北野坂パレット

うにおいくら

文字の大きさ
上 下
176 / 406
夏休みの部活

午後の練習

しおりを挟む

 その日は僕と拓哉は哲也が納得するまで、彼の演奏に付き合わされた。
哲也も冴子の演奏を聞いて何か感じる事があったようだ。ウジウジと考えていても仕方がないという事なんだろう。考えたところでチェロが上手くなるわけでもない。納得するまで弾くしかない。

「そろそろ終わろうか? もう六時やぞ」
拓哉が音楽室の壁時計を見ながらそう言った。流石の拓哉も疲れが出てきたようだ。

「ああ。もうそんな時間かぁ……」
哲也が呟いた。

「哲ちゃん、お前、そろそろコンクール準備せなあかんのやろ? 暫くは一緒に練習するのを止めよか?」
と拓哉が声を掛けた。

「いや、まだ大丈夫や。お前らと弾いている方が気がまぎれる」

「いや、それ、あかんやろ」
拓哉が突っ込んだ。

 哲也は無言だった。
まだこいつは逃げているのか? 現実を直視するのを怖がっているのか? と僕は思った。

 哲也は楽器を片付けながら
「ちゃうねん。お前らと弾いていると弾く事に没頭できるねん。余計な事を考えんようになんねん。でもな、一人で弾いているとどうも考えてしまう」

「いや、だからそれって逃げやろう?」
と拓哉がまたツッコんだ。

「ちゃう……いや。そうかもしれんなぁ……」
哲也はそういうとチェロケースをパタンと閉じた。

「亮平、お前はどうすんねん? コンクール出るんか?」
チェロケースを見つめたまま哲也は僕に聞いてきた。

「え? 俺かぁ……実は迷ってんねん。出ようかどうしようか」

「そうか。まだ決めてないんや」

「うん。一応申し込みは済んでんねんけど、もう一つ気分が乗らん」
と僕は正直に今の本音を答えた。

「そっか……」
哲也はそう言うとそれ以上この話題を続けなかった。

「哲也……お前が欲しいのは自分の音なんやろ?」
僕は哲也のその何となく寂し気な姿を見て、思わず声を掛けてしまった。

 僕の耳からずっと冴子が哲也に言った言葉が離れずに残っていた。

彼女は言った。
『これが私の音や!』

 そう、あのヴァイオリンの音色、あの旋律、全てが冴子の音だった。僕も初めて聞く冴子の本気の音だった。彼女は自分の音を見つけた。少なくとも自分だけのタッチを手に入れた。

「ああ……判ってんねん。そうや。俺には自分の音が無い。なぁ……亮平。お前はなんでそれを手に入れられたん?」
と哲也はすがるような目で僕を見た。
こんな表情の哲也を見たのは初めてだった。

「俺も手に入れた訳やない」
と否定したが
「そんな事はないやろ。お前のピアノはすぐにお前だと分かるわ。あの音はお前だけの音や。なんでそれがお前には在って俺にはないんや?」

「そんな事を聞かれても困るわ。俺にも分からん」
と僕は困惑しながら哲也に答えた。哲也には哲也の音色がちゃんとあると僕は思っていたが、彼はそういう風に自分の音色を見てはいなかった。

 哲也は助けを求めるように
「たっくん! お前はどうやねん?」
と聞いた。

「俺かぁ……俺は自分の音なんかないなぁ……まだそれでええと思っとるからなぁ」

「そうなん?」
と思わず僕が聞き返してしまった。

「ああ。俺はお前らみたいに上手くないからな。今は個性よりも正確な音を弾くので精一杯やわ……俺から言わしたら、哲っちゃんのは贅沢な悩みやな」
そう言うと自嘲気味に軽く鼻で笑った。

 それを聞いて哲也が言った。
「贅沢な悩みか……そうかもなぁ……今日な、冴子の音を聞いて震えたわ。正直、ビビったわ。あんな音を出すなんて信じられへんかったわ」
僕と拓哉は哲也のその言葉に頷いた。

「そんで、あのひとことは効いたなぁ……」
と哲也はしみじみとした声で言った。
冴子のひとことは本当に彼の心の奥底まで届いた言葉だったようだ。

「惚れたか? 哲也」
拓哉が笑いながら言った。

「うん……って、アホか、なんでそうなんねん」

「そうやな。お前には瑞穂がおるもんな」
と僕も哲也にツッコんだ。

「うん……って、アホ、それこそちゃうわ! 二段落ちさせるな」
そう言うと哲也も笑った。

「ふ~ん。そうかなぁ?」
と拓哉は哲也のいう事に納得していないようだった。僕も本当は哲也と瑞穂は良い感じの仲だと思っている。できればそこはもっと拓哉にツッコんでもらいたかった。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

校長室のソファの染みを知っていますか?

フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。 しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。 座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る

別れてくれない夫は、私を愛していない

abang
恋愛
「私と別れて下さい」 「嫌だ、君と別れる気はない」 誕生パーティー、結婚記念日、大切な約束の日まで…… 彼の大切な幼馴染の「セレン」はいつも彼を連れ去ってしまう。 「ごめん、セレンが怪我をしたらしい」 「セレンが熱が出たと……」 そんなに大切ならば、彼女を妻にすれば良かったのでは? ふと過ぎったその考えに私の妻としての限界に気付いた。 その日から始まる、私を愛さない夫と愛してるからこそ限界な妻の離婚攻防戦。 「あなた、お願いだから別れて頂戴」 「絶対に、別れない」

寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい

白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。 私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。 「あの人、私が

婚約者の幼馴染?それが何か?

仏白目
恋愛
タバサは学園で婚約者のリカルドと食堂で昼食をとっていた 「あ〜、リカルドここにいたの?もう、待っててっていったのにぃ〜」 目の前にいる私の事はガン無視である 「マリサ・・・これからはタバサと昼食は一緒にとるから、君は遠慮してくれないか?」 リカルドにそう言われたマリサは 「酷いわ!リカルド!私達あんなに愛し合っていたのに、私を捨てるの?」 ん?愛し合っていた?今聞き捨てならない言葉が・・・ 「マリサ!誤解を招くような言い方はやめてくれ!僕たちは幼馴染ってだけだろう?」 「そんな!リカルド酷い!」 マリサはテーブルに突っ伏してワアワア泣き出した、およそ貴族令嬢とは思えない姿を晒している  この騒ぎ自体 とんだ恥晒しだわ タバサは席を立ち 冷めた目でリカルドを見ると、「この事は父に相談します、お先に失礼しますわ」 「まってくれタバサ!誤解なんだ」 リカルドを置いて、タバサは席を立った

十年目の離婚

杉本凪咲
恋愛
結婚十年目。 夫は離婚を切り出しました。 愛人と、その子供と、一緒に暮らしたいからと。

あなたの子ですが、内緒で育てます

椿蛍
恋愛
「本当にあなたの子ですか?」  突然現れた浮気相手、私の夫である国王陛下の子を身籠っているという。  夫、王妃の座、全て奪われ冷遇される日々――王宮から、追われた私のお腹には陛下の子が宿っていた。  私は強くなることを決意する。 「この子は私が育てます!」  お腹にいる子供は王の子。  王の子だけが不思議な力を持つ。  私は育った子供を連れて王宮へ戻る。  ――そして、私を追い出したことを後悔してください。 ※夫の後悔、浮気相手と虐げられからのざまあ ※他サイト様でも掲載しております。 ※hotランキング1位&エールありがとうございます!

[R18] 激しめエロつめあわせ♡

ねねこ
恋愛
短編のエロを色々と。 激しくて濃厚なの多め♡ 苦手な人はお気をつけくださいませ♡

結婚して四年、夫は私を裏切った。

杉本凪咲
恋愛
パーティー会場を静かに去った夫。 後をつけてみると、彼は見知らぬ女性と不倫をしていた。

処理中です...