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初詣
盃
しおりを挟む改めて僕はオフクロに
「ヴァレンタインさんから、高校卒業したらフランスに来ないかと誘われたんやけど、行ってもええ?」
と更に小さな声で聞いた。
「なにぃ? 聞こえへん。声が小さい!」
オフクロは据わった目で僕を見つめていた。
「だからフランスに行ってもええかぁって聞いとんや」
僕は声を振り絞って訴えた。でも思ったより声が出ていなかった。
「行ってええかぁ? やと? ふん。あんたはどうしたいんや?」
そう言うオフクロの手は枡が握られていた。そこに鈴原さんが慌てて一升瓶でお酒を注ぎだした。
その枡はさっきまでオヤジが日本酒を飲んでいた枡だ。いつの間にかそれをオフクロがむしり取っていた。
枡に口をつけ座った目つきで僕を見ながら、オフクロはその酒をグイっと煽った。
「うん。行きたい。世界のレベルを感じてみたい」
とオフクロの視線をはねのけながら僕は応えた。
「そうか……」
そう呟くとオフクロは持っていた枡を僕に突き出すと、『飲め!』と言わんばかりに顎でそれを指した。
オフクロがさっき一気に飲んだとはいえ、枡の底にはまだ酒が揺れていた。
オヤジは「おい」と言って止めようとしたが、オフクロに睨まれて黙ってしまった。
僕は桝を受け取ってオフクロの顔を見た。
オフクロは
「*言うなかれ、君よ、別れを 世の常を、また生き死にを」
とだけ言って僕をじっと見ていた。
相変わらず目は据わっているが、これは酔いだけではないという事はなんとなく感じた。
――別れの盃は黙って飲めという事か――
僕は腹を括ってその酒を一気に飲み干した。
腹の底から熱くなってきた。その熱さは胃袋から食道を上り詰め一気に鼻から抜けた。
――五臓六腑染み渡るとはこういう事なのか?――
僕は枡をテーブルにダンと手荒く置いた。
鼻からアルコールが抜けていく。桝には少ししか残っていないと思っていたが、思った以上に残っていた。そして僕は一気飲みの洗礼を人生で初めて受けた。日本酒が腹の中で格闘し始めている。
オヤジが首を振ってため息をついた。
オフクロは僕が飲み干した枡をしばらく見つめていたが、姿勢を正してヴァレンタインに向き直ると
「不束(ふつつか)な息子ですが、よろしくお願いします」
と頭を下げた。
マエストロ・ヴァレンタインは、その一言で我に返ったような表情を見せた……が息を整えて
「分かりました。息子さんをお預かりします」
とだけ言って頭を下げた。
仁美さんがオフクロの背後から肩に手を置いて
「あんたはもう父親の役はせんでええんやから……ホンマに……」
と少し呆れたように言った。
オフクロは
「うん」
と小さな声で返事をした。
「一平ちゃん! そう言う事やからね」
と仁美さんはオヤジに言った。
オヤジは黙って軽く頷いただけだった。
僕は仁美さんが言った言葉の意味がなんとなく分かった。
生まれてからほとんど僕はオフクロと二人きりの家族だった。
なのに僕が父親が居ない家庭にそれほど違和感も寂しさも感じずにいられたのは、オフクロが優しい母親でもありそして厳しい父親でもあったからだ。
オフクロがその時々で立場を変えながら僕に接しようとしていたのは、子供心になんとなく感じていた。でもそれをこれまでオフクロに確認した事は無かった。
今、オフクロは父親の役を降りようとしている。僕がオヤジと再会してからは母親としてだけ僕と接するつもりでいたようだ。仁美さんはそれを知っていた。
本当にさっさとにオフクロにフランス留学の話を言えば良かったと後悔した。親不孝でチキンな息子で申し訳ないと心から反省した。
「フランスではうちが母親代わりに、ちゃぁんと面倒見るからね。安心しぃや」
とたん子ちゃんがオフクロに話しかけた。
「うん。ホンマに頼むわ。こんな息子やけど」
とオフクロはたん子ちゃんに頭を下げた。
「ほげ?」
と僕が首を傾げた瞬間、耳元でオヤジが
「たん子はヴァレンタインのマネージャー兼嫁はんや」
と教えてくれた。
「はぁ??」
だからか……何故この人があの事務所でヴァレンタインと一緒に居たのかがやっと理解できた。
「そうよ。亮平君のフランスでの面倒は全部私が見るからね。安心していらっしゃい」
とたん子ちゃんはにこやかに笑った。
僕がまともに覚えているのはここまでだった。
「よろしくお願いします」
と挨拶をしようと椅子から立ち上がろうとした瞬間に地球が回り始めた。
ここに来てオフクロに飲まされた日本酒が一気に回ってきた。さっきまで全然平気だったのに……。
酒飲み二人のDNAを引き継いでいても、まだまだ僕は修業が足りなかったようだ。
*大木惇夫「戦友別盃の歌」
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