上 下
29 / 34
二部

第二十五話

しおりを挟む
六限目の終了を告げるチャイムが、惰眠の底に揺蕩っていた陽の意識を引き摺り上げる。突っ伏していた机から勢い良く顔を上げて、日直の号令に合わせてふらふらと立ち上がった。
強引に起こされたために半分以上寝ている頭で教室を見渡すと、陽と同じような状況だったらしいクラスメイトが慌てて起き上がったのが見える。がくりと重心に任せるように首だけで礼をして、席についた。

あれほど幅を利かせていた暑さも落ち着いて、肌寒さすら感じるようになった。衣替えは十月からと言うことになっているのでまだ冬服は出していないものの、殆どの生徒が制服の上に何かしらを羽織っている。陽も例外無く、半袖のシャツの上から濃い紫色に緑色のラインが入った学校指定の長袖ジャージを着ていた。
その中の数少ない例外で、未だ半袖のシャツの前川が振り向く。彼は陽を見るなり吹き出して、自らの右頬を指差してみせた。
「教科書の跡ついてるぜ」
「マジ?」
鞄の中を漁った前川が差し出した小さな折り畳み式の鏡を受け取って、それに自分の顔を映してまじまじと見る。前川の言った通り、右の頬に真っ直ぐな線が何本か入っていた。陽はそこを揉みながら鏡を返すと、空いた方の手で教科書と真っ白なノートを机の中に捩じ込んだ。
陽の身体越しに後ろを見た前川は、呆れ気味に溜息を吐いて席を立った。
陽の横を通り越して、更に後ろの最上の元へ向かう。彼もまた授業中に眠っていた一人なのだが、最上は陽と違ってチャイム程度では決して起きない。特段疲れていると言うわけでは無く、単純にどこでも深い眠りにつけるのだ。
呼吸に合わせて大きく上下している最上の薄い茶色のカーディガンを控えめに引いた前川が、そこそこ大きな声で彼の名前を呼ぶ。
「悠!悠さーん!起きろって、六限終わったぞ!」
「うん……わかった、起きる、………」
最上は掠れた声で呻いて僅かに身動いだが、少しして、ぱたりと動かなくなった。
陽が耳を澄ませると、穏やかな寝息が聞こえる。
「寝たわ」
「悠ー!」
「……うっさ……」
前川が肩を揺すりながら一層大きな声で呼び掛けると、最上はやっと起き上がって、最大限に眉根を寄せた。彼は不機嫌さを隠そうともせず前川を睨みつける。しかし慣れた様子の前川はそれに怯むこともなく、おはよ、と爽やかに歯を見せて笑った。
「颯紀さあ、もうちょっと静かに起こしてよね」
「それだとお前起きねーじゃん」
「……面目ないです」
「いーえ!」
教室のドアががらがらと音を立てて開いて、いつものパンツスーツを着た渡利が入室してきた。席について、と言う穏やかな彼女の声に、前川を含めたクラスメイトたちがぞろぞろと自らの席へと戻っていく。渡利は全員が席に座ったのを確認すると、それぞれの列の先頭にプリントを配り出した。
前川から回ってきたそれを一枚取って、残りを後ろの最上に渡す。プリントは保護者宛で、上部に大きく「私立菖蒲ヶ崎高等学校文化祭のお知らせ」とあった。数行に渡る定型文の挨拶の下に、大まかな日程と開催時間が書かれている。
二日目は朝の十時からダンス部の発表が始まるらしい。昼休憩を含めても、発表と発表の間にそこそこの空きがあるのは、客の入れ替えも想定しているからなのだろうか。
その最後、十五時半、と印字された横に軽音部の文字を見つけて、口角が上がりそうになるのをどうにか抑えた。
約一ヶ月後、十月の最後の週末。
陽はその紙をいつになく丁寧に二つ折りにして、ギターのギグバッグの小さなポケットに入れた。リュックの中で皺くちゃになってしまうよりは、こちらの方が余程良い。
「明日、四限目の学級会で一日目のクラスの出し物を決めるから、皆何が良いか考えておいてください。飲食でもいいけど、簡単なものにしてね」
渡利の言葉に、教室が若干ざわついた。
二日目ばかりに意識が行ってしまうが、文化祭は二日間あるのだ。
一日目はクラス単位、二日目は部活単位で動くことになる。
皆を宥めた渡利が、日直の生徒に帰りの挨拶をするように告げた。日直に従って、ぞろぞろと皆が立ち上がる。椅子ががたがたと鳴って教室の中を満たした頃、さようなら、と言う多数の声が散らばった。
「じゃな!」
「明日ね」
「おー」
前川と最上はいつものように、真っ先に教室を出て部活へと向かう。その背中に手を振った陽は、左横に大人しく立て掛けられたギグバッグの、先程配られたプリントを入れたポケットを再び開けた。中に手を突っ込んで、指先に触れた第二視聴覚室の鍵を取り出す。それを右手に握り締めてギグバッグを背負った時、初と時藤がこちらに歩いてくるのが分かった。陽と同じく長袖のジャージを羽織った初は深い溜息を吐いて、陽の頬を軽く抓る。
「陽、また寝てたでしょ」
「ふぁえあお」
「そりゃあバレるでしょあんだけ爆睡してんだから」
「ひゅーもへへはほ」
「悠くんは悠くん!陽は陽!」
「え、えっと、初くん、何で聞き取れるの……?」
「あー、うーん、……慣れかなあ」
「ははひへ」
「あ、ごめん」
ぱっと初の手が離れて、陽は僅かに痛む頬を態とらしく撫でた。しくしくなどと言いながら、上目遣いで時藤を見る。彼は少し大きいらしい白のカーディガンから指先だけを出して、陽の頬をぺたぺたと触った。
「瑞樹、俺のほっぺた取れてない?」
「え、あ、うん!ついてるよ……!」
「くだらないこと言ってないで、行くよ」
三人で教室を出て、廊下を歩いた。職員室の前に置いてあったあの姿見はいつの間にか撤去されて、廊下が僅かに明るく、広く感じる。
陽はつい数分前の渡利の言葉を思い出しながら口を開いた。
「クラスの出し物ってさあ、何とか喫茶ーみたいなやつ?」
「C組の子に聞いたけど、教室で劇やるとこもあるみたいだよ」
「へー……瑞樹は?何か聞いてる?」
「へっ」
急に話の矛先が自分に向いたからか、時藤は僅かに肩を震わせた。こういう時の彼はえっと、あの、などと口ごもって本題に入るのが数瞬遅れるが、そんなことにはもう慣れてしまった。
「お、お化け屋敷の枠は、もう埋まってる、かな」
「もう押さえてるとこあんの?仕事早いじゃん」
「う、ううん、あの、部長のクラスが、やるから……」
オカルト研究部部長、島村葎を擁する二年A組が昨年の文化祭で出したお化け屋敷だが、それが大変に好評だったらしい。それを踏まえて、恐らく今年もお化け屋敷を出してくるだろうと、そういう話だった。
昨年と全く同じでは島村が納得するはずが無く、恐らく設定ごと変えてくるはずだと時藤は言う。
「去年は時間もあんまり無くて、教室を心霊スポットのトンネルに見立てるとか、そういう感じだったんだよね。演劇部に頼んで、そのトンネルで起こった怪奇現象の映像みたいなの流して、……部長、今事故物件に嵌ってるから、…多分、相当気合い入れてくると思うよ。……俺も、楽しみなんだあ」
顔の前で指先を合わせて心底楽しげにしていた時藤だったが、何かに気が付いたように目を丸くしたあと、その表情が一転して泣きそうなものへと変わる。
「ご、っご、ごめんね陽くん、こんな話」
恐らく晴のことを言っているんだと合点がいった。晴が見つかった時、時藤は島村と学校に残っていて、保健室で軽音部の面々を出迎えた。島村から何も聞いていない訳は無いし、ある程度のことは知っているのだろう。
陽は時藤の肩に腕を回して、その口の前に人差し指を突き立てた。
「あのさあ、もう良いんだって。気ぃ使われる方が病むしさあ、好きなこと喋れば良いじゃん。気にしないもん俺」
「え、あ、えと」
「分かったら返事!」
「う、うん、……わかった、ありがとう」
二階に着くと、時藤は陽と初に手を振ってオカルト研究部への部室へと向かった。
歩き出した陽の横を歩いていた初が、不意に口を開く。
「先輩たち、もう来てるかなあ」
「やべ、待たせたらおやつ抜きかもよ」
「いやないでしょ」
おどけたように言った陽の、階段を上る足が何となく早くなる。三階の廊下に出て第二視聴覚室の方に目を向けると、扉に寄り掛かるようにして携帯を弄る織が目に入った。彼は好きなバンドのグッズらしい、オーバーサイズの黒いパーカーを着ている。その隣には、ベースが入っている革製のケースが見えた。
思わず駆け出そうとした陽のギグバッグを、初が険しい顔で鷲掴みにする。
「何、」
「危ないから、僕に寄越して」
そう言って、初は陽の背中からギグバッグを毟り取った。背中が軽くなった勢いで真っ直ぐ織の元へ走ると、足音に気が付いたらしい織が顔を上げる。壁に突進するように手を付いた陽は、息を切らしながらお疲れっす、と言った。
「結構待った?」
「んーん、全然。うちの担任ね、HRだけは終わんの早いの」
陽は第二視聴覚室の鍵を開けて、ドアノブに手を掛けた。廊下を歩いてきた初が、織に小さく会釈をする。
「お疲れ様です」
「お疲れ、……何?パシられてんの?」
初に抱えられたギターを指差して織が言うと、初は一瞬きょとんとした後、ああ、と言いながら首を横に振った。そして隣で早く返せとばかりに手を出している陽にギターを渡して、こう返す。
「走るなら邪魔でしょ」
「過保護だねぇ」
「織先輩にだけは言われたくないですよ」
「へえ」
そんな会話をしながら、重たい扉を開ける。昨日はカーテンを開けずに帰ったために中は殆ど真っ暗で、陽は壁を手探りで叩いて蛍光灯のスイッチを探し当てた。
ぴき、と言う独特な音と共に、室内が明るく照らされる。
陽は机の上に鞄を置き、窓際にギグバッグを立て掛けた。織は床に鞄を放るとケースからベースを取り出して、アンプ横に置いてあるスタンドに立てる。そうして自らの席に戻って、椅子に腰掛けて机に肘を付いた。斜め向かいで鞄からペットボトルのフルーツ牛乳を取り出す初を見上げて、織は首を傾げてみせる。
「それなりに子離れしてるつもりなんだけど?」
「はは、どこがですか」
「えー手厳しいじゃん」
初の答えにけらけらと笑った織に、周囲を見渡した陽はそういえば、と口を開いた。
「さとちゃん先輩は?」
「先生に用事あるから先行っててってさ。もうすぐ来るでしょ」
そう言った織は立ち上がって奥の部屋に入ったかと思うと、昨日の残りのチョコレートの袋を持って戻って来た。ちょっとしかないから食べちゃってよ、と言って袋を広げて、机の中央に置く。初が取ったピンク色の小さい袋が、蛍光灯の明かりを映し出していた。
陽は散らばったチョコレートの小袋の中から緑色のものを取ると、封を切って口に放り込む。ピンクが苺なら、抹茶か何かだろうと思っていた。しかし陽の口の中に広がったのは全く予想外の味で、たった今雑に破いた袋を見る。初がそれを覗き込んで、こう言った。
「ピスタチオじゃないの、それ」
「ピスタチオって何」
「あれだよ、ほら、……お洒落な豆みたいな」
「豆かあ……」
そんな二人を笑いながら見ていた織が、惺の机の中から小さなクリップで留められた数枚の紙を取り出して、二人の前に差し出した。コピー用紙ではあるものの、そこまで大きくない長方形をしたそれは、ライブのチケットを連想させる。
と言うか、正にそれだった。
「これ、家族席のチケットね。俺と惺はいらないから、全部陽ちゃんとはーくんにあげるわ」
素直にそれを受け取った陽は、ぺらぺらと紙を捲りながら枚数を数えた。丁度六枚あるので、陽と初で分けるとなると三枚ずつと言うことになる。初は織の方を見て、本当に良いんですか、と聞いた。
「親戚の方とか、いらっしゃるんじゃないですか」
「んーん、良いの良いの。いちいち他県から来てもらうのもちょっとアレじゃん、こっちも気遣うのやだし」
その返答に納得して、陽と初は券面に視線を落とした。ご家族様席、と印字されたそれからクリップを外して、三枚数えて初に渡す。
チョコレートの小袋を破きながら、織は心配そうに続けた。
「逆にそれで足りる?もうちょっと生徒会から毟り取って来ようか?」
「良いですよそんなカツアゲみたいなことしなくて、……僕も陽も、…三人ずつなんで」
うちは、来てくれるか分かりませんけど。
少しだけ俯いてそう言った初に手元のチョコレートを一つ差し出した織は、目を細めてこう言った。
「引き摺ってでも連れて来て。そんでさあ、めちゃくちゃ盛り上げて、目にもの見してやろうよ。はーくんが今まで頑張ったの、俺も惺も、陽ちゃんも、ちゃんと知ってるから」
織のその言葉に初は顔を上げて、一度だけ頷いた。
続いて織は陽に視線を向ける。
「陽ちゃんちは?弟いんだっけ」
「そうなんすけど、……大丈夫っすかね?」
「何歳?」
「六歳っす」
世の中には子供連れでアーティストのライブに行く人間もいると言うが、どうしても心配になってしまう。ライブハウスで演奏する時ほどでは無いにせよ、体育館の外にも漏れ聞こえるような音量だ。その辺りは両親と相談だと考えて、そもそもまだ来ると決まったわけでは無いからと浮かれかけている己を内心で律する。
「ヘッドホンとか耳当てとか、そういうので軽く耳塞いだ方がいいかも知んないね」
「来たいって言ったら、親と相談してみるっす」
陽がそこまで言った時、第二視聴覚室のドアノブが下りる音がした。分厚い扉に体重を掛けるようにして、鞄を肩に下げた惺が入ってくる。グレーのカーディガンも、すっかり見慣れてしまった。
「ごめんね、遅れちゃった」
そう言いながら、惺は自らの席に鞄を置くと、机の上に散ったチョコレートを一つ手に取った。袋を破って口に入れるその姿を見ていた三人のうち、一番最初に口を開いたのは織だった。
「何喋ってたの?」
「ん?うん、推薦の話蹴って来た」
「へー、そうなんだ、推薦……──は?」
惺が平然と言ってのけたそれに、織と初の周りの空気が硬直した。陽は訳もわからず、ただ三人を順番に見ている。

織と惺が第一志望とする私立大の推薦選抜は、十月頭に出願、十一月初旬頃に試験が行われ、選考期間を経て十一月下旬から十二月にかけて合否が発表される。一般選抜よりもずっと早くに合否が決まるため、合格すればその後は悠々と残りの高校生活を満喫出来るのだ。
惺の成績であれば余裕で推薦を取れるとは前から言われていたことであったし、織も初も、当然そうすると思っていたらしかった。
しかし、惺はそれを断ってしまったのだと言う。
「何でですか!?勿体無い!」
「そうだよ惺、どうしたの?お前、推薦絶対受かるって言われてたじゃん」
立ち上がらんばかりの勢いで口々に惺に詰め寄る織と初の二人を前にして、惺は言い難そうに目を逸らす。やがて織をちらちらと見ながら俯き、ぽつぽつと話し出した。
「……だって、…だって、オリ先輩は一般なのに、おれだけ先に受かっても、何も面白くないよ。一緒に勉強して、一緒に試験受けて、……一緒に、受かりたかったから」
「……」
「それだけじゃ、駄目?」
惺が途切れ途切れに言ったその言葉に、織は盛大な溜息を吐いた。初も顔を両手で覆って、駄目じゃないです、と呟く。織は暫く惺の頭を鷲掴みにするように撫でていたが、もう一度大きな溜息を漏らした。
「お前のそういうとこ、ほんと分かんないわ……」
「褒め言葉として受け取っときますよ」
言ってしまったことで肩の荷が降りたのか、幾分すっきりとした様子の惺が笑う。陽は内容を理解しようと努めはしたものの、その頭は最終的に惺が満足そうだから良いか、と言う結論を叩き出した。


その後は少し談笑して、いつもの通り練習をする。家族席のチケットのことは惺にも聞いたが、殆ど織と同じような答えが返って来た。
文化祭の持ち時間は三十分、以前に陽が計算した通り、五曲演奏することになった。一曲だけはカバーで、定期公演会でも演奏したもの。残りの四曲はオリジナルだ。最初から最後まで全力疾走も疲れるからと、バラードも組み込んである。陽と初が作った曲も入っていた。
本番まで一ヶ月あることを考えると余裕な気もしてくるが、実際あっという間に本番を迎えてしまうのだろうな、と思う。
曲順は追い追い決めるし、何なら前日になってしまっても構わないのだ。

ほんの短い時間しか楽器に触っていない気がするのに、いつの間にか完全下校時刻を知らせる童謡が鳴っている。
ゆったりとそれぞれの片付けをしていると、初が口を開いた。
「そういえば、定演の時ってMC入れなかったじゃないですか。どうします?今回」
「何か喋りたい?陽くん」
惺の言葉に、陽はなんとはなしに織の方を向く。
「コントとかする?織ちゃん先輩と」
「何で俺なの?」
「や、何となくっす」
笑いながらギターをギグバッグに仕舞って、それを背負った。チケットも文化祭のお知らせのプリントも、全部このポケットに入っている。背中に腕を回して、何となくその感触を確かめた。
スラックスのポケットに入れていた鍵を出して、来た時と同じように右手に握り締める。
追撃のようなチャイムが鳴る前に、四人はどうにか校門を飛び出した。



織と惺は、いつも新豊永駅から少し歩いたところにあるスーパーで夕飯の買い物をしていく。彼らとは家までの道が違うためにいつも駅を出たところの横断歩道で別れるのだが、陽も初も、今日は何だか真っ直ぐ家に帰る気持ちにはなれなかった。買い物について行くことにして、すぐ前を歩く二人の会話を聞いている。
「惺」
「うん?」
「砂糖あった?家に」
「ちょっとだけね」
「次の安売りまで保つ?」
「無理そう」
「はーい」
ただ後ろをついて回っていただけだ。陽も初も特に何かを喋るわけでも買うわけでも無かったが、何気ない会話を聞いているだけで、不思議と心が落ち着くのを感じた。
スーパーの全域を回って、カゴにこれでもかと詰め込まれた商品を織がセルフレジの台に乗せる。金井沢に住んでいた時と全く変わらないその挙動に安心感を覚えて、陽は初の方を向いた。
そうして、彼にしか聞こえないように呟く。
「お前、今日、ちゃんと言えよ」
「陽こそ」
織と惺が袋詰めを終えた段階で会話を切って、何でもないように笑って見せた。てっきりスーパーの前で別れるものとばかり思っていたのだが、結局買い物袋を下げた織と惺も駅前まで戻ってきてしまう。
もうじき青になろうかと言う横断歩道の前で立ち止まってぼんやりと歩行者信号を見ていた陽と初に、織は小さな棒付きの飴を投げ渡した。
きょとんとしている二人に、惺が小さな声でがんばれ、と笑いかけて手を振った。
マンションの方向へと歩いていく織と惺に手を振り返して、二人は自らの手元を見る。信号が青になったのと同時に、待っていた人々がぞろぞろと横断歩道を渡り出した。
「……初」
「うん」
「何のやつ?それ」
「……いちご牛乳、…陽は?」
「みかん」
「はは、良かったじゃん。好きでしょ」
帰り道を歩きながら飴を包んでいたビニールを破って、口に入れる。じわりと広がる甘味に、固まっていた表情が緩むのが分かった。そんなに分かりやすく緊張していただろうかと、陽は飴を咥えたまま自らの頬を揉み解す。
棒を持ちながらころころと口の中で飴を転がしていた初が、左の頬に飴を押し込めて喋り出した。
「こんなに甘かったんだ、これ」
「それよ」
「……本当、敵わないよね」
「一生勝てる気しねー」
口の中で徐々に小さくなっていく飴がどうにも惜しくなって、陽は初に、遠回りしよ、と提案を投げた。それに頷いた初が、沈み行く夕日に飴を包んでいたビニールを透かして見ているので、陽も同じようにする。
見慣れた空が、いつもよりもずっと綺麗に見えた。





リビングの扉の前で、もうかれこれ五分は立ち呆けている。中から漏れ聞こえてくるくぐもったクラシック音楽は、初の心境とは凡そ真反対に明るく軽やかだった。
その合間を縫うように、ぽつぽつと両親と妹の話し声がする。
夕食を終えて、初は一度自分の部屋に戻った。どういう風の吹き回しか知らないが、最近、父は夕方には帰宅する。両親と妹と、自分。特段何の話をする訳でもない。母から喋り掛けられれば応じるが、それだけだ。父や妹が初に直接声を掛けることはないし、逆も然りだった。
前のような気不味さはある程度取り払われたにせよ、こういう風に話をしなければならないとなると、尋常でなく心が張り詰める。
──陽は、上手く渡せただろうか。
そんなことを考えながら、初は自らの手の中にある件のチケットと、担任から渡された文化祭のお知らせに視線を落とした。軽音部の文字の上を、ピンク色の蛍光ペンが走っている。
引き摺ってでも連れて来いと織から言われたことを思い出して、少し笑ってしまった。ぴんと張っていた感情が、僅かに緩む。
さっさと概要だけ伝えて、後は部屋に引っ込んでしまおう。渡したと言う事実が残ればいい。来るか来ないかは、あちらが決めることだ。

初はドアノブに手を掛けて短く深呼吸をし、息を吐き切ったと同時に扉を開けた。
大型の液晶テレビの真横に設置された大きなスピーカーから、会話の妨げにならない程度の音量でクラシック音楽が流れ続けている。先程まで夕食を食べていたダイニングテーブルでは無く、L字型の黒い大きなソファに座って談笑していたらしい三人は、初が入ってきたことに驚いたような顔をして、会話を途切れさせた。
夕食後にリビングに顔を出すのは、何年振りだろうか。
「……お父さん、お母さん、…」
声が震える。
ライブなんかより、余程こちらの方が緊張するのだ。
母が立ち上がり掛けるのを制して、初は口を開く。
「初?どうし──」
「お話が、あります」
言いながら、ソファの前に置かれた低いガラステーブルの端に膝をついて、テーブルにプリントと家族席のチケット乗せた。変に突っ掛かられる前にと、初は文化祭の日付と、それに自分が所属する軽音部が出ること、家族席のことを簡潔に伝えた。
その間沈黙したままの父が、不意にシャツの胸ポケットから眼鏡を取り出した。そのままそれを掛けて、ガラステーブルからプリントを拾い上げてまじまじと見ている。
落ち着けと自分に言い聞かせた。頭の中に巣食ったままの幼い頃の初が、この状況に泣き喚いて抗議している。こんなのは無駄だ、どうせ否定されるに決まってる、今すぐやめろ、と言うそれを無視して話を続けた。
「お忙しいとは思います、……でも、…見に来てくれたら、嬉しい、ので、……」
そこまで言うと、初は父の横に座ってじっとプリントを見ている妹に声を掛けた。
「仁奈も、暇なら来てみて欲しいな」
久し振りに名前を呼んだ気がする。その当人は母に似て大きな目を一層見開いて、初を見ていた。腰ほどまで伸びた髪を左右で三つ編みにした、小学五年生にしては大人びた顔つきをしている彼女は、父の表情を伺うようにして視線を泳がせて、何を言うでもなく俯いた。
「それだけです。……おやすみなさい」
そう言って立ち去ろうとした初のシャツの裾が、弱々しく引っ張られる。
振り返ると、もう父の方を見ていない妹がその小さな手でシャツの裾を掴んで初を見上げて、いつになく声を張ってこう言った。
「……仁奈、行きたい」
「え」
「お兄ちゃん、毎日楽しそうだから、……だから、仁奈、行きたいよ。パパ、ママ」
良いでしょう、と言う妹の問い掛けに、母はぱあっと表情を輝かせて心底嬉しそうに頷いた。妹にお兄ちゃんと呼ばれたのは、彼女がほんの小さな時以来だ。
母が微笑みながら初を見て、陽くんも出るのと首を傾げる。
「あ、……うん」
「そうなのね、それじゃあ絢子ちゃんも来るのかしら?ふふ、お休み取らなくっちゃ」
楽しみね、と明るく言う母に、妹が僅かに頷いた。
初は心のどこかで、言ってもどうせ来てもらえないだろうと思っていた。予想から大きく外れた展開に脳味噌がついていけずに、思考ごと身体が固まってしまう。先程まで喚き立てていた幼い初は、すっかり頭の中から消え失せていた。
「初」
父の低く重たい声に、初は反射的にびくりと肩を震わせる。
ソファでプリントを見ていた父は初の方を見もせず、たっぷりの沈黙の後、穏やかに流れているクラシック音楽に紛れてしまいそうなほど小さな声で呟いた。
「……その日は、…休みを取るようにする」
母と妹が顔を見合わせる。
初は父の言葉がすぐには理解出来ずに、暫くそれを咀嚼するように脳内で転がした。
勝手に溢れそうになる涙をどうにか抑える。ひとつも悲しくないのに、少しでも気を抜けば泣いてしまいそうだった。心の奥に深く根を張っていた針の筵が、徐々に溶け出していく。
そうしてようやっと、初は頷いた。
「ありがとう、……お父さん」
今までの家族に対するそれよりもずっと柔らかくなっている自分の声に気が付いた初は、少しだけ笑って、もう一度おやすみなさい、と言った。





どうしてこんなに緊張しているのか分からない。テレビから流れるバラエティの面白おかしく抑揚をつけたナレーションが、陽の耳を素通りしていく。好きな番組であるのに、表情筋は凝り固まって、ぴくりとも動かなかった。
お知らせのプリントと家族席のチケットは、帰宅してからも着たままの長袖ジャージのポケットに折り畳んで入れてある。軽音部が文化祭でライブをするから来てくれと、それだけを言えば良いはずなのに、喉が引き絞られたように塞がって言葉が出てこない。
無言で夕食を食べ進める陽を妙に思ったのか、隣に座る昊も、向かいに座る父も母も、不思議そうにこちらに視線を寄越している。
箸を置いた父が、陽を呼びながら顔の前で手を振ってみせた。
「どうした?具合でも悪いのか?」
「あ、いや!めっちゃ元気!です!」
露骨に声が裏返って、陽は思わず口を塞いだ。怪しすぎる自覚はあるのだが、どうしようもない。母が怪訝そうに眉根を寄せて、あんた、と口を開く。
「また赤点のテスト隠してるんじゃないの?」
「見せたじゃんこないだ!赤点なかったでしょ!?」
「じゃあ何?どうしたの、陽、今日ちょっと変だよ?」
「……そ、…れは」
ジャージのポケットの中の紙を握り締めて、俯いた。助けを求めるように、背後の晴の写真の方へ目を向ける。
きっと晴が生きていたら、仕方ないなと笑いながら陽をフォローしてくれたに違いない。いつもそうだった。母が冗談めかして、あんまり陽のこと甘やかさないでね、と晴に言っていたことも、知っている。

甘えてばかりだ、と思った。
織と惺がスーパーで会計を済ませているのを見ながら、自分が初に言ったことが頭の中で響いた。初はちゃんと言えただろうか。父を前にして、怖気付いていたりしないだろうか。
苦し紛れに逆側のポケットに手を入れると、横断歩道の前で織から投げ渡された飴の包み紙が出てきた。捨てるのをすっかり忘れていたオレンジ色のそれを見て、別れ際の惺の言葉を、急に思い出した。
がんばれ、と。
陽は唇をきゅっと引き結ぶと、静かに深呼吸をする。そして握り締めたプリントとチケットを取り出して、父と母に差し出した。
「あのさ、これ」
母がそれを受け取って広げたのを、父が横から覗き込む。何それ、と声を上げた昊が椅子から下りて、ばたばたと足音を立てながら両親の間に立った。
二日目の最後、軽音部の文字を丸く何十にも囲う蛍光イエローが、プリントの裏から透けて見えている。
母が陽を見て、不思議そうに言った。
「これを隠してたの?」
「隠してたつもりはないんだけど、……お父さんもお母さんも、…来たくないかなって、思って」
途切れ途切れにそう言って、陽は俯く。リビングに暫くの沈黙が落ちる。視線の先で、昊が両親を交互に見比べているのが分かった。
やがて彼らの小さな笑い声が聞こえたかと思うと、母の手が陽の頭に置かれた。
「ばかねえ、……息子の晴れ舞台だよ?行くに決まってるでしょ」
「え」
陽は勢い良く顔を上げた。微笑む両親の間で、昊が背伸びをしてこちらを覗いている。
「お兄ちゃん、お歌歌うの?」
「うん」
「すごーい!昊も行く!絶対行く!」
ぴょんぴょんと何度も飛び跳ねながらこちらへとやって来た昊は、そのまま陽の膝の上によじ登った。振り返って陽を見て、もしかして初ちゃんも出るの、と叫ぶように聞いてくる。
「初も出るよ」
「やったー!」
両手を上げて喜ぶ昊に、凝り固まった陽の表情が解れていく。
プリントを読んでいる両親に、陽は家族席のことと、かなり大きな音が出ることを説明した。昊に関しては、ヘッドホンなりイヤーマフなりを着ければ良い、と母は言う。
「まあ、取っちゃうと思うけどね、……お父さんはお休み取れそう?」
「丁度有休消化しろって所長に言われてたからね、カメラ持ってく?」
「今から浮かれないで。一ヶ月もあるんだから」
そんな両親の会話をただ聞いている陽を、安堵感がふわりと包み込む。椅子の背もたれに身を預けて、振り返った。
もしかしたら、うだうだと考えなくても良かったのかもしれない。
こちらに向かって笑う晴の写真に微笑み返して、陽は食事を再開した。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

東京カルテル

wakaba1890
ライト文芸
2036年。BBCジャーナリスト・綾賢一は、独立系のネット掲示板に投稿された、とある動画が発端になり東京出張を言い渡される。 東京に到着して、待っていたのはなんでもない幼い頃の記憶から、より洗練されたクールジャパン日本だった。 だが、東京都を含めた首都圏は、大幅な規制緩和と経済、金融、観光特区を設けた結果、世界中から企業と優秀な人材、莫大な投機が集まり、東京都の税収は年16兆円を超え、名実ともに世界一となった都市は更なる独自の進化を進めていた。 その掴みきれない光の裏に、綾賢一は知らず知らずの内に飲み込まれていく。 東京カルテル 第一巻 BookWalkerにて配信中。 https://bookwalker.jp/de6fe08a9e-8b2d-4941-a92d-94aea5419af7/

サイダー・ビーツ

津田ぴぴ子
青春
オーバードライブ・ユア・ソングの続編。前作終了から二度目の春。 前作を読んでいなくても読めると思います 男子高校生がわちゃついてるだけの話です

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

小さなことから〜露出〜えみ〜

サイコロ
恋愛
私の露出… 毎日更新していこうと思います よろしくおねがいします 感想等お待ちしております 取り入れて欲しい内容なども 書いてくださいね よりみなさんにお近く 考えやすく

隣の家の幼馴染は学園一の美少女だが、ぼっちの僕が好きらしい

四乃森ゆいな
ライト文芸
『この感情は、幼馴染としての感情か。それとも……親友以上の感情だろうか──。』  孤独な読書家《凪宮晴斗》には、いわゆる『幼馴染』という者が存在する。それが、クラスは愚か学校中からも注目を集める才色兼備の美少女《一之瀬渚》である。  しかし、学校での直接的な接触は無く、あってもメッセージのやり取りのみ。せいぜい、誰もいなくなった教室で一緒に勉強するか読書をするぐらいだった。  ところが今年の春休み──晴斗は渚から……、 「──私、ハル君のことが好きなの!」と、告白をされてしまう。  この告白を機に、二人の関係性に変化が起き始めることとなる。  他愛のないメッセージのやり取り、部室でのお昼、放課後の教室。そして、お泊まり。今までにも送ってきた『いつもの日常』が、少しずつ〝特別〟なものへと変わっていく。  だが幼馴染からの僅かな関係の変化に、晴斗達は戸惑うばかり……。  更には過去のトラウマが引っかかり、相手には迷惑をかけまいと中々本音を言い出せず、悩みが生まれてしまい──。  親友以上恋人未満。  これはそんな曖昧な関係性の幼馴染たちが、本当の恋人となるまでの“一年間”を描く青春ラブコメである。

隠し事は卒業する

ばってんがー森
ライト文芸
卒業式後の教室での先生の最後の授業が始まる……?

処理中です...