98 / 406
先生
私が教える
しおりを挟む
――うん。この音だ――
その時、右手の小指の音が少し飛んだ。
微妙な軽さだったが、とても耳障りな音で光の粒が弾けた。一瞬の隙と慢心が音を狂わせる。
でもここでやめる訳にはいかない。
ピアノは静かに鍵盤から暖かい光で応援してくれている。
僕はまたピアノと会話を始めた。
――そうだった。ピアノの存在を忘れるところだった――
ピアノは次の音をちゃんと用意してくれていた。
僕はその音を拾うだけで良かったんだ。
指の緊張が解けた。それと同時に肩も少し力が入っているのも分かった。
肩の力を抜いて僕はそのまま一気に最後まで、音の波を楽しみながら第一楽章を弾いた。
最後の余韻を響かせて僕はゆっくりと鍵盤から指を上げた。そして渚さんを上目遣いで見た。
――ああ、このまま第二楽章を弾きたい――
「うん。良い音ね。本当に堪らん月光やねえ……綺麗な月光ね。ちょっと風が吹いて少し揺れている湖面の月が綺麗に見えたわ……それと暫く見ない内に男前になったピアニストもね」
渚さんはそう言うと悪戯っぽい笑顔を見せた。
――あ、可愛い――
不覚にも宏美が横に居るのにそんな不埒な事を思ってしまった。
「ええ音出しとぉわ。この歳でこんな音を出せるなんて、それ自体が凄いと思うわ。この音を聞いて何も感じない審査員や面接官は居ないと思うけど……」
改めて渚さんは感心したように僕のピアノを評価してくれた。
「思うけど……?」
僕はまた上目遣いで渚さんを見た。
「冴ちゃんはどう思う?」
渚さんは唐突に冴子に意見を求めた。
冴子は自分が聞かれるとは思っていなかったのようで一瞬戸惑っていた。
「こんな月光を聞いたのは初めて。背中がぞくっとしました。でもこれって……宏美も多分同じ事を思っていると思います」
そう言って冴子は宏美の顔を見た。冴子にしては珍しく自分の口から言うのを逃げた。
「……うん、コンクール向きの音ではないんやと思う……」
と宏美はため息交じりの声で言った。
「そう、その上、どう考えても大学受験のためのピアノの音じゃないんよねえ……本当にいい演奏していたけど……まさかここまで弾けるとは思っていなかったわ」
そう言うと今度は渚さんまでため息をついた。
「今度二年生になるんやね」
渚さんは僕の瞳をじっと見つめて聞いてきた。
「うん」
僕は頷いた。
「まだ時間はあるか……でも……」
一瞬間があって渚さんは意を決したように言った。
「亮ちゃん、これからは私が亮ちゃんのピアノを見るね」
「え?」
「そう、先生じゃなくて私が亮平のピアノを見るって言うたん」
僕はどう答えていいのか分からずに伊能先生の顔を見た。
先生は相変わらず優しく微笑んで頷いた。
「先生の言うことを全く聞かないし、一年間逃げ回って挙句の果てに好き放題に自分勝手な音を弾く奴の面倒なんか見れないってことよ」
渚さんは呆れたような顔をして言った。
「え?」
僕はまた先生を見た。
先生は笑いながら
「そうよ」
と言った
「え~」
僕は予想外の先生の対応に驚いた。
でも、すぐに先生は
「嘘よ。亮平君。渚がまた大袈裟に言うもんだからちょっと一緒にからかっただけよ」
と笑いながら言い直してくれた。
「でも、あなたの面倒を見るのは私では無くて渚というのは本当よ」
と先生は表情から笑顔を少し消して言った。
「ええ……そうなんですか」
僕は伊能先生が今まで通り僕のピアノを見てくれるもんだと思っていたので、気持ちの整理がつかなかった。でも、渚さんから習いたくないとは思わなかった。
「実は先生から連絡を貰ったのよ『亮ちゃんの事で相談がある』って」
渚さんはグランドピアノに軽くもたれ掛かる様に手を置いて話を始めた。
その時、右手の小指の音が少し飛んだ。
微妙な軽さだったが、とても耳障りな音で光の粒が弾けた。一瞬の隙と慢心が音を狂わせる。
でもここでやめる訳にはいかない。
ピアノは静かに鍵盤から暖かい光で応援してくれている。
僕はまたピアノと会話を始めた。
――そうだった。ピアノの存在を忘れるところだった――
ピアノは次の音をちゃんと用意してくれていた。
僕はその音を拾うだけで良かったんだ。
指の緊張が解けた。それと同時に肩も少し力が入っているのも分かった。
肩の力を抜いて僕はそのまま一気に最後まで、音の波を楽しみながら第一楽章を弾いた。
最後の余韻を響かせて僕はゆっくりと鍵盤から指を上げた。そして渚さんを上目遣いで見た。
――ああ、このまま第二楽章を弾きたい――
「うん。良い音ね。本当に堪らん月光やねえ……綺麗な月光ね。ちょっと風が吹いて少し揺れている湖面の月が綺麗に見えたわ……それと暫く見ない内に男前になったピアニストもね」
渚さんはそう言うと悪戯っぽい笑顔を見せた。
――あ、可愛い――
不覚にも宏美が横に居るのにそんな不埒な事を思ってしまった。
「ええ音出しとぉわ。この歳でこんな音を出せるなんて、それ自体が凄いと思うわ。この音を聞いて何も感じない審査員や面接官は居ないと思うけど……」
改めて渚さんは感心したように僕のピアノを評価してくれた。
「思うけど……?」
僕はまた上目遣いで渚さんを見た。
「冴ちゃんはどう思う?」
渚さんは唐突に冴子に意見を求めた。
冴子は自分が聞かれるとは思っていなかったのようで一瞬戸惑っていた。
「こんな月光を聞いたのは初めて。背中がぞくっとしました。でもこれって……宏美も多分同じ事を思っていると思います」
そう言って冴子は宏美の顔を見た。冴子にしては珍しく自分の口から言うのを逃げた。
「……うん、コンクール向きの音ではないんやと思う……」
と宏美はため息交じりの声で言った。
「そう、その上、どう考えても大学受験のためのピアノの音じゃないんよねえ……本当にいい演奏していたけど……まさかここまで弾けるとは思っていなかったわ」
そう言うと今度は渚さんまでため息をついた。
「今度二年生になるんやね」
渚さんは僕の瞳をじっと見つめて聞いてきた。
「うん」
僕は頷いた。
「まだ時間はあるか……でも……」
一瞬間があって渚さんは意を決したように言った。
「亮ちゃん、これからは私が亮ちゃんのピアノを見るね」
「え?」
「そう、先生じゃなくて私が亮平のピアノを見るって言うたん」
僕はどう答えていいのか分からずに伊能先生の顔を見た。
先生は相変わらず優しく微笑んで頷いた。
「先生の言うことを全く聞かないし、一年間逃げ回って挙句の果てに好き放題に自分勝手な音を弾く奴の面倒なんか見れないってことよ」
渚さんは呆れたような顔をして言った。
「え?」
僕はまた先生を見た。
先生は笑いながら
「そうよ」
と言った
「え~」
僕は予想外の先生の対応に驚いた。
でも、すぐに先生は
「嘘よ。亮平君。渚がまた大袈裟に言うもんだからちょっと一緒にからかっただけよ」
と笑いながら言い直してくれた。
「でも、あなたの面倒を見るのは私では無くて渚というのは本当よ」
と先生は表情から笑顔を少し消して言った。
「ええ……そうなんですか」
僕は伊能先生が今まで通り僕のピアノを見てくれるもんだと思っていたので、気持ちの整理がつかなかった。でも、渚さんから習いたくないとは思わなかった。
「実は先生から連絡を貰ったのよ『亮ちゃんの事で相談がある』って」
渚さんはグランドピアノに軽くもたれ掛かる様に手を置いて話を始めた。
0
お気に入りに追加
52
あなたにおすすめの小説
校長室のソファの染みを知っていますか?
フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。
しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。
座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る
寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい
白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。
私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。
「あの人、私が
僕の家族は母様と母様の子供の弟妹達と使い魔達だけだよ?
闇夜の現し人(ヤミヨノウツシビト)
ファンタジー
ー 母さんは、「絶世の美女」と呼ばれるほど美しく、国の中で最も権力の強い貴族と呼ばれる公爵様の寵姫だった。
しかし、それをよく思わない正妻やその親戚たちに毒を盛られてしまった。
幸い発熱だけですんだがお腹に子が出来てしまった以上ここにいては危険だと判断し、仲の良かった侍女数名に「ここを離れる」と言い残し公爵家を後にした。
お母さん大好きっ子な主人公は、毒を盛られるという失態をおかした父親や毒を盛った親戚たちを嫌悪するがお母さんが日々、「家族で暮らしたい」と話していたため、ある出来事をきっかけに一緒に暮らし始めた。
しかし、自分が家族だと認めた者がいれば初めて見た者は跪くと言われる程の華の顔(カンバセ)を綻ばせ笑うが、家族がいなければ心底どうでもいいというような表情をしていて、人形の方がまだ表情があると言われていた。
『無能で無価値の稚拙な愚父共が僕の家族を名乗る資格なんて無いんだよ?』
さぁ、ここに超絶チートを持つ自分が認めた家族以外の生き物全てを嫌う主人公の物語が始まる。
〈念の為〉
稚拙→ちせつ
愚父→ぐふ
⚠︎注意⚠︎
不定期更新です。作者の妄想をつぎ込んだ作品です。
【完結】20年後の真実
ゴールデンフィッシュメダル
恋愛
公爵令息のマリウスがが婚約者タチアナに婚約破棄を言い渡した。
マリウスは子爵令嬢のゾフィーとの恋に溺れ、婚約者を蔑ろにしていた。
それから20年。
マリウスはゾフィーと結婚し、タチアナは伯爵夫人となっていた。
そして、娘の恋愛を機にマリウスは婚約破棄騒動の真実を知る。
おじさんが昔を思い出しながらもだもだするだけのお話です。
全4話書き上げ済み。
選ばれたのは美人の親友
杉本凪咲
恋愛
侯爵令息ルドガーの妻となったエルは、良き妻になろうと奮闘していた。しかし突然にルドガーはエルに離婚を宣言し、あろうことかエルの親友であるレベッカと関係を持った。悔しさと怒りで泣き叫ぶエルだが、最後には離婚を決意して縁を切る。程なくして、そんな彼女に新しい縁談が舞い込んできたが、縁を切ったはずのレベッカが現れる。
お嬢様、お仕置の時間です。
moa
恋愛
私は御門 凛(みかど りん)、御門財閥の長女として産まれた。
両親は跡継ぎの息子が欲しかったようで女として産まれた私のことをよく思っていなかった。
私の世話は執事とメイド達がしてくれていた。
私が2歳になったとき、弟の御門 新(みかど あらた)が産まれた。
両親は念願の息子が産まれたことで私を執事とメイド達に渡し、新を連れて家を出ていってしまった。
新しい屋敷を建ててそこで暮らしているそうだが、必要な費用を送ってくれている以外は何も教えてくれてくれなかった。
私が小さい頃から執事としてずっと一緒にいる氷川 海(ひかわ かい)が身の回りの世話や勉強など色々してくれていた。
海は普段は優しくなんでもこなしてしまう完璧な執事。
しかし厳しいときは厳しくて怒らせるとすごく怖い。
海は執事としてずっと一緒にいると思っていたのにある日、私の中で何か特別な感情がある事に気付く。
しかし、愛を知らずに育ってきた私が愛と知るのは、まだ先の話。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる