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第9話 第2章 野望の魔手②

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 鍋をかき混ぜる音、漂うスープの匂い、皿に盛りつけられた食材の色彩。
 広い調理場で、料理人達が忙しなく動き回っている。
「おう、帰ってきたぞ」
 響き渡る山城の声に、料理人達は一斉に声を上げた。
「お帰りなさい」
「料理長」
 山城は、手を挙げて応じると、背後に控えている黒羽に話しかけた。
「秋ちゃん。わりぃけどよ、姫様に俺ぇが帰ってきたって伝えてくんねえかな。本当は、直接言わなきゃなんねぇけどよ、どやされるだろうからな」
「絶対今言った方が良いと思いますが」
「あー、そうだけどよ。ほら、英雄の秋ちゃんが上手く言いくるめてくれればよ、怒られねえかもしんねえだろ。な、頼むよ。秘蔵の調理方法教えてやっからさ」
 子供じみた笑顔に、黒羽は苦笑する。まあ、秘蔵のレシピを教えてくれるなら、悪い話じゃない。
 黒羽は頷くと、彩希を連れてソフィアの部屋へと向かった。
「まったく、仕方のない人だな」
「人のこと言えるのかしら。あなただって、仕事のことになると似たようなものじゃない」
「そ、そんなことは……まあ、いいや。こっからどこに曲がれば、部屋に行けるっけ?」
 彩希はクスクスと笑い、先頭に立って歩き出した。
 やはり彼女は物覚えが良い。広く同じような景色が続く城内を迷いなく進む。黒羽は心底感心した。
「えーと、ここよ」
「お、本当だ。よーし、どう説得したもんかな」
「大丈夫かしらね」
 やれるもんならやってみろ、と言わんばかりの彩希に、黒羽は「フ、見てろって」と言い、ドアをノックした。
「ですから、何度も言ったはずです。あなたの方針には断固反対です!」
 ドア越しに聞こえるほどの大声が、二人の耳に届く。
 黒羽が視線を彩希に向けると、彼女は躊躇うことなくドアを開けた。
「女王陛下。では、一体どうするおつもりですか。敵は待ってはくれませんぞ。夢物語では国は守れない」
 エイトールの言葉に、ソフィアは首を振った。
「ならば、あなたのいう方法で本当に国は守れますか? ワタクシはそうは思えません。悲しみが増えるだけです。誰よりも戦による悲しみを知るはずなのに、どうしてそんなことを言うのです」
「悲しみを知ればこそです。あの国は他国に対して一切の慈悲がない。平和協定を結ぶなどできようはずがなし、降伏をしても殺されるだけだ。ならば、一縷の望みをかけて徹底抗戦するしか道はないのですよ。女王陛下、貴方は若い。現実が見えておらぬのだ」
 数瞬、ソフィアは年相応の顔になったが、すぐに女王陛下の顔に変貌した。
「下がりなさい。ワタクシの答えは変わりません」
 エイトールは重々しく吐息をもらすと、「残念です」とだけ言葉を残し、部屋から出て行った。
 黒羽は去り際のエイトールの表情が、やけに印象に残った。
(なんて険しい顔だ。まるで……)
「黒羽様、彩希様、ようこそおいでくださいました。見苦しいところをお見せしてしまい、申し訳なかったですわ」
 よく通る声に黒羽の思考は途切れ、視線をソフィアへと向けた。
「いえ、私達こそアポも取らずに申し訳ない」
「とんでもない。あなた方でしたら、ワタクシはいつでもお会いします。それより、誠の件はどうなりましたか?」
 黒羽は背筋を正してから語りだした。
「まだ、奥さんの行方は分かっていません。人探しの専門家に依頼をして、結果を待っている状況です。それで、その」
「?」
「山城さんは、厨房で働いています。なんでもその、待っている間暇だからって」
 ソフィアは疲れたように息を吐いた。
「仕事好きの馬鹿者ですわ。もう、しょうがない人」
 ソフィアはムッとした表情になるが、気を取り直したように笑った。
「まあ、仕事をしていたほうが気がまぎれるかもしれませんわね」
 緩やかな空気が漂う。
 黒羽は、なんとかなった、と胸をなでおろした。
「ねえ、ソフィアちゃん。窓、開けていいかしら」
 どうぞ、と了承を得た彩希は、勢いよく窓を解き放った。風がサッと室内へと入り込み、青と白で彩られた空が、心を際限なく軽やかにした。
 どこまでも続く青空は、未来に不安などあるはずがないと告げているかのようだ。
 ――しかし、彼らは知る由もなかった。すでに暗雲が迫り来ていることに。
 ※
 ノックの音が短く鳴り、侍女の言葉がドア越しから聞こえた。
「陛下、お食事ができました」
「ええ、ありがとう。持ってきてくださる? 黒羽様達も一緒にいただきましょう」
 ドアが開け放たれ、侍女が洗礼された動作で、皿をテーブルへと並べていく。
「本日は、山城シェフ特製のステーキでございます。ウトバルク牛の希少部位を贅沢に使用した一品です」
「そう、ありがとう。ご苦労様。下がってよろしいわ。後はワタクシが彼らをもてなします」
 侍女はどこかしっくりとしない顔で、部屋を出て行った。
「今の人、どうしたのかしら?」
「きっと、ワタクシがこの贅沢品に文句を言わなかったからですわ」
 彩希が片眉を上げると、ソフィアはクスクスと笑った。
「いずれこの王国は、王も貴族もいない民主的な国にすると言ったでしょう。そのためには、一部の者だけが贅沢な暮らしをしてはならないとワタクシは考えますの。
 このお肉一食分のお金で、三人家族くらいでしたら、ゆうに一週間分の食費は賄えるはずです。富は独占するのではなく、分け合うものですわ。
 ワタクシは、この考えに基づいて、質素な生活を心がけています」
 彩希は感心したような顔でしきりに頷いた。
「フーン、素晴らしいわね。世の中があなたみたいな人でいっぱいになればきっと、いいえ、絶対に幸福な世界になるわね」
 ソフィアはむずがゆそうに笑った。
「い、いやですわ。大げさです」
「大げさじゃない。本当にそう思うわ。……でも、ステーキどうしましょうか。贅沢するのは気が引けちゃうわ」
「フフ、ごめんなさい。そんなつもりではなかったですわ。今日は特別。大切な客人であるあなた方に、質素な食事を提供するなど、あってはならないの。
 さあ、冷めないうちにいただきましょう」
 ステーキからは、食欲に直接叩きつけられているかのような匂いが立ち上っている。
 黒羽は喉を鳴らし、ナイフで肉を切る。肉は空気のように、触れた感触すらろくに感じさせずに切れた。
「お、おお」
 美しいピンク色の断面。山城の丁寧な仕事ぶりが、露わになった証拠だ。
 黒羽はフォークで肉を刺し、口へゆっくりと運んでいった。
「食べてはなりません」
 落雷のような勢いで、ドアが開かれた。
「騒々しい! 何事です?」
「女王陛下、皆様。その料理には毒が仕込まれています」
 場に緊張が走る。
 ソフィアは、侍女に鋭い声で問いかけた。
「本当ですか?」
「ハイ。偶然厨房に訪れた宰相が見つけてくださいました。なんでもティポイの毒が入っているようです」
 ソフィアは、二の句が継げない様子だった。が、すぐに我に返ると、侍女に質問する。
「誰が仕込んだのか早急に確認せねばなりません。厳戒態勢、憲兵を呼びなさい。それから」
「その必要はありません。陛下」
 開け放たれたドアの外に、エイトールが現れた。
(またさっきと同じ険しい顔をしている)
 黒羽は、言い知れぬ不安をエイトールの瞳から感じた。
 彼は厳かな声で、告げる。
「犯人はすでに捕らえております。犯人の名は、山城誠」
 ――鋭い衝撃が、黒羽の心を駆け抜けていく。
 一体、どんな冗談だ。馬鹿馬鹿しい。
 黒羽は悪夢を見ている気持ちで、ソフィアを見た。どうやら彼女も同じ気持ちらしかった。
 ソフィアは首を大きく振り、低い声で否定した。
「ありえません。誠がなぜ毒を仕込む必要があるのですか?」
「理由は目下調査中です。陛下、情を抜きにお考えください。やつが一番怪しいのです。山城であれば、料理に毒を仕込むことも簡単だ」
「エイトールさん! それは、調理場にいた誰もが言えることではないでしょうか」
 黒羽はいてもたってもいられずに叫ぶ。
 ありえない、そんな馬鹿な、と山城の無実を信じる言葉が黒羽の心を駆け巡る。
 エイトールは、そんな黒羽の気持ちを切り裂くように、重々しく頷いた。
「確かにそうだ。だが、他の料理人が犯人であれば、とっくに行っていたはずなのだ」
「わけがわかりませんわ。なぜ、誠が! 馬鹿馬鹿しい」
「陛下、無礼を承知で申し上げる。どうか私の話を聞いていただきたい」
 エイトールは、子供をあやすような声でソフィアの言葉を遮ると、一文字一文字をなぞるようにゆっくりと黒羽に問いかけた。
「山城はしばし城を不在であった。その間、黒羽秋仁。貴君と行動を共にしていた。そうだな」
 黒羽が頷く。
「国の英雄である貴君が嘘をいうわけはないだろうから、信じよう。だが、四六時中いかなる時も行動を共にしていたと断言はできるか」
「それは……できません」
「フン、であるならば、こうは考えられんかね。貴君がいない間に、敵国と密約を交わし、寝返ったと。そして、帰ってくるなり、毒を盛ったのだ」
「あら、随分強引な話ね。全て推測。証拠は?」
 静観をしていた彩希が口を開く。エイトールは、表情をまるで変えずに返答した。
「そう全て推測だ。認めよう。だがな、状況が山城めの潔白を許さんのだ。この城にいったい何人の兵士がいると思う? 侵略に備えほうぼうに兵を派遣しているとはいえ、全兵力の三割が密集しておる。
 それだけの兵士がいるなかをすり抜け、陛下の食事に毒を盛る。フフフ、馬鹿げている。ゆえに山城が犯人である可能性が高いのだ」
 彩希が咄嗟に何も言い返せずに黙り込むと、エイトールは話はこれで終わりだと告げるように背を向け歩き出した。
「裁判を一ヶ月後に行う。やつの潔白を証明したいなら証拠を集めるのだな。よろしいですかな、女王陛下」
 ソフィアはエイトールの背中に叩きつけるように、高らかにいった。
「ええ、構いませんわ。誠が潔白である証拠など、いくらでも見つかるでしょう。裁判後、誠の前で謝罪する準備を進めておきなさい」
 棘のある言葉など耳に入らぬ、といった様子で、エイトールは立ち去って行った。
「まずいことになりましたわ」
「陛下、僕達も手伝います。構わないな彩希」
「ええ、もちろんよ。で、具体的にどうしましょうか。って、ソフィアちゃん!」
 ふらりとソフィアの身体が揺れる。彩希が急いで抱きかかえると、ソフィアは申し訳なさそうに目を伏せた。
「大丈夫?」
「え、ええ。……情けない。少々目眩が」
 黒羽は胸に熱くこみ上げるものを感じた。
 彩希に抱きかかえられるソフィアの体は、何と小さいのだろうか。あの小さな体に、大国のトップとしての重圧、責任、苦しさがのしかかっている。
 黒羽は己の頬を叩き、力強く宣言した。
「大丈夫ですよ。なんたってここには世界を股にかける経営者と、その相棒がいるんですからね。これくらいのピンチ、すぐにひっくり返してやりますよ」
 自信などみじんもない。けれど、黒羽はいわずにはいられなかった。困っている人がいる。苦しそうにしている。だったら、ここで手を伸ばさないのは、ありえない。
 ――だって俺は、人の笑顔が大好きな経営者だから。
「……頼っても良いですか」
「はい。絶対に無実を勝ち取ります」
 儚く伸ばされた少女の手を、黒羽は力強く握りしめた。
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