上 下
201 / 639

立花宗茂と島津家といろはの「つ」

しおりを挟む
前の章で立花宗茂の器の大きさや素晴らしさについて記しましたが、いくつか補強しておきたい点があり、この章でも立花宗茂と島津家について書いていきたいと思います。



まず、岩屋城の戦いまで時をさかのぼることにしましょう。

立花宗茂の実父である高橋紹運は島津と度重なる激戦の末に玉砕しましたが、その前後には島津との駆け引きや交流がありました。



通説によれば島津は降伏勧告を複数回行い、その際にも武士の面目を立てて交渉に臨んでいたと推測できます。

今の雰囲気で表現するなら、今までの戦ぶり誠にあっぱれもう十分戦ったのだから降伏しても名誉は保てますよ、そんな感じでしょうか。



つまり、敵味方として殺し合いをしていても、島津方は彼を敬意をもって扱っていたことが分かります。



また、降伏勧告に対して紹運がそれを拒否した際にはその言葉の潔さから、敵味方双方から感嘆の声が上がったとも伝えられています。



また、島津は戦で死者が出た時に敵味方区別なく弔うように島津日新斎(忠良)から教えられていたので、戦後余計な恨みの感情を持たれることはなかったかもしれません。



加えて。岩屋城落城後、般若坂の高台にて紹運以下の首実検が行わましたが、その時の攻め手の総大将・島津忠長は床几を離れ地に正座し、「我々は類まれなる名将を殺してしまったものだ。紹運殿は戦神の化身のようであった。



その戦功と武勲は今の日本に類はないだろう。彼の友になれたのであれば最高の友になれただろうに」と諸将とともに涙を流し手を合わせたと伝わっています。



こうしたことがあったので、立花宗茂は島津と朝鮮で共に戦う時にも憎しみによって判断を誤ることなく、むしろ頼もしい友軍として共に戦うことができたのではないかと思います。



そしてそれは、関ケ原の戦いの後敗軍となった島津義弘に対しても復讐の好機ととらえず、苦難を共にする真の友軍として運命を共にする選択を選ばせることとなりました。



余談ですが、この時の立花宗茂は関ケ原の戦いの時に西軍として共に戦った親友小早川秀包(こばやかわひでかね)と仲たがいしています。

理由は小早川家が約束を破り、西軍から東軍に寝返ったことが原因です。



宗茂は親の仇の島津であっても筋が通っていれば頼もしい味方となり、親友であっても道理が通らないと見たら敵となる。

ただの優しい甘ちゃんではなく、乱世を生き抜いた立派な戦国武将だったと言えるでしょう。



「つ」らい思いをしても、恨みで返してはならない。

そうすれば際限なく怨恨が続く生活となる。

立花と島津の怨恨もお互いが根に持たなかったことが、後の歴史においてお互いの家とひいては日本の歴史に大きな影響を及ぼしました。



皆様はどのように感じられたでしょうか。
しおりを挟む

処理中です...