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Ⅰ.異界での出会い
6.甘美な響き
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男を拾ってから四日。
相変わらず、男は目覚めない。
「大丈夫かな……」
悠里は男を心配しながら、頬を拭ってやる。
この世界には点滴などというものはなく、栄養補給には経口摂取が必要だ。悠里は白湯に溶いた薬を匙でゆっくり流し込むようにしているのだが、どうしても大半がこぼれてしまう。
薬での栄養補給にも限度があるので、早く目覚めてほしいのだが――。
「……白珠、ありがとう」
「グルル」
男の背もたれ代わりになっていてくれた白珠に礼を伝え、男をベッドに横たえた。
「きゅうー……」
闇兎が枕元で男の顔を覗き込む。どこか嫌そうな雰囲気なのは、最近の悠里の時間を、男が独り占めしているようなものだからだ。
男が心配で、悠里はろくに散歩にも出掛けていない。畑仕事や薬草採集を済ませると、そそくさと帰宅する日々である。
悠里と遊ぶのを好んでいる闇兎は、男に大層不満な様子だ。
「闇兎、外で遊んできていいんだよ?」
「きゅ」
苦笑混じりに提案するも、闇兎は一言で却下する。そして、男と悠里の間を遮るように、ベッドに身を伏せた。男が急に起きても、悠里が危害を加えられないよう、警戒しているのだ。
「……そんなに悪い人じゃないと思うんだけどなぁ」
悠里は男の手を取り、軽く握りながら呟いた。
傍に控えていた白珠が、同意を示すように、悠里の腕に頭を擦り寄せる。
誰も話さなくなると、部屋には静かな時間が流れる。拾った時よりも安定した男の寝息が、悠里をホッとさせてくれていた。
男が目覚めないことは心配だが、人肌は悠里にとって心地よい。目覚めた後、男が立ち去ってしまう可能性を考えたら、このままの状態が続いてほしいとさえ思ってしまう。
あまりに不謹慎な考えで、言葉にすることはできないが――。
「ん……ぅ……」
「っ、大丈夫ですか?」
悠里が罰当たりなことを考えたからか、それとも時間差で『目覚めてほしい』という願いが天に届いたのか。
不意に聞こえた呻き声に、悠里は身を乗り出して男の顔を覗き込む。握っていた手が、弱々しく握り返してきた。
「……ここ、は」
掠れた低い声が呟く。
男は眉をきつく寄せ、薄目で辺りを窺っていた。
「僕の家ですよ。山で倒れていたところを、運んできたんです」
寝起きの男に詳しく話しても理解できないだろうと、悠里は端的に状況を説明した。まずは男の不安を和らげるのが第一である。
微笑み語りかける悠里の顔を見上げて、男の目が大きく見張られた。美しい碧眼だ。澄みわたる青は、悠里が好きな湖の色に似ていた。
「っ、……そなた、は……」
「僕はこの家に住んでいる人間です。悠里と呼んでください」
「ユウリ……美しい名だな」
男が笑みをこぼした。やつれた顔なのに、ハッと息を呑んでしまうほど、男らしい色気のある笑みである。
悠里は、なぜかトクトクと逸る胸を押さえて、スッと身を引く。
このまま男を見つめていたら、なんだかおかしなことになってしまいそうだった。
不意に視線を感じる。白珠と闇兎だ。
少し不機嫌そうにしている闇兎は分かるが、白珠が微笑ましげな眼差しなのはなぜなのか。
悠里は小さく首を傾げた。
「っ、魔獣!?」
男が叫び、勢いよく身体を起こそうとする。だが、弱った身体がそのような無茶を許すわけがない。
呆気なく枕に頭を落とした男は、それでも全身を硬直させ、白珠を凝視した。距離的には闇兎の方が近いのだが、白珠の体格が立派なためか、そちらにしか気づいていないようだ。
「ご安心ください。この魔獣は、僕の友達で、あなたを襲うことはありませんから」
「……トモダチ?」
知らない単語であるように、男がおぼつかない口調で反復する。『友達』の意味は天藍たちにも通じたので、言葉を間違えたわけではないはずだが。
首を傾げている悠里へと、ゆっくりと視線が移る。男の顔には驚愕が浮かんでいた。
「――友達と言ったか? 魔獣を?」
男が悠里の言葉を信じられなかった理由が分かった。悠里は、魔獣が人に恐れられていることを忘れてしまっていたのだ。
「そうです。僕は、魔獣に好かれる性質らしくて。彼らは僕の意思を尊重してくれますから、この家にいる限りは安全ですよ」
安心させるように、悠里は穏やかな微笑みを心がけて説明する。だが、男の懐疑的な表情は、簡単には変わらなかった。
「……そんな人間が、存在するものだろうか。いるとしたら――」
男がハッと息を呑む。次いで、悠里を凝視した。思わず悠里の頬が引き攣り、腰が引けてしまうほどの強い眼差しだ。
「なにか……?」
困惑しながら問いかけた悠里を、男はなおも見つめ続けていたが、暫くして息を吐いて目を瞑る。
「……いや、なんでもない」
吐息混じりの返事には、諦念と悔恨と悲哀が滲んでいるようだった。
男がどうしてそのような反応をするのか、悠里にはまったく理解できない。
男の傍に、白珠たちを連れない方が良かっただろうか。だが、悠里に過保護なところがある二体が、その頼みを容易に受け入れたとも思えない。
「……あの、あなたのお名前は?」
男の言葉を最後に流れていた気まずい空気を変えるように、悠里は穏やかな口調で尋ねる。男が固く閉ざしていた目蓋をゆっくりと開けた。
「ああ……これは、失礼した。俺の名は狼泉。こんな体勢での挨拶となり、申し訳なく思う。それと……看病、かたじけない」
近くの桶に布が浸っているのを見た狼泉が、口元に苦い笑みを浮かべた。
「ロウセン……」
悠里の心臓が、トクン、と大きく鼓動を打つ。なぜか甘美な響きを伴って、唇が震えた。
相変わらず、男は目覚めない。
「大丈夫かな……」
悠里は男を心配しながら、頬を拭ってやる。
この世界には点滴などというものはなく、栄養補給には経口摂取が必要だ。悠里は白湯に溶いた薬を匙でゆっくり流し込むようにしているのだが、どうしても大半がこぼれてしまう。
薬での栄養補給にも限度があるので、早く目覚めてほしいのだが――。
「……白珠、ありがとう」
「グルル」
男の背もたれ代わりになっていてくれた白珠に礼を伝え、男をベッドに横たえた。
「きゅうー……」
闇兎が枕元で男の顔を覗き込む。どこか嫌そうな雰囲気なのは、最近の悠里の時間を、男が独り占めしているようなものだからだ。
男が心配で、悠里はろくに散歩にも出掛けていない。畑仕事や薬草採集を済ませると、そそくさと帰宅する日々である。
悠里と遊ぶのを好んでいる闇兎は、男に大層不満な様子だ。
「闇兎、外で遊んできていいんだよ?」
「きゅ」
苦笑混じりに提案するも、闇兎は一言で却下する。そして、男と悠里の間を遮るように、ベッドに身を伏せた。男が急に起きても、悠里が危害を加えられないよう、警戒しているのだ。
「……そんなに悪い人じゃないと思うんだけどなぁ」
悠里は男の手を取り、軽く握りながら呟いた。
傍に控えていた白珠が、同意を示すように、悠里の腕に頭を擦り寄せる。
誰も話さなくなると、部屋には静かな時間が流れる。拾った時よりも安定した男の寝息が、悠里をホッとさせてくれていた。
男が目覚めないことは心配だが、人肌は悠里にとって心地よい。目覚めた後、男が立ち去ってしまう可能性を考えたら、このままの状態が続いてほしいとさえ思ってしまう。
あまりに不謹慎な考えで、言葉にすることはできないが――。
「ん……ぅ……」
「っ、大丈夫ですか?」
悠里が罰当たりなことを考えたからか、それとも時間差で『目覚めてほしい』という願いが天に届いたのか。
不意に聞こえた呻き声に、悠里は身を乗り出して男の顔を覗き込む。握っていた手が、弱々しく握り返してきた。
「……ここ、は」
掠れた低い声が呟く。
男は眉をきつく寄せ、薄目で辺りを窺っていた。
「僕の家ですよ。山で倒れていたところを、運んできたんです」
寝起きの男に詳しく話しても理解できないだろうと、悠里は端的に状況を説明した。まずは男の不安を和らげるのが第一である。
微笑み語りかける悠里の顔を見上げて、男の目が大きく見張られた。美しい碧眼だ。澄みわたる青は、悠里が好きな湖の色に似ていた。
「っ、……そなた、は……」
「僕はこの家に住んでいる人間です。悠里と呼んでください」
「ユウリ……美しい名だな」
男が笑みをこぼした。やつれた顔なのに、ハッと息を呑んでしまうほど、男らしい色気のある笑みである。
悠里は、なぜかトクトクと逸る胸を押さえて、スッと身を引く。
このまま男を見つめていたら、なんだかおかしなことになってしまいそうだった。
不意に視線を感じる。白珠と闇兎だ。
少し不機嫌そうにしている闇兎は分かるが、白珠が微笑ましげな眼差しなのはなぜなのか。
悠里は小さく首を傾げた。
「っ、魔獣!?」
男が叫び、勢いよく身体を起こそうとする。だが、弱った身体がそのような無茶を許すわけがない。
呆気なく枕に頭を落とした男は、それでも全身を硬直させ、白珠を凝視した。距離的には闇兎の方が近いのだが、白珠の体格が立派なためか、そちらにしか気づいていないようだ。
「ご安心ください。この魔獣は、僕の友達で、あなたを襲うことはありませんから」
「……トモダチ?」
知らない単語であるように、男がおぼつかない口調で反復する。『友達』の意味は天藍たちにも通じたので、言葉を間違えたわけではないはずだが。
首を傾げている悠里へと、ゆっくりと視線が移る。男の顔には驚愕が浮かんでいた。
「――友達と言ったか? 魔獣を?」
男が悠里の言葉を信じられなかった理由が分かった。悠里は、魔獣が人に恐れられていることを忘れてしまっていたのだ。
「そうです。僕は、魔獣に好かれる性質らしくて。彼らは僕の意思を尊重してくれますから、この家にいる限りは安全ですよ」
安心させるように、悠里は穏やかな微笑みを心がけて説明する。だが、男の懐疑的な表情は、簡単には変わらなかった。
「……そんな人間が、存在するものだろうか。いるとしたら――」
男がハッと息を呑む。次いで、悠里を凝視した。思わず悠里の頬が引き攣り、腰が引けてしまうほどの強い眼差しだ。
「なにか……?」
困惑しながら問いかけた悠里を、男はなおも見つめ続けていたが、暫くして息を吐いて目を瞑る。
「……いや、なんでもない」
吐息混じりの返事には、諦念と悔恨と悲哀が滲んでいるようだった。
男がどうしてそのような反応をするのか、悠里にはまったく理解できない。
男の傍に、白珠たちを連れない方が良かっただろうか。だが、悠里に過保護なところがある二体が、その頼みを容易に受け入れたとも思えない。
「……あの、あなたのお名前は?」
男の言葉を最後に流れていた気まずい空気を変えるように、悠里は穏やかな口調で尋ねる。男が固く閉ざしていた目蓋をゆっくりと開けた。
「ああ……これは、失礼した。俺の名は狼泉。こんな体勢での挨拶となり、申し訳なく思う。それと……看病、かたじけない」
近くの桶に布が浸っているのを見た狼泉が、口元に苦い笑みを浮かべた。
「ロウセン……」
悠里の心臓が、トクン、と大きく鼓動を打つ。なぜか甘美な響きを伴って、唇が震えた。
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