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夏休みの部活
ハンガリー舞曲
しおりを挟む今日二度目の冴子との演奏だった。
今度はピアノで連弾だ。流石に今まで一日に二度も冴子と演奏した事は無かった。
今日は冴子とよっぽど縁がある日なんだろう。正直に言うと冴子との演奏は嫌いではなかった。どちらかと言えば楽しみだった。
「お前がプリモやったよな」
と確認すると
「うん」
冴子は素直に頷いた。
もっとも、冴子と連弾する時はいつも僕はセコンドで低音パートだったから、敢えて聞くまでもなかったのだが……。
僕は冴子が持っていた楽譜を掴むと楽譜台にそれを置いてピアノ椅子の左端に座った。
楽譜を広げて譜面を目で追った。久しぶりに弾く曲だ。まだ覚えている自信はあったが、その確認をしたかった。
微かに深呼吸する冴子の空気が僕の背中越しに伝わってきた。心の準備をするかのように少し間を開けてから冴子は僕の右隣に座った。
僕には分からない彼女の小さな葛藤を、ちょっとだけ感じたような気がした。
「お前は覚えとんか?」
「ちょっと見せて」
冴子は僕が楽譜を一通り目を通したのを確認してから、改めて楽譜を最初から読み始めた。
僕はそんな冴子の横顔を黙って見ていた。
「大丈夫。まだいける」
冴子は楽譜から目を離さないまま軽く頷いた。
既に彼女は演奏モードに入っているようだ。
僕は両手の指を伸ばしてから肩の力を抜いて鍵盤にそっと指を置いた。そして息を吸って溜めてから、ゆっくりと僕は指を鍵盤に沈めていった。
最初の一音は優しく、しかし決して弱くはなく次に来る冴子の音を受け入れるように僕は音の厚みを増した。
――良い感じで入れた――
そこへ冴子の旋律が僕の音に絡みつくように流れだす。
いつものように挑戦的な旋律だ。これはいつもの冴子の音だ。僕はその音を聞いて少し安心した。
音楽室で聞いた冴子のヴァイオリンの音は、これまで聞いた事のない音だった。あの音の粒の艶やかさ。多彩なヴァリエーションを持った音。何よりも自信に満ちた音。なのにそのどこかに不安げでそしてコロコロの気持ちが移り変わって、冴子には似つかわしくない女性の心の移ろいを僕は見ているような気がしていた。
それに比べて今の冴子のピアノは、僕の旋律にガンガン突っ込んでくるいつもの冴子の音だった。あくまでも自分が主役だと言い張るがごとく強気な旋律だ。
僕はいつものように迎え撃ちにいった。
彼女の髪が舞った。
舞い散る音の粒を感じながら、いつもの冴子ならこのまま彼女の旋律に僕を引き込みそうなモノなのに、今日はそれが無い事に気が付いた。
今日の冴子の旋律は強く華やかだが緩やかに流れる河の様にゆったりとした旋律だった。そして緊張感を切らせないように次の音が流れ込んでくる。
いつもの畳みかけるようにやって来る怒涛の冴子の旋律が、今は全く無い……かと言って緩慢な音ではない。
今この瞬間の僕達は間違いなく音の粒のキャッチボールをしていた。
そうだ。今日の冴子の旋律はとっても心地よい。
何故か冴子の音色に余裕も感じる。ヴァイオリンとは違って今日の冴子のピアノはとっても素直だ。
――昔と同じように弾いているのに、何が違う?――
僕は不思議な気持ちに捉われながらピアノを弾いていたが、
――冴子は僕の音をちゃんと聞いて弾いている――
という事に気が付いた。
そうだ。いつも冴子は自分の音をぐいぐいと押し付けてくるような音を出していた。
それだけ力のある音だったし、それはそれで楽だったので僕は深く考えずに冴子の音を受けていた。
しかし今の冴子の音の粒はしっかりとした音だが、一方的ではない。僕の音にもちゃんと応えてくれている。
いつからこんな旋律を奏でられるようになったんだろう?
気が付いたら終盤に差し掛かっかっていた。この曲は短い。この短い間に色々な情景を叩きこまねばならない。なのに今の僕には冴子との想い出がどんどん流れ込んでくる。
冴子の指が踊る。ここで初めて彼女の声を聞いた気がした。
今日一日で僕は何度冴子に驚かされた事だろう。幾重にも音の繋がりが僕の心を満たしていく。
僕は横目で彼女の顔を見た。
冴子と目が合った。
――亮ちゃんと弾くピアノはこれが最後――
間違いない。彼女のこのピアノの音は決別の音だ。
冴子はここからまた最初の一歩を踏み出そうとしている。そう、だから音に冷たさを感じない。
旋律は違うのにいつもの冴子が帰ってきたように僕は感じた。しかしそれは独り我が道を行く冴子ではなく、子供の頃に一緒に学校の帰りにトアロードを駆け上がったあの感覚に近い。もう忘れていたあの頃の冴子がそこにいた。
この呼吸を僕は間違ったりしない。嗚呼、懐かしい。
僕は鍵盤に指を一気にたたきつけた。
――宏美と仲良くね――
という声が最後に微かに聞こえた気がした。
僕は冴子の横顔を見つめた。冴子の跳ね上げた腕がゆっくりと降りてきた。肩の力が抜けうつむいたままふぅと吐息を漏らした。
「冴ちゃん、踏ん切りがついたようね」
先生が冴子に優しく語り掛けた。
「はい。先生。ありがとうございました」
冴子は顔を上げて笑顔で答えたが、瞳はうっすらと濡れているように見えた。
「良い演奏だったわ。二人とも」
そう言って先生は僕たち二人を抱きすくめるように背中から肩を抱いた。
何だかまた懐かしい感覚が蘇ってきた。
もうこの冴子との距離感を味わえないのかもしれないな……と僕は思った。
そう、何故か僕はとてつもなく寂しい気持ちになっていた。何故だかわからないけど……。
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