気分は基礎医学

輪島ライ

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2021年10月 大人のカンケイ

第5話 話し合いの場

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「カナちゃん、どうしよう。俺、チューター辞めなあかんかも知れん」
「えっ、どゆこと?」

 2021年11月。CBTもPre-CC OSCEも終わり、残った4回生の定期試験に向けて自宅で勉強を続けていたうちのもとを涙目になった珠樹が訪ねてきた。


「この前の京大医学部志望の女子生徒が自宅でリストカットをしたらしくて、親が校舎まで怒鳴り込んできてん。娘は男性チューターに質問対応を拒絶されて傷ついた、娘は純粋にチューターを慕っていただけなのに気持ちを踏みにじられたって言って騒いだらしくて、俺はしばらく出勤するなって塾長先生に言われた。もちろん塾長は言いがかりやって分かってくれてるけど……」
「大変やったね。でも珠樹がそれでクビになったりはせんやろ?」

 大変な事態になってもうたのは確かやけど珠樹には何の落ち度もないはずやと思った。


「普通はそうやねんけどその子の実家は近くの病院で、地元で校舎の悪口を言いふらされたら困るんやって。もし俺が辞めて向こうが満足してくれるんやったらそれが一番無難やから。塾長先生が何とか本人と親を説得してくれてるけど、北辰本部まで告げ口されたら俺は多分クビやわ」
「そんな無茶苦茶な……」

 口ではそう言ったけど、フランチャイズで全国展開されている大手予備校である北辰にしてみれば時給950円のチューター1人を解雇して事態が片付くのであればそうしたいというのが正直な所だろう。

 それでも、北辰のチューターという仕事を愛している珠樹が居場所を奪われるのはどうしても見ていられなかった。




 その翌日。うちは大学のオンデマンド映像講義を受け終えてから北辰の天王寺校に電話をかけた。

 電話に出た女性のチューターさんに名前と身分を伝え、塾長先生に相談させて頂きたいことがあると伝えるとチューターさんは事情を察して電話をつないでくれた。


『生島先生の従姉いとこさんですね。この度は本当に申し訳ございません。従姉さんには何とお詫びすればよいか……』
「いえいえ、今回は先生も校舎も被害者ですから。それより珠樹は本当に仕事を辞めないといけないんですか?」

 電話に出た塾長先生は開口一番に謝罪してきて、うちは先生に同情しつつ本題に入った。

 北辰天王寺校の真崎まさき塾長とは彼が受験生の珠樹を「珠樹君」と呼んでいた頃にも会って話したことがあり、塾長もうちのことはよく知っていた。


『まだそのような決定は下されていませんし、わたくしどもは生島先生には何の落ち度もないと理解しております。万が一先方が北辰本部にクレームを入れ、本部から事実確認があった場合は断固として生島先生の無実を訴えますが、本部より生島先生を解雇するよう命令が下った場合はそれに従わざるを得ません。ですが……』

 塾長先生は強い口調でそこまで言い、さらに言葉を続けた。


『生島先生はわが天王寺校にとってただのチューターではないのです。生島先生は私立文系大学に通っていながら5教科すべてを教えられ、なおかつ医学生並みに各教科を理解していますし、業務態度も極めて勤勉で非の打ち所がありません。彼は現在例の女子生徒以外にも7人の生徒を担任指導しておりまして、生島先生に辞められると生徒たちは本当に困ります。ですのでどうにか女子生徒と保護者の方を説得して生島先生を守りたいのです。それでも力及ばずとなった時は申し訳ありません……』
「そうですか……」

 女子生徒が起こした自傷行為とその保護者からのクレームには天王寺校全体が困っているらしく、その後の会話によると珠樹が現在出勤自粛となっていることだけでも生徒たちは困っているそうだった。


「塾長先生、これは駄目元で聞くんですけどうちがその女子生徒と会って話をさせて貰うことはできますか?」
『従姉さんがですか?』

 珠樹から聞いた話ではその女子生徒は珠樹が従姉と付き合っていることに強い不満を持っていたらしく、事態がこじれた原因がうちにあるなら直接会って話し合いをしたいと思った。


「うちが珠樹と付き合っていることがその子を傷つけたなら、どうしてそこまで傷ついたのかを聞きたいんです。どうせ珠樹がクビになるならせめて話し合いだけでもさせて欲しいです」
『分かりました。本来は校舎の関係者以外を生徒に会わせることはできないのですが、事態が事態ですから塾長責任で認めます。日程を相談させて頂き、私と生島先生、従姉さんとその生徒の4名で話し合いの場を設けます』

 塾長先生はうちの提案を了承してくれてそれから打ち合わせを行った結果、うちは定期試験が終わってすぐの土曜日に北辰天王寺校を訪れることになった。

 時間帯は後日連絡しますと言った塾長先生に感謝を伝えて電話を切ると、うちは珠樹を守るための戦いに向けて覚悟を決めた。
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