青色のマグカップ

紅夢

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青色の陶器

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 バーレントン・レーンを東に向かって歩いて行くと、大きな野原の、太陽が気持ちよさそうな公園が見えてくる。
 でも毎月第一日曜日は緑色の野原が、黒とか銀色とかで埋め尽くされる。
 この日はたくさんの車が並んでブーツ(トランク)を開け放ってはいらなくなったいろいろな品物を売りあう蚤の市になる。
 チズウィック・カーブーツセール――今日は私にとって宝物のような日。
 初めてお父さんに連れてきてもらってから、ずっと色褪せない思い出。
 古いものを大切にするこの地域の人たちが大きな家具から小さな日用雑貨までをずらりと並べて思い出や宝物を共有する、この日だけの特別な空気が私は好きだ。
 そこに紛れ込む本物のお宝を見つけるのはちょっとした冒険だ――私のおこずかいでは到底手が届かないけど。
 市場に向かって歩く道も、私の好奇心とちょっとの期待を高めてくれる隠し味になってくれる。
 今日は何から見ようか、とか。裏から回って見るか正面から入るか、とか。かわいい食器が売っていたら買えたらいいな、とか。
 今日は正面から入ってマグカップを最初に見よう。
 公園に入ったわたしは馴染みのブーツの前に立つと、色とりどりのマグカップやティーセットを眺めた。
 それらは決して鮮やかなものだけでなく、くすんでいたり少し剥げていたり、欠けていたり。
 そういった物語を販売主から聞き出せれば、それはまた一つの宝物になる。
 でも、今日はその本棚より目を引くものがあった。
 隣に並んだおじいさんが、熱心にマグカップを眺めていた。
 茶色の帽子と赤いマフラーの間にある青色の瞳が、刻まれたシワをきゅっと深くして、一つ一つのマグカップを見ている。
 それは、宝石の山から一つのガラス玉を探すよう。
「お嬢さん、もしよろしければそのマグカップを見せてもらっていいかな?」
 そんなおじいさんが私に話しかけてきた。
 おじいさんの視線の先には私が持っていた青色の陶器のマグカップがあった。
 形も普通の、模様もないマグカップ。
 ただ、おじいさんの瞳のような淡い青色が私の目を惹いた。
「ええ。どうぞ。」
 私からマグカップを受け取ったおじいさんは、何かを確かめるようにじっくりとそれを眺める。
 手触りを確かめ、重さを確かめ、そして鏡を覗き込むようにじっくりと色を見ていた。
 私はその仕草に言いようのない興味がそそられていた。
 しかし、しばらくマグカップを眺めていたおじいさんは「ああ、これも違う」と小さく嘆息すると。
「ありがとうお嬢さん。」
 と、私にマグカップを返してそのまま別の場所へ向かおうとした。
「探し物ですか?」
 私はおじいさんの、その見た目よりも小さくなった背中に思わず声をかけていた。
「もしよろしければ、私にもお手伝いさせていただけないでしょうか。」
 それは、純粋な善意というより、あくまで個人的な好奇心からのもの。
 それでも私は、おじいさんが探している宝石よりも価値のある宝物が気になったのだ。
「お嬢さん……そうだね、少し昔話に興味はあるかい?」
 振り向いたおじいさんは少しだけ開いた目を元の大きさまで戻すと、頷く私についてくるように示した。
 私は公園の中心より少し離れた野原のベンチに腰を掛けた。
 中心から離れると人もブーツも少なくなり、開けた野原を駆け回る子供たちの合間を縫って差し込む、少し傾いた日差しが心地いい。
 少し経つと、車の山から現れたおじいさんが私の方に向かってきた。
 両手には湯気を立てるコップが握られている。
「どうぞ。」
「ありがとうございます。」
 それはホットレモネードだった。
 二人で並んでそれを飲む。ゆっくりと持ち上がる湯気を通して霞む、隣のおじいさんの青い瞳がゆっくりと閉じられていく。
 それが再び日の光を浴びた時、おじいさんは静かに問いかけた。 
「どうして、私の陶器探しを手伝おうなんて思ったんだい?」
 その質問に、私は特に隠すことなく答えた。
「気になったからです。おじいさんが探している物が。どうして探しているのかが。」
「そうか……」
 おじいさんはほう、と白い息を吐いた。
「おじいさんは、どうして?」
 私は聞き返した。
 弾かれたように湧き出した私の衝動を、あまりにもすんなりと受け入れてくれたのは、嬉しいようでいて少しだけ不安にも思えた。
「お嬢さんなら、見つけられるような気がした、からかもしれない。実のところ、私にもよくわからないんだ。」
 おじいさんは、それから一呼吸の間をおいてゆっくりと語りだした。
 おじいさんの語る昔話は、まるで夜の静かな波間のような低く響く声にのせて、私をその世界に誘った。


 私が探しているのはお嬢さんも知っての通り「青い陶器のマグカップ」だ。
 それは今からすればずっと昔、ちょうど今日みたいな蚤の市の日にここで私が買ってもらったものだったはずだ。
 今はもういない。私の妻がね。
 あなたの瞳と同じ色だなんて言って、一つ私に買ってよこしたんだ。
 銘もなければ、これと言った特徴もない。形も普通のマグカップ。
 だがそれは驚くほど私の手になじんだ。ちょうどいい大きさで、軽くて、持ちやすい。
 何より淡く塗られた単色の青が、私も嫌いではなかった。
 だから私も妻に買ってあげようとしたんだ。
 そう、マグカップは二つあった。ちょうど二つだけ、同じものが売り出されていたんだ。
 だが、私の妻はそれを拒んだ。
「青は私に似合わない。」
 そんなことを、彼女は言っていた気がする。
 だが、これが間違いだった。
 

「間違い?」
「ああ……少し、歩こうか。」
 おじいさんは私が手に持っていたコップを見て、それから自分が飲んだホットレモネードのコップを見てそう言った。
 私たちは二人で空になったコップをレモネード屋さんに返すと、正午をすぎて少しだけ人の減った市場を歩いて、横目で陶器のマグカップを眺めた。
「どうして、私がお嬢さんの手伝いを認めたかって聞いてたね。」
「はい。」
 おじいさんは少しだけ歩く速さをゆっくりにすると、横を向いた。
「よく似ているような気がしたんだ。」
 そう言うおじいさんの目は、決して何かを見ていた訳じゃないだろう。
 遠くを見ているようで、近くを見ているような。まるでアルバムを一枚一枚めくっているような目。
「私が、奥さんにですか?」
「そうかもしれない。でも、そうじゃないかもしれない。」
 それからおじいさんは、ふうと一つ息をついた。
「実を言うとね……あんまり覚えていないんだ。」
 私の足は、私がそうと気づくより先に止まっていた。
「驚かせてしまったかい。お嬢さん。」
 おじいさんはそう言って振り返ったが、青色の瞳は私を見ているようで、私を見てはいなかった。
 それから、また二人で座って話をした。
 おじいさんはさっきと同じようにゆっくりと「宝物」の話をしてくれた。


 青色のマグカップは、実際想像以上に私の手になじんでいた。
 お茶の時間は必ずそれを使って、擦り切れるほど手触りを確かめて、色を目に焼き付けた。
 そして、その青色の陶器の向こうには、必ず妻の笑みがあったように思う。
 あのお茶の時間は、まさに宝物だった。
 今にして思う。あの時間は、羽のように軽いあのマグカップがもたらしてくれたのだと。
 妻が亡くなり、一人で過ごす時間が増えた後もあのマグカップが私の心の足りない何かを埋めてくれたように感じる。
 だが、その時間も長くは続かなかった。
 愚かな私は、自らの不注意でそのマグカップを割ってしまったのだ。
 それはもう、直すこともできないほどに。
 四つだか、五つだかに別れた陶器の前で、私は茫然とした。
 私の記憶を、宝物と呼ばれる思い出を自分の手で壊したような気分だったよ。
 それから、一週間か、一ヶ月か――記憶は曖昧だが私はあることを思い出した。


「マグカップは二つあった……」
 私は自分で確認するように、ぽつりと静かに呟いていた。
「そう、この蚤の市で確かにマグカップは二つ売られていたんだ。誰かが買ったかもしれない。もう売られないかもしれない。だが、私は今でもこうしてこの浅はかな希望にすがっている。」
 建物の向こうに沈んでいく西日を眺めながらおじいさんはそう言った。
 その夕日はまだ決して地平線には沈まない。だがこの街からはもう沈もうとしていた。
「それが、おじいさんの探し物?」
 おじいさんは私の方を向いて、何かをこぼさないようにこらえながらほほ笑んだ。
「かも、しれない。」
 両の手を開き、まるでその空間に何かを掴むようにそっと包む。
「最近、ここでマグカップを探していると思うことがある。」
 重さを確かめるように両手を上下に動かし、質感を確かめるようにそっと撫で、目に焼き付けるようにまなざしを向ける。
「私が探しているはずの陶器のマグカップは、果たしてどんな色をしていただろう……私が探していたマグカップは、どんな重さだっただろう……どんな手触りで、どんな大きさだっただろう……そう思うんだ。」
 家々の隙間から辛うじて差し込んだ強い日差しで、おじいさんの顔は見えない。
 けれど私には、そのなんとも言えない虚無を感じる声に――おじいさんが語る儚い空虚に――手に包んででもすがろうとする僅かな希望に、狼狽せずにはいられなかった。
「家に帰って割れたマグカップを見て、触って確かめても、最近では昔のような感覚がない。まるで別のものに触れているような感覚になるんだ。そのうちに、いつか妻に買ってもらった思い出や、お茶をした記憶も薄れ、どこからが私の宝物だったかも怪しく感じ始めた。」
 私はたまらず声を上げていた。
「でも、おじいさんは――私に、そう説明しました。」
 おじいさんは両手を強く握った。
「そうだね。私自身、あの記憶が間違っているはずがないと信じている。でもね――」
 そして、耐えきれなくなったかのようにぱっと両手を開いた。
「ある日、よく似たマグカップを見つけて、代わりにでもなればと思って買ったことがある。それで、家に持ち帰ってわかったんだ。その陶器はまるで似ていないと。」
 力を入れていた両手は、少し震えていた。
 言葉を無くした私におじいさんは優しそうなまなざしを向けた。
「老人の長話に付きあってもらってありがとう。さあ、もう暗い。帰った方がいい。」
 おじいさんの目は、思い出を語る目とは違う色をしている。それは決して、公園でぽつり、ぽつりとともり始めた橙色のせいではないだろう。


 最後に。
 家路に付こうとする私の背中に、おじいさんは静かに言った。
「私はね、この消えていく宝物も――決して悪くはない思い出なんじゃないかと、最近はそう思い始めているんだよ。お嬢さん。」
 その言葉の意味は、まだ私にはわからなかった。

                              Debussy - Rêverie                     
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