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5月

家庭科室にて

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 ある日、放課後の家庭科室で、羽交い絞めにされている女子生徒の姿があった。黒髪ロングに目尻のほくろが特徴の美人――水原涼香みずはらりょうかだ。

「離しなさい」

 涼香を羽交い絞めにするのは肩口まで伸びた赤毛が特徴の女子生徒――柏木菜々美かしわぎななみだ。菜々美は元々少しつり目がちの目を更につり上げて必死に声を張る。

「嫌よ! 涼香に包丁は持たせない!」
「どうしてよ、それでは練習にならないわ」

 その細い身体のどこにそんな力があるのか、涼香は菜々美をズルズル引きずりながら、りんごを抱えて涙目になっている小柄な女子生徒――芹澤せりざわここねに向かう。

「ここね! 私が押さえているうちに涼音すずねちゃんを呼んできて!」
「待ちなさいここね、そのりんごは私が買ったのよ。だからまずは返しなさい。それに菜々美、私は包丁ではなくてりんごを持とうとしているのよ、だから離しなさい」
「さっきまでうっきうきで包丁に手を伸ばしていた人間がなに言ってんの⁉ ここね、早く!」
「う……うぅん! ごめんね涼香ちゃん!」

 菜々美に背中を押される形でここねはりんごを抱えたまま家庭科室を飛び出す。黒のサイドテールをぴょこぴょこ揺らしながら駆ける姿は小動物のようだった。

「観念しなさいよ!」

 なおもここねの後を追おうとする涼香に、菜々美の声は届かない。

 なにが涼香をここまでさせているのか。自分の買ってきたりんごを取り返したいからか。否、ただ純粋にこのやり取りを楽しんでいるだけである。無駄に見た目がクールビューティーなため、なかなか相手に伝わらないが、ここねが家庭科室から出ていった瞬間、涼香は心の中で「ここは俺に任せて先に行け!」と、人生で一度は言ってみたいセリフランキング上位の言葉を叫んでいた。

「疲れたわね」

 突如抵抗を辞めた涼香に戸惑いながら、菜々美は恐る恐る涼香から手を離した。その直後、家庭科室にここねが涼音を連れて帰ってきた。

「先輩、また迷惑かけたんですか?」
「失礼ね、迷惑はかけていないわよ」
「かける前でしょ」
「でも大丈夫だよ! 涼音ちゃんを呼んできたから」
「なんだか私が凄く問題児みたいな会話ね」
「「「実際問題児だし……」」」

 三人の声が重なると涼香が口を尖らせる。

 涼香は自分が問題児とは思っておらず(家庭科室の使用許可を貰えるぐらいには品行方正で教師からも信頼されている)、学校生活でなに一つ問題を起こしていない自分がなぜ問題児扱いされているのかと疑問にすら思っている。むしろ人のことを問題児扱いするこの三人こそ問題児ではないかと思い始めている。

「で、なんで先輩は家庭科室にいるんですか?」
「来週家庭科でテストがあるのよ、りんごの皮むきの」
「それで練習しようって、りんごを買ってきて今に至るのよ」
「えー、優等生じゃないですか」
「そうよ、私は優等生なのよ」

 得意げに胸を張る涼香をスルーしながらここねが続く。

「でも、涼香ちゃんはドジだから、包丁は危ないって」
「先生達は涼香がドジっ子だって知らないから……」
「先輩って結構ドジしてるんですけどねえ……」

 生徒達と違って教師陣は授業中の涼香の姿しか知らないから無理はないか。

「そんなことはどうでもいいわ、早く練習を始めましょう」

 漂った重い空気を振り払うように、涼香は包丁へと手を伸ばす。

「ええ……涼音ちゃん、どうするの?」
「絆創膏とか持ってきてるんで練習させましょうか」
「あー、ヒヤヒヤする」

 ここねは涼香の前に持っていたりんごを置くと、そそくさと離れて菜々美の後ろに隠れる。菜々美もここねを庇うように後ろに下がりながら涼音に目配せをする。

「先輩、あたしが教えますね」
「大丈夫よ、イメージ練習はバッチリだから」
「コツは包丁じゃなくてりんごを動かすことです」
「分かっているわよ」

 涼香はぎこちないながらもりんごをうまく回転させて皮を剝いていく。

 三人は固唾を呑んでその様子を見守る。

「指、切らないように気をつけてくださいね」
「指は切らないわ、爪は既に切ったけど」
「言ってくださいよ!」
「りんごの皮むきが先よ」
「ダメですー、包丁とりんご置いて早く指見せてくださーい」
「もう……」

 口を尖らせた涼香は素直にりんごと包丁をまな板の上に置くと、爪を切った指を涼音に見せる。

 その様子に、菜々美とここねが感嘆の息を漏らす。

「涼香ちゃんが素直に言うことを聞いてる……」

 涼音はこういう時もあろうかと持ってきているポーチから爪切りを取り出し、ゴミ箱の前に連れて行った涼香の爪の手入れをしている。

 切れた爪が引っかからないよう、深爪しないように切り取り優しくやすりがけしていく。

 整えた涼香の爪を涼音は自分の指の腹で撫でながら最後の確認をしていく。

「あんまり触っちゃダメですよ」
「分かったわ、ありがとう」

 涼音は満足そうに頷くとまな板の上に置かれているりんごに目を向ける。

「続き、やりますか?」
「もちろんよ、コツは掴んだわ」

 不敵に微笑んだ涼香はりんごと包丁を持つと再び皮を剝いていく。

 さっきよりスピードは落ちたが、その分丁寧に、指を切らないように剝いていく。
 やがて――。

「できたわ」

 まな板にはお世辞にも綺麗とは言えないが、一糸纏わぬ姿となったりんごがあった。

「おー、さすがです」

 パチパチ手を叩いた涼音は離れたところにいる菜々美とここねに親指を立てる。

「涼音ちゃんが来てくれなかったどうなっていたことか……」

 緊張の糸が切れた二人は涼音が来てくれなかった時を想像して身震いする。

「ぬるいわね」

 りんごを一口齧った涼香は眉を顰める。

 長い時間手で持っていたのだ、りんごは酸化するし体温も移ってしまう。

「あ。あたしにも一口くださいよ」

 涼音も差し出されたりんごを一口齧る。

「ぬるいですね」
「私達も食べたい!」
「じゃあ切り分けますね」

 涼音はりんごを等分にすると菜々美とここねに配った。二人は受け取ったりんごを齧ると揃って微妙な表情を浮かべる。

 その様子を見ながら、涼香は満足そうに微笑む。

「この光景が見たかったわ」
「なに言ってんですか」

 半目になった涼音が表情を正して続ける。

「来週のテスト、怪我しないでくださいね」
「する訳ないでしょう」

 髪を払いながらそう答える姿は驚くほど様になっていた。

 こうしていつも通りの緩慢な放課後が過ぎていく。
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