1 / 3
壱
しおりを挟む――叶うなら、その涙を。
ぱた、ぱた。
畳の上で雫が跳ねる。
その微かな音に眠りの淵から戻ってきた淡霞はそっと瞼を持ち上げて、ひゅっと息を呑んだ。
何者かが自分を見下ろしている。
その姿は明確には見えない。
閉ざされた部屋に窓はなく、明かりもない。
襖の隙間から僅かに差し込む月明かりが、ぼんやりと人型を浮かび上がらせるだけ。
(信彦……!)
この家で唯一信頼できる臣下の名前を叫ぶ。
けれど口から出たのは震えた吐息だけ。
僅かながら見鬼の才を持って生まれた淡霞には人には見えないものが見える。
それらは陰陽師が妖や霊と呼ぶもので、祓魔の術を持つ彼らに対抗手段はあるけれど。
地方貴族の姫に過ぎない淡霞には、到底太刀打ちできるものではなかった。
ぱた。
淡霞の頬に雫が落ちる。
それが何なのか淡霞には分からない。分からないけれど。
触れた頬は音を立てて焼けただれ、耐えがたい激痛に、悲鳴が夜の静寂を引き裂いて――。
そんな恐怖が頭を過り、刹那に霧散した。
ぽろぽろと、淡霞の目じりから涙が溢れ出る。
(どうして、泣いているの……?)
とめどなく溢れる透明な雫と共に、胸の内からそんな言葉が湧き出た。
それは自分に対しての疑問だったのか、己を見下ろす何者かへの問いだったのか、淡霞には分からない。
ただどうしようもなく胸が苦しくて、切なくて、悲しくて。
肺が締め付けられたかのように呼吸がままならず、鼻の奥が痛み。
泣かないでと、その嘆きをこの手で拭ってあげたかった。
「姫様!」
ハッと淡霞が目を開くと、不安そうにこちらを覗き込む信彦の姿があった。
本来、女性の床に臣下とはいえ男性の信彦が立ち入るのは不徳も甚だしい。
けれどそれを指摘するものはこの屋敷にはいない。
淡霞はそっと周囲を見回した。
もう朝日が昇っている。
あれは全て、夢だったのだろうか。
不思議なものを見てしまったと目元に手を当てて息を止める。
誰かの嘆きが、その指先を濡らしていた。
朝餉を終えた淡霞は、ここ数か月ほど続いている不思議な出来事についてゆるりと思考を巡らせていた。
夜な夜な枕元に立ち、自分を見下ろす人ならざるもの。
本来ならば視たその日に父に報告をして、陰陽師を派遣してもらうべきだったのだろうけれど。
(何故かしら……あの方が、哀れで)
恐怖を覚えないわけではない。
だが、身に迫る危険も感じないのだ。
はじめの数日はやはり恐ろしさが勝っていた。
けれど、あの雫が肌に触れると決まって悲しくなるのだ。
自分自身も涙せずには居られぬほどに。
次第に恐ろしさを感じにくくなった淡霞は一度だけ、声をかけたことがある。
『どうして、泣いているのですか』
本当に、小さな小さな声だったが。
人ならざるものが身動ぎしたかと思えば、その姿はいつの間にか消えていた。
その日を境に、それは姿を現さなくなった。
消えてしまったのだろうか。
枕元に立つ誰かがいなくなり、以前と変わらない日常に戻って数週間が経過した時。
ぱた、ぱた。
またあの音が聞こえた。
(また、泣いているの……)
淡霞が目を開けば、そこには自分を覗き込む人型の何かがいた。
ぱた、ぱたた。
まるで太陽を知らない空のようだと、淡霞は目を細める。
どうして泣いているのか。何故自分の元に現れるのか。
――何をすれば、その悲しみを拭えるのか。
本人に聞けたら一番なのだろうが、声をかけると消えてしまう。
淡霞はただその声無き慟哭を受け止めて、その姿が消えるのを見届ける事しか出来なかった。
しかしほぼ毎晩のように起こされてしまうのである。
淡霞は小さな鏡の前まで移動すると、そっと覗き込んだ。
(少し、目立つかしら……)
目の下に出来た隈が前より酷くなっているように思える。
これでは家族とすれ違った時、何か言われるのではないだろうか。
そう考えて、自分の愚かさに自嘲した。
「お父様もお母様も、私なんてどうでもいいものね」
目の下の隈よりももっと目立つものがある。
それは淡霞が生まれた時より持っていた顔の痣であった。
顔の半分は青黒く染められ、とても人前に出られる状態ではない。
いつまで経っても消えないその痣を不気味に思い、家族は淡霞から距離を取っていた。
それは臣下たちも同じで、唯一信彦だけが傍を離れないでいる。
数年前、まだ雪が残る道に蹲る幼子に羽織っていた衣を与えた。それだけなのに。
「消えてしまえばいいのかしら」
ぽつりと呟く。
自分が消えてしまえば、家族は幸せに暮らせるのではないだろうか。
信彦だって、喪ってすぐは悲しむかもしれないけれど。
そんな暗い考えが頭を過る。
死にたいと、望むわけではない。だが、黒く淀んだ思いは消えない。
ふと落ちていた視線を上げれば、鏡に小さな汚れがついていた。
「あら」
いつのまに付いていたのか。
幼い時にもらった数少ない贈り物の一つである鏡は、十年以上経った今でも大切に使っている。
痣のある顔を見るのは好きではない。しかし、身だしなみを整えるためには必要なものだ。
それに、鏡は痣のある醜い顔でも映してくれる。
家族のように逃げたりしない。
「待っていてね、金剛。今、綺麗にしてあげるわ」
鏡にそう告げて立ち上がる。
物を大切にしなさいと、小さな時より父と母に言われていた。
だからという訳ではないのだが、淡霞は自分が一層大切にするものには名前を与えていた。
文箱には“綴(つづり)”、鏡には“金剛”と。
他にも大切にしているものはあるが、特にこの二つは永い時を共に過ごしているから思い入れが強いのだ。
手巾を手に金剛の前に膝をついた淡霞は、そっと息を吹きかけて鏡を拭いてやる。
汚れの取れた鏡面に映るのは見る人を不快にさせる歪な顔だけれど。
「ほら、綺麗になった」
誰もが、信彦以外の全ての人間が視線を逸らすこの顔を、鏡は静かに映してくれる。
ここにいると、証明してくれる。
ある晩の事だった。
淡霞はいつものように目を開いたが、そこにいたのは人間だった。
何故それが例の人型ではないと理解したのか、暗闇の中でも生きた人だと判断できたのか、明確には答えられない。
淡霞が何か発する前に、咄嗟に逃げようとする前に。
その人間は持っていた刀を振り下ろした。
「姫様ッ!!」
ハッと我に返った淡霞は、全身を濡らす汗に驚いた。
そしてドクドクと早鐘を打つ心臓に手を当てて、深呼吸する。
今のは一体。
困惑する淡霞はそれでも、真っ青な顔の信彦を安心させようと微笑みかけて息を止めた。
褥にいたはずなのに、何故か几帳の隣に座っている現状。
信彦の後ろ、自身がいつも使っている閨に倒れた見慣れぬ男。
真っ赤に染まった寝所が、そこに死体があることを告げている。
スッと視界が暗くなり、「姫様」と呼ぶ信彦の声が聞こえて。
最後に見えたのは、きらりと光る小さな破片だった。
0
お気に入りに追加
1
あなたにおすすめの小説
27時のマーメイド
星見くじ
ライト文芸
三年前の八月。某県の浜辺にて、奇妙な生物が打ち上げられた。
上半身は人間、下半身は魚類の特徴を持ったそれは、数々の伝説が残り、今尚おとぎ話として語られる存在ーー〝人魚〟と呼ばれたものによく似ていた。
※整合性の取れない描写があったため、微修正を加えました
恋もバイトも24時間営業?
鏡野ゆう
ライト文芸
とある事情で、今までとは違うコンビニでバイトを始めることになった、あや。
そのお店があるのは、ちょっと変わった人達がいる場所でした。
※小説家になろう、カクヨムでも公開中です※
※第3回ほっこり・じんわり大賞で奨励賞をいただきました。ありがとうございます。※
※第6回ライト文芸大賞で奨励賞をいただきました。ありがとうございます。※
セリフ&声劇台本
まぐろ首領
ライト文芸
自作のセリフ、声劇台本を集めました。
LIVE配信の際や、ボイス投稿の際にお使い下さい。
また、投稿する際に使われる方は、詳細などに
【台本(セリフ):詩乃冬姫】と記入していただけると嬉しいです。
よろしくお願いします。
また、コメントに一言下されば喜びます。
随時更新していきます。
リクエスト、改善してほしいことなどありましたらコメントよろしくお願いします。
また、コメントは返信できない場合がございますのでご了承ください。
きっと、叶うから
横田碧翔
ライト文芸
主人公は、両親たちの前で夢を叫んだ。
サッカー選手になるのだと。
今まで、ちゃんとやったこともないのに。
物語は、一人の少年がサッカーチームに入る所から始まる。
経験値もポジションも様々な仲間やライバルたちとの出会い、勝敗、師の言葉。
様々な経験や出会いを経て……。
これは、まだ道半ばの一人の夢追う少年の物語。
1度は書き上げたものですが、今ならもっと上手く書けるのではないかと心機一転、題名も変えて編集していきます!読んだことがある方も、ぜひ1話から読んでみてください!
鉄路を辿って ~営業運転編②~ (突然気になってしまったあの人と、鉄道の直通運転によって結ばれてしまった可能性)
まずる製作所
ライト文芸
*このお話は~試運転編①~の続きとなっております。よろしければ、~試運転編①~の方もご覧ください。
無意識のうちに同じクラスの男子、舟渡啓介のことを好きになってしまった西谷百合絵は、彼と相思相愛関係であることを知るとともに、なぜだか彼に対する思いが徐々に強まっていくのを感じていた。そんな百合絵は偶然にも彼と二人きりとなり、その場で互いの思いを確認しあった。
百合絵は舟渡の昔からの彼女であった的場萌花からの嫌がらせを受けながらも、彼とのこっそりデートを楽しむことが多くなっていたが、ついにその瞬間を的場に目撃されてしまう。
これを機に、的場は舟渡と付き合うことをやめ、百合絵への嫌がらせはさらにエスカレートしていった。
辛い日々に耐えていた彼女だったが、あの的場から舟渡を勝ち取ったという達成感の方が勝っていた。百合絵は上機嫌で舟渡と二人っきりで過ごすクリスマスや、女子友だけの初詣を楽しんだ。
年明け後の登校日、また的場からの嫌がらせに耐える日々が続くのかと身構える百合絵だったが、なぜだか彼女は百合絵に対する嫉妬心だけではなく過去に舟渡と付き合っていたことすら忘れてしまっているようだった。
百合絵と舟渡の恋愛生活を観察対象として楽しんでいた彼女の幼馴染でクラスメイトーー寒川琴乃はこの事態に驚愕、不信感を抱いた。そして、的場の観察・調査も行うことにした。
その結果、彼女の忘却の原因について一つの可能性に辿り着くが、それはとんでもない理由によるものであった。さらに、このことは百合絵と舟渡の相思相愛関係にも大きく関係していることであった。
「百合絵、もしかしたらおまえもあいつと同じように舟渡との記憶が消えてしまうかもしれない」
「えっ! そんな……、嘘でしょ⁉」
とある私鉄沿線に住む女子高生の日常を描いたお話。彼女の恋の結末は? そして、恋心を抱いてしまった理由とは?
*こんな方におすすめいたします。
首都圏の鉄道に興味のある方
現実世界の出来事をもとにした二次創作寄りの作品がお好きな方
遠距離になって振られた俺ですが、年上美女に迫られて困っています。
雨音恵
ライト文芸
これは年下の少年が年上女性に食われる恋物語。
高校一年の夏。念願叶って東京にある野球の名門高校に入学した今宮晴斗(いまみやはると)。
地元を離れるのは寂しかったが一年生でレギュラー入りを果たし順風満帆な高校生活を送っていた。
そんなある日、中学の頃から付き合っていた彼女に振られてしまう。
ショックのあまり時間を忘れて呆然とベランダに立ち尽くしていると隣に住んでいる美人な女子大学生に声をかけられた。
「何をそんなに落ち込んでいるのかな?嫌なことでもあった?お姉さんに話してみない?」
「君みたいないい子を振るなんて、その子は見る目がないんだよ。私なら絶対に捕まえて離さないね」
お世辞でも美人な女性に褒められたら悪い気はしないし元気になった。
しかしその時、晴斗は気付かなかった。
その女性、飯島早紀の目が獲物を見つけた肉食獣のようになっていたことを。
それからというのも、晴斗は何かと早紀に世話を焼かれる。それだけでなく野球部マネージャーや高校の先輩のお姉さま方も迫ってくる。
純朴な少年、今宮晴斗を賭けたお姉さま方のハンティングが始まる!
表紙イラスト:くまちゅき先生
ターゲットは旦那様
ガイア
ライト文芸
プロの殺し屋の千草は、ターゲットの男を殺しに岐阜に向かった。
岐阜に住んでいる母親には、ちゃんとした会社で働いていると嘘をついていたが、その母親が最近病院で仲良くなった人の息子とお見合いをしてほしいという。
そのお見合い相手がまさかのターゲット。千草はターゲットの懐に入り込むためにお見合いを承諾するが、ターゲットの男はどうやらかなりの変わり者っぽくて……?
「母ちゃんを安心させるために結婚するフリしくれ」
なんでターゲットと同棲しないといけないのよ……。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる