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Ⅱ.近づく距離
9.心にある不安
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狼泉が目覚めてから一ヶ月が経った。狼泉は驚くほどのスピードで健康を取り戻し、今では悠里と共に畑仕事にも精を出している。
悠里と狼泉の関係も急速に縮まった。初めは敬語を使っていた悠里も、今ではタメ口であることが多い。そのくらい、狼泉は気さくに振る舞ってくれるのだ。
だが、最初に話したとき以来、狼泉の名や、狼というの名への憎しみゆえに狼泉を忌み嫌ったという一族の話は、一度もできていない。なぜ狼泉がこの山で野垂れ死に寸前になっていたかも、聞くことができていなかった。
気まずい空気になると分かっていて、悠里がそれを尋ねる勇気を持てないというのが理由のひとつだ。狼泉の方も、話をするのを望んでいない様子である。
(国の名前の一部を一族の人間の名前に使うとか、一族の敵とされる人が、国から守護を奪ったと言われているとか……絶対、狼泉さんの一族は国で偉い立場だよね?)
冷静に話を振り返って、悠里はその事実に気づいていた。だが、それを確かめるには、機会を逸した気がする。
それに、狼泉が一族の者に嫌われていたなら、その話さえも狼泉を傷つけてしまう可能性がある。だから、悠里は何も聞けない。もう、狼泉の悲しそうな顔を見たくなかった。
「悠里、ここの苗はどうすればいい?」
狼泉が額の汗を袖で拭いつつ、悠里を振り返る。袖についていた土埃が、狼泉の顔を汚していた。
今日も朝早くから、狼泉は悠里を手伝って畑仕事をしてくれていたのだ。
片手に鍬を持つ姿は、高貴な身分の生まれには見えない。
(――いや、このかっこ良さと洗練された雰囲気は、ただ者じゃないな……)
自分の思考に否定を返しながら、悠里は狼泉に歩み寄った。
どれほど身なりが粗末で汚れていても、恵まれた容姿と立派な体格は失われるわけではない。汗を滴らせる狼泉の様子は、色気さえ漂っているように見える。
(天は彼に二物も三物も与えている……。こんな人を嫌うって、狼泉の一族の人は、どんな朴念仁の集まりなんだろう?)
悠里は本気でこう思っていたし、これが世間一般的に外れた意見ではないと信じていた。
「これは後であっちに植え替えるよ」
「そうか。では、運んでおこう」
悠里に代わり、狼泉は積極的に力仕事を担おうとする。体格差を考えれば、それも納得できるが、庇護すべき対象のように扱われるのは、少しくすぐったい気持ちになる。
なにせ、天藍たち亡き後、悠里は魔獣たちが傍にいたとはいえ、ほとんど一人で生きてきたのだ。久しぶりに感じる人の温もりや、会話を交わせる楽しさは、悠里の心を喜びで満たしていた。
そしてそれは、悠里が狼泉の事情を追及できない大きな理由でもあった。
(狼泉のことを全て知ってしまったら、ここからいなくなってしまう気がする……)
狼泉がここを去ることを考えたくない。ずっとここで一緒に暮らしてほしい――。言葉にできない願いが、胸に溢れ、とどまることを知らない。狼泉自身が帰ろうとする気配を見せないから、悠里も何も言わずにいる。
「……待って」
作物の苗を包んだ袋ごと、狼泉が担ぎ上げようとするのを引き留めた。
きょとんと目を瞬かせた狼泉の腕を引き、軽く屈ませた後、悠里は狼泉の汚れた頬を布で拭う。ついでに額に滲んでいた汗まで綺麗にした頃には、狼泉は恥ずかしそうに目を伏せ、耳をほのかに赤く染めていた。
「――うん、もっとかっこ良くなった」
「…………汚れていたか。かたじけない」
恥ずかしさを誤魔化すように頬を掻こうとするので、悠里はその手を掴んだ。狼泉はすぐに手が汚れていることに気づいて、そろりと視線を逸らす。
その気まずそうな仕草が、なんだか可愛らしくて笑ってしまう。
「ふふっ。苗はまだ置いたままでいいよ。先にお昼ごはんにしよう?」
「昼餉か。それは楽しみだ」
「そう? あまり大したものは作れないけど」
「いや、悠里が作る飯は、どれも美味い」
狼泉がおかしいほどに真剣な表情で言い募る。今度は悠里の方が、照れ隠しで視線を逸らしてしまった。
「……そんなに褒めても、果物くらいしか追加できないよ」
「果物も美味そうだな。今の季節は、何が旬だっただろうか?」
「……無花果を採ってきたばかりだよ」
「俺の好物だ。悠里は俺を喜ばせるのが上手いな」
共に家へと戻りながら会話をする。この時間が楽しくて、悠里は自然と微笑んでいた。
「きゅう……!」
不意に足に小さな衝撃がある。足を止めると、闇兎が半目で悠里を見上げていた。これはだいぶ機嫌を損ねてしまっている。午前中、一緒に山を歩き回ったから、ご機嫌だったはずなのに。
悠里は困ってしまい、視線で狼泉に助けを求めた。
狼泉もまた困った表情で、悠里と闇兎の間で視線を彷徨かせる。魔獣たちが悠里に懐いていることや安全性は理解したようだが、狼泉自身はまだ距離を取っているのだ。
「グルル……」
呆れたような鳴き声が聞こえた。そのすぐ後に、悠里の背後から近づいてきた白珠が、闇兎をくわえて歩き去っていく。
「きゅーっ!?」
ほぼ食われているような見た目で、闇兎が悲鳴のような鳴き声をあげる。悠里はポカンと口を開けて、連れ去られていくのを見送ってしまった。
「……あれは、大丈夫か? 食われるのでは?」
狼泉が恐ろしげに聞く。魔獣といえば獰猛で危険ということから、容易にその想像に至ったようだ。
「いや、それはないと思うけど……。いったい、どうしちゃったのかな?」
「それを俺に聞かれても困るが」
「……だよね」
悠里は狼泉と顔を見合せ、肩をすくめる。白珠が闇兎をどこに連れていこうとしているかは分からないが、それはおそらく悠里のためなのだろう。幼げで欲望に忠実な闇兎とは違い、白珠は思慮深く悠里に過保護だから。
「――とにかく、ごはんを食べよう!」
考えることを放棄して歩き出す悠里に、狼泉は苦笑してついていった。
悠里と狼泉の関係も急速に縮まった。初めは敬語を使っていた悠里も、今ではタメ口であることが多い。そのくらい、狼泉は気さくに振る舞ってくれるのだ。
だが、最初に話したとき以来、狼泉の名や、狼というの名への憎しみゆえに狼泉を忌み嫌ったという一族の話は、一度もできていない。なぜ狼泉がこの山で野垂れ死に寸前になっていたかも、聞くことができていなかった。
気まずい空気になると分かっていて、悠里がそれを尋ねる勇気を持てないというのが理由のひとつだ。狼泉の方も、話をするのを望んでいない様子である。
(国の名前の一部を一族の人間の名前に使うとか、一族の敵とされる人が、国から守護を奪ったと言われているとか……絶対、狼泉さんの一族は国で偉い立場だよね?)
冷静に話を振り返って、悠里はその事実に気づいていた。だが、それを確かめるには、機会を逸した気がする。
それに、狼泉が一族の者に嫌われていたなら、その話さえも狼泉を傷つけてしまう可能性がある。だから、悠里は何も聞けない。もう、狼泉の悲しそうな顔を見たくなかった。
「悠里、ここの苗はどうすればいい?」
狼泉が額の汗を袖で拭いつつ、悠里を振り返る。袖についていた土埃が、狼泉の顔を汚していた。
今日も朝早くから、狼泉は悠里を手伝って畑仕事をしてくれていたのだ。
片手に鍬を持つ姿は、高貴な身分の生まれには見えない。
(――いや、このかっこ良さと洗練された雰囲気は、ただ者じゃないな……)
自分の思考に否定を返しながら、悠里は狼泉に歩み寄った。
どれほど身なりが粗末で汚れていても、恵まれた容姿と立派な体格は失われるわけではない。汗を滴らせる狼泉の様子は、色気さえ漂っているように見える。
(天は彼に二物も三物も与えている……。こんな人を嫌うって、狼泉の一族の人は、どんな朴念仁の集まりなんだろう?)
悠里は本気でこう思っていたし、これが世間一般的に外れた意見ではないと信じていた。
「これは後であっちに植え替えるよ」
「そうか。では、運んでおこう」
悠里に代わり、狼泉は積極的に力仕事を担おうとする。体格差を考えれば、それも納得できるが、庇護すべき対象のように扱われるのは、少しくすぐったい気持ちになる。
なにせ、天藍たち亡き後、悠里は魔獣たちが傍にいたとはいえ、ほとんど一人で生きてきたのだ。久しぶりに感じる人の温もりや、会話を交わせる楽しさは、悠里の心を喜びで満たしていた。
そしてそれは、悠里が狼泉の事情を追及できない大きな理由でもあった。
(狼泉のことを全て知ってしまったら、ここからいなくなってしまう気がする……)
狼泉がここを去ることを考えたくない。ずっとここで一緒に暮らしてほしい――。言葉にできない願いが、胸に溢れ、とどまることを知らない。狼泉自身が帰ろうとする気配を見せないから、悠里も何も言わずにいる。
「……待って」
作物の苗を包んだ袋ごと、狼泉が担ぎ上げようとするのを引き留めた。
きょとんと目を瞬かせた狼泉の腕を引き、軽く屈ませた後、悠里は狼泉の汚れた頬を布で拭う。ついでに額に滲んでいた汗まで綺麗にした頃には、狼泉は恥ずかしそうに目を伏せ、耳をほのかに赤く染めていた。
「――うん、もっとかっこ良くなった」
「…………汚れていたか。かたじけない」
恥ずかしさを誤魔化すように頬を掻こうとするので、悠里はその手を掴んだ。狼泉はすぐに手が汚れていることに気づいて、そろりと視線を逸らす。
その気まずそうな仕草が、なんだか可愛らしくて笑ってしまう。
「ふふっ。苗はまだ置いたままでいいよ。先にお昼ごはんにしよう?」
「昼餉か。それは楽しみだ」
「そう? あまり大したものは作れないけど」
「いや、悠里が作る飯は、どれも美味い」
狼泉がおかしいほどに真剣な表情で言い募る。今度は悠里の方が、照れ隠しで視線を逸らしてしまった。
「……そんなに褒めても、果物くらいしか追加できないよ」
「果物も美味そうだな。今の季節は、何が旬だっただろうか?」
「……無花果を採ってきたばかりだよ」
「俺の好物だ。悠里は俺を喜ばせるのが上手いな」
共に家へと戻りながら会話をする。この時間が楽しくて、悠里は自然と微笑んでいた。
「きゅう……!」
不意に足に小さな衝撃がある。足を止めると、闇兎が半目で悠里を見上げていた。これはだいぶ機嫌を損ねてしまっている。午前中、一緒に山を歩き回ったから、ご機嫌だったはずなのに。
悠里は困ってしまい、視線で狼泉に助けを求めた。
狼泉もまた困った表情で、悠里と闇兎の間で視線を彷徨かせる。魔獣たちが悠里に懐いていることや安全性は理解したようだが、狼泉自身はまだ距離を取っているのだ。
「グルル……」
呆れたような鳴き声が聞こえた。そのすぐ後に、悠里の背後から近づいてきた白珠が、闇兎をくわえて歩き去っていく。
「きゅーっ!?」
ほぼ食われているような見た目で、闇兎が悲鳴のような鳴き声をあげる。悠里はポカンと口を開けて、連れ去られていくのを見送ってしまった。
「……あれは、大丈夫か? 食われるのでは?」
狼泉が恐ろしげに聞く。魔獣といえば獰猛で危険ということから、容易にその想像に至ったようだ。
「いや、それはないと思うけど……。いったい、どうしちゃったのかな?」
「それを俺に聞かれても困るが」
「……だよね」
悠里は狼泉と顔を見合せ、肩をすくめる。白珠が闇兎をどこに連れていこうとしているかは分からないが、それはおそらく悠里のためなのだろう。幼げで欲望に忠実な闇兎とは違い、白珠は思慮深く悠里に過保護だから。
「――とにかく、ごはんを食べよう!」
考えることを放棄して歩き出す悠里に、狼泉は苦笑してついていった。
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