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フリージアを嫌わないで
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(レジの締めも今日は僕がやるって言ったし、任せてる新作ケーキの宣伝用のチョークアートは次の出勤日に書いてくれれば間に合うし、一体なんだろう?)
「透さん、俺」
思い当たることがなく小首を傾げている間にも、伏見の髪から滴る雨粒が彼の形の良い頬をつうっと流れていく。
透は慌てて施錠し直すと、幼子がするように伏見の袖を引っ張った。
「あとで聞くからこっち来て。本当に風邪ひいちゃうよ」
彼は驚いた顔をしたが、黙って透についてくる。透は大人しい大型犬を散歩させるように彼の腕を引いたまま、店の奥に向かう。
「透さん」
普段は他人を招き入れる場所ではない。プライベートな空間へ歩を進める。
驚いた声上げた伏見に一度振り返り瞬き目元だけで僅かに頷くと、透は厨房とショーケースの間にある、二階の住居スペースに続く階段を登りはじめた。
「ちょっと待ってて」
玄関に大人しい伏見を立たせ、透は部屋の電気をどんどんとつけていく。空調が音を立てて部屋を暖め始めた。
あれほど帰りたくなかった自室はあっという間に温もりと明るさを取り戻す。
背中に人の気配があるだけで、心が不思議と華やいだ。自分の足取りの軽さに、透は彼の突然の来訪を喜んでいる自分に気づいた。スリッパを用意して上目遣いに彼を見上げる。まだ少し強張った表情の彼に向かって、安心させるように微笑みかけた。
「どうぞ、入って」
「お邪魔します」
ここはかつて独身時代の叔父が住んでいた部屋だ。今も変わらず叔父を溺愛する番と愛を育んだ場所。店舗と同じだけの広さがあるから、たった一人で住まうには勿体ないほどだ。リビングダイニングに寝室にしてる洋室が一つ。家具などは叔父がこだわりぬいて集めたものをそのまま利用しているので、店舗と同じアンティークな雰囲気が気に入っている。
洗面所からタオルを手に戻ると、リビングのテーブル前でゆっくりと上着を脱いでいる最中の伏見に手渡した。
「これ預かるね」
ダウンジャケットはぐっしょりと重く湿っていた。雪になる前の雨で、すでにこれほど濡れてしまったのだろうか。風呂場に運ぶと浴室乾燥をかけ、追加のタオルをもって彼の元へ戻った。
「これで拭いて……」
「ありがとうございます」
「冷たっ」
タオルを差し出した手ごと、冷たい掌にそっと握られ、透は驚いて身をすくませた。
「すみません、俺、手冷たかったですよね」
真っすぐに澄んだ眼差しが透に注がれているのを感じながら、名残惜し気に手を離された。透は自分の頬が熱くなるのを感じながら、その掌にタオルだけを押しつける。
「そんな冷たい手をして……。風邪ひきそうだよ、伏見くん」
(手が触れたぐらいで……。学生でもあるまいし)
ただそれだけの僅かな触れ合いなのに、透の胸の奥で、とくん、とくんっとまた鼓動が高まる。若い彼との交流はいつもどこかきゅんと切なく甘いのだ。
伏見にシフトの確認をするためにメッセージを送ると、すぐに通話で返してくれるが、その後続けて他愛ない会話を強請るような素振りを見せてくれる。
店頭でケーキの箱を手渡す時に僅かに指先で触れたあとに見せる、いたずらっ子のような笑みはとろりと甘い。
買い出しで路上を歩くとき、さり気なく車から護るように引き寄せられる。その腕の逞しさは心強いとすら感じてしまう。
そんな小さな好意が今日の雪よりもずっとふんわり深く降り積もっていたから、透は彼からのわかりやすい愛情表現に寧ろ戸惑った。
幾ら相手から好意を感じているとはいえ、学生と社会人、アルバイトと店主。その線を崩してはいけないと常々自分に言い聞かせてきた。
しかし今宵、静かな雪の降る今この距離感では、その境界が曖昧に揺らぎそうだ。
(今日は駄目、今日みたいに人恋しい日に、これ以上踏み込まれたら駄目)
「とりあえず、温まらないと」
「ありがとうございます。……透さんの部屋、初めて入りました。思っていたとおり、素敵な部屋ですね」
「恥ずかしいな……。生活感があんまりないって言われるんだ。僕はインテリアにこだわりがある方じゃないから、店舗と同じでこっちも叔父さんの趣味そのまま。それより、伏見君、こっちもひどいよ」
「透さん、俺」
思い当たることがなく小首を傾げている間にも、伏見の髪から滴る雨粒が彼の形の良い頬をつうっと流れていく。
透は慌てて施錠し直すと、幼子がするように伏見の袖を引っ張った。
「あとで聞くからこっち来て。本当に風邪ひいちゃうよ」
彼は驚いた顔をしたが、黙って透についてくる。透は大人しい大型犬を散歩させるように彼の腕を引いたまま、店の奥に向かう。
「透さん」
普段は他人を招き入れる場所ではない。プライベートな空間へ歩を進める。
驚いた声上げた伏見に一度振り返り瞬き目元だけで僅かに頷くと、透は厨房とショーケースの間にある、二階の住居スペースに続く階段を登りはじめた。
「ちょっと待ってて」
玄関に大人しい伏見を立たせ、透は部屋の電気をどんどんとつけていく。空調が音を立てて部屋を暖め始めた。
あれほど帰りたくなかった自室はあっという間に温もりと明るさを取り戻す。
背中に人の気配があるだけで、心が不思議と華やいだ。自分の足取りの軽さに、透は彼の突然の来訪を喜んでいる自分に気づいた。スリッパを用意して上目遣いに彼を見上げる。まだ少し強張った表情の彼に向かって、安心させるように微笑みかけた。
「どうぞ、入って」
「お邪魔します」
ここはかつて独身時代の叔父が住んでいた部屋だ。今も変わらず叔父を溺愛する番と愛を育んだ場所。店舗と同じだけの広さがあるから、たった一人で住まうには勿体ないほどだ。リビングダイニングに寝室にしてる洋室が一つ。家具などは叔父がこだわりぬいて集めたものをそのまま利用しているので、店舗と同じアンティークな雰囲気が気に入っている。
洗面所からタオルを手に戻ると、リビングのテーブル前でゆっくりと上着を脱いでいる最中の伏見に手渡した。
「これ預かるね」
ダウンジャケットはぐっしょりと重く湿っていた。雪になる前の雨で、すでにこれほど濡れてしまったのだろうか。風呂場に運ぶと浴室乾燥をかけ、追加のタオルをもって彼の元へ戻った。
「これで拭いて……」
「ありがとうございます」
「冷たっ」
タオルを差し出した手ごと、冷たい掌にそっと握られ、透は驚いて身をすくませた。
「すみません、俺、手冷たかったですよね」
真っすぐに澄んだ眼差しが透に注がれているのを感じながら、名残惜し気に手を離された。透は自分の頬が熱くなるのを感じながら、その掌にタオルだけを押しつける。
「そんな冷たい手をして……。風邪ひきそうだよ、伏見くん」
(手が触れたぐらいで……。学生でもあるまいし)
ただそれだけの僅かな触れ合いなのに、透の胸の奥で、とくん、とくんっとまた鼓動が高まる。若い彼との交流はいつもどこかきゅんと切なく甘いのだ。
伏見にシフトの確認をするためにメッセージを送ると、すぐに通話で返してくれるが、その後続けて他愛ない会話を強請るような素振りを見せてくれる。
店頭でケーキの箱を手渡す時に僅かに指先で触れたあとに見せる、いたずらっ子のような笑みはとろりと甘い。
買い出しで路上を歩くとき、さり気なく車から護るように引き寄せられる。その腕の逞しさは心強いとすら感じてしまう。
そんな小さな好意が今日の雪よりもずっとふんわり深く降り積もっていたから、透は彼からのわかりやすい愛情表現に寧ろ戸惑った。
幾ら相手から好意を感じているとはいえ、学生と社会人、アルバイトと店主。その線を崩してはいけないと常々自分に言い聞かせてきた。
しかし今宵、静かな雪の降る今この距離感では、その境界が曖昧に揺らぎそうだ。
(今日は駄目、今日みたいに人恋しい日に、これ以上踏み込まれたら駄目)
「とりあえず、温まらないと」
「ありがとうございます。……透さんの部屋、初めて入りました。思っていたとおり、素敵な部屋ですね」
「恥ずかしいな……。生活感があんまりないって言われるんだ。僕はインテリアにこだわりがある方じゃないから、店舗と同じでこっちも叔父さんの趣味そのまま。それより、伏見君、こっちもひどいよ」
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