鎮魂の絵師

霞花怜(Ray)

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第一章 獣の目をした娘

獣の目をした娘①

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 天明三年、卯月晦日(一七八三年六月一日)。満開の桜が空を覆い尽くした季節は、とうに過ぎた。散り損じた少しの花が、迫る仲夏の風に急かされ、枝から離れる。薄紅の花弁が一片ひとひら、はらりと舞い散った。空は夜を迎え入れようと、夕の茜を仕舞いこむ。

 灯のない薄暮。 
 逢魔時は、見えないはずの者たちの姿が浮かび上がる刻だ。
 蔦屋重三郎が営む《耕書堂》の絵師・栄松斎えいしょうさい長喜ちょうきは、薄暗がりをゆっくりと歩いた。

「確か、この辺りじゃぁ、なかったかねぇ。探すとなると、見付からねぇもんだなぁ」

 きょろきょろと、辺りを見回す。長喜は柳の木を探していた。読売によると本所・置行堀辺りの柳の下に、妖怪が出るという。

 紙の束を懐に仕舞いこんだ長喜の胸は、ふっくりと膨らんでいる。同じように、胸の奥で大きく膨らむ発奮を抱えて、暗がりの中に眼を凝らす。
道の先から、二人の男が大慌てで走ってきた。

「出た、出た! 柳の下の幽霊だ! 俺らは魚なんざ、釣ちゃぁいねぇのに」
「そいつぁ、置行堀の狸の悪戯だろうが! あらぁ、別もんだ!」

 長喜は意気込んで、走り抜ける二人の男を呼び止めた。

にいさんら! その幽霊とやらは、子を抱いた女かね? 柳の下に立っていたけぇ?」

 一人の男が歩を緩め、長喜を振り返った。

「あぁ、そうだよ! 読売が書いていた通りだ! あんたも、この先に行くなら気を付けな!」

 口早に言い残し、男らは薄暮の暗がりに消えて行った。
 長喜は顎を擦り、にやりと口端を上げた。

「御忠告、どうも。俺ぁ、これから、その幽霊に会いに行くんだ。読売ってぇのも、嘘ばっかりじゃぁねぇらしい」

 男らの背中を見送って、長喜は早足で歩き出した。
男衆が走ってきた道を、真っ直ぐ進む。踊る胸に歩が速まる。気付けば走っていた。じわりじわりと、人でない者の気這いが流れてくる。眼前に、柳の木が浮かび上がった。

 薄暗がりの中で白い柳が、ゆらりと揺れる。暗闇に浮かぶ柳の白が、やけに鮮明に映った。現と切り離された異世界の風の中に、ぼんやりと白い影が佇む光景を見付けた。慎重に、そっと、白い影に近づく。白い影は徐々に形を成して、女の姿になった。

(子は抱いちゃぁ、いねぇな。産女じゃぁ、ねぇようだ。やっぱり読売は、あてにならねぇなぁ)

 読売には、妖怪・産女が本所に出る、と面白尽に書いてあった。それを知っていた男衆は、幽霊を目前にして驚き、産女と思い込んで逃げ出したのだろう。
 長喜の目の前に立っているのは、妖怪ではない。

(何かしらの無念を抱いて死んだ、女の死霊だな)

 白い影から感じる気這いは、恨みでも妬みでもない。只々、悲しい気持ちが伝わってくる。
 女の死霊が、長喜をじっと見詰めている。真っ白い頬に透明な涙が一筋、流れた。細い目は長喜に向いているが、違う何かを映しているように思える。
 ぞくりと、背中に寒気が走った。恐ろしいだの、驚くだのという感情ではない。あまりの美しさに、つい見惚れた。

(なんてぇ綺麗な泣き顔だ……。生身の人間にゃぁ、この美しさは、見付けられねぇ)

 我に返った長喜は、懐に手を突っ込むと、紙を取り出した。腰の矢立を引き抜き、筆に墨を含ませる。

「そのまんま、大人に待っていなよ。今から俺が、器量良しを描き写してやるからな」

 辺りにある手頃な大きさの石に、どっかりと腰を下ろすと、束になった紙に筆を滑らせた。泣く女を何度も凝視しては、描く。気に入らなければ破り捨て、また描く。
 四半刻ほど繰り返し、長喜はようやく筆を置いた。
 一つ息を吐き、自分の絵を眺める。死霊と見比べ、満足そうに頷いた。

「よっし、描き上がったぜ。そら、よっくと見ておくれな。これが、お前さんだ」

 長喜は女の死霊に向かい、自分が描いた絵を翳した。
 絵に見入った死霊が、ぽつりと零した。

『これが、私……。今の、私の、姿、なの……?』

 生気のない途切れ途切れの声に、長喜は頷く。

「そうさ、これが今のお前さんだ。だがよ、お前さんは俺の絵より、ずっと美人だぜ。生きていた頃もきっと、美人だったんだろうなぁ」

 しみじみと頷く長喜の手に、女の白い手が伸びた。小さく震える手に、絵を手渡す。
 じっくりと絵を見ていた女の目が、笑んで細まった。

『……こんなに……こんなに、綺麗に描いてくれて、ありがとう……』

 絵を胸に抱いた女が、嬉しさを噛みしめるように、目を瞑る。頬に、また一筋、涙が流れたが、先ほどとより熱を感じた。

「生きていた時に何があったかなんざ、聞かねぇが。こんな所にいるより、黄泉に逝くがいいぜ。そっちのが、お前さんは、きっと幸せさね」

 女が、にっこりして頷く。白い体が、透け始めた。夜の闇に死霊の体が溶ける。最後に残った涙の雫が、抱いた絵に、ぽたりと落ちた。
 すっかり何もいなくなった場所に、長喜の絵が、はらりと落ちた。

「黄泉じゃぁ、幸せになりなぁよ。達者でな」

 女の死霊を夜空に見送り、足元の絵に手を伸ばす。暗がりから別の白い腕が、にょきりと伸びた。どきり、として手を引っ込める。
見上げると兄弟子の歌麿が、長喜の絵を、まんじりと眺めていた。

「噂の産女の正体は、女の幽霊だったのけぇ。大層な美人だねぇ。あたしも、拝んでみたかったよ」

 歌麿の手の中で、幽霊の絵が青い灯火を纏う。人魂のように燃えて、ふわりと空を舞うと、死霊の後を追うように、夜の闇に溶けていった。

「まぁた、消えちまった。本に勿体ないよ。どうにか残す法は、ないのかねぇ」

 人魂と化した絵を見送りながら、歌麿が残念そうに呟く。

「俺にも、よくわからねぇしなぁ。消えちまうもんは、どうしようもねぇよ」

 死霊が黄泉に旅立つと、長喜の描いた絵は消える。仔細は、わからない。長喜自身は、あまり気に留めていなかったが、歌麿はいつも同じように未練を残す。
 足下に散らばる描き損じの絵を、歌麿が拾い上げた。

「これが残るのが、救いかねぇ。一番、巧い絵が消えるのは、残念だけれどねぇ」

 眉を下げる歌麿を、長喜はじっとりと眺めた。

「それより、歌麿あにぃ。何だって、こんな所にいるんだよ。兄ぃは、幽霊とか妖が不得手だろうが。てぇか、見えねぇくせに」

 歌麿が狐目を細めて、にこりとした。

「見えないからこそ、だよ。たまたま、お前さんが走る姿を見付けたからねぇ。けて来たのさ。物臭の長喜が走るなんざ、妖絡みに決まっていらぁ。必ず、絵を描くはずだからねぇ」

 同じ鳥山石燕門下でありながら、歌麿は幽霊や妖怪の類が見えない。更に生来の怖がりだ。幽霊や妖怪がいると風聞が立つ場所には近付かない。しかし、絵が絡めば話は別だ。長喜が描く幽霊の絵を見るために、呼んでもいないのにやって来る。

(いつもの兄ぃだがなぁ……)

 困った気持ちで、ぽりぽりと頭を掻いた時。柳の揺れる向こうから、何かの気這いが流れてきた。先ほどの死霊とは、風の匂いが全く違う。背筋が寒くなるのを感じながら、長喜は後ろを振り返った。





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【補足情報】
栄松斎長喜は、あんまり有名じゃないけど、美人画を得意とした絵師です。
美人画だけでなく、風景画、役者絵、挿絵、肉筆画など、なんでも描く絵師でした。
鳥山石燕門下で、歌麿と同門です。この物語では歌麿が兄弟子になっていますが、
恐らく長喜が兄弟子だったんだろうな、と思っています。
そのあたりの詳細な資料は乏しく、長喜の本名や出身なども不明です。
作品はそれなりに残っていますが、恐らく残存する数の倍以上描いていた人だと思います。
当時は有名で人気もあり「次の歌麿」と称された絵師でしたが、後世ではそこまで高い評価をされていないのが残念です。
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