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第一部 月は笑うが…… 

とある死刑囚(未決)の手記

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  とある死刑囚(未決)の手記
  
 ■■さん、完全に囚われの身の私にとって、こうして鉄格子の外のあなたに文書を残せることを心から嬉しく思います。署名は最後に本名でしますが、これはとある死刑囚の手記です。
 勿論、現状は理解しています。死刑はまだ確定しておらず、私は勾留されている被告人――いや、私がいるのは拘置所ではなく、病院です。しかし、やはりここは鉄格子の中です。そしてこれは死刑囚の手記です。
 
 私のいるこの世界が仮に探偵小説だとすれば――
 世界の悪意のすべては私が引き受けます。

 刑がどう確定するか? それまでどれだけの時間がかかるのか? 既に気にならなくなっています。私はただひたすらこうして文章を綴るのみ――。それがあなたには届く、ただそれだけのことです。私は外に出たいとは思いません。私のようなものはこのまま朽ち果ててしまえばよいと思っています。
 ただ、それでも、こうして文書が綴れることはとても嬉しいのです。
 すみません、表向きは、あなた――■■さんとの文書による交流となっておりますけれども、実はあなたからの文書はほとんど読んでいません。ただただ、一方的に私がこれを書いているだけです。私はそういう人間です。特に意思の疎通をあなたに求めているわけではないのです。それは先に謝っておきます。これは一方的な、謂わば、ダイオード的な手記です。そう、アノードからカソードへの一方向に電流を流す整流素子ダイオード……。整流――それはつまり相互に行き交う交流を拒絶して直流に変える。つまり……作者から読者への一方的な……。
 突き放した言い方になりますが要するに返事は要らないのです。
 あの事件のあった夜、あの別荘にはミステリー作家がいました。ミステリー作家が現実に事件に巻き込まれた時――しかもそれが殺人事件であった場合、ミステリー作家はそれを題材にミステリーを書くでしょうか? いえ、書くべきでしょうか? いえ、書くべきではないでしょうか?
 それが何の変哲のない事件ならともかく、少しでも何か謎を含んだ事件――つまり、本当にその事件がミステリーであったなら……。ましてや、その事件に巻き込まれた作家が――作風が稚拙でチープだとしても――本格ミステリー作家であったなら……。
 もし書けないのなら、または書かないのなら――、私が書くべきです。犯人として逮捕され司法に裁かれている――こうしてここに囚われている私が……
 密室に、首を切断された死体――、どう考えてもあの事件は本格ミステリーでした……。本来なら「針金の蝶々」というタイトルで書かれるはずであったフィクション上の殺人事件が現実に起こってしまった。
 いや、その書かれる予定の殺人事件と実際の殺人事件はまったく同じではありませんでした。密室現場にあるはずの針金細工の蝶々は密室の外に無造作に打ち捨てられて、代わりに事件の冒頭で「いちりとせ」が歌われました。
  
  いちりとせ
  やんこやんこせ
  しんからほけきょ
  は ゆめのくに
  
 そう、あのわらべ歌です。階段で子供が遊ぶあのわらべ歌。どうやら、このわらべ歌が夢の国――つまりはワンダーランドへの扉を開いてしまったのです。
 そのことを取り調べでも供述するつもりでした。しかし、うまく説明できなかったので――
 
 まるで探偵小説のようなこの世界において――
 世界の悪意のすべては私が引き受けます。
 
 ただ、それだけ供述して、以後は黙狂――いや私は狂ってはいない――黙人となりました。あれは決して狂人を演じて、心神喪失者である芝居を打ったのではないのです。
 確かに私がしでかしたことは猟奇的なことかもしれません。確かにあれは猟奇的でした。まずはそこからはじめましょう。
 
 最初に首を切断したのは野良犬でした。近所で子供が襲われたとか、その話は聞いていました。保健所に代わり私が手を下したのです。夜だったし、誰も見ていなかったので、その首を切断して自宅に持ち帰りました。妻に気付かれないよう、こっそり実験室がある庭の離れに切り落とした犬の首を持ち込みました。
 そう、実験です。純粋に科学的な実験です。私が欲したのは生首ではなく脳とそこから伸びる神経――つまりは首の脊髄――頚髄でした。なるべく新鮮な動物の脳とそれに繋がる頚髄――それが実験に必要だったのです。それで、野良犬を殺し、その首をはねたのです。
 まずは実験の邪魔になるので、犬の首の毛を剃りました。そうして大量の油粘土を土台にその犬の首をうまく固定して、ホームセンターで購入したホールソーで、頭に穴を開けました。そして頭蓋骨の一部を取り外し、その脳をむき出しにすると、その脳髄に何本ものお手製の電極を差し込んだのです。首の周りにも何本も電極を絆創膏で貼り付け、切断面の頚髄の中にも何本も電極を差し込みました。
 それで、犬の脳とそこから続く頚髄の入出力特性と首の表皮に現れる電位データの相関を取ったのです。
 ラズパイでコントロールされるシグナルジェネレーターを自作し、その出力を犬の脳に差し込んだ電極に繋ぎました。勿論、ジェネレーターの出力は一つではなく複数で――確か6チャンネルだった思います。ポートは8チャンネルでしたが、二つは制御に使いましたので――各チャンネルに様々な信号を入力したのです。
 一方、オペアンプのバッファを前段に備えたADコンバーターによるデータロガーも自作し――勿論これも当然複数チャンネルでラズパイでコントロールしています――その入力は犬の首の表面の電極と頸椎の中に差し込んだ電極に繋いだんです。
 そうして……
 ああ、確かに切断された犬の首は死んではいるのですけど、細胞レベルではまだ生きていると言える部分はありました。脳と頚髄の情報処理システムは自発的には機能しなかったのですけれども、脳に差し込んだ電極に信号を流すと、確かにデータロガーにはデータが記録されたのです。
 そのデータの解析は当時はどうやったらいいものか皆目わからなかったのです。ですが、おそらく将来はAIが発達しますから、得られたデータをうまく機械学習させればよいはずで……。とにかくもっと多チャンネルの計測システムを自作し、それが完成した矢先に――
 そう、その矢先に私に人間の新鮮な生首が得られるチャンスが訪れた――ただそれだけのことかもしれません。

 ああ、今気づいた!
 これは「死者の電話箱」ではないですか!
 まさしく埴谷雄高の死霊第五章に出てくる「死者の電話箱」に他ならない!
 いや、切り取られた生首は既に死んでいるのだから、これはもう最終段階に切り替えられた「存在の電話箱」ではないですか!
「われならざるわれ」に他ならない生首はもう「生き物」ではない「存在」になってしまって、そこに打ち込まれた電極とそれに繋がるデータロガーのセットは既に「存在の電話箱」になっていたのです!
 あの時、人間の生首を自宅に持ち帰った私は、早速、脳とそこから続く頚髄の入出力特性と首の表皮に現れる電位データの相関を取ったのですけれども、あの時、死霊第五章を思い出していれば……。これはもう悔やんでも遅いのですが、私はあの生首――ホールソーで頭長部に開けた穴からむき出しにした脳と切断された首から覗いている頚髄に電極を差し込まれたあの生首に、
「もしもし、聴こえますか? 聴こえたら反応してみてください。あなたの脳から頚髄への信号は私のデータロガーがしっかり記録してますから」
 そう訊ねてみるべきでした。いや、ひょっとしたら既に耳は聞こえなくなっているかもしれませんから、マイクとそれを繋げたアンプを用意して、アンプの出力を脳に差し込んだ電極に繋げた上で先ほどの質問をしてみるべきでした。
 いや! そうだ!
「あなたを殺したのは誰ですか?」
「誰があなたの首をはねましたか?」
「密室の謎がわかりますか?」
 そう訊ねればよかったのです! データロガーに記録された信号は現在ではわけわからないでしょうが、近い将来もっとAIが発達すれば、機械学習によって、人間には成し得ない解析も可能になります。
 殺人事件の時効は撤廃されていますから、警察は被害者の脳に電極を差し込んでありとあらゆる質問を浴びせてデータをとればいいのです。それを司法に提出すれば、将来発達したAIがすべてを解き明かし、真犯人を裁いてくれるはずです。
 ははは……、おかしいですか? でも……
 いや、この辺でやめておきましょう。ただ、本当に私は純粋に科学的なデータが取りたかっただけです。データの解析は私にはできませんでしたが、そうしたデータをとることには科学的な意味があったのです。データさえ残していれば、将来必ず……。
 
 いや、いけない……。こういう話になるとつい興奮してしまう。もし今、手に眼鏡を持っていたら興奮して話しながら、手にした眼鏡を机に叩きつけて壊していたことでしょう。
 いや……、もう大丈夫です。話を戻しましょう。
 あの別荘でパーティーがあった日、私もそこにいました。誰よりも先に、いの一番に来たつもりでしたが、既に到着している者がいるようでした。駐車場に車――カルディナがあったのです。
 別荘に行ってみると、玄関の鍵が掛かっているので中に入れず、困っている男がいました。彼に私は声を掛けました。
  
「今日のパーティーのお客さんですか?」
 その時の私はサングラスに大きめのマスクをしていました。正直顔を見られたくなかった。ということは既にこの時から事件を起こすつもりでいたのか? いや、どうも頭が混乱している。いや、わからないと書くべきか? それはここではまだ言えません。
 とにかく私は顔を隠していました。
「ええ、ちょっと時間を間違えたかもしれませんが――」その男はそう返事をしました。
 私はすぐに確信しました。それでこう訊ねました。
「ひょっとして、ミステリー作家さんではないですか?」
 私のその質問に彼はちょっと警戒した表情を見せました。
「ええ、まぁ」
 私は彼が名乗るのを待ちました。しかし、彼は、
「どうしてそう思うのですか? それにあなたは?」と、逆に私にそう尋ねました。
「私は、今日の主催者が代表を務める会社の従業員です。一応主任研究員ですが、会社は近藤グループの中の一子会社という、小さなベンチャー会社のようなものなので、一応何でもやります。今も代表より先に来てここの鍵を開けて準備しておくように言われて来てます」
「代表って近藤さんですよね? 専務じゃなかったですかね?」
「いえ、社長に昇格しました。今は代表――トップです、近藤メディボーグの。まあグループ内の一子会社にすぎませんが、まだ――」
「そうですか」
「話を戻しますが、その社長の近藤から、今日は来賓としてミステリー作家が来る、そう聞いていたので……」
「なるほど」彼はぶっきら棒にそう言いました。
 そしてそのまま黙ってしまいました。
「で?」私は彼が名乗るのを待ちました。
「坂東善と言います」彼がそう名乗ります。
 一瞬、おやおやとも思いましたが、「それは? あなたの?」念のためそう訊ねると、
「ええ、ペンネームですが……」彼はそう言って下を向きました。
「ハンドウ・ゼン? フットレルですね?」
「ええ、まぁ」彼は相変わらずあまりしゃべらない。「聞いてませんか? あなたの会社の代表――近藤社長から」
「ええ……いや、あの」私は正直に「ミステリー作家さんが来るとは聞いてましたが……」
「尾崎諒馬? 坂東善ではなくて」
「ええ……いや、ひょっとしたらいらっしゃるのは二人だったかも……ミステリー作家が二人」
「尾崎諒馬は来ますかね?」
 私は確信をもって「ええ、来ますよ」そう答えました。
「あなたは尾崎諒馬を知ってる?」
「ええ、いや……」
「なるほど、まあ、坂東善を知らなかったから、似たようなもんです。気にしないで」彼は少し自虐的に笑いました。
「あの……」私は焦れて「別に名前なんてどうでもいいのですが、本名ではなくてペンネームで参加なされるわけですか? パーティーには」そう尋ねると、
「さあ、相手によるでしょう」彼はぶっきらぼうにそう言いました。
「私も少しはミステリーの話、できますよ」少しだけムカついたので私はそう話を切り出してみました。
「なるほど、坂東善と名乗ったら、フットレル、そう言いましたね、あなたは。まあ、知っていて当然ですが」
「当然かどうかはわかりませんが、ヴァン・ドゥーぜン博士のもじりですよね、坂東善は?」
「もちろん」
「私はあまり本は読みません。それだと話が終わってしまうので、映画の話でいいですか?」私がそう切り出してみると、
「例えばどんな?」彼は興味ありそうな返事。
「江戸川乱歩の黒蜥蜴とか――他いろいろ、美女シリーズでしたっけ?」
「天地茂の? 映画というかテレビドラマかな?」
「そうそう、ご存じですね。あの変装をどう思いますか?」
「どう? というのは?」
「全く別の俳優が、実は私は――、そう言って、手で顔を隠して何やら顔から剥がす動作をして――」私がそこまで言うと、
「何やらゴムの仮面を剥ぎ取ると天地茂が現れる、そういうシーン」彼が続きを答えた。
「そうそう。俳優自体が別人なのにそれで変装というのは……」
「なるほど、でもそれを完全否定すると特撮映画はどうなります? あのビルの壊れ方は何だ? ってなりますよ。私はウルトラマンは好きでしたし――」
「では、横溝正史の犬神家は?」
「犬神家? 今度は何です? あの池から生える脚ですか?」
「いえ、被害者の生首が菊人形の首と置き換えられて――」
「え? それが?」
「発見者一同、キャーと悲鳴を上げる中、名探偵がその首を鷲掴みにして、いや、これよくできたおもちゃですよ、って、もし、やったら……」
「え?」彼はよくわからない? という顔をした。
「例えば、そういうトリックだったら? よくできたおもちゃの生首を本物と思い込ませて、被害者は死んでると思わせるトリックだったら?」
「なるほど、おもちゃの生首は警察が来る前にこっそり処分する、と――。でも、いや――」彼は口籠る。
「どうしました?」
 彼はしばらく黙って考えていたが「ミステリーって語るのが難しいんです。うっかり喋ってネタバレとか――。でもまあ、忘れているところはありますが、再読しなくてもハッキリ言えます。犬神家の生首は本物でしたよ。これを言ってもネタバレではないでしょう」
「でも原作を、脚本家なのかプロジューサーなのかわかりませんが、ドラマ化の時によく改変するでしょう? 犯人が別だったり、トリックも変更されたり。原作の生首は本物でも、映画では偽物というトリックに変えられてしまうこともあるんじゃないでしょうか?」
 彼は何も答えなかった。呆れているようにも深く考え込んでいるようにも見えました。
 そのまま、沈黙が訪れた。私はただ黙って彼を見つめていた。
「生首がおもちゃ、そうすると、池から生える脚もおもちゃ――、あれ? うーん」沈黙に負けたのか、彼がそう言いかけたが「映像化サイドの思惑や事情はさて置き、原作は大事にしてほしいとは思っています」それだけ言うと再び黙ってしまった。
「ええ、坂東さん――本名を名乗らないのでペンネームで呼びますが、どう思います? ミステリー作家として」
「どうでしょうね? ただ、面白かったですよ、今の話は」彼は少しだけ笑った。
「結局はぐらかすのですか?」
「ちょっと来るのが早すぎたようですから、小一時間ほどドライブしてから改めてまた来ます」
 それだけ言うと彼は去っていってしまいましたが、去り際に「この別荘は窓際の植え込みが奇麗ですね。結構高さありますが、この程度なら高木ではなく低木ですね。ほら紫の花が――」とだけ言い残していったのです。

 ■■さん、疲れました。今回はここまでにします。もちろん続きは書きますが、これはミステリーということにしましょう。実際の事件をそのまま書いたミステリー。
 尾崎諒馬の作風はそんな感じでしたよね。ただ、今回は殺人事件です。そして書いているのは私です。あの殺人事件の犯人と検察が判断し、裁判中の未決の死刑囚――私です。
 
              佐藤稔さとうみのる
              
 ※本名による署名も、■■さん、という呼びかけもこれが最初で最後です。手記は続きますが、もはやこれはミステリーです。返事は要りません。書かれても私は読みません。ただ、あなたの方であの坂東善とやらに――いや、独り言です。

 追記 いや、やはり本音を書いておく。
 
 ミステリー作家であるなら、逃げるな!
 実際に殺人事件が起き、それに巻き込まれたのなら、それをミステリーにしろ! 仮に警察、および司法が現実世界でそれを解決してしまったとしても、謎は謎のまま残されているんだろう? それを放置して逃げるのはミステリー作家として恥ではないのか?


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