北野坂パレット

うにおいくら

文字の大きさ
上 下
253 / 406
クリスマスの演奏会

巨匠からの誘い

しおりを挟む


「へい。リョーヘイ、呼び出して済まなかった。そこに座って」
とヴァレンタインが僕に長椅子に座る様に勧めた。
「はい」
と返事をして僕は座った。
大人たちに囲まれてなんだか落ち着かない。どうやら僕を呼んだのは冴子のお父さんではなく巨匠だった。

 ヴァレンタインは僕の隣に同じように腰を下ろすと
「実はね、今月の頭にシゲからメールを貰いました」
と言ってから横目で鈴原さんに視線を移した。

「とても面白いピアニストが居ると……」
そう言って僕の顔を覗き込むように見つめた。

「『クリスマスにそのピアニストが演奏する。これを聞き逃したら一生後悔するだろう』とまで書いてありました。そこまで書かれて来ない理由はありません。だから私はここに居ます」

 僕は無言でマエストロの顔を見つめていた。鈴原さんは冴子のためにそんなメールを送っていたんだと、さっきサロンでオヤジと話したことを思い出しながら聞いていた。

「そして私は長年追い求めていたピアニストの音を久しぶりに耳にする事になった。目の前で演奏しているピアニストは私の想い出の音を見事に再現してくれた上に、私の想像を超える音を奏でてくれた……言っていることが分かりますか?」

「あ、は、はい。よく分かります」
僕は慌てて返事をしたが

――ここに来た理由は分かったけど、冴子はそんな演奏していたっけ?――

と、全く違う事を考えていた。
確かに冴子の演奏はまだオヤジの音を残していたが、巨匠が言うようなそんな演奏をしていたとは僕には思い当たる節が無かった。マエストロには何か感じるものがあったんだろうか。

「ところで、リョーヘイはこれからどうするつもりですか?」
と僕の事を尋ねてきた。

「え? 僕ですか? 僕は藝大に行ってピアノの勉強をするつもりです」

「なぜ藝大に行く?」

「まだまだピアノの勉強をしたいと思ったからです」

「勉強? 誰か習いたい先生でもいるのですか?」

「いえ、それは居ません」
 ちらっと山吹先生の顔が浮かんだが、『習いたい先生か?』と敢えて聞かれると素直に頷けなかった。
嫌いな先生でもない、どちらかと言えば尊敬している先生だ。何度かレッスンも受けた事もあるし、本格的に師事を仰げばそれなりに教えてもらえるだろう。それに僕の足りない技術的な事も教えてもらえるという事は分かってはいたが、生意気にも今まで山吹先生に師事するという状況を想像をした事が無かった。
第一に僕が藝大に行きたいと思ったのはオヤジが目指した大学だったからだ。習いたい先生が居るからではなかった。
本音で言えば、教えてもらいたいピアニストは一人だけこの世の中で存在する。それは僕のオヤジだった。僕はオヤジのピアノの音を聞いてピアニストを目指そうと決めたんだから。
でも、こんな場所では口が裂けても言えないけど。

「それで一体、何を学ぶというのだろう?」
ヴァレンタインは不思議そうな顔をして聞いた。

「僕もよく分かっていません。ただ1日中ピアノを弾いていられる事だけは間違いなさそうなので、それでも良いか……程度にしか考えていないません」
もうほとんど、投げやりな態度で答えてしまっていたかもしれない。

「ふむ。それは大いなる時間の無駄だ。リョーヘイはピアニストを目指しているという事で間違いはないか?」
ヴァレンタインはオヤジの顔をちらっと横目で見てから、念を押すように確認してきた。

「はい。そのつもりです」
僕は自分の声が少し声が上ずっているのに気が付いた。こんな風に進学の件で詰められた事は一度も無かった。それを世界の巨匠に詰められている自分がちょっと不思議でもあった。


「うむ。だったら本場に来ないか?」
ヴァレンタインは何度も頷いてから聞いてきた。

「本場?」

「そうだ。パリだ」
畳みかけるようにヴァレンタインは言った。

「パリぃ?」
完全に声は裏返ってしまった。

「ウイ。花の都パリ」

「なんでパリなんですか?」

「やはり習うのならコンセルヴァトワールに行くべきだ。そこで私が君にピアノを教える。来年から私はパリに戻る」

「え?」
僕は驚いてオヤジを見た。
オヤジは黙って頷いただけだった。
アメリカでの常任指揮者の仕事はどうなった?

「え? 冴子は?」

「サエコ? おお彼女は素晴らしいヴァイオリニストになるでしょう。彼女がその気なら良い先生を紹介しましょう」
と言った。

「え? 面白いピアニストって冴子の事ではないんですか?」

「何を言っている。さっきから僕は君の話をしているんだよ?」
とヴァレンタインは驚いたようにそして少し憤ているような感じで僕に言った。

 それを聞いてオヤジが吹き出していた。我慢しきれずに笑い出した。オヤジは途中で僕の勘違いに気が付いていたようだ。だったらすぐに教えろよ。と僕も腹の中で憤ていた。

「確かにサエコのピアノも素晴らしい。個性的だ。しかし、彼女の視点はもうピアノには無い」

「まあ、そうですよね……」

「という事で、リョーヘイ、パリが君を待っている。推薦状は私が書く」
ヴァレンタインはこぶしを握り締めて力強く言い切った。

「いや、誰も待ってないでしょう……そもそもそんな事、すぐには結論出せないです。第一、僕はまだ高校二年生ですよ。学校はどうするんですか?」

「勿論、それは卒業してからでよい。どうだ」

「いや、どうだって言われても……フランス語もできないし」

「ノンノン、そんなものはどうとでもなる。僕でも日本語を覚えられたんだから、あなたにだってできる」
それは僕にとって『俺にだってこんな(世界の巨匠と言われる)指揮者になれたんだから君にだってなれる』と言われるぐらい意味のないフォローだった。

「少し考えさせてください……やっぱり、すぐには結論出せません」
これが今この場で僕が答えられる精いっぱいのセリフだった。ついさっきまで留学なんて事は微塵も考えていなかった。頭の片隅にも無かった。それをこの場で即答せよというのは、僕のキャパを超えている問題だ。

 大人たちに囲まれて僕は息が詰まりそうになっていた。

――こんな時は保護者のオヤジが何とかするのが普通ではないのか?――

と思いながら視線を送ると、それを察したのかオヤジが口を開いた。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

噂好きのローレッタ

水谷繭
恋愛
公爵令嬢リディアの婚約者は、レフィオル王国の第一王子アデルバート殿下だ。しかし、彼はリディアに冷たく、最近は小動物のように愛らしい男爵令嬢フィオナのほうばかり気にかけている。 ついには殿下とフィオナがつき合っているのではないかという噂まで耳にしたリディアは、婚約解消を申し出ることに。しかし、アデルバートは全く納得していないようで……。 ※二部以降雰囲気が変わるので、ご注意ください。少し後味悪いかもしれません(主人公はハピエンです) ※小説家になろうにも掲載しています ◆表紙画像はGirly Dropさんからお借りしました (旧題:婚約者は愛らしい男爵令嬢さんのほうがお好きなようなので、婚約解消を申し出てみました)

また逢いたい~亡くなった友達がVRMMOの世界に転移してました~

うにおいくら
ファンタジー
親友が死んだ。 葬式に行った。 そしていつも遊んでいたフルダイブ型VRMMOにいったら、その親友が居た。 物語はそこから始まった。

よくある婚約破棄なので

おのまとぺ
恋愛
ディアモンテ公爵家の令嬢ララが婚約を破棄された。 その噂は風に乗ってすぐにルーベ王国中に広がった。なんといっても相手は美男子と名高いフィルガルド王子。若い二人の結婚の日を国民は今か今かと夢見ていたのだ。 言葉数の少ない公爵令嬢が友人からの慰めに対して放った一言は、社交界に小さな波紋を呼ぶ。「災難だったわね」と声を掛けたアネット嬢にララが返した言葉は短かった。 「よくある婚約破棄なので」 ・すれ違う二人をめぐる短い話 ・前編は各自の証言になります ・後編は◆→ララ、◇→フィルガルド ・全25話完結

私は私で勝手に生きていきますから、どうぞご自由にお捨てになってください。

木山楽斗
恋愛
伯爵令嬢であるアルティリアは、婚約者からある日突然婚約破棄を告げられた。 彼はアルティリアが上から目線だと批判して、自らの妻として相応しくないと判断したのだ。 それに対して不満を述べたアルティリアだったが、婚約者の意思は固かった。こうして彼女は、理不尽に婚約を破棄されてしまったのである。 そのことに関して、アルティリアは実の父親から責められることになった。 公にはなっていないが、彼女は妾の子であり、家での扱いも悪かったのだ。 そのような環境で父親から責められたアルティリアの我慢は限界であった。伯爵家に必要ない。そう言われたアルティリアは父親に告げた。 「私は私で勝手に生きていきますから、どうぞご自由にお捨てになってください。私はそれで構いません」 こうしてアルティリアは、新たなる人生を送ることになった。 彼女は伯爵家のしがらみから解放されて、自由な人生を送ることになったのである。 同時に彼女を虐げていた者達は、その報いを受けることになった。彼らはアルティリアだけではなく様々な人から恨みを買っており、その立場というものは盤石なものではなかったのだ。

今さら、私に構わないでください

ましゅぺちーの
恋愛
愛する夫が恋をした。 彼を愛していたから、彼女を側妃に迎えるように進言した。 愛し合う二人の前では私は悪役。 幸せそうに微笑み合う二人を見て、私は彼への愛を捨てた。 しかし、夫からの愛を完全に諦めるようになると、彼の態度が少しずつ変化していって……? タイトル変更しました。

婚約破棄からの長い道のり〜一度破棄したら二度目はありません。多分ないはず

buchi
恋愛
推し活にいそしむ婚約者は、デートもエスコートもしない。推しのためならあんなに頑張れるのに……もう、あなたには愛想が尽きました。青天の霹靂、信頼していた婚約者から自業自得の絶縁状。しかも、彼女の女友達、みんな敵。怖い。突然の婚約破棄に、ただでさえうろたえるルイスに、言葉の暴力でムチを振るう婚約者の女友達。ルイスのライフはもうマイナス。そこからの復活劇? ダメな男の真面目な成長物語……である。 ある種のザマアかもしれないけど、身分剥奪とか、牢獄入りとか、死罪とか全然ありませんので、悪しからず。

所詮は他人事と言われたので他人になります!婚約者も親友も見捨てることにした私は好きに生きます!

ユウ
恋愛
辺境伯爵令嬢のリーゼロッテは幼馴染と婚約者に悩まされてきた。 幼馴染で親友であるアグネスは侯爵令嬢であり王太子殿下の婚約者ということもあり幼少期から王命によりサポートを頼まれていた。 婚約者である伯爵家の令息は従妹であるアグネスを大事にするあまり、婚約者であるサリオンも優先するのはアグネスだった。 王太子妃になるアグネスを優先することを了承ていたし、大事な友人と婚約者を愛していたし、尊敬もしていた。 しかしその関係に亀裂が生じたのは一人の女子生徒によるものだった。 貴族でもない平民の少女が特待生としてに入り王太子殿下と懇意だったことでアグネスはきつく当たり、婚約者も同調したのだが、相手は平民の少女。 遠回しに二人を注意するも‥ 「所詮あなたは他人だもの!」 「部外者がしゃしゃりでるな!」 十年以上も尽くしてきた二人の心のない言葉に愛想を尽かしたのだ。 「所詮私は他人でしかないので本当の赤の他人になりましょう」 関係を断ったリーゼロッテは国を出て隣国で生きていくことを決めたのだが… 一方リーゼロッテが学園から姿を消したことで二人は王家からも責められ、孤立してしまうのだった。 なんとか学園に連れ戻そうと試みるのだが…

ギルドの受付嬢は『元』令嬢!

ぐらいむ
恋愛
侯爵令嬢のリディメリアは王太子であるレグルスの婚約者。厳しい教育にも負けず完璧な侯爵令嬢を目指してきた しかしレグルスには見向きもされない冷めきった関係 そんな中現れた元平民のアイリにレグルスの心は奪われてしまう。それだけならまだしも、嫉妬に駆られリディメリアがアイリに嫌がらせをしていると噂も流れ……そこから濡れ衣を着せられて婚約破棄され国外追放にまで?! 国外追放になってしまったけど、前世の記憶を思い出してその知識と技術を使って遠い異国の土地で『元』侯爵令嬢がギルドでのんびり受付嬢をするスローライフストーリーです

処理中です...