィーの足はとても早く、びゅうびゅうと風を切って町が通り過ぎていく。
「きゃあ!」
 セリア嬢が悲鳴をあげながら笑っている。彼女の髪もびゅうびゅう飛んで、子供らしいまん丸い額があらわになっていた。
 かわいい。
「ヴィー、ねえ、雲に手が届きそう!」
 それはすごい発想だった。どうしてそんなことを思えるのか、僕は胸が、腹の奥がきゅんとする。生まれたての青い力が溢れている。
「そうですね。できるものなら、」
 あっと気づいた時には僕も手を伸ばしていた。
 そのくらいに高く飛んだのだった。晴れた日の空は高い。やはり届きそうになかったが、セリア嬢は嬉しそうに手を振っている。掴めたのだろうか。
 掴めたのかもしれない。笑っている。
「っと」
 すとんと落下する。これには足の間がもぞもぞしたが、ヴィーは再び空に昇っていた。下を見れば地面が遠く、驚いた護衛の顔が見えた気がする。
 僕は手を振った。
 すとんとまた落ちる。
 地面を蹴る。
 こんなふうに町を走り回れたら、きっと楽しいだろう。今度、お忍びで抱えて走ってもらおうか。
 いいなあ。
 楽しみだ。
「高い高ーい!」
 恐れを知らないセリア嬢が喜んでいる。
 僕は少し怖くなったので、ヴィーにしがみついていた。それがわかっているのだろう、ヴィーの上昇は少しずつ減って、高度よりもまた速度が上がった。
「はやーい!」
 なんという素直さだろう。僕はうずうずとたまらず、彼女を見ているのが眩しくてならない。
「ヴィー」
 僕は耳元で囁いた。
「そろそろ、帰ろうか」
 さきほど呼びつけた代わりの案内人が、もうすぐ到着するだろう。
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