89 / 406
お正月の頃の物語
本音
しおりを挟む
「こんな弾き方していたらいつまでたっても同じや。メロディラインを際立たせる技巧は今まで腐るほど練習したけど、それだけやったら本当に俺が聞こえている音をそのまま忠実に再現できひん」
僕は少し自分に対していらだっていたかもしれない。自分でも少し声に感情がむき出しに乗っかっているような気がしていた。
「聞こえてる音?」
そんな僕の軽い苛立ちを気にかける様子もなく、宏美が不思議そうな表情を見せて僕に聞いてきた。
そのいつもの何も考えていなさそうな宏美の表情を見て僕は少し落ち着いた。
「うん。音はいつでもこの世界を流れているねん。ホンマに溢れとぉねん。でな、楽譜を開いて鍵盤に手を置いた瞬間その音は色づいて踊り出すんや。それを俺がピアノで再現する。それだけの事や。でもそれだけの事が出来ん。その力がまだ俺にはない。技術がない。父さんには間違いなく在った。それは聞かんでも分かる。父さんがどう弾いていたかは間違いなく分かる。なんでか知らんけどそれだけは分かる。それだけに悔しい。父さんに弾けて俺に弾けない道理はない。それがピアノを弾くたびに分かって来るんや」
本当はオヤジのピアノの音色は聞こえていたのだが、それをここで言う訳にはいかなかった。話が更にややこしくなるのは明らかだから。
ついでにいうと僕は冴子や宏美に話をしながら、自分にも言い聞かせようと話をしていた。
僕は自分の対して語るように、彼女たちに話しをしながら頭の中を整理していた。
「ほんまにな。こんな感覚初めてやねん。どうやって弾いたら俺が弾きたい音がでるのか分からんねん……いや、分からんことはないねん。その音を出す技術が足りひんねん」
今の僕はピアノを弾き始めてから初めての壁を感じている。
壁とは登ろうと思ってこそ、それが初めて壁であることが気が付く……いやそこに壁の存在が在ったという事が分かるものかも知れない……前に進まないやつには壁があろうとなかろうと関係ないもんな……そんな考えが頭をよぎった。
黙って聞いていた冴子が
「あんたのいう事はイマイチ分からんけど、これだけは言えるわ。あんたの音……ホンマに変わったな」
とぽつりと呟いた。
やはり僕の感覚は冴子や宏美には理解できないようだが、何かが変わった事だけは理解してもらえたようだった。
僕のタッチはあの日安藤さんの店で弾いたピアノから音が変わった。最初は自分で弾いている気がしなかった。誰かに弾かされているような感覚だった。あるいはオヤジの物まねだった。
それが世界の音を耳で感じ、光として目で感じ、今身体の奥底の何かで感じようとしている。
それが何なのかは僕にも分からない。
――俺が分かっていないものを他人が理解できるわけないやんな――
という当たり前の事に今気が付いた。
ただ僕も冴子と同じレベルで分かっている事がひとつだけある。
「うん。実は俺もそう思っとぉ」
僕は正直に頷いた。
今の僕に理解できたのは自分の音が変わった事だけだった。
「なんでなん? なんでそんなに一気に変われんの? 今までの努力を捨てる事になるやん」
冴子の声がなんなく寂しげに聞こえた。
「うん。そうなるかもなぁ……」
「怖ないん? そんな事して。今まで作り上げてきた自分の音がなし崩しになるかもしれんねんで」
「うん。それは大丈夫。元々評価なんか気にしてなかったから……」
「気にしなくて今まであの演奏か?……ホンマ、あんたは嫌味な奴やな」
冴子は苦々し気に僕を睨んだが直ぐに表情を和らげて
「で、これからどうすんの? 伊能先生のとこに行かへんの?」
と聞いてきた。
「うん。近々行こうと思っとぉけど……」
「そうかぁ。行く時言うてや。一緒に行ったるから」
「え? なんで?」
僕は思わず聞き返した。なんで冴子まで?
「一年近くご無沙汰してて行き難くないんか? そんでピアノ弾いたらあの音やで……先生突っ込んでくるでぇ」
冴子のこの言葉は僕の胸に突き刺さった。確かに冴子のいう事は一理ある。そして僕一人で行くには荷が重すぎる。冷静になってみると僕にそんな勇気はない事を思い出した。
「分かった。言うわ」
半分冴子にすがるような気持ちになっていた。
「亮ちゃん、私も行く」
宏美が横から会話に割って入って来た。
「宏美も心配やんな」
冴子が宏美にそう言うと
「うん。なんか面白そうやん」
と笑った。
――こいつは天然やったな――
これだけは冴子と僕の意見は一致したようで、二人で同時に苦笑(わら)った。
宏美は何故僕と冴子が渇いた笑い声をあげたかが分からずにキョトンとしていた。そしてシゲルは結局この話題には全く入れなかった。また少しシゲルに申し訳ない気持ちになった。
――でも伊能先生のとこに行く前にオヤジに相談しよう――
冴子と宏美の会話を聞きながら僕はそう決めた。
僕は少し自分に対していらだっていたかもしれない。自分でも少し声に感情がむき出しに乗っかっているような気がしていた。
「聞こえてる音?」
そんな僕の軽い苛立ちを気にかける様子もなく、宏美が不思議そうな表情を見せて僕に聞いてきた。
そのいつもの何も考えていなさそうな宏美の表情を見て僕は少し落ち着いた。
「うん。音はいつでもこの世界を流れているねん。ホンマに溢れとぉねん。でな、楽譜を開いて鍵盤に手を置いた瞬間その音は色づいて踊り出すんや。それを俺がピアノで再現する。それだけの事や。でもそれだけの事が出来ん。その力がまだ俺にはない。技術がない。父さんには間違いなく在った。それは聞かんでも分かる。父さんがどう弾いていたかは間違いなく分かる。なんでか知らんけどそれだけは分かる。それだけに悔しい。父さんに弾けて俺に弾けない道理はない。それがピアノを弾くたびに分かって来るんや」
本当はオヤジのピアノの音色は聞こえていたのだが、それをここで言う訳にはいかなかった。話が更にややこしくなるのは明らかだから。
ついでにいうと僕は冴子や宏美に話をしながら、自分にも言い聞かせようと話をしていた。
僕は自分の対して語るように、彼女たちに話しをしながら頭の中を整理していた。
「ほんまにな。こんな感覚初めてやねん。どうやって弾いたら俺が弾きたい音がでるのか分からんねん……いや、分からんことはないねん。その音を出す技術が足りひんねん」
今の僕はピアノを弾き始めてから初めての壁を感じている。
壁とは登ろうと思ってこそ、それが初めて壁であることが気が付く……いやそこに壁の存在が在ったという事が分かるものかも知れない……前に進まないやつには壁があろうとなかろうと関係ないもんな……そんな考えが頭をよぎった。
黙って聞いていた冴子が
「あんたのいう事はイマイチ分からんけど、これだけは言えるわ。あんたの音……ホンマに変わったな」
とぽつりと呟いた。
やはり僕の感覚は冴子や宏美には理解できないようだが、何かが変わった事だけは理解してもらえたようだった。
僕のタッチはあの日安藤さんの店で弾いたピアノから音が変わった。最初は自分で弾いている気がしなかった。誰かに弾かされているような感覚だった。あるいはオヤジの物まねだった。
それが世界の音を耳で感じ、光として目で感じ、今身体の奥底の何かで感じようとしている。
それが何なのかは僕にも分からない。
――俺が分かっていないものを他人が理解できるわけないやんな――
という当たり前の事に今気が付いた。
ただ僕も冴子と同じレベルで分かっている事がひとつだけある。
「うん。実は俺もそう思っとぉ」
僕は正直に頷いた。
今の僕に理解できたのは自分の音が変わった事だけだった。
「なんでなん? なんでそんなに一気に変われんの? 今までの努力を捨てる事になるやん」
冴子の声がなんなく寂しげに聞こえた。
「うん。そうなるかもなぁ……」
「怖ないん? そんな事して。今まで作り上げてきた自分の音がなし崩しになるかもしれんねんで」
「うん。それは大丈夫。元々評価なんか気にしてなかったから……」
「気にしなくて今まであの演奏か?……ホンマ、あんたは嫌味な奴やな」
冴子は苦々し気に僕を睨んだが直ぐに表情を和らげて
「で、これからどうすんの? 伊能先生のとこに行かへんの?」
と聞いてきた。
「うん。近々行こうと思っとぉけど……」
「そうかぁ。行く時言うてや。一緒に行ったるから」
「え? なんで?」
僕は思わず聞き返した。なんで冴子まで?
「一年近くご無沙汰してて行き難くないんか? そんでピアノ弾いたらあの音やで……先生突っ込んでくるでぇ」
冴子のこの言葉は僕の胸に突き刺さった。確かに冴子のいう事は一理ある。そして僕一人で行くには荷が重すぎる。冷静になってみると僕にそんな勇気はない事を思い出した。
「分かった。言うわ」
半分冴子にすがるような気持ちになっていた。
「亮ちゃん、私も行く」
宏美が横から会話に割って入って来た。
「宏美も心配やんな」
冴子が宏美にそう言うと
「うん。なんか面白そうやん」
と笑った。
――こいつは天然やったな――
これだけは冴子と僕の意見は一致したようで、二人で同時に苦笑(わら)った。
宏美は何故僕と冴子が渇いた笑い声をあげたかが分からずにキョトンとしていた。そしてシゲルは結局この話題には全く入れなかった。また少しシゲルに申し訳ない気持ちになった。
――でも伊能先生のとこに行く前にオヤジに相談しよう――
冴子と宏美の会話を聞きながら僕はそう決めた。
0
お気に入りに追加
52
あなたにおすすめの小説
校長室のソファの染みを知っていますか?
フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。
しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。
座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る
別れてくれない夫は、私を愛していない
abang
恋愛
「私と別れて下さい」
「嫌だ、君と別れる気はない」
誕生パーティー、結婚記念日、大切な約束の日まで……
彼の大切な幼馴染の「セレン」はいつも彼を連れ去ってしまう。
「ごめん、セレンが怪我をしたらしい」
「セレンが熱が出たと……」
そんなに大切ならば、彼女を妻にすれば良かったのでは?
ふと過ぎったその考えに私の妻としての限界に気付いた。
その日から始まる、私を愛さない夫と愛してるからこそ限界な妻の離婚攻防戦。
「あなた、お願いだから別れて頂戴」
「絶対に、別れない」
寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい
白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。
私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。
「あの人、私が
婚約者の幼馴染?それが何か?
仏白目
恋愛
タバサは学園で婚約者のリカルドと食堂で昼食をとっていた
「あ〜、リカルドここにいたの?もう、待っててっていったのにぃ〜」
目の前にいる私の事はガン無視である
「マリサ・・・これからはタバサと昼食は一緒にとるから、君は遠慮してくれないか?」
リカルドにそう言われたマリサは
「酷いわ!リカルド!私達あんなに愛し合っていたのに、私を捨てるの?」
ん?愛し合っていた?今聞き捨てならない言葉が・・・
「マリサ!誤解を招くような言い方はやめてくれ!僕たちは幼馴染ってだけだろう?」
「そんな!リカルド酷い!」
マリサはテーブルに突っ伏してワアワア泣き出した、およそ貴族令嬢とは思えない姿を晒している
この騒ぎ自体 とんだ恥晒しだわ
タバサは席を立ち 冷めた目でリカルドを見ると、「この事は父に相談します、お先に失礼しますわ」
「まってくれタバサ!誤解なんだ」
リカルドを置いて、タバサは席を立った
あなたの子ですが、内緒で育てます
椿蛍
恋愛
「本当にあなたの子ですか?」
突然現れた浮気相手、私の夫である国王陛下の子を身籠っているという。
夫、王妃の座、全て奪われ冷遇される日々――王宮から、追われた私のお腹には陛下の子が宿っていた。
私は強くなることを決意する。
「この子は私が育てます!」
お腹にいる子供は王の子。
王の子だけが不思議な力を持つ。
私は育った子供を連れて王宮へ戻る。
――そして、私を追い出したことを後悔してください。
※夫の後悔、浮気相手と虐げられからのざまあ
※他サイト様でも掲載しております。
※hotランキング1位&エールありがとうございます!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる