北野坂パレット

うにおいくら

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お正月の頃の物語

本音

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「こんな弾き方していたらいつまでたっても同じや。メロディラインを際立たせる技巧は今まで腐るほど練習したけど、それだけやったら本当に俺が聞こえている音をそのまま忠実に再現できひん」
 僕は少し自分に対していらだっていたかもしれない。自分でも少し声に感情がむき出しに乗っかっているような気がしていた。

「聞こえてる音?」
そんな僕の軽い苛立ちを気にかける様子もなく、宏美が不思議そうな表情を見せて僕に聞いてきた。
そのいつもの何も考えていなさそうな宏美の表情を見て僕は少し落ち着いた。

「うん。音はいつでもこの世界を流れているねん。ホンマに溢れとぉねん。でな、楽譜を開いて鍵盤に手を置いた瞬間その音は色づいて踊り出すんや。それを俺がピアノで再現する。それだけの事や。でもそれだけの事が出来ん。その力がまだ俺にはない。技術がない。父さんには間違いなく在った。それは聞かんでも分かる。父さんがどう弾いていたかは間違いなく分かる。なんでか知らんけどそれだけは分かる。それだけに悔しい。父さんに弾けて俺に弾けない道理はない。それがピアノを弾くたびに分かって来るんや」

本当はオヤジのピアノの音色は聞こえていたのだが、それをここで言う訳にはいかなかった。話が更にややこしくなるのは明らかだから。

 ついでにいうと僕は冴子や宏美に話をしながら、自分にも言い聞かせようと話をしていた。
僕は自分の対して語るように、彼女たちに話しをしながら頭の中を整理していた。

「ほんまにな。こんな感覚初めてやねん。どうやって弾いたら俺が弾きたい音がでるのか分からんねん……いや、分からんことはないねん。その音を出す技術が足りひんねん」

 今の僕はピアノを弾き始めてから初めての壁を感じている。
壁とは登ろうと思ってこそ、それが初めて壁であることが気が付く……いやそこに壁の存在が在ったという事が分かるものかも知れない……前に進まないやつには壁があろうとなかろうと関係ないもんな……そんな考えが頭をよぎった。

黙って聞いていた冴子が
「あんたのいう事はイマイチ分からんけど、これだけは言えるわ。あんたの音……ホンマに変わったな」
とぽつりと呟いた。
やはり僕の感覚は冴子や宏美には理解できないようだが、何かが変わった事だけは理解してもらえたようだった。

 僕のタッチはあの日安藤さんの店で弾いたピアノから音が変わった。最初は自分で弾いている気がしなかった。誰かに弾かされているような感覚だった。あるいはオヤジの物まねだった。
それが世界の音を耳で感じ、光として目で感じ、今身体の奥底の何かで感じようとしている。
それが何なのかは僕にも分からない。

――俺が分かっていないものを他人が理解できるわけないやんな――

という当たり前の事に今気が付いた。
ただ僕も冴子と同じレベルで分かっている事がひとつだけある。

「うん。実は俺もそう思っとぉ」
僕は正直に頷いた。
今の僕に理解できたのは自分の音が変わった事だけだった。

「なんでなん? なんでそんなに一気に変われんの? 今までの努力を捨てる事になるやん」
冴子の声がなんなく寂しげに聞こえた。

「うん。そうなるかもなぁ……」

「怖ないん? そんな事して。今まで作り上げてきた自分の音がなし崩しになるかもしれんねんで」

「うん。それは大丈夫。元々評価なんか気にしてなかったから……」

「気にしなくて今まであの演奏か?……ホンマ、あんたは嫌味な奴やな」
冴子は苦々し気に僕を睨んだが直ぐに表情を和らげて

「で、これからどうすんの? 伊能先生のとこに行かへんの?」
と聞いてきた。

「うん。近々行こうと思っとぉけど……」

「そうかぁ。行く時言うてや。一緒に行ったるから」

「え? なんで?」
僕は思わず聞き返した。なんで冴子まで?

「一年近くご無沙汰してて行き難くないんか? そんでピアノ弾いたらあの音やで……先生突っ込んでくるでぇ」

 冴子のこの言葉は僕の胸に突き刺さった。確かに冴子のいう事は一理ある。そして僕一人で行くには荷が重すぎる。冷静になってみると僕にそんな勇気はない事を思い出した。

「分かった。言うわ」
半分冴子にすがるような気持ちになっていた。

「亮ちゃん、私も行く」
宏美が横から会話に割って入って来た。

「宏美も心配やんな」
冴子が宏美にそう言うと
「うん。なんか面白そうやん」
と笑った。

――こいつは天然やったな――

これだけは冴子と僕の意見は一致したようで、二人で同時に苦笑(わら)った。

 宏美は何故僕と冴子が渇いた笑い声をあげたかが分からずにキョトンとしていた。そしてシゲルは結局この話題には全く入れなかった。また少しシゲルに申し訳ない気持ちになった。

――でも伊能先生のとこに行く前にオヤジに相談しよう――

冴子と宏美の会話を聞きながら僕はそう決めた。

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