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八章 奏歌くんとの八年目
7.私はロベスピエール
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劇団ではお客様から食べ物や花のプレゼントは受け取っていない。お手紙だけは受け取ってもいいことになっている。
劇団員はお客様からのお手紙に癒され励まされるのだが、そのお手紙も私たち劇団員が見る前にそれぞれのマネージャーさんがチェックしてくれる。あまりに酷い内容や、嫌がらせのお手紙である可能性もないわけではないからだ。繊細な劇団員はお手紙の内容で傷付くこともあるし、私のような鈍い劇団員でもお手紙の内容があまりにも酷いと落ち込んでしまう。それをマネージャーさんたちは事前に防いで、私たちを守ってくれているのだ。
劇団に届いたお手紙の中で不穏なものがあったのを見つけたのは津島さんだった。
その前にSNSに投稿された妄想を見ていたから、津島さんはすぐに私にそのことを教えてくれた。
「『千秋楽に迎えに行く。遂に私たちの関係は公になる』というような内容で、海瑠ちゃんを攫う予告だと思っています」
「私のことを攫う……」
「消印が押されていないので、劇団に直接届けたのでしょう」
警察にも介入してもらって、警戒に当たってもらうことにしたが、警察というのは事件が起こってからしか大々的には動けない。千秋楽から帰る時間に見回りを増やす程度のことしかできないと言われて、津島さんも私も気落ちしてしまった。
「百合に送り迎えをしてもらっているんですが、百合にまで被害があったら……」
「百合ちゃんにも警戒してもらわなければいけませんね。しばらくは私が送り迎えをしましょうか」
「津島さんはお子さんのことがあるでしょう」
保育園にお子さんを預け始めた津島さんの負担にならないようにしたいと思っていると、園田さんが助け舟を出してくれた。
「私が海瑠さんのマンションに寄って行きますよ」
「ありがとうございます」
「帰りもしっかりと送って行きます」
千秋楽まで気が抜けない公演になってきた。
舞台ではいつも通りに振舞うが、それ以外では緊張感に溢れる生活になった。マンションの部屋に戻ると奏歌くんのスープかお味噌汁の匂いがして、ご飯が炊ける甘い香りがするのが、唯一の私の癒しだった。
休みの日もほとんど外に出ないままでマンションで過ごす。
仕方がないので演劇の資料の本や、趣味のエッセイなどを読んで過ごしていた。脚本家さんのエッセイを読むと、海香の気持ちが分かるかと思ったのだが、お洒落な暮らしを綴っていて、海香とは違い過ぎて参考にならなかった。
「海瑠さんー! 大丈夫だった?」
部屋でゆったりと過ごしていると昼過ぎに奏歌くんがやって来た。手にはスーパーで買い物をしたエコバッグが下がっている。
「奏歌くん、いらっしゃい。今日はお休みだったの」
「そう思って、美味しいもの作ろうと買い物して来たよ」
レシートを出して奏歌くんが玄関脇に置いてあるがま口で清算している。こういうところも奏歌くんは頼りになるのだ。
使ったお金はレシートをノートに貼って、家計簿までつけてくれていた。
「マグロの中落ちが安かったから、マグロ丼にしようかなと思って」
「マグロ丼! すごく贅沢!」
「確か冷凍庫に前のイクラの残りがあったでしょ?」
冷凍庫をあさって奏歌くんはイクラの瓶を探し出した。
ご飯が炊ける間は奏歌くんはテーブルで勉強をして、私も大人しく傍で本を読んでおく。フランス革命について書かれた本を読んでいると新しい発見がある。
公安委員会に迎えられたロベスピエールの恐怖政治から、ロベスピエールが孤立していき、処刑されるまでの物語を読んでいくと、今回の演目の影の主役ともいえるロベスピエールの姿が詳細に感じ取れる。
読んでいると奏歌くんが勉強を終わらせて、キッチンに立った。キッチンからお出汁のいい匂いがしてくる。
「海瑠さん、おやつも食べなかったし、早めに晩ご飯にしちゃおう」
「おやつ! 忘れてた! ごめんなさい」
「いいよ、ご飯がその分美味しいよ」
おやつも忘れて本に熱中していた私を奏歌くんは責めなかった。
マグロの中落ちの漬けとイクラの海鮮丼に、具沢山のお味噌汁、糠漬けも添えて、晩ご飯が出来上がる。熱々の炊けたてのご飯に乗ったマグロの漬けとイクラが美味しくてあっという間に食べてしまう。
食べてから私は自分がこんなにお腹が空いていたのだと実感した。
「お腹いっぱいになった。幸せー」
「海瑠さん、最近大変そうだから」
優しく言ってくれる奏歌くんに感謝する。舞台だけでなく、舞台に関する資料を読むときにも私は集中しすぎて空腹を忘れてしまうようだった。
帰り際に奏歌くんが私に言ってくれた。
「千秋楽の日は、やっちゃんにお願いして、僕も行って、ちゃんと海瑠さんをマンションまで送り届けるから!」
安心してと言ってくれる奏歌くんは本当に頼りになる。胸がきゅんっとするような男前ぶりに私は奏歌くんに見惚れていた。
秋公演の日程は警戒しているのもあって平和に過ぎて行った。
千秋楽には警察が見回りに来てくれている。
「最後まで走り抜けられたのは皆さまの暖かな応援のおかげです。本当にありがとうございました!」
何度も繰り返すカーテンコールの中深々とお辞儀をして、私は秋公演を終わらせた。
楽屋で着替えて化粧を落として、薄化粧に変えてバッグを手に取る。楽屋の前の廊下ではやっちゃんと奏歌くんが待っていてくれた。
「海瑠さん、お疲れ様。今日は気を付けて帰ろうね」
「うん。やっちゃんも奏歌くんもありがとう」
「みっちゃんが危険だって言うなら仕方ないからな」
やっちゃんが車を劇団員出入口まで持って来てくれることになって、それまで奏歌くんと二人で待っていることにしたのだが、車が来た気配で出入り口から出ると、やっちゃんのごつめの四駆ではなく、高級そうなスポーツカーが停まっていた。
「海瑠、迎えに来たよ」
ドアを開けて出てきたのは小奇麗なスーツを着た男性で、私は思わず奏歌くんの後ろに隠れた。奏歌くんが自分より背の高い男性を見上げて睨み付ける。
「あなた、誰ですか?」
「海瑠の婚約者だよ」
「違うでしょう! 海瑠さんに婚約者なんていない」
いるとすれば奏歌くんなのだが、年齢的にまだ婚約できる年でもないのでそこは黙っておく。
「劇団の規則で公にできなかっただけなんだ。海瑠はずっとこの日を待っていてくれた」
「海瑠さんはあなたと会うのは初めてですよ」
「いや、何度もデートして、結婚の約束をしたんだ」
奏歌くんを押し退けようとするその男性に、奏歌くんが動かないでいると、男性は奏歌くんの頬を手の甲でぴしゃりと打った。
奏歌くんに暴力を振るった!?
怒りで目の前が真っ白になる私に、奏歌くんは冷静だった。
「警察官さんー! 不審者が来てますー! 海瑠さんが危ないですー!」
大声を上げて奏歌くんが騒ぐのに、男性が舌打ちをして「海瑠、また来るからね」と車に乗り込もうとするのを、私は追いかけてしまった。
「海瑠、来てくれたのか! 一緒に行こう!」
「奏歌くんを、叩かないで!」
怒りに任せて放った蹴りが、車の後輪に当たった。パンッと大きな音を立ててタイヤが破裂する。
「ひぇ!?」
驚き腰を抜かす男性に私は怒りのまま怒鳴りつけた。
「二度と私に近寄るな! 私の大事なひとを傷付けるんじゃない! もう一度顔を見せたら、破裂するのはタイヤじゃなくてお前の内臓かもしれないな!」
お前をギロチンにかけてやる!
そのときの私はロベスピエールの心境だった。脅しの言葉もすらすらと出てくる。
腹の底から出された怒号に腰を抜かした男性は、駆け付けた警察官に捕らえられた。
「みっちゃん……タイヤ……」
「やっちゃん……奏歌くん、私、怖かった!」
奏歌くんが叩かれて私も連れ去られそうになって怖かったと訴えると、やっちゃんの目は破裂した車のタイヤを見ている。
「みっちゃんが怖い……」
「海瑠さんは僕を守ってくれるために必死だったんだよ。海瑠さん、ありがとう!」
怯えているやっちゃんと対照的に、奏歌くんは私に抱き付いて喜んでくれた。大事な奏歌くんを守れたので私も心底よかったと思えた。
やっちゃんに送ってもらって、その日はマンションに帰ったが、車の中で奏歌くんはずっと手を握っていてくれた。
劇団員はお客様からのお手紙に癒され励まされるのだが、そのお手紙も私たち劇団員が見る前にそれぞれのマネージャーさんがチェックしてくれる。あまりに酷い内容や、嫌がらせのお手紙である可能性もないわけではないからだ。繊細な劇団員はお手紙の内容で傷付くこともあるし、私のような鈍い劇団員でもお手紙の内容があまりにも酷いと落ち込んでしまう。それをマネージャーさんたちは事前に防いで、私たちを守ってくれているのだ。
劇団に届いたお手紙の中で不穏なものがあったのを見つけたのは津島さんだった。
その前にSNSに投稿された妄想を見ていたから、津島さんはすぐに私にそのことを教えてくれた。
「『千秋楽に迎えに行く。遂に私たちの関係は公になる』というような内容で、海瑠ちゃんを攫う予告だと思っています」
「私のことを攫う……」
「消印が押されていないので、劇団に直接届けたのでしょう」
警察にも介入してもらって、警戒に当たってもらうことにしたが、警察というのは事件が起こってからしか大々的には動けない。千秋楽から帰る時間に見回りを増やす程度のことしかできないと言われて、津島さんも私も気落ちしてしまった。
「百合に送り迎えをしてもらっているんですが、百合にまで被害があったら……」
「百合ちゃんにも警戒してもらわなければいけませんね。しばらくは私が送り迎えをしましょうか」
「津島さんはお子さんのことがあるでしょう」
保育園にお子さんを預け始めた津島さんの負担にならないようにしたいと思っていると、園田さんが助け舟を出してくれた。
「私が海瑠さんのマンションに寄って行きますよ」
「ありがとうございます」
「帰りもしっかりと送って行きます」
千秋楽まで気が抜けない公演になってきた。
舞台ではいつも通りに振舞うが、それ以外では緊張感に溢れる生活になった。マンションの部屋に戻ると奏歌くんのスープかお味噌汁の匂いがして、ご飯が炊ける甘い香りがするのが、唯一の私の癒しだった。
休みの日もほとんど外に出ないままでマンションで過ごす。
仕方がないので演劇の資料の本や、趣味のエッセイなどを読んで過ごしていた。脚本家さんのエッセイを読むと、海香の気持ちが分かるかと思ったのだが、お洒落な暮らしを綴っていて、海香とは違い過ぎて参考にならなかった。
「海瑠さんー! 大丈夫だった?」
部屋でゆったりと過ごしていると昼過ぎに奏歌くんがやって来た。手にはスーパーで買い物をしたエコバッグが下がっている。
「奏歌くん、いらっしゃい。今日はお休みだったの」
「そう思って、美味しいもの作ろうと買い物して来たよ」
レシートを出して奏歌くんが玄関脇に置いてあるがま口で清算している。こういうところも奏歌くんは頼りになるのだ。
使ったお金はレシートをノートに貼って、家計簿までつけてくれていた。
「マグロの中落ちが安かったから、マグロ丼にしようかなと思って」
「マグロ丼! すごく贅沢!」
「確か冷凍庫に前のイクラの残りがあったでしょ?」
冷凍庫をあさって奏歌くんはイクラの瓶を探し出した。
ご飯が炊ける間は奏歌くんはテーブルで勉強をして、私も大人しく傍で本を読んでおく。フランス革命について書かれた本を読んでいると新しい発見がある。
公安委員会に迎えられたロベスピエールの恐怖政治から、ロベスピエールが孤立していき、処刑されるまでの物語を読んでいくと、今回の演目の影の主役ともいえるロベスピエールの姿が詳細に感じ取れる。
読んでいると奏歌くんが勉強を終わらせて、キッチンに立った。キッチンからお出汁のいい匂いがしてくる。
「海瑠さん、おやつも食べなかったし、早めに晩ご飯にしちゃおう」
「おやつ! 忘れてた! ごめんなさい」
「いいよ、ご飯がその分美味しいよ」
おやつも忘れて本に熱中していた私を奏歌くんは責めなかった。
マグロの中落ちの漬けとイクラの海鮮丼に、具沢山のお味噌汁、糠漬けも添えて、晩ご飯が出来上がる。熱々の炊けたてのご飯に乗ったマグロの漬けとイクラが美味しくてあっという間に食べてしまう。
食べてから私は自分がこんなにお腹が空いていたのだと実感した。
「お腹いっぱいになった。幸せー」
「海瑠さん、最近大変そうだから」
優しく言ってくれる奏歌くんに感謝する。舞台だけでなく、舞台に関する資料を読むときにも私は集中しすぎて空腹を忘れてしまうようだった。
帰り際に奏歌くんが私に言ってくれた。
「千秋楽の日は、やっちゃんにお願いして、僕も行って、ちゃんと海瑠さんをマンションまで送り届けるから!」
安心してと言ってくれる奏歌くんは本当に頼りになる。胸がきゅんっとするような男前ぶりに私は奏歌くんに見惚れていた。
秋公演の日程は警戒しているのもあって平和に過ぎて行った。
千秋楽には警察が見回りに来てくれている。
「最後まで走り抜けられたのは皆さまの暖かな応援のおかげです。本当にありがとうございました!」
何度も繰り返すカーテンコールの中深々とお辞儀をして、私は秋公演を終わらせた。
楽屋で着替えて化粧を落として、薄化粧に変えてバッグを手に取る。楽屋の前の廊下ではやっちゃんと奏歌くんが待っていてくれた。
「海瑠さん、お疲れ様。今日は気を付けて帰ろうね」
「うん。やっちゃんも奏歌くんもありがとう」
「みっちゃんが危険だって言うなら仕方ないからな」
やっちゃんが車を劇団員出入口まで持って来てくれることになって、それまで奏歌くんと二人で待っていることにしたのだが、車が来た気配で出入り口から出ると、やっちゃんのごつめの四駆ではなく、高級そうなスポーツカーが停まっていた。
「海瑠、迎えに来たよ」
ドアを開けて出てきたのは小奇麗なスーツを着た男性で、私は思わず奏歌くんの後ろに隠れた。奏歌くんが自分より背の高い男性を見上げて睨み付ける。
「あなた、誰ですか?」
「海瑠の婚約者だよ」
「違うでしょう! 海瑠さんに婚約者なんていない」
いるとすれば奏歌くんなのだが、年齢的にまだ婚約できる年でもないのでそこは黙っておく。
「劇団の規則で公にできなかっただけなんだ。海瑠はずっとこの日を待っていてくれた」
「海瑠さんはあなたと会うのは初めてですよ」
「いや、何度もデートして、結婚の約束をしたんだ」
奏歌くんを押し退けようとするその男性に、奏歌くんが動かないでいると、男性は奏歌くんの頬を手の甲でぴしゃりと打った。
奏歌くんに暴力を振るった!?
怒りで目の前が真っ白になる私に、奏歌くんは冷静だった。
「警察官さんー! 不審者が来てますー! 海瑠さんが危ないですー!」
大声を上げて奏歌くんが騒ぐのに、男性が舌打ちをして「海瑠、また来るからね」と車に乗り込もうとするのを、私は追いかけてしまった。
「海瑠、来てくれたのか! 一緒に行こう!」
「奏歌くんを、叩かないで!」
怒りに任せて放った蹴りが、車の後輪に当たった。パンッと大きな音を立ててタイヤが破裂する。
「ひぇ!?」
驚き腰を抜かす男性に私は怒りのまま怒鳴りつけた。
「二度と私に近寄るな! 私の大事なひとを傷付けるんじゃない! もう一度顔を見せたら、破裂するのはタイヤじゃなくてお前の内臓かもしれないな!」
お前をギロチンにかけてやる!
そのときの私はロベスピエールの心境だった。脅しの言葉もすらすらと出てくる。
腹の底から出された怒号に腰を抜かした男性は、駆け付けた警察官に捕らえられた。
「みっちゃん……タイヤ……」
「やっちゃん……奏歌くん、私、怖かった!」
奏歌くんが叩かれて私も連れ去られそうになって怖かったと訴えると、やっちゃんの目は破裂した車のタイヤを見ている。
「みっちゃんが怖い……」
「海瑠さんは僕を守ってくれるために必死だったんだよ。海瑠さん、ありがとう!」
怯えているやっちゃんと対照的に、奏歌くんは私に抱き付いて喜んでくれた。大事な奏歌くんを守れたので私も心底よかったと思えた。
やっちゃんに送ってもらって、その日はマンションに帰ったが、車の中で奏歌くんはずっと手を握っていてくれた。
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