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少年の子犬と魔王オメガ

20.子犬の熱

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 バカンスから戻って、夏から秋になり、冬が近づくと、リコスの様子がおかしくなった。魔術の練習で庭に出ていると、顔を真っ赤にして、がたがたと震えて座り込んでしまう。

「どうした、リコス?」
「なんだか、寒いの……頭も痛くて」

 立ち上がれないリコスをルヴィニが抱き上げると、その体が発熱しているのが分かった。熱い。普段も体温の高いリコスだが、それと比べ物にならないくらい熱い。

「きもち、わるい、かも……」
「誰か! リコスが大変だ!」

 屋敷に駆け込めば、リコスの母がリコスをお手洗いに連れて行く。げほげほと咳き込む音と、嘔吐する音が響いて、ルヴィニは青ざめた。口をゆすいで出て来たリコスを母がベッドに寝かせて、水分をとらせようとするが、気分が悪いのかリコスはぐったりとして身体を起こせない。

「リコスが、私のリコスが死んでしまう!」

 転んで膝を擦り剝いたときには、こんなに酷くはなかった。
 怪我は痛々しかったが、そのうちに治ると言われて落ち着いた。
 しかし、今回はリコスは胃の中のものを吐いてしまって、水も飲めないような状態なのである。ものすごく重篤な病に罹ってしまったのだろうと、ルヴィニは慌てた。

「国中の医師と薬師を集めさせろ!」
「ルヴィニ様、ただの胃腸風邪です」
「私のリコスが死んでしまう!」

 赤ん坊の頃に魔女に拾われたルヴィニは、奇跡のような健康体で、物心ついてから一度も寝込んだことがない。発情期ですらなくて、定期的に発情期が来るようになると体調が狂うので嫌なくらいだが、それ以外に風邪を引いたことも、腹を下したこともない。
 食事はあまりとらなくてもいいように魔術で調整していたが、口に入れたものを吐いたりしたこともなかった。
 熱があって、吐いて、水分補給もできない。華奢なリコスにとっては、それは命の危機に繋がるのではないだろうか。
 細い手を握って、涙ながらにルヴィニがリコスに縋り付く。

「私を置いて行かないでくれ。死なないで」
「おれ、死ぬの……?」
「私の大事なリコスを死なせたりしない。国中の医師と薬師と私の魔術を用いて、どんな手を使ってでも生き延びさせてしまう」
「ルヴィニ様……おれ、死にたくない」

 ほろほろと琥珀色の目から涙が零れる。いつもぴんと尖って可愛らしい三角のお耳も、今日はへたりと元気がない気がしてならない。
 深刻に手を取り合っているルヴィニとリコスを引き離したのは、リコスの母だった。

「死にません。ただの胃腸風邪です」
「だが、水も飲めないのだぞ?」
「ルヴィニ様にうつると大変だから、部屋から出ましょうね」
「なぜ私とリコスを引き離す!? リコスー! 私が必ず助けるからー!」
「だから、ただの胃腸風邪なんですって」

 部屋から押し出されてしまったルヴィニは、ドアの前で座り込んで膝を抱えてしくしくと泣いていた。自分が孤独だということすら知らなかったルヴィニの元にやって来てくれて、寂しさを教え、一人ではないことを教え、共にいる喜びを教えてくれた可愛い可愛い子犬のリコス。
 最初に来たときよりも大きくはなったが、まだ少年らしい細い華奢な体付きで、体力があるかどうかは分からない。ただの胃腸風邪とはいっても、体力のないものの命は容赦なく奪ってしまうのではないだろうか。

「えーっと、何で泣いてるか聞かないといけない流れか?」
「アツァリ! 私のリコスが、胃腸風邪で死にそうなんだ」
「胃腸風邪で死ぬ奴はなかなかいないな」
「リコスはあんなに小さくて細いのだぞ。水も飲めないなんて、死んでしまう」

 泣きながら自分では親友と思っているアツァリに縋り付くと、そっと手を外される。お互いオメガ同士なのだし、気にしなくてもいいのにと思うが、既婚者のアツァリは、エリャ以外に触れられることを望まないのだろうとルヴィニは自分を納得させた。

「胃腸風邪に効く薬草があったはずだ。あんたなら、薬草保管庫から持って来てもいいだろう?」
「薬……そうか。ありがとう。私がリコスを救う!」

 礼を言って、アツァリと別れ、ルヴィニは薬草の保管庫に行く。魔王の登場に、薬草保管庫で働いていた使用人たちが、頭を下げる。

「リコスの薬を調合しに来た。薬草を揃えて欲しい」
「リコス様がお病気ですか? どのような症状なのでしょう?」
「胃腸風邪とリコスの母は言っていたが、熱があって、嘔吐して、起き上がれないし、水も飲めないのだ」
「……胃腸風邪ですね」

 あっさりと答えられて、使用人が薬草を揃えてくれる。それを乳鉢ですり潰し、調合して、煎じて、出来上がったものを、ルヴィニはリコスが飲めるかどうか、毒見のつもりで別の容器に入れて一口飲んでみた。

「まずい……どうしよう。リコスは水も飲めない状態なのに、こんなまずいものが、喉を通るわけがない」
「薬湯は美味しいものではないですからね」
「ジュースと混ぜてみるか……」
「それだけはやめた方が」

 使用人のツッコミは全く耳に入らず、ルヴィニはオレンジジュースと薬湯を混ぜてみた。

「オレンジジュースの甘酸っぱさが、薬湯の苦さを助長して、柑橘系の渋みまで出して……更にまずい!」
「ですから、混ぜない方が……」
「次はリンゴジュースだ!」

 リンゴジュースと混ぜると薬湯の青臭さが強調される挙句、リンゴの甘みが薬草のえぐみを際立たせて、最悪の後味になった。
 様々なジュースと混ぜてみたが、どれも味が酷くなるばかりで、ルヴィニは座り込んでしまう。

「リコス……私はあまりにも無力だ……リコスと結婚する資格がない」
「そこまでは……」

 がっくりとうなだれたルヴィニだが、薬草保管庫に来てくれたアツァリの顔を見て、涙でごしゃぐしゃの顔を上げた。

「リコスが目を覚ましてアンタを呼んでる」
「すぐに行く!」

 泣いている場合ではない。
 ルヴィニはリコスのために最善を尽くさねばならない。それが良妻というものではないのだろうか。
 駆け付けたルヴィニが部屋に入ると、リコスは少し顔色が良くなって、身体も起こせるようになっていた。

「リコス、平気か?」
「ちょっと元気が出てきたの。晩ご飯は食べられるかも」
「リコスのために、飲みやすい薬を作ろうとしたのだが、私はあまりにも無力で……」

 何も混ぜていない薬湯の入った瓶を差し出すと、リコスは華奢な両手でそれを受け取った。

「おれのために作ってくれたんだね。ルヴィニ様、大好き」
「それは、とても苦くて、えぐくて、まずいのだ……飲めなかったらすまない」
「ううん、おれ頑張る。ルヴィニ様が作ってくれたものだもん」

 瓶の蓋を開けて、リコスがそれに口を付ける。はらはらと手に汗を握って見守る中で、リコスはそれを全部飲み干した。

「おいしくはなかったけど、ルヴィニ様の気持ちが籠ってたの」
「リコスのためならば、何度でも作ろう」

 抱き締め合おうとする二人を、リコスの母がそっと引き離す。

「うつってはいけませんから、明日までは我慢ください」
「リコス……共に寝たいのだが」
「我慢ください!」

 一緒に寝ることも許されず、その夜はルヴィニは一人でベッドに入った。布団を被ってもリコスの苦しそうな顔が浮かんできて、眠れない。
 不老不死を望むような愚かな魔王ではないが、不老長寿の魔術は使っている。それをリコスに使うのは、まだ成長途中なので早すぎるが、こんな風に失いそうになる恐怖を覚えるくらいならば、使ってしまった方がいいかもしれない。
 不穏な思考が脳内に生まれた瞬間、バンッと部屋の扉が開いた。触手のエリャに吊るされると身構えているルヴィニの横に、エリャはそっと大事に抱いてきたものを置いた。
 寝ぼけまなこの、パジャマ姿の可愛いリコス。

「お熱も下がったし、母さんも説得したの。ルヴィニ様、もう泣かないで」

 小さな手で頬を撫でられて、ルヴィニは自分が涙を流していたことに気付く。
 もう少し大きくなるまで、リコスの時を止めるようなことはしてはいけない。そう言われた気がして、ルヴィニはリコスを抱き締めて眠った。
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