上 下
368 / 639

テレビ放映戦国大名総選挙その24 豊臣秀吉

しおりを挟む
島津家三男歳久、もし豊臣秀吉の朝鮮出兵がなければ、参陣しなかったことによる謀反の容疑はなかったかもしれません。



しかし、秀吉の歳久に対する不信は積もりに積もっていました。

そしてそれは同時に島津家全体に対する不信でもあり、事実島津一族の島津 忠辰が出兵の際に不満を表して半島への上陸を拒むと即座に改易しました。



こうした状況から、島津義久は泣く泣く歳久を討つことになりました。

歳久には逆らう気持ちはありませんでしたが、彼の頭の良さと島津家及び兄弟達への愛ゆえでしょうか。



あえて反逆者として討たれるように行動します。

そして、彼と命を共にする僅かな家臣と共に形だけの反抗を示した後、もはや自害する体力もなかったため首を取ることを追手に託しました。



その時に残した遺書の中には、自分の心にやましいことはなかったこと、自分に従った者たちも義久に逆らう意志はないのでその家族に罪はなしとして許すようお願いした内容が書かれていました。



彼に従った家臣はことごとく自害、そして追手の側も泣いてこの悲劇を悔やみ悲しんだと伝えられています。



そして、罪人ということで京都において歳久の首はさらされることになります。

ちなみにこの首を島津忠長という島津家家老が奪還し、首と遺体と霊はそれぞれのお寺で供養されたそうです。



さらに、太閤検地による不満なども重なり領土内で大規模な反乱が発生したり。後には親豊臣派とされた伊集院家、(島津家家老)と島津忠恒との間で遺恨があり、伊集院忠棟は殺害、嫡男の忠真は都城で反乱を起こします。(庄内の乱)



こうして、島津家は4兄弟のうちの三男を失い、領地を荒れてしまい、家臣達との関係も悪化しました。



これらは豊臣秀吉の朝鮮出兵とそのための改革のために起こったものであり、当主義久公から見ればはらわたの煮えくり返る思いだったでしょう。



ある小説の表現で恐縮ですが、以前の活発な才知に変わり陰鬱な思考が支配したとしても不思議ではないほどの苦しみだったと思います。



さて、薩摩と大隅と日向の一部の状況についてはいままで説明してきましたが、秀吉の野望である東アジアについての説明を次の章でさらに追加したいと思います。



豊臣秀吉の考えと戦場での戦局の推移、そして島津家遠征軍の様子もお知らせしたいと思います。
しおりを挟む

処理中です...