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島津忠良の徳と武士の覚悟

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島津忠良は徳の人です。

とはいえ、彼の人生の初めはとてもハードモードでした。

彼の父は早くに死にに身分の低いものに殺され、祖父も早くに戦死します。



しかも、近隣の諸豪族に攻められ、親戚に助けてもらって何とか助かる始末でした。

その後、その親戚と母が結婚し、その条件が忠良が跡取りになるということ、ここまで来てやっと一息ついた感じです。



これだけ若いというか幼い時にいろいろあった人間が狂気に落ちずに良識を持っていたのは、桂庵禅師というお坊さんから論語や禅や神道を学んだからと言われています。



成長した忠良は領地を治める領主である一方、禅の修行に精進し学門を修め、人道を守り領民には善政を施しました。

いろは歌の中には独り身の老人や弱い立場の人間を慈しみなさいと書かれています。



恐らくこの時期にはいろは歌はなくともそのような徳のある政治を行っていたとしても不思議ではないと思います。



先ほど触れたように時は戦国で祖父は戦死、忠良自身も危ない状況を潜り抜けてきたわけですから、こうした善政を領内で行うためにも強い兵士は必要でした。



いろは歌の中には命を賭ける時がきてもいいように心を備えるようにというアドバイスがありましたが、この時の若き忠良にはすでにその覚悟があったのかもしれません。



話は飛びますが、フランス革命の時のフランス市民軍もとても強かったと言われています。



周りが外敵ばかりの状況で自分たちの暮らしを守るために身分の関係なく皆が必死に戦ったのはやはり大事なものを守るために命を賭けるその覚悟が原動力だったのではと思います。



話を戻しますが、島津忠良はいわば戦国の実力、(武力を含む)をもって薩摩の実力者となりました、

前にも述べた通り、自身は分家の当主として息子を補佐する一方力なきものにまつりごとは出来ないという現実を踏まえていました。



そして、息子を旗印に三州、(薩摩、大隅、日向の三か国)統一という目標掲げ、戦国を生き抜くことになります。



徳のある政治、儒教的な面と神道や仏教という日本と外国の文化のバランスをたもちながら、国としては強いことを目指したというのは今の日本でも考えてみても良い課題ではないかと思いました。
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