気分は基礎医学

輪島ライ

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2019年7月 微生物学基本コース

120 ラブハート・エスカレーション

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 その1年後、俺は三浪目の受験でようやく私立の畿内医科大学に合格した。流石に四浪は困るので国公立大学合格を捨てる覚悟で研究医養成コース入試に出願し、定員割れしていたこともあって無事に正規合格を勝ち取ることができた。

 その一方で美波は二浪目の受験でも医学部にはどこにも受からず、唯一合格できたのは親の勧めで併願していた畿内歯科大学の歯学部歯学科だけだった。

 模試ではいつも美波の方が成績がよく畿内医大にも京阪医大にもC判定の成績は安定して取れていたので、彼女がどこの医学部にも受からなかったのは意外だった。


 美波は親にもう1年浪人させて欲しいと懇願したが、その理由は俺と同じ大学に入りたいからだと話してしまったために両親は娘のこれ以上の浪人を許さなかった。

 朝から母親と言い争ったがどうあがいても畿内歯科大に入学することは確定しており、平日の昼間から家を飛び出した美波は両目を涙でらして俺の自宅を訪ねてきた。


「……もういい、泣くな美波。元々同じ大学に行けなかったら別れる約束だったじゃないか」
「だって、だって……私、まれ君と離れたくない。遠くの大学に通う訳じゃないし、このまま付き合ってよ」
「俺だって本当はそうしたいよ。でも君なら大学でもっといい男を見つけられるし、後で別れることになるぐらいなら今決断した方がいいと思うんだ」
「そんなこと言って、まれ君こそ医学生になるからってもっといい女の子と付き合いたいんでしょう」

 俺の部屋のベッドに腰かけてぐすぐすと泣く美波を見て。

 俺は、絶対にこの子を失いたくないと思った。


 両親よりも弟よりもこの世の誰よりも、俺は美波が愛おしかった。

 本当なら今すぐこのベッドに押し倒して、彼女と結ばれたかった。


「そんな訳ないじゃないか。この世界に美波より優しくてかわいくて、俺のことを好きでいてくれる女の子がいるはずがない。だからこそ俺は君の自由を奪いたくないんだ」
「……」

 付き合い始めてもうすぐ2年になるが、本当はずっと彼女を抱きたかった。

 美波からアプローチしてくれたことも何度もあって、俺はそうしようと思えばいつでもそうできる状況にあった。


 だが一度でも彼女を抱いてしまえば、同じ大学に入れなかった時に俺の存在が彼女の将来を束縛してしまうことになる。

 だからこそ俺は、同じ大学に入れるまでは身体の関係を持たないと決めていたのだ。


「俺みたいに不細工で頭も悪くてあんな親父のいる男は、君には相応ふさわしくない。こんな男のことはさっさと忘れて、畿内歯科大で素晴らしい歯医者さんになってもっといい男を見つけるんだ。その方が絶対に君のためになる」

 本当はこんな台詞を言いたくないし、別の大学に進学しても交際を続けて欲しいと自分から頼みたかった。

 でも、俺は美波を愛しているからこそ彼女を自分に縛りつけたくなかった。


 しばらく沈黙した後、美波は静かに口を開いた。


「じゃあ、まれ君。……私から、最後に一つお願いがあるの。聞いてくれる?」
「もちろんだ。俺にできることなら何でもやるよ」

 申し出を承諾した俺に、美波は悲しげに微笑むと、


「今からここで、私を抱いて。別れる前に、私たちが愛し合っていた証拠を残したいの」

 真剣な口調でそう言った。


 その瞬間、俺の頭の中の制御装置が外れた。

 美波をベッドに押し倒し、それからは意識がどこかに飛んだ。



 家族のいない平日の昼間、一緒にシャワーを浴びた後、美波は笑顔で手を振ってそのまま去っていった。

 最後に取り返しのつかないことをしてしまったという自覚はあったが、俺の中で彼女への愛情がエスカレートしていくのを感じた。


 その日の夜に彼女の両親が突然自宅に怒鳴り込んできて、気づいた時には俺は美波と婚約させられていた。


「まれ君、お互い大学生になってからもよろしくね」

 婚約を記念してその日は俺の実家に泊まることになり昼間の会話などなかったかのように明るく振る舞う美波の姿を見て、俺は彼女に騙されたということは理解しつつも、


「ああ、もちろんだ。愛してるよ、美波」

 これでよかったのだと、心の底からそう思った。
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