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依存関係
一
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誰も居ない薄暗い居間は、もはや男の領域と言わんばかりだ。ソファーの下には作業途中の工具が散乱して、テーブルの上には自分専用の青色のカップが放置されている。部屋の主は退院してから仕事が忙しく殆ど帰宅していない。
片付けなければ、そう思ってもウィルソンはそれどころでは無かった。ソファーで体を抱くように丸めて、恐怖に耐えているのだ。
(おかしい)
じくじくと体が疼く。発散されることの無い性は、蛇のように這いずり回るのだ。
(くそ…私はおかしくなったのか)
舌先が覚えている感触がいつまでも離れず、また疼きが襲いかかった。悍ましい性欲が日に日に強くなっている気がする。
「気持ち悪い…」
腕に突き立てる爪が肉を抉るように引っ掻いたせいで四本の筋になった。直ぐに無かったことになるが、小さな痛みだけそこに残る。
何故あのような卑猥な口付けをしてきたのか、どうして毛嫌っている行為に、この体は滾るのか。
(…でも、あいつは安心すると言っていた…)
もしそれが本当なら、穢らわしいのは自分自身だ。ノエルはとてつもない不安を抱えていたに違いない。死にかけて、…見舞いに来てくれる家族も恐らく彼にはいないのだ。
『お前は誰からの好意も受け取らない。…誰のものにもならない。』
『それで十分だ』、そう言ってくれた男の言葉を信じたい。自分を殺してまでウィルソンと一緒に居たがっている、それは素直に嬉しかったのだ。
(…それに…私は取り返しのつかない事をしてしまった)
思い悩むウィルソンに寄ってきた掃除ロボットは、『登録名ヤマダ、カラ、着信デス。応答シマスカ』とその埃被ったボデイーをクルクル回した。
「ああ、繋いでくれ」
ぽん、という機械音の後、映し出されたモニターには憎めない歯抜けの笑顔を浮かべたヤマダが写っている。彼の働くスクラップ工場を背に、片手間で連絡したのだ。
『よぉビューティ。元気してるか?…うーん、なんか暗ぇ顔してんなあ』
「まぁぼちぼちだ。…ところで何か用か?仕事をサボってまで私に連絡するとは…」
『一応買い手が見つかったから連絡入れた。ガキのモツはすぐソールドアウトよ。』
彼はグルグルと右肩を回して『お陰で肩の治療費に充てられそうで助かった』と上機嫌だ。
ウィルソンは時々ヤマダに処理を頼むことがある。彼は
顔が広く、そして仕事も早い。報酬は死体の臓器の値段だ。
「それで?話は終わりか?」
『いや、本題はそれじゃねーんだ。実は知り合いから"イロメキ劇場"のチケットを貰ったんだ。お前ぇそういうの好きそうだからよ。いるか?』
劇場、と聞いてウィルソンの瞳はキラキラと輝いた。
「いいのか?じゃあ貰おうかな」
『あの弱そうなお前のオキニと行ってくりゃいい。気分転換にもなるだろうよ』
「…ああ、そうだな。誘ってみるよ…。じゃあまたな」
ウィルソンはヤマダとの通話を終わらせ、再びソファーに体を委ねる。するとすぐメッセージに二枚の電子チケットが送られてきた。イロメキ劇場、王国物語の公演だ。
(ヒラキを誘おうか…。この間普通に話したからもしかしたら…)
ウィルソンは直ぐにデリカロッドの事務室へ連絡する事にした。そして事務員の女にヒラキに繋いで欲しいと頼み、暫く保留音を聞いている。
このどうにもならぬ不安をヒラキならば落ち着かせてくれる、そう知っているからこそ相手の気持ちなど全く考えること無く行動するのだ。
『…はい』
応答した男の声を聞いて、ウィルソンは自然と顔が綻んだ。
「ヒラキ?私だ。」
『ああ…ウィリアムか。どうかしたのか?』
「実は王国物語の公演のチケットを二枚貰ったんだ。明日なんだが…一緒にどうだ?」
『悪いけど仕事だから…』
断られるかもしれない、とは分かっていた。突然の誘いであったし、一日中暇しているウィルソンとは違う。
「そうか、…清掃か?新しい社長はどうだ?酷いことをされていないか?」
『うん、まあ…』
「体調は?…無理をして仕事していないか?」
口がいつもより動くのは不安からだ。少しでも長くヒラキと会話することで安心を得る。自分勝手だと我ながら思うが、彼の与える安心が欲しい。きっとノエルも同じ感覚だったのだろう。
『…話はそれだけ?…お前も大変なんだろうけどもう…』
電話口の男はやんわり終わらせたがっている。そこでようやくウィルソンは『絶縁』された事を思い出し、先程より強い不安に襲われるのだ。
「…あ、ああそうだったな。悪い。一人で行くことにするよ」
『うん、そうしてくれ。…じゃあ忙しいから切るぞ』
ブチッとヒラキは電話を切った。静かな室内が全身を包んで、思考を悲観的な方向へ持っていくのだ。
(…私はヒラキの優しさに付け入ろうとしたんだ。最低最悪だ)と酷く落ち込む。体の熱は冷めたが、どうしようもなく心の隙間を埋めたくなる。
「…そしてその隙間をあいつで埋めようなんて…」
その白い指先で、通信モードを掃除モードに切り替えておいた。騒がしく足元を駆け回るソイツの事など意識の外だ。
ちょうどその頃帰宅した男の足音も耳に入らぬほど。
「…ただいま」
ソファーで項垂れる男にそう声を掛けたノエルは散らかった部屋に眉を寄せた。溜まっていた仕事がようやく片付いてゆっくり寛げる、そう思って帰宅したがまずは掃除をしなければならないだろう。
「…ッ!?…ああ、おかえり…」
「今日は起きていたんだな。いつも出る時声をかけていたが…」
恐らくだが寝たフリをしていたのだろう。それはとても腹立たしいが、家から居なくなっていない分マシだ。
「…ああ、さすがに毎日寝てばかりはいられない」
ノエルはジャケットをソファーに掛け、散らかったテーブルの上に買い物袋を置いた。隣に座るとウィルソンは距離を保ちたいのかソファーの端ギリギリまで避ける。
「さすがに傷つくんだが」
「悪い!そういうつもりでは…」
「俺が気持ち悪いんだろう。」
「違う…」
確かにノエルは急ぎ過ぎた。あの時は完全に性欲に支配されていたのだ。ヒラキに邪魔をされなければ、恐らく嫌がる男を力で捩じ伏せて犯していたに違いない。
(クソ、あの冴えない男が一々チラついてストレスだ)
病室から消えた二人はあの後何を話した?…ノエルにしているように、ウィルソンはヒラキに触れて安心している?
苛立ちが強くなる前に、悪い方に考えずここは"意識されている"と捉えることにする。
「…違うなら」
ノエルは男に手を差し伸べた。ギュッと瞑る目、強ばる体。その頬に触れた指先を全身で拒絶している。首筋まで下りた手のひらが鎖骨を撫で回しても、男はじっと堪えているだけだ。
「…ッ…の、ノエル…。」
「殴らないのか?…嫌なら拒絶してくれ」
「お前は…安心するからこういう事をしているんだよな?」
そんな訳がない、きっとウィルソンも分かっているだろうと思っていたがどうやら違うらしい。穢れを嫌い、遠ざけてきたからこそ他人の下心に疎いのだろう。
(…心配になる純粋さだ)
「………そうだな。お前に触れると安心する。きっと俺には安心出来る人や場所がなかったから過剰だったかもしれない」
彼はその言葉を聞いて暫く沈黙した。そして真面目な表情で体をノエルの方へ向けると、心地の良い声で「疑ってしまってすまない。」と謝るのだ。
ノエルの良心がチクリと傷む。嘘をついている訳では無い。ウィルソンに触れると安心する事にはする。ただそれよりも下心が大きいだけだ。
「…そうだ、お前に渡すものがある」
ノエルは話題を変えるべくテーブルの袋から黒い紙袋を取り出した。それを男に手渡して、中を見るよう促す。
「…なんだろう?」とウィルソンは紙袋の中身を取り出した。そこには手に乗る大きさの黒い箱が入っている。
「時計?これを私にくれるのか?」
紺色のベルト、品のあるプラチナシルバーのベゼル、三針のシンプルな文字盤は、ノエルが男に似合うと思って選んだデザインだ。
「こう見えて多機能だ。…何かあった時連絡が取れる。それに俺のカードも登録しているから金に困ったら使えばいい」
「誕生日でも無いのになんだか申し訳ないな…。付けていいか?」
彼は右腕に時計を付けようと箱から出した。だが慣れていないのかモタモタしているので、ノエルが付けてやる事にする。
微かに震える手首にそっとベルトを巻き付け、尾錠にそれを通していく。取れぬようきっちり取り付けて、ノエルはあまりにウィルソンに似合っていてうっとりと眺めた。地味すぎず、かと言って下品なデザインではいけない。洗練されていなければ。
自分が選んだものを身につけさせる高揚感は凄まじい。ノエルはもっとこの男を自分のものだと分かるように変えていきたいと考えている。
「…ありがとう」と少し緊張の解けた男はそれが自らを縛り付ける位置情報発信機とも知らずに嬉しそうだった。
スポットライトに当たる彼らは、その役になりきって演技している。『王国物語』は、王国が繁栄し滅亡するまでのわかり易いストーリーだ。勿論間違っているところや美化し過ぎているところもあるが。
客の入が良くないのは、演目内容と立地の問題も一つの要因だろう。エレモアシティーの上部は殆どが帝国派の人間の集まりだ。勿論差別的な人間ばかりでは無いが、気が付かぬうちに見下しているのだ。
「大変だー!帝国兵が攻め込んできたぞ!」
一階のS席にも関わらず、両隣には誰もいない。最前列には熱狂的なファンが陣取っているが、後の客は居眠りしているかウィルソンのようにぼんやり眺めている客だけだ。
「きゃー!やめてー!」
「げへへ、大人しくしろ!」
(…酷い大根役者だなぁ。)
一人で来てある意味良かった、ヒラキは恐らく船を漕いで眠ってしまっただろう。ノエルを誘おうかとも思ったが、掃除ロボットが最近ゴミを吸わなくなった理由を追求されるのは面倒だ。
ノエルは通信手段が無いと思ってウィルソンに腕時計を買ってくれたのだろう。まさかあのロボットが外部と連絡が取れるとは考えない。
(…しかし、高かったんじゃないだろうか)
右腕のプラチナがキラリと光る。着け心地も良く、見た目も機能も良い。彼はその中のカードも自由にしていいと随分太っ腹だ。だからこそ自分の行動一つ一つに罪悪感を感じる。劇中だと言うのにウィルソンは俯き、ぐっと奥歯を噛み締めた。
(…私はあいつに対して…気持ちの悪い欲望を…)
「―おい!誰だお前!下りろ!」
やけに迫真の演技をする役者がいる。ふと顔を上げると、いかにもなヤツらが主役の男に向かってピストルを突きつけている。世界観の欠片もなく、そして統一感のない服装の男女はざっと十数人程だろうか、まだ若い。
眠っていたサラリーマンはその怒声にも目を覚まさない。ぼんやりと眺めていたほかの観客もこれは演劇の内容の一部?と戸惑った表情をしている。
ゾロゾロと彼らは舞台から客席へ降り立ち、出入り口を塞いだ。
「我々は『王国打倒委員会』会員だ!」
そう宣言して初めて、客席がどよめく。確かに演目が王国に関するものであったから可能性はある。しかし王国民やその文化を破壊したいというのならこのスカスカの劇場をリスクを犯して襲撃するのは賢くない。
(…勘弁してくれ。何故私が芸術を嗜もうとすると邪魔が入るんだ…)
ウィルソンは帽子を深々と被り、大人しく席に座っている。
「助けてくれ!俺は帝国民だ!!身なりを見ればわかるだろ!」と情けなく喚く老人は、まさに気が付かぬうちに見下している人間の代表だ。
「騒ぐな!大人しくしてろ!…おい、誰一人ここから出すなよ」
いつもならば銃を乱射して手当り次第殺りそうだが、今回はやけに大人しい。まるで誰かを探すように、彼らは客の顔を覗き込んでいる。
(………非常にまずいな)
そのうちに二人ほどが両脇からこちらへやって来る。狭い通路が塞がれ逃げようにも逃げられない。
気の緩みのせいか?確かに最近付き纏われることも無かったから油断していた。…ただ運が悪かっただけか?
そういえば、ヤマダが一体誰からチケットを貰ったのか聞いていない。
(まさか、…ガキの死体を漁ってる時にくすねたんじゃないだろうな…)
「おい、帽子を脱げ。」
ついにそう言われてしまう。最悪椅子を飛び越えて逃げることも考えたが、彼らの手にはピストルがぶら下がっているし、出口にも見張りがいる。
「………すまないが、帽子が離れたくないと言っているので断ってもいいだろうか」
「はあ?何ふざけたこと言ってんだ。」
「ふざけたつもりは無いよ。ただ帽子がそう言うものだから…」
ウィルソンは時間を引き伸ばすため適当なことを言ってのける。貰ったばかりの腕時計でどうにかノエルと連絡が取れないかコソコソと試すが、如何せん昨日貰ったばかりなので扱いに慣れていない。どこをどう押せば連絡できるのかちゃんと確認しておくべきだった。
パッと背後から忍び寄った手によって持ち上げられた帽子は、空を舞って地面に落ちる。
「―そいつだ!間違いねぇ!」
舞台で役者を人質に取っていた一人がそう叫んだ。ウィルソンは反射的に身を捩り逃げようとするが、この狭い通路では思うようにはいかない。
「逃げようなんて馬鹿なマネするなよ。お前が暴れたら他の人間を殺す」
銃口を背中に押し当てられ、正面からはギラリと光るナイフが構えている。頬に掠めた刃にゆっくり皮膚が傷つき赤黒い血がドロリと伝っていくのだ。
他の客が殺されようがどうだっていい、と人間性を捨て去り自分勝手に行動するのは簡単だ。だが彼らは一つしかない命、ウィルソンと同じ基準で扱うのはさすがに気が引けた。自分が呑気に劇場へ行かなければ巻き込まれなかったかもしれないのだから。
「私をどうするつもりだ?」
「黙ってろ!…お前のせいで弟は…」
ナイフを持った男は憎しみに満ちた表情をしているのだろうが、暗いのでよく分からない。先程切れた頬がピリピリと痛み続けて嫌な気持ちだ。
「弟?何の話だ?」
「このクソ野郎!殺した奴のことなんて覚えてねぇってか!?」
振りかざした切っ先は、首元を狙っている。ウィルソンは庇うことなく白い首を晒した。頸動脈を切れば、大量の血が噴水のように彼らに降りかかるだろう。それを狙っていたのだ。
痛みは後からどうにでもなる。薬も家に帰れば置いてある、…最悪またリセットすれば良い話だ。
「おい!出血させるな!…そいつの血は毒だからな」
だが思惑通りにはいかないようだ。背後の男はあと少しの所で制止した。舌打ちが漏れるウィルソンの背中を銃口で突くと「歩け」と偉そうに命令するのだ。
「向こうに行ったらたっぷり可愛がってやるからな」
周りの視線が一点集中でウィルソンに集められる。仕方がない、ウィルソンは指示通りゆっくり歩みを進めた。
一人で来て良かった、と再度心の中で呟く。後のことはまだ考えついていない。
午前七時を回った頃、ヒラキ・ライトはようやく仕事を終えて帰ってきた。
部屋は明かりが付けられたままだが構わない。まずは全ての部屋が安全かどうかの確認からだ。浴室、台所の床下の収納、ベッドの下からクローゼットの中まで。それが済めばようやくそこが我が家だと実感出来る。
空腹を満たすためパサパサのパンを黙々と食べながらニュースでも見ようとテレビを付けた。
その日世間を賑わせたのは、最近若者に人気を獲得している王国打倒委員会だ。人気の秘訣はまだ未熟な精神と狭い視野の彼らに突き刺さるものがあるのだろう。
『ここ、イロメキ劇場が事件の現場となりました。怪我人は―』
マスコミがこぞってそこに集まってワイワイとお祭り騒ぎだ。
「……またこいつらか。よくやるよなあ…」
ヒラキはどこか冷めた様子で聞き流す。溜まった請求書をテーブルに広げて、今月の給料と照らし合わせてガックリ肩を落とした。こんな貧乏生活では先が思いやられる。
『―公演内容が『王国物語』だった事から犯行に及んだ可能性が…』
「………王国物語?」
ぼとりと床に食べかけのパンが落下する。その脳みそには前々日断った誘いを思い出していた。確かウィルソンは王国物語の公演を見に行くと言っていた。
(いや、考えすぎだ。他の劇場に決まってる。…それにあいつは一人で行くと言ったけど結局行かなかったかもしれない)
胸の奥が騒ぎ出して気持ちが悪い。何か良くない事が起きているのではないか。ヒラキはその予感を信じたくないが、大抵この予感は当たる。
「…それに、俺には…関係ないし……」
そう口にしてみたものの、彼は落ち着きなく部屋を練り歩く。落ちたパンをぐにゅりと踏み潰したが気が付かず、ガリガリと音が鳴るほど自らの唇を噛んだ。その自傷行為に気がついたのは血の味がしたからだ。
『証言によると観客の男性が連れ去られたという情報もあり、警察は慎重に捜査を―』
悪寒が背中から襲ってくる。鼓動がおかしな脈を刻み、このままではゆっくり眠ることも出来ないだろう。
心配なら、確認すればいい。何度も、何度でも。
ヒラキは財布を掴み取って玄関へと向かった。
空間に浮かび上がった映像の中で、彼らはその女性の服を脱がせ、好き勝手に暴行を加える。露出された肌にタバコを押し付けて、飲み終えたビール瓶を穴という穴にぶち込んでケラケラと高笑いをするのだ。
パンパンに腫れ上がった顔で彼女は苦しそうに呻き、痛みと屈辱に耐えているだけだ。
「―…という動画なんだかね」
フェルトマイアー・GFは映像を停止させると、神妙な顔をしてそこにいる二人の顔を順に見回した。
「課長、これはなんの映像で?…俺はてっきりイロメキ劇場関連の事かと思ったが…それになんでこいつと…」
捜査部隊長のケイシー・ケンドルは、ゴツゴツとした顔を中心に寄せ不満を隠すことなくそう言った。苛立っているのか腕をがっちり組んで、隣のノエルに敵意を剥き出しにする。
「機密部にしてもまだマシなやつがいたろうに…」と嫌味を垂れ流し、ノエルが反発するのを待っているようだ。だがノエルは他人の悪意に反応していられるほど余裕が無い。
昨夜ウィリアム・ウィルソンに贈った腕時計の位置情報がイロメキ劇場に向かったことを確認していた。すぐ帰るだろうと特に何も考えなかった、その事が悔やまれる。
そして起こった人質誘拐事件。怪我人は幸い居なかったが男が連れていかれたという証言にノエルは確信していた。ウィルソンは事件に巻き込まれたのだ。
(…早くどうにかしなければ…)
フェルトマイアーに呼び出される前、ウィルソンの居場所を示すピンがエレモアシティー南区の工場地帯で停滞していた。そこにウィルソンが拘束されている、と考えるだけで苛立ちと焦燥感に襲われる。
「今回君たち二人には別件を頼みたくて。彼女は王国打倒委員会に潜入していたミランダ・モスカという女性でね。帝国陸軍の情報化の諜報員だ。」
「…帝国軍?まさかとは思いますがこの女を救出しろなんて言わないですよね」
ケイシーの機嫌が更に悪くなる。元々帝国警察と帝国軍は干渉せず、それぞれ独立した組織だ。それが何故帝国警察に話が回ってきたのか。
「そのまさかだよ。確かに本来ならば我々が関与すべきところでは無い。しかし彼らは『仲間と交換するなら解放する』と言っていてね。その仲間っていうのが現在ウチで拘留されているサロメ・バーンという少女なんだ」
フェルトマイアーは淡々と説明をしているが、ノエルは正直何一つ頭に入っていない。
(…クソ、それどころでは無いのに…)と苛立ちを募らせ、唇をぎゅっと結んだ。何処ぞの知らない女の救出任務に就くより、男を救出しなければならない。
「同行者の人数は二人まで、らしいから君達を選んだよ」と軽いノリで話すフェルトマイアーに、ケイシーとノエルはムッと顔を顰める。
「詳しい事は後でデータベースに送るね。今日は来る日に備えて帰っていいよ」と二人から不平不満が出る前に話を締めるのだ。
「……ではお言葉に甘えて今日は帰ることにします」とケイシーは不貞腐れたようにそう言って出口へ向かった。ノエルも会釈だけしてさっさと帰ることにする。帰って何か良い方法を考えなければ。
「あ、アーサー君。君は待ちたまえ」
男がそう引き止めるので、ノエルはまた焦燥感に歯止めをかけられるのだ。
「……何でしょうか」
フェルトマイアーはにっこりと胡散臭い笑顔を浮かべ、再び空間にモニターを表示させた。
その映像には帽子を深く被ったウィルソンがイロメキ劇場へ入ろうとしている姿が映し出されている。
「彼に見覚えは?」
そう問われ知っているとは言えない。しかも不死身の男を匿っているのだ。ノエルは静かに首を横に振って、無意識に視線を逸らした。
「隠す必要は無いよ。彼から君との関係は聞いているから。」
「……」
「うんうん、警戒心は大切だ。下手にペラペラ喋らない、君なら彼を任せても大丈夫。」
フェルトマイアーは満足気にそう言うと、その白髪混じりの髪を手のひらで軽く整える。
「どう?楽しいでしょ。彼と過ごすのは」
ウィルソンの事にマウントを取られたような気がしてノエルはぎっと睨んだ。目上だろうが何だろうが気に入らない。
「僕を敵視する必要は無いよ。何せ僕は君を応援してるからね」
彼は不死身の男の捜索が中止されたことに多少なりとも関係しているだろう。それともカマをかけているだけだろうか。
「…脱線してしまったね。本題に戻ろう。今回のイロメキ劇場人質誘拐事件で誘拐されたのはウィルソン君だ。」
「……」
彼は「大丈夫」と明るい声色で励ました。ノエルにとっては何も大丈夫ではない。
「彼は王打会から目をつけられていたからねぇ。」
「…」
フェルトマイアーは呑気に体の凝りを解しながら緊張感の欠けらも無い。不死身の男が王打会に拉致されたというのにだ。
「彼を連れ戻せとは言わないんですね」
「自分でどうにかすると思うよ。それに我々が組織として動くと結局不死身の男は帝国警察の支配下になる。」
王打会に奪われるのも帝国警察に奪われるのもノエルは絶対に許せない。ギリギリと奥歯を噛むノエルの反応を見て明らかに彼は楽しんでいる。
「…でも個人で動くなら話は別だ」
「…それを伝えるために俺を引き止めたんですか?」
「うん。"僕は君のプライベートまで干渉しない、だから何してても分からなかった"ということで。」
「…課長は何が目的ですか?」
「沢山ある中の一つとしてだが、君はウィルソン君に相応しい人間なのではないかと思ってね。」
あの美しい男の隣には洗練された価値あるものがいるべきだ、とフェルトマイアーは続けてそう言った。ノエルはそれに謙遜などで返すつもりは全くない。
「相応しい…ですか。俺に適任ですね」
「うん、僕もそうだと思うよ。…じゃあ頑張ってね」
ノエルは男に一礼し退室する。その背中を満面の笑みで見送ったフェルトマイアーは(自信もある、実力も、容姿も金も何もかもガラクタでは太刀打ちできない)と上機嫌に鼻歌を歌ったのだ。
片付けなければ、そう思ってもウィルソンはそれどころでは無かった。ソファーで体を抱くように丸めて、恐怖に耐えているのだ。
(おかしい)
じくじくと体が疼く。発散されることの無い性は、蛇のように這いずり回るのだ。
(くそ…私はおかしくなったのか)
舌先が覚えている感触がいつまでも離れず、また疼きが襲いかかった。悍ましい性欲が日に日に強くなっている気がする。
「気持ち悪い…」
腕に突き立てる爪が肉を抉るように引っ掻いたせいで四本の筋になった。直ぐに無かったことになるが、小さな痛みだけそこに残る。
何故あのような卑猥な口付けをしてきたのか、どうして毛嫌っている行為に、この体は滾るのか。
(…でも、あいつは安心すると言っていた…)
もしそれが本当なら、穢らわしいのは自分自身だ。ノエルはとてつもない不安を抱えていたに違いない。死にかけて、…見舞いに来てくれる家族も恐らく彼にはいないのだ。
『お前は誰からの好意も受け取らない。…誰のものにもならない。』
『それで十分だ』、そう言ってくれた男の言葉を信じたい。自分を殺してまでウィルソンと一緒に居たがっている、それは素直に嬉しかったのだ。
(…それに…私は取り返しのつかない事をしてしまった)
思い悩むウィルソンに寄ってきた掃除ロボットは、『登録名ヤマダ、カラ、着信デス。応答シマスカ』とその埃被ったボデイーをクルクル回した。
「ああ、繋いでくれ」
ぽん、という機械音の後、映し出されたモニターには憎めない歯抜けの笑顔を浮かべたヤマダが写っている。彼の働くスクラップ工場を背に、片手間で連絡したのだ。
『よぉビューティ。元気してるか?…うーん、なんか暗ぇ顔してんなあ』
「まぁぼちぼちだ。…ところで何か用か?仕事をサボってまで私に連絡するとは…」
『一応買い手が見つかったから連絡入れた。ガキのモツはすぐソールドアウトよ。』
彼はグルグルと右肩を回して『お陰で肩の治療費に充てられそうで助かった』と上機嫌だ。
ウィルソンは時々ヤマダに処理を頼むことがある。彼は
顔が広く、そして仕事も早い。報酬は死体の臓器の値段だ。
「それで?話は終わりか?」
『いや、本題はそれじゃねーんだ。実は知り合いから"イロメキ劇場"のチケットを貰ったんだ。お前ぇそういうの好きそうだからよ。いるか?』
劇場、と聞いてウィルソンの瞳はキラキラと輝いた。
「いいのか?じゃあ貰おうかな」
『あの弱そうなお前のオキニと行ってくりゃいい。気分転換にもなるだろうよ』
「…ああ、そうだな。誘ってみるよ…。じゃあまたな」
ウィルソンはヤマダとの通話を終わらせ、再びソファーに体を委ねる。するとすぐメッセージに二枚の電子チケットが送られてきた。イロメキ劇場、王国物語の公演だ。
(ヒラキを誘おうか…。この間普通に話したからもしかしたら…)
ウィルソンは直ぐにデリカロッドの事務室へ連絡する事にした。そして事務員の女にヒラキに繋いで欲しいと頼み、暫く保留音を聞いている。
このどうにもならぬ不安をヒラキならば落ち着かせてくれる、そう知っているからこそ相手の気持ちなど全く考えること無く行動するのだ。
『…はい』
応答した男の声を聞いて、ウィルソンは自然と顔が綻んだ。
「ヒラキ?私だ。」
『ああ…ウィリアムか。どうかしたのか?』
「実は王国物語の公演のチケットを二枚貰ったんだ。明日なんだが…一緒にどうだ?」
『悪いけど仕事だから…』
断られるかもしれない、とは分かっていた。突然の誘いであったし、一日中暇しているウィルソンとは違う。
「そうか、…清掃か?新しい社長はどうだ?酷いことをされていないか?」
『うん、まあ…』
「体調は?…無理をして仕事していないか?」
口がいつもより動くのは不安からだ。少しでも長くヒラキと会話することで安心を得る。自分勝手だと我ながら思うが、彼の与える安心が欲しい。きっとノエルも同じ感覚だったのだろう。
『…話はそれだけ?…お前も大変なんだろうけどもう…』
電話口の男はやんわり終わらせたがっている。そこでようやくウィルソンは『絶縁』された事を思い出し、先程より強い不安に襲われるのだ。
「…あ、ああそうだったな。悪い。一人で行くことにするよ」
『うん、そうしてくれ。…じゃあ忙しいから切るぞ』
ブチッとヒラキは電話を切った。静かな室内が全身を包んで、思考を悲観的な方向へ持っていくのだ。
(…私はヒラキの優しさに付け入ろうとしたんだ。最低最悪だ)と酷く落ち込む。体の熱は冷めたが、どうしようもなく心の隙間を埋めたくなる。
「…そしてその隙間をあいつで埋めようなんて…」
その白い指先で、通信モードを掃除モードに切り替えておいた。騒がしく足元を駆け回るソイツの事など意識の外だ。
ちょうどその頃帰宅した男の足音も耳に入らぬほど。
「…ただいま」
ソファーで項垂れる男にそう声を掛けたノエルは散らかった部屋に眉を寄せた。溜まっていた仕事がようやく片付いてゆっくり寛げる、そう思って帰宅したがまずは掃除をしなければならないだろう。
「…ッ!?…ああ、おかえり…」
「今日は起きていたんだな。いつも出る時声をかけていたが…」
恐らくだが寝たフリをしていたのだろう。それはとても腹立たしいが、家から居なくなっていない分マシだ。
「…ああ、さすがに毎日寝てばかりはいられない」
ノエルはジャケットをソファーに掛け、散らかったテーブルの上に買い物袋を置いた。隣に座るとウィルソンは距離を保ちたいのかソファーの端ギリギリまで避ける。
「さすがに傷つくんだが」
「悪い!そういうつもりでは…」
「俺が気持ち悪いんだろう。」
「違う…」
確かにノエルは急ぎ過ぎた。あの時は完全に性欲に支配されていたのだ。ヒラキに邪魔をされなければ、恐らく嫌がる男を力で捩じ伏せて犯していたに違いない。
(クソ、あの冴えない男が一々チラついてストレスだ)
病室から消えた二人はあの後何を話した?…ノエルにしているように、ウィルソンはヒラキに触れて安心している?
苛立ちが強くなる前に、悪い方に考えずここは"意識されている"と捉えることにする。
「…違うなら」
ノエルは男に手を差し伸べた。ギュッと瞑る目、強ばる体。その頬に触れた指先を全身で拒絶している。首筋まで下りた手のひらが鎖骨を撫で回しても、男はじっと堪えているだけだ。
「…ッ…の、ノエル…。」
「殴らないのか?…嫌なら拒絶してくれ」
「お前は…安心するからこういう事をしているんだよな?」
そんな訳がない、きっとウィルソンも分かっているだろうと思っていたがどうやら違うらしい。穢れを嫌い、遠ざけてきたからこそ他人の下心に疎いのだろう。
(…心配になる純粋さだ)
「………そうだな。お前に触れると安心する。きっと俺には安心出来る人や場所がなかったから過剰だったかもしれない」
彼はその言葉を聞いて暫く沈黙した。そして真面目な表情で体をノエルの方へ向けると、心地の良い声で「疑ってしまってすまない。」と謝るのだ。
ノエルの良心がチクリと傷む。嘘をついている訳では無い。ウィルソンに触れると安心する事にはする。ただそれよりも下心が大きいだけだ。
「…そうだ、お前に渡すものがある」
ノエルは話題を変えるべくテーブルの袋から黒い紙袋を取り出した。それを男に手渡して、中を見るよう促す。
「…なんだろう?」とウィルソンは紙袋の中身を取り出した。そこには手に乗る大きさの黒い箱が入っている。
「時計?これを私にくれるのか?」
紺色のベルト、品のあるプラチナシルバーのベゼル、三針のシンプルな文字盤は、ノエルが男に似合うと思って選んだデザインだ。
「こう見えて多機能だ。…何かあった時連絡が取れる。それに俺のカードも登録しているから金に困ったら使えばいい」
「誕生日でも無いのになんだか申し訳ないな…。付けていいか?」
彼は右腕に時計を付けようと箱から出した。だが慣れていないのかモタモタしているので、ノエルが付けてやる事にする。
微かに震える手首にそっとベルトを巻き付け、尾錠にそれを通していく。取れぬようきっちり取り付けて、ノエルはあまりにウィルソンに似合っていてうっとりと眺めた。地味すぎず、かと言って下品なデザインではいけない。洗練されていなければ。
自分が選んだものを身につけさせる高揚感は凄まじい。ノエルはもっとこの男を自分のものだと分かるように変えていきたいと考えている。
「…ありがとう」と少し緊張の解けた男はそれが自らを縛り付ける位置情報発信機とも知らずに嬉しそうだった。
スポットライトに当たる彼らは、その役になりきって演技している。『王国物語』は、王国が繁栄し滅亡するまでのわかり易いストーリーだ。勿論間違っているところや美化し過ぎているところもあるが。
客の入が良くないのは、演目内容と立地の問題も一つの要因だろう。エレモアシティーの上部は殆どが帝国派の人間の集まりだ。勿論差別的な人間ばかりでは無いが、気が付かぬうちに見下しているのだ。
「大変だー!帝国兵が攻め込んできたぞ!」
一階のS席にも関わらず、両隣には誰もいない。最前列には熱狂的なファンが陣取っているが、後の客は居眠りしているかウィルソンのようにぼんやり眺めている客だけだ。
「きゃー!やめてー!」
「げへへ、大人しくしろ!」
(…酷い大根役者だなぁ。)
一人で来てある意味良かった、ヒラキは恐らく船を漕いで眠ってしまっただろう。ノエルを誘おうかとも思ったが、掃除ロボットが最近ゴミを吸わなくなった理由を追求されるのは面倒だ。
ノエルは通信手段が無いと思ってウィルソンに腕時計を買ってくれたのだろう。まさかあのロボットが外部と連絡が取れるとは考えない。
(…しかし、高かったんじゃないだろうか)
右腕のプラチナがキラリと光る。着け心地も良く、見た目も機能も良い。彼はその中のカードも自由にしていいと随分太っ腹だ。だからこそ自分の行動一つ一つに罪悪感を感じる。劇中だと言うのにウィルソンは俯き、ぐっと奥歯を噛み締めた。
(…私はあいつに対して…気持ちの悪い欲望を…)
「―おい!誰だお前!下りろ!」
やけに迫真の演技をする役者がいる。ふと顔を上げると、いかにもなヤツらが主役の男に向かってピストルを突きつけている。世界観の欠片もなく、そして統一感のない服装の男女はざっと十数人程だろうか、まだ若い。
眠っていたサラリーマンはその怒声にも目を覚まさない。ぼんやりと眺めていたほかの観客もこれは演劇の内容の一部?と戸惑った表情をしている。
ゾロゾロと彼らは舞台から客席へ降り立ち、出入り口を塞いだ。
「我々は『王国打倒委員会』会員だ!」
そう宣言して初めて、客席がどよめく。確かに演目が王国に関するものであったから可能性はある。しかし王国民やその文化を破壊したいというのならこのスカスカの劇場をリスクを犯して襲撃するのは賢くない。
(…勘弁してくれ。何故私が芸術を嗜もうとすると邪魔が入るんだ…)
ウィルソンは帽子を深々と被り、大人しく席に座っている。
「助けてくれ!俺は帝国民だ!!身なりを見ればわかるだろ!」と情けなく喚く老人は、まさに気が付かぬうちに見下している人間の代表だ。
「騒ぐな!大人しくしてろ!…おい、誰一人ここから出すなよ」
いつもならば銃を乱射して手当り次第殺りそうだが、今回はやけに大人しい。まるで誰かを探すように、彼らは客の顔を覗き込んでいる。
(………非常にまずいな)
そのうちに二人ほどが両脇からこちらへやって来る。狭い通路が塞がれ逃げようにも逃げられない。
気の緩みのせいか?確かに最近付き纏われることも無かったから油断していた。…ただ運が悪かっただけか?
そういえば、ヤマダが一体誰からチケットを貰ったのか聞いていない。
(まさか、…ガキの死体を漁ってる時にくすねたんじゃないだろうな…)
「おい、帽子を脱げ。」
ついにそう言われてしまう。最悪椅子を飛び越えて逃げることも考えたが、彼らの手にはピストルがぶら下がっているし、出口にも見張りがいる。
「………すまないが、帽子が離れたくないと言っているので断ってもいいだろうか」
「はあ?何ふざけたこと言ってんだ。」
「ふざけたつもりは無いよ。ただ帽子がそう言うものだから…」
ウィルソンは時間を引き伸ばすため適当なことを言ってのける。貰ったばかりの腕時計でどうにかノエルと連絡が取れないかコソコソと試すが、如何せん昨日貰ったばかりなので扱いに慣れていない。どこをどう押せば連絡できるのかちゃんと確認しておくべきだった。
パッと背後から忍び寄った手によって持ち上げられた帽子は、空を舞って地面に落ちる。
「―そいつだ!間違いねぇ!」
舞台で役者を人質に取っていた一人がそう叫んだ。ウィルソンは反射的に身を捩り逃げようとするが、この狭い通路では思うようにはいかない。
「逃げようなんて馬鹿なマネするなよ。お前が暴れたら他の人間を殺す」
銃口を背中に押し当てられ、正面からはギラリと光るナイフが構えている。頬に掠めた刃にゆっくり皮膚が傷つき赤黒い血がドロリと伝っていくのだ。
他の客が殺されようがどうだっていい、と人間性を捨て去り自分勝手に行動するのは簡単だ。だが彼らは一つしかない命、ウィルソンと同じ基準で扱うのはさすがに気が引けた。自分が呑気に劇場へ行かなければ巻き込まれなかったかもしれないのだから。
「私をどうするつもりだ?」
「黙ってろ!…お前のせいで弟は…」
ナイフを持った男は憎しみに満ちた表情をしているのだろうが、暗いのでよく分からない。先程切れた頬がピリピリと痛み続けて嫌な気持ちだ。
「弟?何の話だ?」
「このクソ野郎!殺した奴のことなんて覚えてねぇってか!?」
振りかざした切っ先は、首元を狙っている。ウィルソンは庇うことなく白い首を晒した。頸動脈を切れば、大量の血が噴水のように彼らに降りかかるだろう。それを狙っていたのだ。
痛みは後からどうにでもなる。薬も家に帰れば置いてある、…最悪またリセットすれば良い話だ。
「おい!出血させるな!…そいつの血は毒だからな」
だが思惑通りにはいかないようだ。背後の男はあと少しの所で制止した。舌打ちが漏れるウィルソンの背中を銃口で突くと「歩け」と偉そうに命令するのだ。
「向こうに行ったらたっぷり可愛がってやるからな」
周りの視線が一点集中でウィルソンに集められる。仕方がない、ウィルソンは指示通りゆっくり歩みを進めた。
一人で来て良かった、と再度心の中で呟く。後のことはまだ考えついていない。
午前七時を回った頃、ヒラキ・ライトはようやく仕事を終えて帰ってきた。
部屋は明かりが付けられたままだが構わない。まずは全ての部屋が安全かどうかの確認からだ。浴室、台所の床下の収納、ベッドの下からクローゼットの中まで。それが済めばようやくそこが我が家だと実感出来る。
空腹を満たすためパサパサのパンを黙々と食べながらニュースでも見ようとテレビを付けた。
その日世間を賑わせたのは、最近若者に人気を獲得している王国打倒委員会だ。人気の秘訣はまだ未熟な精神と狭い視野の彼らに突き刺さるものがあるのだろう。
『ここ、イロメキ劇場が事件の現場となりました。怪我人は―』
マスコミがこぞってそこに集まってワイワイとお祭り騒ぎだ。
「……またこいつらか。よくやるよなあ…」
ヒラキはどこか冷めた様子で聞き流す。溜まった請求書をテーブルに広げて、今月の給料と照らし合わせてガックリ肩を落とした。こんな貧乏生活では先が思いやられる。
『―公演内容が『王国物語』だった事から犯行に及んだ可能性が…』
「………王国物語?」
ぼとりと床に食べかけのパンが落下する。その脳みそには前々日断った誘いを思い出していた。確かウィルソンは王国物語の公演を見に行くと言っていた。
(いや、考えすぎだ。他の劇場に決まってる。…それにあいつは一人で行くと言ったけど結局行かなかったかもしれない)
胸の奥が騒ぎ出して気持ちが悪い。何か良くない事が起きているのではないか。ヒラキはその予感を信じたくないが、大抵この予感は当たる。
「…それに、俺には…関係ないし……」
そう口にしてみたものの、彼は落ち着きなく部屋を練り歩く。落ちたパンをぐにゅりと踏み潰したが気が付かず、ガリガリと音が鳴るほど自らの唇を噛んだ。その自傷行為に気がついたのは血の味がしたからだ。
『証言によると観客の男性が連れ去られたという情報もあり、警察は慎重に捜査を―』
悪寒が背中から襲ってくる。鼓動がおかしな脈を刻み、このままではゆっくり眠ることも出来ないだろう。
心配なら、確認すればいい。何度も、何度でも。
ヒラキは財布を掴み取って玄関へと向かった。
空間に浮かび上がった映像の中で、彼らはその女性の服を脱がせ、好き勝手に暴行を加える。露出された肌にタバコを押し付けて、飲み終えたビール瓶を穴という穴にぶち込んでケラケラと高笑いをするのだ。
パンパンに腫れ上がった顔で彼女は苦しそうに呻き、痛みと屈辱に耐えているだけだ。
「―…という動画なんだかね」
フェルトマイアー・GFは映像を停止させると、神妙な顔をしてそこにいる二人の顔を順に見回した。
「課長、これはなんの映像で?…俺はてっきりイロメキ劇場関連の事かと思ったが…それになんでこいつと…」
捜査部隊長のケイシー・ケンドルは、ゴツゴツとした顔を中心に寄せ不満を隠すことなくそう言った。苛立っているのか腕をがっちり組んで、隣のノエルに敵意を剥き出しにする。
「機密部にしてもまだマシなやつがいたろうに…」と嫌味を垂れ流し、ノエルが反発するのを待っているようだ。だがノエルは他人の悪意に反応していられるほど余裕が無い。
昨夜ウィリアム・ウィルソンに贈った腕時計の位置情報がイロメキ劇場に向かったことを確認していた。すぐ帰るだろうと特に何も考えなかった、その事が悔やまれる。
そして起こった人質誘拐事件。怪我人は幸い居なかったが男が連れていかれたという証言にノエルは確信していた。ウィルソンは事件に巻き込まれたのだ。
(…早くどうにかしなければ…)
フェルトマイアーに呼び出される前、ウィルソンの居場所を示すピンがエレモアシティー南区の工場地帯で停滞していた。そこにウィルソンが拘束されている、と考えるだけで苛立ちと焦燥感に襲われる。
「今回君たち二人には別件を頼みたくて。彼女は王国打倒委員会に潜入していたミランダ・モスカという女性でね。帝国陸軍の情報化の諜報員だ。」
「…帝国軍?まさかとは思いますがこの女を救出しろなんて言わないですよね」
ケイシーの機嫌が更に悪くなる。元々帝国警察と帝国軍は干渉せず、それぞれ独立した組織だ。それが何故帝国警察に話が回ってきたのか。
「そのまさかだよ。確かに本来ならば我々が関与すべきところでは無い。しかし彼らは『仲間と交換するなら解放する』と言っていてね。その仲間っていうのが現在ウチで拘留されているサロメ・バーンという少女なんだ」
フェルトマイアーは淡々と説明をしているが、ノエルは正直何一つ頭に入っていない。
(…クソ、それどころでは無いのに…)と苛立ちを募らせ、唇をぎゅっと結んだ。何処ぞの知らない女の救出任務に就くより、男を救出しなければならない。
「同行者の人数は二人まで、らしいから君達を選んだよ」と軽いノリで話すフェルトマイアーに、ケイシーとノエルはムッと顔を顰める。
「詳しい事は後でデータベースに送るね。今日は来る日に備えて帰っていいよ」と二人から不平不満が出る前に話を締めるのだ。
「……ではお言葉に甘えて今日は帰ることにします」とケイシーは不貞腐れたようにそう言って出口へ向かった。ノエルも会釈だけしてさっさと帰ることにする。帰って何か良い方法を考えなければ。
「あ、アーサー君。君は待ちたまえ」
男がそう引き止めるので、ノエルはまた焦燥感に歯止めをかけられるのだ。
「……何でしょうか」
フェルトマイアーはにっこりと胡散臭い笑顔を浮かべ、再び空間にモニターを表示させた。
その映像には帽子を深く被ったウィルソンがイロメキ劇場へ入ろうとしている姿が映し出されている。
「彼に見覚えは?」
そう問われ知っているとは言えない。しかも不死身の男を匿っているのだ。ノエルは静かに首を横に振って、無意識に視線を逸らした。
「隠す必要は無いよ。彼から君との関係は聞いているから。」
「……」
「うんうん、警戒心は大切だ。下手にペラペラ喋らない、君なら彼を任せても大丈夫。」
フェルトマイアーは満足気にそう言うと、その白髪混じりの髪を手のひらで軽く整える。
「どう?楽しいでしょ。彼と過ごすのは」
ウィルソンの事にマウントを取られたような気がしてノエルはぎっと睨んだ。目上だろうが何だろうが気に入らない。
「僕を敵視する必要は無いよ。何せ僕は君を応援してるからね」
彼は不死身の男の捜索が中止されたことに多少なりとも関係しているだろう。それともカマをかけているだけだろうか。
「…脱線してしまったね。本題に戻ろう。今回のイロメキ劇場人質誘拐事件で誘拐されたのはウィルソン君だ。」
「……」
彼は「大丈夫」と明るい声色で励ました。ノエルにとっては何も大丈夫ではない。
「彼は王打会から目をつけられていたからねぇ。」
「…」
フェルトマイアーは呑気に体の凝りを解しながら緊張感の欠けらも無い。不死身の男が王打会に拉致されたというのにだ。
「彼を連れ戻せとは言わないんですね」
「自分でどうにかすると思うよ。それに我々が組織として動くと結局不死身の男は帝国警察の支配下になる。」
王打会に奪われるのも帝国警察に奪われるのもノエルは絶対に許せない。ギリギリと奥歯を噛むノエルの反応を見て明らかに彼は楽しんでいる。
「…でも個人で動くなら話は別だ」
「…それを伝えるために俺を引き止めたんですか?」
「うん。"僕は君のプライベートまで干渉しない、だから何してても分からなかった"ということで。」
「…課長は何が目的ですか?」
「沢山ある中の一つとしてだが、君はウィルソン君に相応しい人間なのではないかと思ってね。」
あの美しい男の隣には洗練された価値あるものがいるべきだ、とフェルトマイアーは続けてそう言った。ノエルはそれに謙遜などで返すつもりは全くない。
「相応しい…ですか。俺に適任ですね」
「うん、僕もそうだと思うよ。…じゃあ頑張ってね」
ノエルは男に一礼し退室する。その背中を満面の笑みで見送ったフェルトマイアーは(自信もある、実力も、容姿も金も何もかもガラクタでは太刀打ちできない)と上機嫌に鼻歌を歌ったのだ。
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