可愛いあの子は男前

秋月真鳥

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三章 奏歌くんとの三年目

15.涙の小瓶

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 部屋に帰って来ると奏歌くんはランドセルを降ろして、トレーナーとシャツの中に隠していた革紐のついた小瓶を引き出した。綺麗な小瓶には私の涙が入っているはずだった。

「ごめんなさい、お腹が空いてコウモリになっちゃうかと思ったんだ。なみだをなめたらおちつくかなって、ちょっとなめたら、とまらなくなって」

 差し出された小瓶には中身が入っていなかった。

「私の涙が役に立った?」
「うん、コウモリにならなくてすんだよ。お腹もちょっとだけ平気になった」

 小学校の中で奏歌くんが蝙蝠の姿になってしまったら、その場にいる全員の記憶を操作しなければいけないし、奏歌くんも涙を舐めて元に戻らなければいけなかった。それが未然に防げたのであれば、涙くらい全然気にしなくてもいいのに、奏歌くんはしょんぼりとしている。
 迎えに行ったときに奏歌くんが元気がなかったのはお腹が空いていただけの理由ではなかったのだ。

「気にしなくていいよ。涙、もう一回入れておくね」

 目を瞑って集中する。
 私は役者だ。涙くらいいつでも出せる。
 目から零れる大粒の涙に奏歌くんは驚いていたようだが、私は冷静にそれを小瓶の蓋を開けて受け止めた。ぽたぽたと小瓶の半分くらいまで涙が溜まっていく。
 片方の目しか涙を受け止められなくて、もう片方の目から零れた涙が頬を伝っているのを、小瓶の蓋を閉めてから拭こうと思っていたら、奏歌くんが吸い寄せられるようにそこに唇を付けた。
 涙を吸い取っているだけだと分かっているのだが、私は胸が高鳴ってしまう。

「き、キス!?」
「へ!? うわぁ! ごめんなさい!?」

 頬にキスをされたようでそこが熱くなって手で押さえる私に、奏歌くんは狼狽えていた。

「キスするつもりはなかったんだよ。ごめんなさい!」
「いいよ、奏歌くんなら、ほっぺにキスしても」
「だ、ダメだよ!」

 私は構わないと思っているのに、奏歌くんは顔を真っ赤にして反論して来た。

「ぼくはまだ8さいなんだから、そういうことは大きくなって、大人になってからする、大事なことだって、母さんも言ってたもん」

 真っ赤な顔の奏歌くんが可愛くて、私もその柔らかなあどけない丸い頬にキスしたいなと思うのだけれど、それは許されない。

「運命のひとでもダメなの?」
「運命のひとでも、ダメ! もっと大きくなったら……」
「大きくって何歳くらい?」

 突き詰めて問いかけると、奏歌くんはきょとんと眼を丸くして首を傾げる。

「なんさいだろう……?」

 分からないことは調べてみるに限る。
 携帯電話で検索していると、意外な結果が目に入った。

「日本の性行為は13歳から許されている……えぇ!?」
「どういうこと?」
「えっと……」

 これは私が話してしまっていいのだろうか。
 性教育として学校の先生や美歌さんややっちゃんに話してもらった方が良い気がする。
 何よりも13歳の奏歌くんとどうこうなるなんて私には考えられなかった。
 奏歌くんと結ばれるのならば、奏歌くんが18歳になって結婚できる年になってからだと思っている。高校も卒業していなければいけないだろう。法律で認められているとはいえ、周囲に祝福されないようなことを奏歌くんとしたいとは思っていなかった。

「13歳でいいなら、キスも13歳で良いのかな……」

 それはそれとして、ほっぺにキスくらいはしたい。
 13歳になったらしてもいいか美歌さんに聞いてみようと考える私だった。
 それにしても日本の法律がそんなことになっているだなんて、奏歌くんのことがなければ一生知ることはなかっただろう。
 13歳なんて早すぎるという反対運動も起きているようだ。
 結婚年齢が女性16歳、男性18歳なのだから、そこまではそういう行為はしてはいけないものだとばかり思っていたし、これからも奏歌くんとお付き合いをするにあたってその認識を変えるつもりはない。

「キスは、美歌さんに聞いてみよう」
「そ、そうだね。母さんに聞くのが一番だね」

 美歌さんに確認するということで奏歌くんと私の見解は一致した。
 キスのことを調べていたので、開いたサイトに劇作家の名言集があった。
 そこに書いてある言葉を読んで、私は目を丸くする。
 手の上なら尊敬、掌の上なら懇願と書かれている。
 更に調べると手首は欲望とする格言もあった。
 奏歌くんが首から吸うと痕が残るかもしれないからと配慮してくれているので、私は手首から奏歌くんに血を吸ってもらっている。
 奏歌くんは私の手首に唇を付ける行為を何度もしている。

「尊敬……懇願……欲望……」
「海瑠さん? どうしたの? 真っ赤だよ?」

 奏歌くんに指摘されて私は奏歌くんを鳥籠のソファに招いて、猫の姿になってどすんっと頭を膝に乗せた。奏歌くんは私の頭を撫でて背中の毛並みを整えてくれる。
 こめかみの辺りにキスをされて、私ははっとした。

「奏歌くん、そこはいいの?」
「あ! 母さんがいつもしてくれるから、つい、しちゃった!」

 今までにも何度もされているけれど、意識すると急にそれが特別なことのように思えてくる。耳掃除をしてもらった後にこめかみにキスをしてもらっている奏歌くん。それは美歌さんと奏歌くんの特別な行為なのだろう。
 母子の姿が見えて微笑ましくなる。
 その恩恵に私も預かれているのはありがたいような、申し訳ないような。

「海瑠さんにしてもいいか、母さんに聞く」
「うん、そうして」

 奏歌くんは8歳なのだから、こういうことは母親であり保護者である美歌さんにきっちり確認しておかなければいけない。
 今日のハンバーグ定食をおやつに食べたことも、本当は内緒にしてはいけないのではないだろうか。

「奏歌くん、ハンバーグ定食のことも、やっぱり、美歌さんに言おう」
「言わないとダメかな?」
「私は奏歌くんをお預かりしている身だし、奏歌くんのことはなんでもきちんと美歌さんに報告しなきゃいけない義務があると思うの。今までは責任感がなくてできてなかったけど、ちゃんとしたい!」

 決意した私に奏歌くんも頷いてくれた。
 夕方に迎えに来た美歌さんに、時間をとってもらって奏歌くんのことを話す。

「今日は奏歌くんのクラスメイトが食缶をひっくり返しちゃったみたいなんです。それで奏歌くんお腹が空いてて、私の涙を舐めて、私の方もお昼ご飯を忘れちゃって、おやつにハンバーグ定食を半分ずつ食べました」

 叱られても仕方がないとしゅんとして美歌さんに告げると、奏歌くんの髪をくしゃくしゃに撫でている。

「お腹が空いて蝙蝠にならなくて良かったわ。海瑠さんに美味しいもの食べさせてもらったのね。良かったわね」

 大らかに応じてくれる美歌さんに私は続けて言う。

「小瓶の涙がなくなったから、足してたら、奏歌くん、私の涙を舐めちゃって」
「あらあら。奏歌ったら、欲張りさんね」
「ほっぺたにキスした形になったんですけど、すみません、私もこういうことに慣れてなくて。奏歌くん私を膝枕してくれたらこめかみにキスをしてくれてたんですけど、まだキスなんて早かったですよね」

 神妙に怒られるつもりで告げると美歌さんは柔らかく微笑んでいた。

「話してくださってありがとうございます」
「怒っていませんか?」
「いいえ。海瑠さんが本当に奏歌のことを真剣に考えてくださっているんだと分かって、嬉しいくらいですよ」

 美歌さんの言葉に私は胸を撫でおろした。
 奏歌くんと不埒なことをする年上女性だと思われて引き離されてしまったら、私は生きていける気が全くしない。

「キスはもうちょっと大きくなってからかな。ほっぺたやこめかみなら、気にしなくていいような気もするんですけど、小さいからって続けてたら奏歌も育つわけですし」

 高校生になってから。
 美歌さんの判断はそうだった。

「こめかみにキスは特別に良いことにしましょうか。海瑠さんが猫ちゃんになっているときだけよ?」

 私が猫の姿で奏歌くんに膝枕されているのも美歌さんにはお見通しだった。
 こめかみにキスは私が猫のときだけ許可された。
 それ以外は高校生になるまでしてはいけない。
 約束は守ると誓って私は奏歌くんを美歌さんにお返しした。
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