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 外は思った通り霧のような細かい雨が降り出していた。
 水晶半島にあるティダ国産の高級な水を弾く紙を使った、独特の風情のある青い傘を広げて、誰もが目を奪られる美丈夫がリノの背に手を添えゆっくりと促す。 
 見上げたら大切な者でも見るような眼差しが、ただ一身にレノに降り注がれており、レノは思わずその不思議な色を湛えた瞳に見惚れたまましばし動けなくなってしまった。

「さあ、ベル行こうか」
「ベルってなんだよ!」
 小声で聞き返すと、ふっと吐息で微笑まれる。
「名前も教えてくれない。意地悪な方。ベルフラワーみたいに綺麗な青紫の瞳だからベルと呼ぼう。愛しい人」

 チュッと音を立てて繋がれた指先にキスを落とされ、レノはベールの向こうで赤面して慌てたが、彼の流れるような自然な仕草に驚いて言葉も出ない。

(こいつ……一体誰だ? さっきと、別人すぎだろ)

 服装を着替えたディランの装いは、彼にとっては男装というべきなのか?
 白いさっぱりとした麻紙でできたシャツに、藍色の細身のパンツ。腰に黒のサコッシュベルトをつけ、白いサンダルをはいている。
 胸元は相変わらず開け気味だが意外に鍛えられた胸筋も見え、すっかり雄の色気が漂う美男子の雰囲気だ。
 現在城下町ではやっているという海辺の街の男たちを模した服装を、さらに洗練させたような組み合わせだ。
 クレバは下流の貴族の出だが姉が大恋愛をして市内の豪商の息子に嫁いでいる。だから街に友人がいるのだ。城下町に住んでいる友人たちは今、こういった服装を好んでいるといっていたから、レノも聞き齧って聞いていた。
 いつもこんな調子で、認めるのはしゃくだがレノの市井の知識といったら、恥ずかしながらクレバから教えてもらうことでしか成り立っていない。
 しかしディランの変貌ぶりに驚いたものの、問題はそこではない。

「坊やちゃん、制服じゃなくて変装して下まで降りましょう? ワクワクするわねえ」
 先ほど部屋でそう言われた時に、ディランが色とりどりの服が掛ったあたりを熱心に物色していたので、嫌な予感はしていたのだが的中してしまった。今度はレノの方が女装をさせられているのだ。

(くそ、足元が心もとなさ過ぎる)

 レノが着ているのは青紫色の身体の線を拾わないゆったりめのワンピース。
 ディランが女性の装いをする時に身に着けているチュニックなのだそうだが、レノはディランの肩口までしか背丈がないのでレノが着ると膝下丈になっている。一応ペチコートという短いズボンははかせてもらっているが、それでも普段の恰好よりはずっと足元がすかすかと感じる。
 レノの亜麻色の髪の長さは短いので、上から綺麗なレース地のショールを被せられ薄紫の花のついたヘアバンドで止められている。

「なんで俺も男の恰好じゃないんだよ!」
 着替えた直後も散々文句を言ったが、外に出るとまた恥ずかしさが倍増した。
「文句言わないのよ? だって変装なんだから、貴方ってわかりにくいに越したことはないでしょ? まあ、半分アタシの趣味だけど。本当は、若い女の子には膝丈のワンピースが流行っているからちょっと改良の余地ありなんだけどね……。でもまあ可愛いでしょ。お母さまの時代みたいなちょっと懐古的なシルエットよ」

 説明などまるで頭に入らない。顔に薄化粧を施されているのがまたいただけない。なんか喋るたびにぺたぺたと気持ち悪くて、何度か唇の上を袖で擦りかけては止められる。

「あーせっかく可愛くしたんだから、擦らないで頂戴よ」
 可愛くない。ちらっと水場の鏡に写った姿は母に似ていてむしろ怖かった。
「ベタベタして気持ち悪いんだよ」
「なにいってるの! 舶来の高級香料の入った新作口紅よ! あら見て、なんかあの辺、学生が沢山たむろしているから、お喋り止めた方がいいかもよ?」
「自分が話しかけたくせに! 勝手だ」

 小声で文句を言ったが、とはいえ自分もだが色気滴る無敵の男前を誇るディランもしゃべるとちぐはぐな感じになるため、互いに馬車の停留所まで押し黙ることにした。
 馬車の停留所は貴族の家はそれぞれ月極で停車位置が決まっていて学年毎に順繰りに停められるようになっている。
 また、ここ数年は入学者の増えた平民の子どもたちは時間ごとに来る乗合馬車で街に戻る。てっきりそちらに乗るのかとも思ったが、意外なことにディランが歩いてきたのは月極の停車場だった。
 ディランの家の馬車が停車している位置まで来た時、向こうに雨の中人待ち顔で佇むクレバの姿をいち早く見つけ、リノは被されていたショールで隠せるように顔を伏せた。

(クレバ……。ずぶ濡れだ)

 クレバの制服のマントから雨の雫が滴っていた。彼があんなに濡れながらも誰を探しているのかは明白で、リノは今すぐ彼の元に駆けつけたい気持ちと、このまま逃げ出したい気持ちの狭間で揺れ動く。
 ディランはリノの片手で掴めそうな細腰を抱きよせながらながら「ふうん?」と思案気に呟いた。

「あの黒髪のハンサムな男の子、友達? 悲壮な顔してるわよ。怪我してるし」
「怪我?!」

 まさか自分の一撃で頑強なクレバが怪我をするとは思えなかったが、思わず頭を跳ね起こさせそうになり慌ててディランにとめられる。クレバの方を見たかったが、見つかってしまっては元も子もない。

「ちょっと! 気が付かれるわよ。やめときなさい! 顔に殴られたあとみたいなのがあるけど、概ね元気そうだから放っておきなさい」

 レノが不用意に頭を上げないように押さえつける力は流石に男性で強い。レノはクレバの顔を殴った覚えはないが、あの後彼に何かあったのだろうか。

「うふふ。あの子はタイの色、青紫なのね」
 目ざとく指摘されてレノは俯いたまま耳まで赤くなった。
(くそっ、面白がってるな)
「青き冒険の日々ってやつね。可愛いわね。二人とも」
 レノはこのふざけてばかりいる男に、先ほどまで同級生と何があったのか余計なことまで進んで喋ってしまったことを深く後悔した。レノにだけ聞こえる声で茶化すディランにむかむかし過ぎて、思わず彼の脇腹に肘を入れてしまう。しかし明らかに鍛えらあげられた硬い腹筋はびくともせず、けろりとした顔で頭を逆に撫ぜられた。
 停車場につくと、それは立派な二頭たての馬車があった。乗り込むと中まで鮮やかで光沢のある海の青色の布が張られていて目がチカチカする。

「さて、家まで送ってあげるから、名前をおっしゃい」
「……」
「言わなきゃ送れないでしょう?」

 その言葉に、レノははたと思いつく。そうか、素性を話さなければ家に送り返されず明後日王立競技場に直接送ってもらえるかもしれない。
 もちろん家に帰るのでもいいのだが、クラスの誰かが訪ねてくるかもしれない。
 なんだかんだと過保護な祖父母にこの一通りの説明をするのが、若者であるレノにはとにかく億劫で、明後日の試合当日まではやる気を切らさずに迎えたかったのだ。
(明後日の御前試合)
 レノは父であるマティアス将軍の前で魔法技術学園を優勝に導く活躍を見せると心に誓っている。それは父親によいところを見せ、誇りに思ってもらいたいなどという輝かしい理由からではない。
 母を半ば見捨て、他の女に走った父を見返したい。
 失意の中命を落とした娘を失った祖父母のためにも……。

(褒美として、皆の前で父上からの謝罪を引き出してやるんだ)
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