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西郷、カーネギー 、サリヴァンといろはの「お」

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思ほえず 違うものなり 身の上の 欲をはなれて 義を守れ人



現代語訳

人間は時として、ついうっかりと人の道から外れることがあります。

正常とは違う道に迷いこんでしまうのです。

そのようなときは、自分自身のためだけの私利私欲から離れるように努めましょう。

もっと人のため世のためになることを基準として自分の心を磨くことです。



このいろは歌に関連してのことでしょうか、西郷隆盛は次のような言葉を残しています。



間違いを改めるとき、自ら間違っていたと気付けばそれでいい。そのことを捨てて、ただちに一歩を踏み出すべし。間違いを悔しく思い、取り繕うと心配することは、たとえば茶碗を割り、その欠けたものを合わせてみるようなもので、意味がないことである。



間違いに関して、なんというかカラっとしていて切り替えが早いというニュアンスです。

グジグジ反省するのではなく、割れた茶碗をすぐゴミ箱にという感じです。

個人的にはこの発想かなり新鮮なのですが皆様はどう感じたでしょうか。



別の角度からも考えてみましょう。

ビジネスマンであれば多くの人がご存じのアメリカの作家、自己啓発の達人であるデール、カーネギーという人物はこう述べています。



「他人を指導して欠点を直してやり、良い方向に向けてやろうと思うなら、まずあなた自身から始めてはどうか。まったく自己本位に考えれば、そのほうがはるかに利益がある。その上、危険もはるかに少ない。」



文章の意味は自分の欠点を直すことを進めていますが、文脈からして欠点=違う道について日常のような当たり前な感じで語っています。

うっかりミスも含め人の営みの一部のような頻度を感じます。



人間、誰しもうっかりみミスはありますが、そんな時すぐにリスタートするように促しているように思えます。

マラソンで例えるなら、いちいち気にするな、さっさとコースに戻りなさいという感じでしょうか。



もう一人、ヘレン・ケラーの家庭教師として有名な教育者、アン・サリヴァンもこのような言葉を残しています。

「失敗したら初めからやり直せばいいの。その度にあなたは強くなれるのだから。」



ヘレン・ケラーが日常生活で苦労をし、沢山の失敗をしたことは想像に難くありません。

その失敗を糧として強くなること、彼女の考え方は私たちにとっても励みになるのではないでしょうか。



実は島津義久や義弘も部下が失敗したりばつが悪かった時に次に頑張れというようなアドバイスをして士気を鼓舞するエピソードがあります。

西郷などはいろは歌ど真ん中世代ですので言うに及ばずです。



とにかく、失敗しても次頑張れ!ということです。

さて、この歌の後半部分の私利私欲から離れ、世のため人のため心を磨くアドバイスについていえば、同じような趣旨の発言をした人は多くいるので省略します。



ただ、心を磨くというのはその言葉の中に磨き続けるというニュアンスもあると思います。

そして、世のため人のために努力していくことが出来れば、少しずつ頼もしい味方を増やすことが出来るでしょう。



失敗に関して、薩摩は西洋と同じようなトライアルアンドエラーなエピソードを感じることがありますが、この島津いろは歌の「お」もわず間違ったときに対処する教えの影響があるのではと思いました。



読者の皆様はどのように捉えられたでしょうか。

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