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執拗く
三
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飛び回るハエは、ドロドロに変色した肉に産卵する。足元に広がったシミは古い建物のせいか床板の隙間を伝って下の階の天井まで広がった。
体格の良い男が体当たりしたなら簡単に開きそうな扉から漂う強烈な刺激臭は何度か嗅いだことがある。ヒラキはハンカチを取り出して鼻と口を覆いながら施錠していない扉を開けた。
濃くなった臭いだけでは無い、扉を開け放つと無数のハエが出迎えるのだ。
「おい!ウィリアム!!外にまで凄い匂いが……」
タバコを咥えて一服、壁に寄りかかる男はこちらを捉えると「おかえり」と笑った。
その足元に広がる汁は、血なのか、体液なのか分からないが粘土があり、彼が歩くとねっとりと絡みついている。
奥に転がる死体は原型を辛うじて留めているだけで、どこの誰、とまでは判別できない。恐らくは女性だろうか。
胃から上ってくる。熱く、苦く、酸っぱいものが。ぎゅ、ぎゅ、胃袋が絞られ我慢出来ずに部屋の隅で吐き出した。
「お前、…それ、誰なんだ?…また襲われたのか?ゔぅ…気持ち悪い……」
ヒラキは苦しそうにハンカチで口元を覆いながらそう問う。出来るだけその死体を見ないようにすればするほど見てしまうのが人間だ。
「おや、見たまえよ。綺麗なネックレスをしているようだ」
男がブチッと死体からちぎり取ったそれをヒラキの目の前にぶら下げて見せる。シルバーのチェーン、小さなダイヤモンド、決して高価とは言えないそれはヒラキが少し前プレゼントしたものだ。
『愛する彼女』に。
「あ…あああ…まさかお前…」
「ああ。そのまさかだ。可哀想に、隠れて愛を育めば大丈夫、だと思ったんだろう。お前のその浅はかさが一人の女性の命を枯らしたんだ」
その場で腰を抜かしたヒラキに、優しい声で男は慰める。触れた手は暖かいのに、同じ血が流れていることが信じられない。
「お前はどうして間違える?…今までに同じことが何回も何回も何回もあっただろうに。」
美しい顔は傷付いたように瞳を涙で潤ませ、ヒラキを責めた。確かに今までも似たような事があった。何度も何度もヒラキが相手を好きになってしまったから起きた悲劇だ。
仕方がない、俺が人を好きになってしまったのだから。離れろ?…それが出来たら苦労は無い。俺には結局あいつしかいないんだから。
そう思って生きていたが、"彼女"と出会ってほんの少しだけ希望を持てるようになった。前向きに、明るい未来があるのだと思えるようになった。それがどうだろう、彼女は男の手によって殺された。
またドロドロの闇に後戻りだ。
「…泣かないでくれ。私はお前を悲しませたくない。」
男は本気でそう思っている。ヒラキが誰かを好きにならなければ、いつも穏やかで優しく、安心出来る存在には違いない。
「俺が…俺が悪い…、俺が…」
人を好きにならなければ。
久しぶりに顔を合わせた彼らはノエルに視線を向けながら敵意を隠すことなく内緒話だ。
エリート集団と言っても人間の集まりなので合う合わないがあるのは当然のことだが、ノエルと彼らは水と油である。
「なんだあの痣は。ご令嬢の彼女にでも付けられたのか?」
「おい、その彼女とはとっくに終わってるって話だぜ。」
「まあいくらアーサー家の息子って言っても嫡子じゃなきゃ価値が下がるだろうよ。それに混血だし」
ノエルは彼らが無駄な時間を浪費している間にさっさと書類を作成し終わり、新着のメッセージが来ていることに気がついた。知らないアドレスからだが、件名に『ヒラキ・ライト』と分かりやすく表記してあったので迷わず開いた。
『三人の事で思い出したことがあるので、ご連絡させて頂きました。お時間宜しければ直接会ってお話したいのですが…』
(……ヒラキさんからか)
ノエルはヒラキにこれから会えるかどうかのメッセージを送信して、席を立つ。…デスクワークはあまり好きでは無い。特に五月蝿いだけで作業しない無能と同じ部屋だと尚更だ。
「おい、まだ勤務時間中だろうがどこに行く」
「…仕事だ。」
「だから仕事ならここですればいいだろ」
普段ならそのまま無視を決め込んで退室するが、今日のノエルは苛立っている。昨日の事が頭から離れず、心の余裕がない。
『気持ち悪い』、あの言葉が何度も頭を掠めて何にも集中出来ないのだ。些細な事でも神経が逆なでられているようでいつもならば許容出来ることが出来ない。
「…どこでしようが俺の勝手だ。お前たちこそ仕事をしないなら邪魔をするな」
「んだと!出来損ないの混血のくせに調子に乗るなよ!」
「…おいおいやめとけって…」
実に面倒な連中だ。ノエルは反感を買おうが構わず彼らの隙間を縫うように抜ける。ちょうどヒラキからメッセージの返信が来たようだ。
「クソ野郎!」と背後から聞こえる罵声など無視してすたこらと待ち合わせの場所へ向かうとしよう。
『エレモアシティー西口駅に到着致しました』
スキープカーを降りたノエルはその人の多さに酔いそうになる。西口駅はエレモアシティー内の下層に位置する駅なので身なりも為人も悪い。それでも最下層の東口よりはまだマシだと言えるが。
今日は誰からも避けられず人混みに紛れ込める。上着を羽織るだけで、道行く人々の警戒心は無くなるのだ。
待ち合わせ場所のフードコートは学生で溢れかえり騒がしい。沢山あるテーブルの中の一つ、男は控えめに片手を上げて存在を知らせる。
「あ!…こっちです」
ノエルはヒラキの正面に腰掛けて「昨日は大丈夫だったのか」と一応確認する。相変わらず視線は合わないが、顔色は昨日よりは良くなっているようだ。
「はい。どうにかレミさんに連絡が取れて、今はデリカロッドの寄宿舎にお世話になってまして…。新しい社長がまた清掃員として雇ってくれるかもしれないので少しホッとしてますよ。」
「そうか。」
「でも俺がクビになってたなんて…。ああ、そんな事より本題を話さなきゃ…実はあの犯人の二人組の会話で思い出したことがありまして…」
ヒラキは机の上でギュッと手を握り、その五月蝿さに掻き消えそうな声で話し始める。
「その日、…デリカロッドに勤務していた王国民は俺とユカちゃんだったんですけど、アイツらが会話の中で残りの二人は他の人間が殺すだろうと言っていたのを思い出したんです。…もしかしたら犯人はその二人だけじゃなくて他にもいるのかもしれないと思って…」
考えられる組織と言えば『王国打倒委員会』くらいだが、ただの従業員の四人を何故殺そうとするのか。それともデリカロッドの社長を殺すついでに大嫌いな王国民を殺したのか。…だがデリカロッドの社長は王国民を事件の数日前にクビにしているはずだ。
よくよく考えればクビになったのにどうしてヒラキはデリカロッドに居たのだろう。
「……情報提供感謝する。」
「…いえ、大したものでは無いですけど…―ッ!?その首…」
ヒラキはその日初めて視線を上に向けた。そこでノエルのクビにくっきり浮かび上がるアザを目の当たりにしたのだ。確かに誰だってそれを見ればぎょっとするだろう。
「まさかアイツがやったのか!!」
ガン!と椅子から立ち上がった男は、学生達よりも大きな声で叫んだ。注目を一身に浴び、ヒラキはハッとした様子で肩を縮ませ座り直す。
「…ああ。昨日貴方が帰った後一悶着あってな。…殺されかけた」
また青ざめた顔に戻ったヒラキは「…ごめんなさい」と小さな声で謝る。彼が何に対して謝っているのか分からないがやはりなにかウィルソンの昨日の暴挙について知っていることがあるらしい。
「なにかあるのか?」
「え、あ、えっと……、もしかして恋人とかいらっしゃいます?」
「いや」
「じゃあご結婚されてるとか…」
「していない。」
ヒラキはいつかウィルソンがした質問と同じことをノエルに問いかける。そして「………じゃあなんで…」と右手の人差し指を無意識か噛んで視線を忙しなく動かすのだ。
「心当たりはある。あの男に好意があると伝えた」
「…え?えっと……君が言ってるのはその、…」
「恋愛感情だ」
ハッキリといったノエルに彼は目を見開いて驚いている。だが直ぐに頭を抱えて項垂れるのだ。
「何か知ってるなら教えてくれ。」
「……えっと、俺が言うのは…良くないと思うので…」
「何があいつの地雷か分からないとまた踏んでしまう。」
「…踏む前に離れる、という選択肢はないんですか?早い方がいい、…絶対に…離れられなくなる…体は出来ても、心は…」
虚ろな表情で男は取り憑かれたようにブツブツと呟く。ヒラキはウィルソンの地雷を踏み抜いたことがあるのだろう。ならば尚更知りたい。
「…俺は貴方のように繊細じゃない。それに知らないままで二度目が起こったとして次は殺されるかもしれない。ヒラキさん、貴方が話さないことで」
卑怯な言い回しだ。ヒラキが話さなければ殺されるかもしれないと脅しているのだから。…効果てきめん、ヒラキはその言葉に動揺して呼吸が浅くなる。
「…わ、分かりました。簡単に説明しますと、アイツは病的に…恋愛に対して否定的なんです。」
「…成程、俺が勢い余って伝えたことは良くないことだったということか。そういう人間がいることもあるだろうな。」
「……例えば道端のカップルだったり、…妊婦さんだったり、…手を繋いでる親子だったり…番の鳥にだって…連想されるもの全てアウトですよ…」
「…それは重症だな。」
どこか呑気なノエルに、ヒラキは前のめりになって声を荒らげる。
「重症なんてもんじゃ済まされない!…親しければ親しいほど、アイツは自分と同じ感覚を強要するんだ…。」
いつもビクビクしているくせに、ウィルソンの事になると男は堂々と話せるらしい。ヒラキは全て実体験を語っている、…やはりそれに気に食わないとノエルはテーブルの下の拳を握った。
「…恋愛に否定的と言っていたが、そこに恋だの愛だの含まれない純粋な性欲だったら?それこそ病的な支配欲だったら?」
あの体を支配できるのなら正直心など後でいい。ウィルソンが心は要らぬと言うならそれはそれで受け入れられる。ただノエルは手離したくない。
あの男が他の誰かに抱かれ、支配される事を望まないだけだ。
「き、…君は何言ってるの?…あいつの事が好きで、告白したんじゃないのか?」
「自分のものに出来るのなら、性欲も支配欲も綺麗事で覆い隠そうとしただけだ。」
ピクピクと口の端を痙攣させ、ヒラキはその色合いの違う瞳に小さな怒りを滲ませる。まるで自分が侮辱されているかのようだ。
「…ヤリたいだけって事か。」
「もちろんそれもある。…お前も男なら分かるだろう」
「一緒にしないでください、俺には分からない…心のない行為なんてただのケダモノだ!」
テーブルの上でカタカタと震える拳の振動がこちらまで伝わってくる。
何がただの顔見知りだ。きっと二人の間には強固な絆があるのだろう。それはノエルの支配欲を膨らませるだけだということにヒラキは気がついた方が良い。
「なんと言われようと俺の意思は変わらない。それに貴方からいい事を聞いたおかげで今後の付き合い方が分かった。また知りたい事があれば連絡する。安心しろ。王国民の件はちゃんと調べる」
悪役にでもなった気分で、ノエルは一方的に話を終わらせた。
取り残された男は、「なんでアイツは人を見る目がないんだ…」とテーブルに頭を擦り付ける。周りの視線が突き刺さって、そそくさとその場を離れた。
「一体どう言った風の吹き回しだ?」
フォークに突き刺さったままの肉、行儀が悪いとは分かっていてもその視線に耐えられずウィルソンはノエルに話しかける。
「…捜索打ち切りの祝いだ。たまには外食もいいだろう」
ふかふかの椅子に美味しそうな料理、騒がしさのひとつもない静かな個室は周りの視線を気にする必要もないので楽だ。
ノエルは家に帰った途端、ソファーで横になる男を叩き起して何事も無かったかのように食事に誘った。昨日の今日で断られるかとも思ったが、彼も無かったことにして誘いに乗ったのだ。
「…まあそうだがね。高いんじゃないのか?ここは」
「俺が高いものを食べたかっただけだ。」
「そうか。…じゃあそのついでに私も食べるかな」
ウィルソンはノエルに視線をやっては目が合いそうになると逸らした。心做しか元気がなく、口数も少ない。
時々脇腹を押さえてじっと痛みに耐えているような仕草をする男に、昨晩のノエルが自己防衛で発砲し出来た傷が痛むのではないかと心配して、(傷は治っているはずだ)と思い直す。
「今日ヒラキさんに会ってきた。どうやらデリカロッドの寄宿舎にいるらしい。」
彼は肉を飲み下してフォークを皿の上に寝かせる。俯けばその長いまつ毛がライトに照らされてキラキラ光って美しい。
「…お前は恋愛に否定的だと教えて貰った。」
「……その話はよそう、飯が不味くなる」
「 同じ屋根の下で暮らす以上、話し合いを放棄することは望ましくない。」
「だったら私を追い出せばいいだろう。お前に何一つメリットはないだろ」
ウィルソンは『出ていく』とは言わない。口元が勝手につり上がって、ノエルは必死に我慢した。普段は表情を作ることに苦労するのに、この男の前では無表情を崩さないように苦労している。
「追い出すつもりは無い」
「何故?私はお前の感情には応えない。それにまた何かを拍子に殺そうとするかもしれないんだぞ…」
赤い唇をガリ、と噛むのは自分を傷つけて罪悪感を紛らわせるためだろう。ウィルソンは衝動を制御出来ず、理性が戻った時に後悔するタイプの人間のようだ。
「お前は誰からの好意も受け取らない。…誰のものにもならない。…そうなんだろ?それで十分だ。」
("今"はそれでいい。)
凶暴な牙を全て抜いてから自分のものにすれば良いのだ。念の為腕も足も捥いで、ノエル無くして生きていけないように依存させなければ。
「…まあ私にとっては都合が良いがね。お前といると落ち着くし…」
ふと見せるその笑顔に、黒く覆われた心がドロドロに溶ける。微かに残った純粋と混ざりあって…その感情はノエルがロボットではなく人間だと実感させるのだ。
「ノエル、食べないのか?」
「…食べる。」
食事を再開させて、二人だけの空間を堪能する。
お腹が空いた少年は、いつものようにゴミ箱をネズミや野良犬と共に漁る。時には彼らと喧嘩になり、いつも護身用に持ち歩いている棍棒で叩いて追い払うのだ。
絶食三日目、体もクタクタでたどり着いたゴミ箱には残念ながら腐った残飯しか残っていない。これを食べたらそれこそ脱水症状で死に至る。唯一食べれそうなのは地面に転がって泥まみれになった殆ど身の付いていないフライドチキンの骨くらいだろう。匂いを嗅いでみて、ギリギリ食べれると判断した。
少年はそれを拾って泥を指ではらい落とす。
「坊や、ちょっとお待ちになって」
それを口に入れようとした時、背後から高くか細い声が呼び止めた。振り返ると、ここには相応しくない身綺麗な女が優しい笑顔を浮かべて立っている。その右腕には黄色のスカーフを巻いて、腕の中のカゴには果物が沢山入っているのだ。
「お腹、空いているのでしょう?」
「…うん。」
「これを差し上げますわ」
女は赤いリンゴを少年に差し出した。だがそれを受け取ることは絶対にしない。…毒が入っているかもしれないからだ。
「可哀想に、他人を信用出来ませんのね。」
女はそのリンゴをむしゃりと食べる。どうやら毒は入っていなかったようだ。ゴクリとなった少年の喉は、それを欲している。その女の食べかけだろうがなんだろうが、毒の入っていない食べ物、それもゴミ箱や地面に落ちた汚い食べ物では無いのだから当然だ。
「私共の元へいらっしゃいまし。きっと幸せになれますことよ」
聖女のような微笑みで差し出された手のひらを、少年は握った。
食事を済せ、ノエルは帰宅する予定だった。だが今二人はジャリジャリとガラスの破片が転がる道を違法建築の隙間から漏れるネオンの明かりを頼りに進んでいるのだ。
「相変わらず汚い街だなあ」とその美しい横顔は隣を同じ歩幅で歩く。
『自宅に取りに行きたいものがある』、ウィルソンはそう言って別行動を望んだがノエルはなんだかんだと理由を並べ付いてきた。
エレモアシティーの最西端、まさか一番治安の悪い場所だとは思っていなかったが、男の事をもっと知りたいと思っているノエルにとっては良い刺激だ。
積み重なった瓦礫の隙間から誰かがこちらを覗いている。物乞い?はたまた強盗かは分からない。ノエルは周りを警戒しつつ進む。
「そんなに怖がらなくても大丈夫、ここら辺の人間は手を出してこないさ」
くすくすと笑うウィルソンは、旗のように鉄骨に括りつけてある青色の布を見つけるとその角を曲がる。
すると最新の技術などない、古い住宅が密集したエリアに繋がっているのだ。
「よお~、ビューティ、久しぶりじゃないか」
今にも倒壊しそうな古い三階建てのアパート、その階段に座る中年の男は酒瓶片手に飲んだくれている。階段の手すりに立て掛けてある散弾銃は、見せかけだけの玩具では無さそうだ。
薄汚れたキャップからはみ出た髪はもじゃもじゃで、ニカッと笑った笑顔は前歯がない。それを隠すこともなく堂々としている。
(なんだコイツは…)と不快感を覚えるノエルを庇うようにウィルソンは一歩前を行く。どうやら彼らは知り合いのようだ。
「その呼び方はやめてくれと言ったろうに。」
「なぁんだ~?いいじゃないか!…ところでそいつは誰だ?連れ込むにしちゃデカい…それに随分と…趣味変わった?」
男はノエルをじっと見て、歯茎を剥き出しにして笑う。生理的に受け付けない不潔さだ。恐らくウィルソンの部屋は二階か三階なのだろうが、そいつが階段から退かないので通るに通れない。
「…そんなんじゃない。荷物を取りに来ただけだ。道を開けてくれると助かる」
「荷物、荷物かあ。……もしかしたら全部壊れてるかもしんねぇよ」
「…壊れてる?どういう事だ?」
「変なクソガキ三人組がお前さんの部屋から出てきた所を見たんだ。こいつを振り回したら逃げていきやがった」
男は散弾銃を持ち上げ、誇らしげな顔をする。
「最近おかしな連中がこの辺りをちょろちょろしてやがる。特に王国民をターゲットにしてるらしい。」
ウィルソンはノエルにちらりと視線を向ける。あまりここに長居はしない方がいいだろう。半ば強引に男を跨ぐように登っていくウィルソンの後を嫌々ながらついて行く。
階段の先には三つの部屋がある。そのうちの左端の部屋の扉が施錠されておらずギシギシと音を立てて揺れているのだ。
「…扉が壊されてるな…。全く、ただでさえ古い家なのに。ああ、ここは土足厳禁だから靴は脱いでくれ」と男は何の警戒もなく中へ進む。
唯一その部屋の輪郭を浮き上がらせるのは外のネオンだけだ。一歩進むだけで足先に何かがぶつかる。ウィルソンは手探りで部屋の明かりを付けると、少し恥ずかしそうに顔を逸らした。
「悪いな、お前をこんな汚いところに連れて来たくなかったが…」
狭い空間はホコリが舞っている。物で溢れ、尚且つ荒らされて酷い有様だ。棚や机はひっくり返されて、窓を突き破りガラスが散っている。破片が落ちていそうな場所には近づかない方がいいだろう。
「…もっと汚い部屋を知っている。…さっきの男は知り合いか?」
「ああ。ヤマダさんだ。昔馴染みでね。安心しろ、あの人は悪い人間じゃない」
悪い人間では無いのかもしれないが、見るからに変わっている。
「うーん、何処にいったんだろう」
「手伝う。何を探してる?」
「薬だ。…白い紙の袋に入ってるはずなんだが…」
ウィルソンはひっくり返った机を起こす。現れた紙の山をかき分けて「…ない」と呟いた。
「薬?持病があるのか?」
「ただの鎮痛剤だ」
ノエルも一緒になってそれを探す。この部屋はとにかく物が多い。どこから探していいものやら、ノエルは自分の足元から探すことにする。
するとすぐお目当ての物が見つかった。エレモアシティー総合病院のロゴと内用薬と書かれた紙封筒、恐らくウィルソンが探していたのはこれだろう。
「おい、それらしき物が見つかった。」
「ああ、良かった。見つかって。」
それを手渡すと、彼は直ぐに中身を取り出してブリスターパックから薬を押し出した。それを舌の上に乗せて水無しでゴクリと飲み込むのだ。
「…どこか痛むのか?」
「いや?どこも」
ノエルは本当のことを言わない彼にグッと眉を寄せる。痛くないなら鎮痛剤を飲む意味もないだろう。
(…まあ、俺には言いたくないか)
普通に接しているつもりでも、お互いに距離があるのは確かだ。すぐにそれを埋めたくなるが、彼との付き合い方は程よい間隔が必要だろう。少し前まで距離を保ちたいと思っていたのはノエルの方であったのに、今では立場が逆転している。
「そんな顔するな。別に言いたくない訳じゃない。ただ、変に気を遣わせたくないだけだ。……ほら、長居無用、帰ろう」
「他に忘れ物は無いか?」
「ないと思う。ここには大したものは―」
「―何の用だ!!!」
二人が玄関に向かった時その怒声が響き渡った。誰かと揉み合いになっているのか騒がしくなる。そしてすぐに劈くような銃声が周辺を包むのだ。
ノエルは胸元の拳銃を取り出して何があっても対応できるように静かにドアの隙間から外の様子を伺った。
階段は誰も上ってくる気配がない。
ただ静かで、不気味な光が地面を泳いでいるだけだ。
ここは慎重な行動が望ましい。まずはノエルが下を確認して、何事も無さそうならそれからウィルソンを連れてこの場を離れる。
(…銃声が聞こえて何事も無いことはないだろうが…)
「ヤマダさん!大丈夫か!」
「おい!待て!!」
ノエルが外に出ようとした時、後ろの男が何も考えずバンッと扉を開け放ち一目散に階段を駆け下りる。
その後を直ぐに追いかけて、ノエルは階段に凭れかかり苦しそうに肩を抑えるもじゃもじゃ頭の男を発見した。しかし、ウィルソンの姿が見当たらない。
「何があった!ウィルソンは?」
「さっき話した連中よ、…くそ、一人は鉛玉食らわせてやったけどよぉ……。ビューティは俺の銃をかっさらって追いかけて行った」
「…あの馬鹿野郎が…。どっちに行った?」
「道路出て右だ。おい!おめぇまで行くつもりじゃねーだろな!俺を病院に連れてけよぉ~!」
ノエルはヤマダに「自分で行け!」と吐き捨てて男の元へと急ぐ。
ノエルは幾つか男の事を知った。彼は足が早い。そして冷静沈着に見えるが猪突猛進だ。
密集した違法建築、それらは見分けがつかない。建物の間に抜け道があるのでウィルソンがどこへ行ったか最早分からないのだ。
「くそ、…まずいな」
割れた窓から頭を覗かせる住人達は皆幽霊のように落窪んだ目でノエルをジロジロ見ている。(気味が悪い…)と背筋にゾクゾクと嫌な視線を感じながら一度立ち止まった。
右か?左か?それともこのまま真っ直ぐ行けばいいのか?無事帰ったらあの男に発振器をどうにかしてつけなければと考える。
ガラン、と何かが転がる物音が南東の方角から聞こえる。すぐ近くだ。
ノエルは不安を飲み込んでドブ臭い建物の間をすり抜ける。
ヌトヌトとした地面、蟹歩きしなければ通れない細い路地。出口から漏れ出す光に向かってノエルはただゆっくり先を進むのだ。
光の先、ようやくその背中を見つけた時どれ程安心したか。
「このクソガキ、他の連中はどこ行った!何の目的で他人の家に上がり込んでんだ!」
やせ細った少年の髪を掴みガクガクと揺らす男はお構い無しだ。荒い口調はこの街に馴染んでいるが、普段の落ち着いたものとのギャップが凄まじい。ノエルはその様子に声をかける事を躊躇った。
「お前なんかに言うもんか!悪魔!化け物!」
「うるせぇ!ピーピー喚くな!聞いた事だけ答えてりゃいいんだよ!」
顔中涙と鼻水でベチャベチャになった少年は、右足からドロドロと血が溢れている。恐らくヤマダが発砲した時に掠めたのだろう。
「おい」と声をかけると、そのギラついた瞳がノエルを捉える。いつもの澄んだ瞳も人は惹き付けられるだろう、しかしそのケモノのような眼差しもノエルは堪らなく好きだ。
「勝手に突っ走るな」
「……ああ、ノエル。すまない。ここで逃がす訳にもいかないだろう。いやあ、どうしても彼が教えてくれなくてね」
ごほん、と咳払いをして白々しくいつもの落ち着きを取り戻した男は、掴んでいた髪の毛をゆっくり手放す。
ノエルはまだまだウィリアム・ウィルソンについて何も分かっちゃいないようだ。
「見ろ。カルトの証拠だ」
ウィルソンは少年の右腕に巻かれた黄色のスカーフを指さした。それは王国打倒委員会の幹部が身につけている勲章のようなものだ。役職のない委員は身につけることを許されていない。
(…こんな子供が幹部?)
にわかに信じ難い。王打会に憧れた子供の悪ふざけだろうか?
「どうしてヤマダさんを攻撃した?酷いじゃないか、私の部屋をあんなにして。」
少年は悪魔には屈しない!と胸の十字架を血だらけの手で握りしめウィルソンを睨みつけ、「…絶対言わない!」と強情を張った。それに苛立ったのかウィルソンは銃口をグリグリと足の傷に押し当てる。
「ぐっ…ゔぐッ…」
「痛いだろう?さっさと言えクソガキ」
「だ、誰が言うか!ぅッ、…殴りたいなら殴れ!」
「ああそうかい」
痛みを堪える少年に男は容赦などしない。その小さな頬を握った拳で殴りつける。…流石にこれでは話が進まないのでノエルが割って入った。
「…止めておけ。まだ子供だ。」
「ノエル、子供だからなんだ?こいつらは私の家財道具をめちゃくちゃにした。ちゃんと"親"に請求しなければ気が済まない。」
「俺が話す。…お前は少し落ち着け」
ウィルソンは「…わかった」と肩を竦めてお手並み拝見、と言わんばかりに壁に凭れて大人しく見物することにしたらしい。
「王打会は一体何を企んでる」
ノエルが静かに問いかけると、少年は唇をギュッと閉じて、何がなんでも言う気は無いようだ。
目線を少年に合わせ、ゆっくりとした口調で「言えない理由があるのか」と問う。
「別に…そんなもん無い。」
「…………俺は女子供に手を上げたくない」
少年はチラチラとウィルソンの様子を気にしている。そして声を潜めるようにこう言うのだ。
「あんた悪魔に憑かれてる目をしてる」と。
「…どういう意味だ」
少年は血だらけの手で涙を拭って、穢れのない無垢な瞳をこちらに向ける。
「聖委員長が言ってた。悪魔に憑かれた人間は、見ただけで分かるって。…僕に分かったんだからあんたは相当だ」
「……」
「悪魔を誰の代わりにしてるの?」
ウィルソンを誰かの代わりだと思ったことは一度たりともない。
『あなたまで私を捨てるのね』
かすれた声で、痩せ細った彼女がふと脳裏に過ぎった。息が苦しく、胸が詰まる。血管が急速に細くなって、体に血液が巡っていないと思うほど冷え切る。
寒い、心も体も。
(…何故俺はあの人の事を…)
「おい!ノエル!」
ウィルソンの怒声でハッと意識が戻る。ノエルの目に映ったのは、ギラリと光った銃口だ。その指はトリガーにかけられ、火花が散るさまをノエルはスローモーションで見ている。弾丸が空間を切り裂き、こちらへ真っ直ぐ向かってきているのだ。
「ノエル!!」
(避けたら後ろの男に当たる)、一瞬そう考えてしまった。だから咄嗟の回避行動を取れなかったのだろう。
貫かれた腹から吹き出る血飛沫、制御の効かなくなった体が後ろへ倒れ硬い地面へまっしぐらだ。ぼんやりとした意識は、流れ出る血のせいだろう。
「このクソガキ!」
男が少年に銃弾を浴びせる音がキン、と響く耳鳴りで掻き消えた。
人工の星がキラリと輝いた。一丁前に流れ星なんて物まで作っていやがる。それともこれはノエルが見る幻覚なのか。
「クソ!…出血が多い……」
その声は今にも泣き出しそうなほど情けない。ノエルの服を捲って傷口を確認したようだ。頬を包む彼の両手は温かく、死に恐怖しているのか小刻みに振動している。
(何故お前の方が怖がっているんだ…)
「ノエル、おい!」
視界の端からどんどん黒に覆われていく。このまま死ぬのだろうか?と血の巡らなくなった頭で考えてまだ死にたくは無いと結論が出る。
「ノエル、死ぬな!…――」
体格の良い男が体当たりしたなら簡単に開きそうな扉から漂う強烈な刺激臭は何度か嗅いだことがある。ヒラキはハンカチを取り出して鼻と口を覆いながら施錠していない扉を開けた。
濃くなった臭いだけでは無い、扉を開け放つと無数のハエが出迎えるのだ。
「おい!ウィリアム!!外にまで凄い匂いが……」
タバコを咥えて一服、壁に寄りかかる男はこちらを捉えると「おかえり」と笑った。
その足元に広がる汁は、血なのか、体液なのか分からないが粘土があり、彼が歩くとねっとりと絡みついている。
奥に転がる死体は原型を辛うじて留めているだけで、どこの誰、とまでは判別できない。恐らくは女性だろうか。
胃から上ってくる。熱く、苦く、酸っぱいものが。ぎゅ、ぎゅ、胃袋が絞られ我慢出来ずに部屋の隅で吐き出した。
「お前、…それ、誰なんだ?…また襲われたのか?ゔぅ…気持ち悪い……」
ヒラキは苦しそうにハンカチで口元を覆いながらそう問う。出来るだけその死体を見ないようにすればするほど見てしまうのが人間だ。
「おや、見たまえよ。綺麗なネックレスをしているようだ」
男がブチッと死体からちぎり取ったそれをヒラキの目の前にぶら下げて見せる。シルバーのチェーン、小さなダイヤモンド、決して高価とは言えないそれはヒラキが少し前プレゼントしたものだ。
『愛する彼女』に。
「あ…あああ…まさかお前…」
「ああ。そのまさかだ。可哀想に、隠れて愛を育めば大丈夫、だと思ったんだろう。お前のその浅はかさが一人の女性の命を枯らしたんだ」
その場で腰を抜かしたヒラキに、優しい声で男は慰める。触れた手は暖かいのに、同じ血が流れていることが信じられない。
「お前はどうして間違える?…今までに同じことが何回も何回も何回もあっただろうに。」
美しい顔は傷付いたように瞳を涙で潤ませ、ヒラキを責めた。確かに今までも似たような事があった。何度も何度もヒラキが相手を好きになってしまったから起きた悲劇だ。
仕方がない、俺が人を好きになってしまったのだから。離れろ?…それが出来たら苦労は無い。俺には結局あいつしかいないんだから。
そう思って生きていたが、"彼女"と出会ってほんの少しだけ希望を持てるようになった。前向きに、明るい未来があるのだと思えるようになった。それがどうだろう、彼女は男の手によって殺された。
またドロドロの闇に後戻りだ。
「…泣かないでくれ。私はお前を悲しませたくない。」
男は本気でそう思っている。ヒラキが誰かを好きにならなければ、いつも穏やかで優しく、安心出来る存在には違いない。
「俺が…俺が悪い…、俺が…」
人を好きにならなければ。
久しぶりに顔を合わせた彼らはノエルに視線を向けながら敵意を隠すことなく内緒話だ。
エリート集団と言っても人間の集まりなので合う合わないがあるのは当然のことだが、ノエルと彼らは水と油である。
「なんだあの痣は。ご令嬢の彼女にでも付けられたのか?」
「おい、その彼女とはとっくに終わってるって話だぜ。」
「まあいくらアーサー家の息子って言っても嫡子じゃなきゃ価値が下がるだろうよ。それに混血だし」
ノエルは彼らが無駄な時間を浪費している間にさっさと書類を作成し終わり、新着のメッセージが来ていることに気がついた。知らないアドレスからだが、件名に『ヒラキ・ライト』と分かりやすく表記してあったので迷わず開いた。
『三人の事で思い出したことがあるので、ご連絡させて頂きました。お時間宜しければ直接会ってお話したいのですが…』
(……ヒラキさんからか)
ノエルはヒラキにこれから会えるかどうかのメッセージを送信して、席を立つ。…デスクワークはあまり好きでは無い。特に五月蝿いだけで作業しない無能と同じ部屋だと尚更だ。
「おい、まだ勤務時間中だろうがどこに行く」
「…仕事だ。」
「だから仕事ならここですればいいだろ」
普段ならそのまま無視を決め込んで退室するが、今日のノエルは苛立っている。昨日の事が頭から離れず、心の余裕がない。
『気持ち悪い』、あの言葉が何度も頭を掠めて何にも集中出来ないのだ。些細な事でも神経が逆なでられているようでいつもならば許容出来ることが出来ない。
「…どこでしようが俺の勝手だ。お前たちこそ仕事をしないなら邪魔をするな」
「んだと!出来損ないの混血のくせに調子に乗るなよ!」
「…おいおいやめとけって…」
実に面倒な連中だ。ノエルは反感を買おうが構わず彼らの隙間を縫うように抜ける。ちょうどヒラキからメッセージの返信が来たようだ。
「クソ野郎!」と背後から聞こえる罵声など無視してすたこらと待ち合わせの場所へ向かうとしよう。
『エレモアシティー西口駅に到着致しました』
スキープカーを降りたノエルはその人の多さに酔いそうになる。西口駅はエレモアシティー内の下層に位置する駅なので身なりも為人も悪い。それでも最下層の東口よりはまだマシだと言えるが。
今日は誰からも避けられず人混みに紛れ込める。上着を羽織るだけで、道行く人々の警戒心は無くなるのだ。
待ち合わせ場所のフードコートは学生で溢れかえり騒がしい。沢山あるテーブルの中の一つ、男は控えめに片手を上げて存在を知らせる。
「あ!…こっちです」
ノエルはヒラキの正面に腰掛けて「昨日は大丈夫だったのか」と一応確認する。相変わらず視線は合わないが、顔色は昨日よりは良くなっているようだ。
「はい。どうにかレミさんに連絡が取れて、今はデリカロッドの寄宿舎にお世話になってまして…。新しい社長がまた清掃員として雇ってくれるかもしれないので少しホッとしてますよ。」
「そうか。」
「でも俺がクビになってたなんて…。ああ、そんな事より本題を話さなきゃ…実はあの犯人の二人組の会話で思い出したことがありまして…」
ヒラキは机の上でギュッと手を握り、その五月蝿さに掻き消えそうな声で話し始める。
「その日、…デリカロッドに勤務していた王国民は俺とユカちゃんだったんですけど、アイツらが会話の中で残りの二人は他の人間が殺すだろうと言っていたのを思い出したんです。…もしかしたら犯人はその二人だけじゃなくて他にもいるのかもしれないと思って…」
考えられる組織と言えば『王国打倒委員会』くらいだが、ただの従業員の四人を何故殺そうとするのか。それともデリカロッドの社長を殺すついでに大嫌いな王国民を殺したのか。…だがデリカロッドの社長は王国民を事件の数日前にクビにしているはずだ。
よくよく考えればクビになったのにどうしてヒラキはデリカロッドに居たのだろう。
「……情報提供感謝する。」
「…いえ、大したものでは無いですけど…―ッ!?その首…」
ヒラキはその日初めて視線を上に向けた。そこでノエルのクビにくっきり浮かび上がるアザを目の当たりにしたのだ。確かに誰だってそれを見ればぎょっとするだろう。
「まさかアイツがやったのか!!」
ガン!と椅子から立ち上がった男は、学生達よりも大きな声で叫んだ。注目を一身に浴び、ヒラキはハッとした様子で肩を縮ませ座り直す。
「…ああ。昨日貴方が帰った後一悶着あってな。…殺されかけた」
また青ざめた顔に戻ったヒラキは「…ごめんなさい」と小さな声で謝る。彼が何に対して謝っているのか分からないがやはりなにかウィルソンの昨日の暴挙について知っていることがあるらしい。
「なにかあるのか?」
「え、あ、えっと……、もしかして恋人とかいらっしゃいます?」
「いや」
「じゃあご結婚されてるとか…」
「していない。」
ヒラキはいつかウィルソンがした質問と同じことをノエルに問いかける。そして「………じゃあなんで…」と右手の人差し指を無意識か噛んで視線を忙しなく動かすのだ。
「心当たりはある。あの男に好意があると伝えた」
「…え?えっと……君が言ってるのはその、…」
「恋愛感情だ」
ハッキリといったノエルに彼は目を見開いて驚いている。だが直ぐに頭を抱えて項垂れるのだ。
「何か知ってるなら教えてくれ。」
「……えっと、俺が言うのは…良くないと思うので…」
「何があいつの地雷か分からないとまた踏んでしまう。」
「…踏む前に離れる、という選択肢はないんですか?早い方がいい、…絶対に…離れられなくなる…体は出来ても、心は…」
虚ろな表情で男は取り憑かれたようにブツブツと呟く。ヒラキはウィルソンの地雷を踏み抜いたことがあるのだろう。ならば尚更知りたい。
「…俺は貴方のように繊細じゃない。それに知らないままで二度目が起こったとして次は殺されるかもしれない。ヒラキさん、貴方が話さないことで」
卑怯な言い回しだ。ヒラキが話さなければ殺されるかもしれないと脅しているのだから。…効果てきめん、ヒラキはその言葉に動揺して呼吸が浅くなる。
「…わ、分かりました。簡単に説明しますと、アイツは病的に…恋愛に対して否定的なんです。」
「…成程、俺が勢い余って伝えたことは良くないことだったということか。そういう人間がいることもあるだろうな。」
「……例えば道端のカップルだったり、…妊婦さんだったり、…手を繋いでる親子だったり…番の鳥にだって…連想されるもの全てアウトですよ…」
「…それは重症だな。」
どこか呑気なノエルに、ヒラキは前のめりになって声を荒らげる。
「重症なんてもんじゃ済まされない!…親しければ親しいほど、アイツは自分と同じ感覚を強要するんだ…。」
いつもビクビクしているくせに、ウィルソンの事になると男は堂々と話せるらしい。ヒラキは全て実体験を語っている、…やはりそれに気に食わないとノエルはテーブルの下の拳を握った。
「…恋愛に否定的と言っていたが、そこに恋だの愛だの含まれない純粋な性欲だったら?それこそ病的な支配欲だったら?」
あの体を支配できるのなら正直心など後でいい。ウィルソンが心は要らぬと言うならそれはそれで受け入れられる。ただノエルは手離したくない。
あの男が他の誰かに抱かれ、支配される事を望まないだけだ。
「き、…君は何言ってるの?…あいつの事が好きで、告白したんじゃないのか?」
「自分のものに出来るのなら、性欲も支配欲も綺麗事で覆い隠そうとしただけだ。」
ピクピクと口の端を痙攣させ、ヒラキはその色合いの違う瞳に小さな怒りを滲ませる。まるで自分が侮辱されているかのようだ。
「…ヤリたいだけって事か。」
「もちろんそれもある。…お前も男なら分かるだろう」
「一緒にしないでください、俺には分からない…心のない行為なんてただのケダモノだ!」
テーブルの上でカタカタと震える拳の振動がこちらまで伝わってくる。
何がただの顔見知りだ。きっと二人の間には強固な絆があるのだろう。それはノエルの支配欲を膨らませるだけだということにヒラキは気がついた方が良い。
「なんと言われようと俺の意思は変わらない。それに貴方からいい事を聞いたおかげで今後の付き合い方が分かった。また知りたい事があれば連絡する。安心しろ。王国民の件はちゃんと調べる」
悪役にでもなった気分で、ノエルは一方的に話を終わらせた。
取り残された男は、「なんでアイツは人を見る目がないんだ…」とテーブルに頭を擦り付ける。周りの視線が突き刺さって、そそくさとその場を離れた。
「一体どう言った風の吹き回しだ?」
フォークに突き刺さったままの肉、行儀が悪いとは分かっていてもその視線に耐えられずウィルソンはノエルに話しかける。
「…捜索打ち切りの祝いだ。たまには外食もいいだろう」
ふかふかの椅子に美味しそうな料理、騒がしさのひとつもない静かな個室は周りの視線を気にする必要もないので楽だ。
ノエルは家に帰った途端、ソファーで横になる男を叩き起して何事も無かったかのように食事に誘った。昨日の今日で断られるかとも思ったが、彼も無かったことにして誘いに乗ったのだ。
「…まあそうだがね。高いんじゃないのか?ここは」
「俺が高いものを食べたかっただけだ。」
「そうか。…じゃあそのついでに私も食べるかな」
ウィルソンはノエルに視線をやっては目が合いそうになると逸らした。心做しか元気がなく、口数も少ない。
時々脇腹を押さえてじっと痛みに耐えているような仕草をする男に、昨晩のノエルが自己防衛で発砲し出来た傷が痛むのではないかと心配して、(傷は治っているはずだ)と思い直す。
「今日ヒラキさんに会ってきた。どうやらデリカロッドの寄宿舎にいるらしい。」
彼は肉を飲み下してフォークを皿の上に寝かせる。俯けばその長いまつ毛がライトに照らされてキラキラ光って美しい。
「…お前は恋愛に否定的だと教えて貰った。」
「……その話はよそう、飯が不味くなる」
「 同じ屋根の下で暮らす以上、話し合いを放棄することは望ましくない。」
「だったら私を追い出せばいいだろう。お前に何一つメリットはないだろ」
ウィルソンは『出ていく』とは言わない。口元が勝手につり上がって、ノエルは必死に我慢した。普段は表情を作ることに苦労するのに、この男の前では無表情を崩さないように苦労している。
「追い出すつもりは無い」
「何故?私はお前の感情には応えない。それにまた何かを拍子に殺そうとするかもしれないんだぞ…」
赤い唇をガリ、と噛むのは自分を傷つけて罪悪感を紛らわせるためだろう。ウィルソンは衝動を制御出来ず、理性が戻った時に後悔するタイプの人間のようだ。
「お前は誰からの好意も受け取らない。…誰のものにもならない。…そうなんだろ?それで十分だ。」
("今"はそれでいい。)
凶暴な牙を全て抜いてから自分のものにすれば良いのだ。念の為腕も足も捥いで、ノエル無くして生きていけないように依存させなければ。
「…まあ私にとっては都合が良いがね。お前といると落ち着くし…」
ふと見せるその笑顔に、黒く覆われた心がドロドロに溶ける。微かに残った純粋と混ざりあって…その感情はノエルがロボットではなく人間だと実感させるのだ。
「ノエル、食べないのか?」
「…食べる。」
食事を再開させて、二人だけの空間を堪能する。
お腹が空いた少年は、いつものようにゴミ箱をネズミや野良犬と共に漁る。時には彼らと喧嘩になり、いつも護身用に持ち歩いている棍棒で叩いて追い払うのだ。
絶食三日目、体もクタクタでたどり着いたゴミ箱には残念ながら腐った残飯しか残っていない。これを食べたらそれこそ脱水症状で死に至る。唯一食べれそうなのは地面に転がって泥まみれになった殆ど身の付いていないフライドチキンの骨くらいだろう。匂いを嗅いでみて、ギリギリ食べれると判断した。
少年はそれを拾って泥を指ではらい落とす。
「坊や、ちょっとお待ちになって」
それを口に入れようとした時、背後から高くか細い声が呼び止めた。振り返ると、ここには相応しくない身綺麗な女が優しい笑顔を浮かべて立っている。その右腕には黄色のスカーフを巻いて、腕の中のカゴには果物が沢山入っているのだ。
「お腹、空いているのでしょう?」
「…うん。」
「これを差し上げますわ」
女は赤いリンゴを少年に差し出した。だがそれを受け取ることは絶対にしない。…毒が入っているかもしれないからだ。
「可哀想に、他人を信用出来ませんのね。」
女はそのリンゴをむしゃりと食べる。どうやら毒は入っていなかったようだ。ゴクリとなった少年の喉は、それを欲している。その女の食べかけだろうがなんだろうが、毒の入っていない食べ物、それもゴミ箱や地面に落ちた汚い食べ物では無いのだから当然だ。
「私共の元へいらっしゃいまし。きっと幸せになれますことよ」
聖女のような微笑みで差し出された手のひらを、少年は握った。
食事を済せ、ノエルは帰宅する予定だった。だが今二人はジャリジャリとガラスの破片が転がる道を違法建築の隙間から漏れるネオンの明かりを頼りに進んでいるのだ。
「相変わらず汚い街だなあ」とその美しい横顔は隣を同じ歩幅で歩く。
『自宅に取りに行きたいものがある』、ウィルソンはそう言って別行動を望んだがノエルはなんだかんだと理由を並べ付いてきた。
エレモアシティーの最西端、まさか一番治安の悪い場所だとは思っていなかったが、男の事をもっと知りたいと思っているノエルにとっては良い刺激だ。
積み重なった瓦礫の隙間から誰かがこちらを覗いている。物乞い?はたまた強盗かは分からない。ノエルは周りを警戒しつつ進む。
「そんなに怖がらなくても大丈夫、ここら辺の人間は手を出してこないさ」
くすくすと笑うウィルソンは、旗のように鉄骨に括りつけてある青色の布を見つけるとその角を曲がる。
すると最新の技術などない、古い住宅が密集したエリアに繋がっているのだ。
「よお~、ビューティ、久しぶりじゃないか」
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「なぁんだ~?いいじゃないか!…ところでそいつは誰だ?連れ込むにしちゃデカい…それに随分と…趣味変わった?」
男はノエルをじっと見て、歯茎を剥き出しにして笑う。生理的に受け付けない不潔さだ。恐らくウィルソンの部屋は二階か三階なのだろうが、そいつが階段から退かないので通るに通れない。
「…そんなんじゃない。荷物を取りに来ただけだ。道を開けてくれると助かる」
「荷物、荷物かあ。……もしかしたら全部壊れてるかもしんねぇよ」
「…壊れてる?どういう事だ?」
「変なクソガキ三人組がお前さんの部屋から出てきた所を見たんだ。こいつを振り回したら逃げていきやがった」
男は散弾銃を持ち上げ、誇らしげな顔をする。
「最近おかしな連中がこの辺りをちょろちょろしてやがる。特に王国民をターゲットにしてるらしい。」
ウィルソンはノエルにちらりと視線を向ける。あまりここに長居はしない方がいいだろう。半ば強引に男を跨ぐように登っていくウィルソンの後を嫌々ながらついて行く。
階段の先には三つの部屋がある。そのうちの左端の部屋の扉が施錠されておらずギシギシと音を立てて揺れているのだ。
「…扉が壊されてるな…。全く、ただでさえ古い家なのに。ああ、ここは土足厳禁だから靴は脱いでくれ」と男は何の警戒もなく中へ進む。
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狭い空間はホコリが舞っている。物で溢れ、尚且つ荒らされて酷い有様だ。棚や机はひっくり返されて、窓を突き破りガラスが散っている。破片が落ちていそうな場所には近づかない方がいいだろう。
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「ああ。ヤマダさんだ。昔馴染みでね。安心しろ、あの人は悪い人間じゃない」
悪い人間では無いのかもしれないが、見るからに変わっている。
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「ヤマダさん!大丈夫か!」
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その後を直ぐに追いかけて、ノエルは階段に凭れかかり苦しそうに肩を抑えるもじゃもじゃ頭の男を発見した。しかし、ウィルソンの姿が見当たらない。
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「道路出て右だ。おい!おめぇまで行くつもりじゃねーだろな!俺を病院に連れてけよぉ~!」
ノエルはヤマダに「自分で行け!」と吐き捨てて男の元へと急ぐ。
ノエルは幾つか男の事を知った。彼は足が早い。そして冷静沈着に見えるが猪突猛進だ。
密集した違法建築、それらは見分けがつかない。建物の間に抜け道があるのでウィルソンがどこへ行ったか最早分からないのだ。
「くそ、…まずいな」
割れた窓から頭を覗かせる住人達は皆幽霊のように落窪んだ目でノエルをジロジロ見ている。(気味が悪い…)と背筋にゾクゾクと嫌な視線を感じながら一度立ち止まった。
右か?左か?それともこのまま真っ直ぐ行けばいいのか?無事帰ったらあの男に発振器をどうにかしてつけなければと考える。
ガラン、と何かが転がる物音が南東の方角から聞こえる。すぐ近くだ。
ノエルは不安を飲み込んでドブ臭い建物の間をすり抜ける。
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「うるせぇ!ピーピー喚くな!聞いた事だけ答えてりゃいいんだよ!」
顔中涙と鼻水でベチャベチャになった少年は、右足からドロドロと血が溢れている。恐らくヤマダが発砲した時に掠めたのだろう。
「おい」と声をかけると、そのギラついた瞳がノエルを捉える。いつもの澄んだ瞳も人は惹き付けられるだろう、しかしそのケモノのような眼差しもノエルは堪らなく好きだ。
「勝手に突っ走るな」
「……ああ、ノエル。すまない。ここで逃がす訳にもいかないだろう。いやあ、どうしても彼が教えてくれなくてね」
ごほん、と咳払いをして白々しくいつもの落ち着きを取り戻した男は、掴んでいた髪の毛をゆっくり手放す。
ノエルはまだまだウィリアム・ウィルソンについて何も分かっちゃいないようだ。
「見ろ。カルトの証拠だ」
ウィルソンは少年の右腕に巻かれた黄色のスカーフを指さした。それは王国打倒委員会の幹部が身につけている勲章のようなものだ。役職のない委員は身につけることを許されていない。
(…こんな子供が幹部?)
にわかに信じ難い。王打会に憧れた子供の悪ふざけだろうか?
「どうしてヤマダさんを攻撃した?酷いじゃないか、私の部屋をあんなにして。」
少年は悪魔には屈しない!と胸の十字架を血だらけの手で握りしめウィルソンを睨みつけ、「…絶対言わない!」と強情を張った。それに苛立ったのかウィルソンは銃口をグリグリと足の傷に押し当てる。
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「痛いだろう?さっさと言えクソガキ」
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人工の星がキラリと輝いた。一丁前に流れ星なんて物まで作っていやがる。それともこれはノエルが見る幻覚なのか。
「クソ!…出血が多い……」
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(何故お前の方が怖がっているんだ…)
「ノエル、おい!」
視界の端からどんどん黒に覆われていく。このまま死ぬのだろうか?と血の巡らなくなった頭で考えてまだ死にたくは無いと結論が出る。
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https://www.alphapolis.co.jp/novel/962473946/911896785
↑この続編は、R18の過激描写がありますので、苦手な方はご注意ください。
侯爵令息セドリックの憂鬱な日
めちゅう
BL
第二王子の婚約者候補侯爵令息セドリック・グランツはある日王子の婚約者が決定した事を聞いてしまう。しかし先に王子からお呼びがかかったのはもう一人の候補だった。候補落ちを確信し泣き腫らした次の日は憂鬱な気分で幕を開ける———
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