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第1作 桜の朽木に虫の這うこと
第11話 ユリとバラ
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「う……さくら……まおう」
ウツロは悪夢にうなされていた。
あたかもあの桜、魔王桜の大枝に絡め取られるかのように。
必死で逃げまわる、そのおそろしい触手から。
走って、走って、走り回って……
何かにつまずいて、頭からモロに地面へと転げ落ちる。
顔面をしたたかに打った直後、気づいた。
つまずいたのではない。
足の感覚が鈍い。
石のように重く、大地に根を張ったように動かない。
「ひっ……」
両脚が大根の「ひげ根」のように、赤と黒の入りまじった、おどろおどろしい色になって、ドロドロと不気味にうごめいている。
ひげ根のように見えたのは無数の「触角」。
まるでナメクジの化物のような。
「おげえっ」
吐き気を催した、そのあまりのおぞましさに。
口を抑えた両手へ向け、豪快に吐瀉物をぶちまけた。
のどの裂けるような激痛が走る。
手の中をのぞいて気が遠くなった。
そこには虹色の「落花生」。
怪しく輝く、バカでかいウジムシの群れ。
「うえ」
嘔吐は止まらない。
ウツロの体はみるみるうちに、極彩色の海へと沈んでいく。
「……からだ、が……」
肉の腐っていくような、名状しがたいその異臭。
耳は取れ、鼻はもげ、目玉もボロッと落ちる。
毒虫。
ウツロは一匹の、異形の毒虫の姿へと、変じていた――
「ああああああああああっ!」
*
ウツロが目を覚ましたとき、彼の体はおぞましい毒虫の姿、ではなかった。
白い天井に、暖色の蛍光灯が光っている。
「う」
なかなか目が慣れない、もぞもぞと手を動かしてみる。
柔らかい感触が伝わってくる。
布団の中にいるのか?
なんとか体を起こそうとしたとき、ギシッとかすかに軋む音が聞こえた。
どうやらベッドに寝かされているようだ。
ウツロ自身は生まれてこの方、ベッドに横たわったことも、目撃した経験すらなかった。
しかし知識として持っている情報から、これがおそらくベッドというものであろうと認識したのだった。
「ん」
全身にキリキリする痛みがある。
起きあがろうと試みるが、うまくいかない。
なんてもどかしいんだ……
だが、いったいどういうことなのだろう?
隠れ里に賊が侵入してきて、戦って、逃げて、それから……
あのおそろしい桜の木が。
そうだ、お師匠様は?
アクタは?
「ア、アク……」
口をパクパクさせながら、必死で言葉をひねり出そうとしていると……
「目、覚めた?」
突然、飛びこんできたその顔に、心臓が収縮した。
人間、人間の少女。
確かに少女のようである。
右側の白いカーテンの前に、ポニーテールの少女がいて、彼の顔をのぞきこむように、にっこりとほほえんでいる。
クリッとした潤いのある目をしていて、艶のある髪の毛には、少し癖がついている。
「……あ……あ」
ウツロは事態がまるでのみこめず、口もとをゆらゆらと上下させた。
彼女がこちらに顔を寄せるとき、ピンク色のパーカーのフードが少し揺れて、しみついたその香りが、ほのかに嗅覚を刺激した。
鼻のよいウツロにはわかった。
人工的な香料などは一切つけていない。
「素のにおい」なのだと。
これが女性のにおいなのか、馥郁たる香りとはまさにこれだ。
汗のにおいが多少まじっているが、それも含めて心地がいい。
なんだか落ちついてくる……
不思議な存在だな、女性とは。
そんなことを考えた。
女性に遭遇するのがそもそも初めてであるから、彼はたほう、大いにどぎまぎした。
「……ここ、は」
「医務室だよ、忍者くん。アパートの一室の、だけれどね」
前方から別な少女の声が聞こえた。
悲鳴を上げる節々を黙らせつつ、ウツロは上体を起こす。
ベッドの両側に柵がついていることに気づき、これからどんな状況に運ぼうとも、決して気を抜いてはいけないと、彼は覚悟した。
顔を上げたことで、二人目の少女の姿が飛びこんでくる。
ありふれた事務用の可動チェアに、すました顔で腰かけるその少女は、清潔感の漂う白衣を羽織っていて、その下のカーディガンから飛び出したワイシャツの襟は、研いだ包丁のようにピンと張っている。
折り目正しいというというには緩さがあり、かといって崩しすぎてはいない。
カーディガンとソックスは、ダーク・ネイビーで合わせてあった。
両脚は九十度に近い鋭角に曲げて座っていて、七分丈のフレアスカートは、座るときにちゃんと折りたたんだらしく、脚にフィットしすぎず、かといってだらしなくならないように履いている。
スカートとスリッパは、アイボリーで合わせてあった。
容貌も同様だ。
黒いロングヘアーを肩に軽くかかるくらいに、髪質はストレートすぎず、癖を帯びすぎず整髪してある。
目鼻立ちもきつすぎず、緩すぎず。
化粧も濃すぎず、薄すぎず。
要するに他者が心理的に警戒せず、しかし油断もしない、絶妙なスタイリングを採用しているのだ。
その年齢に対して、知的で大人な印象を受ける。
彼女の美貌を形容する表現はいくらでも浮かんできそうだ。
しかしながらどこか、違和感がある。
人工的な、絵姿の美女を写真だと思いこんでいるときのような違和感だ。
ウツロが見つめていると、彼女は口もとから一瞬ではあるが、ペロリと舌先をのぞかせた。
これを受けて、ウツロの抱いていた違和感は確信へと変わった。
ヘビ、ヘビだ、この女は。
チラリと舌をのぞかせる所作は、まさにヘビのそれだ。
そう、違和感の正体は「擬態」によるものだったのだ。
そのすべてが虚像、存在そのものがまやかしにすぎない。
わざわいをもたらすために生まれてきたという、ヘビそのものではないのか?
「何?」
「……あ、いや。すまない……」
長いこと見つめられていたものだから、彼女はさりげなくウツロを牽制した。
彼はわれに返って、混乱する頭を整理した。
医務室、医務室か。
白色が基調の部屋。
医務室、なるほど……
治療をするための部屋なんだな。
奥の少女が陣取っているデスクの上には、書類やら筆記用具やら、あるいは治療に使うとおぼしき道具などが、きっちりと整頓して置かれている。
なるほど、やはり間違いないようだ。
ウツロは少ない経験から、医務室という場所の意味を予想した。
ロングヘアーの少女は、こちらを向いた状態でいっさい体勢を変えず、彼に視線を送っている。
この女、俺を「観察」しているのか?
ベッドに寝ている状況では、この部屋の全体は見渡せない。
しかし右側にカーテンが引いてあって、左側は壁であることから、部屋の中の位置としては一番奥であると推理できる。
地形としては最悪だ。
さらには人間が二人。
少女とはいえ、いまの俺はこんな容大だ。
手前の少女はあどけない感じがするが、奥の少女は何か、得体の知れない妖気のようなオーラを漂わせている。
いったい何者なんだ? 彼女らは。
いずれにせよ、抜き差しならない状況には違いない。
この二人が俺の「逃げ道」をふさいでいるのだから。
左手の白壁の奥には小さな窓が見え、そこから強い日光が差しこんでいる。
色合いから西日ではないようだ。
つまりあの小窓は、東側についていると推測できる。
いまが午前中だと仮定すると、その入射角からおそらく、正午近くだろう。
いったい自分は、どれほどの時間、気を失っていたというのか?
このような「分析」をするのに、ウツロにはものの十秒も必要なかった。
「医務室……アパート……」
しかし彼はとぼけたふりをして、さらなる情報を引き出す時間稼ぎとした。
「わたし、真田龍子。あなたとは歳、近そうだね」
手前の少女、真田龍子はさらににっこりとほほえんだ。
「さなだ、さん……」
「『龍子』でいいよ。あなたは?」
「……?」
「名前、あなたの」
「え? 俺は、ウツロ……」
「ウツロくん? って、名字かな? フルネームはなんていうの?」
「フルネーム……わからない。俺の名前は、ウツロ。それだけ」
「ああ、うーん……」
真田龍子は困惑して、言葉に詰まってしまった。
「何か事情があるみたいだね、ウツロくん。ああ、わたしは星川雅だよ。よろしくね」
見かねた奥の少女、星川雅がすかさず助け舟を出す。
「鎮痛剤を処方したんだけれど、まだ痛みも多分に残ってるでしょ? だからしばらくは、おとなしくしててね」
「鎮痛剤……盛った、のか?」
「失礼な言い方だね。あなたを助けるためでしょ?」
シャーペンを指でくるくる回しながら、彼女は不機嫌そうな顔をした。
気まずい雰囲気が場を支配する。
少し間が空いたところで、重苦しいその空気を入れかえるように、星川雅が会話を切りだした。
「ウツロくん、あなたはきっと、情報を欲しがっている。そうでしょう? 順番に説明するから、よく聴いて」
図星だった。
混乱半分ながらもウツロの思考回路は、現在自分が置かれている状況を把握しようと動いていた。
「まず、わたしたちの名前はいいよね? そしてここはどこなのか、だけれど……ここは住所でいうと、東京都朽木市南西部の蛮頭寺区。で、このアパートはもともと、旧財閥の持ち物だった洋館を、ある『目的』のため、特別に改装したものだよ。その中の医務室ってわけ。ここまではいいかな?」
彼女の口から得られた情報を、ウツロはただちに整理した。
朽木市蛮頭寺区。
お師匠様から聞いたことがある。
隠れ里のある場所は、地図上ではその住所であったことを。
地理的に鑑みて、隠れ里を山から東へ下った場所がおそらく、このあたりなのだろう。
しかし次の「含み」はいやおうなく、頭に引っかかった。
いま自分のいる場所、洋館を改装したアパートだというが、ある「目的」とはいったい何なのか……
「うふ、頭が切れるんだね、君」
星川雅の口もとが綻んでいる。
まるで心を読まれているようだ。
真田龍子という人はまだわからないが、この星川雅という少女は何か、得体の知れない部分がある。
ウツロは決して油断してはならないと、思考をめぐらせた。
「油断ならない、そう思った?」
表情にこそ出さないものの、ウツロは内心ギョッとした。
本当に心が読めるのか?
「心が、読めるのか……?」
「まさか、ただの経験則だよ。わたし、両親が医者でね。二人とも専門が精神科なの。小さい頃からいろいろと教わってきたから、勘ぐるのは得意なんだ」
彼女は抑え気味にくつくつと笑った。
不気味だ、この少女は。
精神科医だという両親から教わった?
本当にそれだけなのか?
気まぐれにシャーペンをカチカチとノックしながら、星川雅は薄気味悪い笑みを浮かべている。
「続きを話そうか。あなたはこのアパートの前で気絶していた。三日前にね。深夜に物音で発見されたの。だからあなたは三日三晩、眠りに就いていたというわけだね」
三日前だと?
俺がここに来て三日目?
そんなにも長く、俺は眠っていたというのか?
ほんの少し、仮眠した程度に感じられるのに。
あの恐ろしい桜、魔王桜に何かされて、気が遠くなってから。
そうだ、アクタにお師匠様だ。
こんなところで油を売っている場合じゃないなんだ。
二人を探さなければ……
「うっ……」
「あっ、ダメ、動いたら! 君の体はボロボロなんだよ!? まだ動いちゃまずいって!」
「平気、だから……うっ……」
「ね、言ったとおりでしょ? ほら、お願いだから横になって、その、ウツロくん?」
「んん……」
何かに追い立てられているかのようなウツロのしぐさに、真田龍子は焦りを隠せなかった。
すぐ後ろでは、星川雅があきれた顔をしている。
「まったく、龍子に感謝しなきゃ駄目だよ、ウツロくん? あなたをいままで介抱したのは彼女なんだから。それこそ献身的に尽くしたんだよ?」
「雅、わたしのことはいいから……」
「こういうのはしっかり示しておかなきゃ。それともウツロくん、あなたは受けた恩を仇で返すタイプの人間なのかな?」
高圧的な態度を取る星川雅に、真田龍子は遠慮気味だ。
いっぽうウツロは、「人間」という単語に反応した。
「いや、違う」
「ならよろしい」
「いや、そこじゃなくて」
「は?」
星川雅はキョトンとした。
「人間じゃない」
「……人間じゃない、ってどういうこと……?」
真田龍子も不思議そうな顔をしている。
「……俺は、人間じゃないんだ……」
「はあ……」
人間ではない、とはどういうことか?
この少年は何を言っているのか?
真田龍子と星川雅は、呆気に取られるのが半分、あとの半分は、何かとんでもないことを聞いてしまったような気まずさに支配され、言葉を失った。
何かフォローをしなければ。
そう思って真田龍子は口を開こうとしたが、かける言葉が見つからない。
どう対応すればよいかと考えあぐねているとき、部屋のドアをノックする者がある。
「はいっ」
彼女はどこか、すがるような口調で応答した。
ドアが軋みながら開く音に、建物の年式が感じ取られる。
誰かが部屋に入ってくる気配がしたかと思うと、カーテンの奥から、長身の少年がぬっと、顔を出した。
その姿を一瞥し、ウツロは雷に打たれたように硬直した。
「アク、タ……」
(『第12話 面影の奥に』へ続く)
ウツロは悪夢にうなされていた。
あたかもあの桜、魔王桜の大枝に絡め取られるかのように。
必死で逃げまわる、そのおそろしい触手から。
走って、走って、走り回って……
何かにつまずいて、頭からモロに地面へと転げ落ちる。
顔面をしたたかに打った直後、気づいた。
つまずいたのではない。
足の感覚が鈍い。
石のように重く、大地に根を張ったように動かない。
「ひっ……」
両脚が大根の「ひげ根」のように、赤と黒の入りまじった、おどろおどろしい色になって、ドロドロと不気味にうごめいている。
ひげ根のように見えたのは無数の「触角」。
まるでナメクジの化物のような。
「おげえっ」
吐き気を催した、そのあまりのおぞましさに。
口を抑えた両手へ向け、豪快に吐瀉物をぶちまけた。
のどの裂けるような激痛が走る。
手の中をのぞいて気が遠くなった。
そこには虹色の「落花生」。
怪しく輝く、バカでかいウジムシの群れ。
「うえ」
嘔吐は止まらない。
ウツロの体はみるみるうちに、極彩色の海へと沈んでいく。
「……からだ、が……」
肉の腐っていくような、名状しがたいその異臭。
耳は取れ、鼻はもげ、目玉もボロッと落ちる。
毒虫。
ウツロは一匹の、異形の毒虫の姿へと、変じていた――
「ああああああああああっ!」
*
ウツロが目を覚ましたとき、彼の体はおぞましい毒虫の姿、ではなかった。
白い天井に、暖色の蛍光灯が光っている。
「う」
なかなか目が慣れない、もぞもぞと手を動かしてみる。
柔らかい感触が伝わってくる。
布団の中にいるのか?
なんとか体を起こそうとしたとき、ギシッとかすかに軋む音が聞こえた。
どうやらベッドに寝かされているようだ。
ウツロ自身は生まれてこの方、ベッドに横たわったことも、目撃した経験すらなかった。
しかし知識として持っている情報から、これがおそらくベッドというものであろうと認識したのだった。
「ん」
全身にキリキリする痛みがある。
起きあがろうと試みるが、うまくいかない。
なんてもどかしいんだ……
だが、いったいどういうことなのだろう?
隠れ里に賊が侵入してきて、戦って、逃げて、それから……
あのおそろしい桜の木が。
そうだ、お師匠様は?
アクタは?
「ア、アク……」
口をパクパクさせながら、必死で言葉をひねり出そうとしていると……
「目、覚めた?」
突然、飛びこんできたその顔に、心臓が収縮した。
人間、人間の少女。
確かに少女のようである。
右側の白いカーテンの前に、ポニーテールの少女がいて、彼の顔をのぞきこむように、にっこりとほほえんでいる。
クリッとした潤いのある目をしていて、艶のある髪の毛には、少し癖がついている。
「……あ……あ」
ウツロは事態がまるでのみこめず、口もとをゆらゆらと上下させた。
彼女がこちらに顔を寄せるとき、ピンク色のパーカーのフードが少し揺れて、しみついたその香りが、ほのかに嗅覚を刺激した。
鼻のよいウツロにはわかった。
人工的な香料などは一切つけていない。
「素のにおい」なのだと。
これが女性のにおいなのか、馥郁たる香りとはまさにこれだ。
汗のにおいが多少まじっているが、それも含めて心地がいい。
なんだか落ちついてくる……
不思議な存在だな、女性とは。
そんなことを考えた。
女性に遭遇するのがそもそも初めてであるから、彼はたほう、大いにどぎまぎした。
「……ここ、は」
「医務室だよ、忍者くん。アパートの一室の、だけれどね」
前方から別な少女の声が聞こえた。
悲鳴を上げる節々を黙らせつつ、ウツロは上体を起こす。
ベッドの両側に柵がついていることに気づき、これからどんな状況に運ぼうとも、決して気を抜いてはいけないと、彼は覚悟した。
顔を上げたことで、二人目の少女の姿が飛びこんでくる。
ありふれた事務用の可動チェアに、すました顔で腰かけるその少女は、清潔感の漂う白衣を羽織っていて、その下のカーディガンから飛び出したワイシャツの襟は、研いだ包丁のようにピンと張っている。
折り目正しいというというには緩さがあり、かといって崩しすぎてはいない。
カーディガンとソックスは、ダーク・ネイビーで合わせてあった。
両脚は九十度に近い鋭角に曲げて座っていて、七分丈のフレアスカートは、座るときにちゃんと折りたたんだらしく、脚にフィットしすぎず、かといってだらしなくならないように履いている。
スカートとスリッパは、アイボリーで合わせてあった。
容貌も同様だ。
黒いロングヘアーを肩に軽くかかるくらいに、髪質はストレートすぎず、癖を帯びすぎず整髪してある。
目鼻立ちもきつすぎず、緩すぎず。
化粧も濃すぎず、薄すぎず。
要するに他者が心理的に警戒せず、しかし油断もしない、絶妙なスタイリングを採用しているのだ。
その年齢に対して、知的で大人な印象を受ける。
彼女の美貌を形容する表現はいくらでも浮かんできそうだ。
しかしながらどこか、違和感がある。
人工的な、絵姿の美女を写真だと思いこんでいるときのような違和感だ。
ウツロが見つめていると、彼女は口もとから一瞬ではあるが、ペロリと舌先をのぞかせた。
これを受けて、ウツロの抱いていた違和感は確信へと変わった。
ヘビ、ヘビだ、この女は。
チラリと舌をのぞかせる所作は、まさにヘビのそれだ。
そう、違和感の正体は「擬態」によるものだったのだ。
そのすべてが虚像、存在そのものがまやかしにすぎない。
わざわいをもたらすために生まれてきたという、ヘビそのものではないのか?
「何?」
「……あ、いや。すまない……」
長いこと見つめられていたものだから、彼女はさりげなくウツロを牽制した。
彼はわれに返って、混乱する頭を整理した。
医務室、医務室か。
白色が基調の部屋。
医務室、なるほど……
治療をするための部屋なんだな。
奥の少女が陣取っているデスクの上には、書類やら筆記用具やら、あるいは治療に使うとおぼしき道具などが、きっちりと整頓して置かれている。
なるほど、やはり間違いないようだ。
ウツロは少ない経験から、医務室という場所の意味を予想した。
ロングヘアーの少女は、こちらを向いた状態でいっさい体勢を変えず、彼に視線を送っている。
この女、俺を「観察」しているのか?
ベッドに寝ている状況では、この部屋の全体は見渡せない。
しかし右側にカーテンが引いてあって、左側は壁であることから、部屋の中の位置としては一番奥であると推理できる。
地形としては最悪だ。
さらには人間が二人。
少女とはいえ、いまの俺はこんな容大だ。
手前の少女はあどけない感じがするが、奥の少女は何か、得体の知れない妖気のようなオーラを漂わせている。
いったい何者なんだ? 彼女らは。
いずれにせよ、抜き差しならない状況には違いない。
この二人が俺の「逃げ道」をふさいでいるのだから。
左手の白壁の奥には小さな窓が見え、そこから強い日光が差しこんでいる。
色合いから西日ではないようだ。
つまりあの小窓は、東側についていると推測できる。
いまが午前中だと仮定すると、その入射角からおそらく、正午近くだろう。
いったい自分は、どれほどの時間、気を失っていたというのか?
このような「分析」をするのに、ウツロにはものの十秒も必要なかった。
「医務室……アパート……」
しかし彼はとぼけたふりをして、さらなる情報を引き出す時間稼ぎとした。
「わたし、真田龍子。あなたとは歳、近そうだね」
手前の少女、真田龍子はさらににっこりとほほえんだ。
「さなだ、さん……」
「『龍子』でいいよ。あなたは?」
「……?」
「名前、あなたの」
「え? 俺は、ウツロ……」
「ウツロくん? って、名字かな? フルネームはなんていうの?」
「フルネーム……わからない。俺の名前は、ウツロ。それだけ」
「ああ、うーん……」
真田龍子は困惑して、言葉に詰まってしまった。
「何か事情があるみたいだね、ウツロくん。ああ、わたしは星川雅だよ。よろしくね」
見かねた奥の少女、星川雅がすかさず助け舟を出す。
「鎮痛剤を処方したんだけれど、まだ痛みも多分に残ってるでしょ? だからしばらくは、おとなしくしててね」
「鎮痛剤……盛った、のか?」
「失礼な言い方だね。あなたを助けるためでしょ?」
シャーペンを指でくるくる回しながら、彼女は不機嫌そうな顔をした。
気まずい雰囲気が場を支配する。
少し間が空いたところで、重苦しいその空気を入れかえるように、星川雅が会話を切りだした。
「ウツロくん、あなたはきっと、情報を欲しがっている。そうでしょう? 順番に説明するから、よく聴いて」
図星だった。
混乱半分ながらもウツロの思考回路は、現在自分が置かれている状況を把握しようと動いていた。
「まず、わたしたちの名前はいいよね? そしてここはどこなのか、だけれど……ここは住所でいうと、東京都朽木市南西部の蛮頭寺区。で、このアパートはもともと、旧財閥の持ち物だった洋館を、ある『目的』のため、特別に改装したものだよ。その中の医務室ってわけ。ここまではいいかな?」
彼女の口から得られた情報を、ウツロはただちに整理した。
朽木市蛮頭寺区。
お師匠様から聞いたことがある。
隠れ里のある場所は、地図上ではその住所であったことを。
地理的に鑑みて、隠れ里を山から東へ下った場所がおそらく、このあたりなのだろう。
しかし次の「含み」はいやおうなく、頭に引っかかった。
いま自分のいる場所、洋館を改装したアパートだというが、ある「目的」とはいったい何なのか……
「うふ、頭が切れるんだね、君」
星川雅の口もとが綻んでいる。
まるで心を読まれているようだ。
真田龍子という人はまだわからないが、この星川雅という少女は何か、得体の知れない部分がある。
ウツロは決して油断してはならないと、思考をめぐらせた。
「油断ならない、そう思った?」
表情にこそ出さないものの、ウツロは内心ギョッとした。
本当に心が読めるのか?
「心が、読めるのか……?」
「まさか、ただの経験則だよ。わたし、両親が医者でね。二人とも専門が精神科なの。小さい頃からいろいろと教わってきたから、勘ぐるのは得意なんだ」
彼女は抑え気味にくつくつと笑った。
不気味だ、この少女は。
精神科医だという両親から教わった?
本当にそれだけなのか?
気まぐれにシャーペンをカチカチとノックしながら、星川雅は薄気味悪い笑みを浮かべている。
「続きを話そうか。あなたはこのアパートの前で気絶していた。三日前にね。深夜に物音で発見されたの。だからあなたは三日三晩、眠りに就いていたというわけだね」
三日前だと?
俺がここに来て三日目?
そんなにも長く、俺は眠っていたというのか?
ほんの少し、仮眠した程度に感じられるのに。
あの恐ろしい桜、魔王桜に何かされて、気が遠くなってから。
そうだ、アクタにお師匠様だ。
こんなところで油を売っている場合じゃないなんだ。
二人を探さなければ……
「うっ……」
「あっ、ダメ、動いたら! 君の体はボロボロなんだよ!? まだ動いちゃまずいって!」
「平気、だから……うっ……」
「ね、言ったとおりでしょ? ほら、お願いだから横になって、その、ウツロくん?」
「んん……」
何かに追い立てられているかのようなウツロのしぐさに、真田龍子は焦りを隠せなかった。
すぐ後ろでは、星川雅があきれた顔をしている。
「まったく、龍子に感謝しなきゃ駄目だよ、ウツロくん? あなたをいままで介抱したのは彼女なんだから。それこそ献身的に尽くしたんだよ?」
「雅、わたしのことはいいから……」
「こういうのはしっかり示しておかなきゃ。それともウツロくん、あなたは受けた恩を仇で返すタイプの人間なのかな?」
高圧的な態度を取る星川雅に、真田龍子は遠慮気味だ。
いっぽうウツロは、「人間」という単語に反応した。
「いや、違う」
「ならよろしい」
「いや、そこじゃなくて」
「は?」
星川雅はキョトンとした。
「人間じゃない」
「……人間じゃない、ってどういうこと……?」
真田龍子も不思議そうな顔をしている。
「……俺は、人間じゃないんだ……」
「はあ……」
人間ではない、とはどういうことか?
この少年は何を言っているのか?
真田龍子と星川雅は、呆気に取られるのが半分、あとの半分は、何かとんでもないことを聞いてしまったような気まずさに支配され、言葉を失った。
何かフォローをしなければ。
そう思って真田龍子は口を開こうとしたが、かける言葉が見つからない。
どう対応すればよいかと考えあぐねているとき、部屋のドアをノックする者がある。
「はいっ」
彼女はどこか、すがるような口調で応答した。
ドアが軋みながら開く音に、建物の年式が感じ取られる。
誰かが部屋に入ってくる気配がしたかと思うと、カーテンの奥から、長身の少年がぬっと、顔を出した。
その姿を一瞥し、ウツロは雷に打たれたように硬直した。
「アク、タ……」
(『第12話 面影の奥に』へ続く)
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