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一部

第十八話

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朝から降っていた雨がようやっと上がり、少しだけ冷えた外気が空いた窓の隙間から流れ込んで心地良く肌を掠めていった。
しかし今の陽にはその快適さを享受する余裕も、この時間になると起き上がる空腹感を気にしている余裕も殆ど無い。
教卓に期末考査の答案の束を乗せた数学教師が、出席番号の順に生徒の名前を呼んでいく。この生殺しにされているような緊迫感は、これで四回目だ。
一限目の科学、二限目の英語、三限目の現代文。これらは赤点を逃れることが出来た。英語は四割程度だったが、科学は七割、現代文は八割と、上々の結果であったように思う。陽にとって最も鬼門であったのが、この数学だ。惺と初によってかなり時間をかけて対策が為されたが、それでもどうなるか分からない。問題を解くのに必死すぎて、殆ど試験中の記憶が無いからだ。
心の準備くらいさせてくれたって良いのに、と陽は内心頭を抱えた。が、基礎科目で集計される暫定順位が既に出ている以上、その採点は昨日の時点で終わっていたことになる。
そこに全く思い至らなかった自分を酷く恨めしく思いながら、陽は処刑台に上がる罪人ような面持ちで自らの名前が呼ばれるのを待っていた。今になって、あの問題を間違えたかもしれない、あの公式は別のものだったかもしれない、と言う想像が次から次へと浮かんでくる。もし三十一点よりも下であれば、その瞬間に部活動が禁止されてしまうのだ。
出席番号が比較的前の方である初はとっくに呼ばれている。彼は答案を一瞥すると、こともなげに自らの席に戻った。
「えー、前川は今日公休か、……御子柴!」
「はいっ!」
緊張の余り声が裏返ってしまう。教卓まで向かう間、右手と右足が同時に前に出ているのが分かった。他のクラスメイトが笑いを押し殺している気配がするが、そんなことに構ってもいられない。もしも赤点なら一大事だ。ロボットのような動きで教卓の前に立った陽を見て苦笑した数学教師は、そんな緊張しなくても、と言いながら答案を差し出す。
「お前頑張ったなあ」
「え」
教師に掛けられた言葉を飲み込めずに、その場で答案用紙に恐る恐る視線を落とした。御子柴陽、と自分の字で書かれた名前の横に、赤いペンで点数が書かれている。紙面にやたらと丸が多いような気がした。
「は、は、はちじゅうきゅうてん!?」
思わず教室中に響く大声で自らの点数を読み上げてしまった。堪えきれなくなったらしく、クラス中に笑いが起きる。初と目が合うと、彼は机の下の方で控えめにピースサインをして微笑んだ。陽はそれに同じ動作で応えて、やっと自分の席に戻る。隣に座る山野が小声で良かったね、と笑ったので、それに大きく頷いた。
陽の次は最上だが、彼も大会で公休だ。後の生徒の名前が呼ばれていくのを遠くに聞きながら、陽は小学生以来の点数をまじまじと眺めていた。





「先輩んとこ行ってくる!」
四限目が終わると、陽は初にそう言って教室を飛び出した。ほどほどに帰ってきなよ、と言う初の声に返事をして、A組の横の階段を駆け上がる。先程返却された数学の答案用紙が、陽の動きに合わせてひらひらとはためいていた。
陽は二階へ上がって廊下を早足で進むと、三年B組のプレートの前で立ち止まった。嵌め込まれた硝子窓から惺がいることを確認して、失礼します、と声を上げながら勢い良くドアを開ける。軽音部に入部したての頃よりも、教室の雰囲気は柔らかくなっているように感じた。
「さとちゃん先輩!」
机に肘をついて参考書を見ていたらしい惺が、跳ね返るように顔を上げた。一瞬呆然としていた彼だったが、やがていつものように穏やかに微笑む。
「どうしたの?」
「とりあえず織ちゃん先輩んとこ行きましょ!」
陽は惺の華奢な手首を掴むと、ぐいぐいと引っ張る。惺はそんな陽を宥めつつ、机の横に引っ掛けてある鞄を肩に掛けた。彼は陽の左手に握られた答案用紙に視線を落とすと、何かを察したように笑って、陽に手を引かれるまま教室を出る。
A組の硝子窓から中を覗くと、窓際の端の席に座る織はしっかりと起きていた。彼は後ろの席の男子生徒と談笑していたが、ドアの向こうの陽たちに気が付くと緩く手招きをする。それに導かれて、陽は教室のドアを開けた。
「織ちゃん先輩!」
「どうしたの、陽ちゃんひとり?」
駆け寄った陽の頭を撫でて、織は首を傾げる。惺はその机の前に屈み込むと陽の顔を覗き込んで、何か見せたいものでもあるの?と微笑んだ。
陽は惺の言葉に頷いて一つ大きく息を吐くと、じゃん、と言いながら数学の答案用紙を広げてみせた。二人はその右上に書かれた点数を見るなり、目を丸くして陽を見る。一番最初に口を開いたのは織だった。
「これ陽ちゃんのやつだよね?」
「そうっす」
「数学だよね?」
「っす」
首が取れそうなほど何度も頷いた陽を、惺が抱き締める。柔軟剤の柔らかい香りがふわりと陽の鼻を掠めて、直後に織の手が髪を掻き回した。陽は顔に集まる熱を隠そうとして、惺の細い腕に沈み込むように顔を寄せる。ここまで褒められるのは、幼稚園か小学生の時以来であるような気がした。
「すごいよ陽くん、やったじゃん、頑張ってたもんね」
「よく頑張りました、偉い子にはご褒美です」
そう言った織は、机の横に引っ掛かっていた鞄から掌ほどの小さな袋を二つ取って陽に差し出す。一つは丸いものが二枚と星の形をしたものが一枚、もう一つは丸いもの二枚と兎の形のものが一枚入っている。織は兎のクッキーが入った方の袋を指差して、こっちがはーくんね、と言った。
「作ってくれたんすか」
「うん、タルト作ったら生地余っちゃったから」
「やったー!あざっす!」
織は静かに頷くと、また陽の頭を撫でた。
ふと、脳裏に今日の午後の授業のことが過ぎる。あくまでも島村から提示された可能性に過ぎないが、この土地の歴史を探ることによって、晴の行方のヒントが得られるかもしれない。
それを今二人に伝えるべきか否か、陽の中で意見は真っ二つに割れた。後から説明することになるかもしれないなら、今話しておいた方がいいのでは無いか。心の準備をするなら、早い方がいい。いや、惺はかなり晴のことを気にかけているようだし、下手なことを言ってこの間のようになっては本末転倒ではないか。
ぐるぐると止め処ない思考に自分で目を回しそうになっていると、黙り込む陽を不審に思ったのか、織が陽の目の前で手を振った。
「どうした?大丈夫?」
「へっ!?あ、いや、だ、大丈夫っす!」
思わず奇声に近い声を上げてしまう。惺は暫く陽の顔をじっと見詰めると、怪しい、と呟いた。
「陽くん、何か隠してる?」
「え!何も」
「でも怪しいよ、怪しくない?オリ先輩」
「……確かに」
陽の否定の言葉を素通りして、織と惺の視線が陽に注がれる。見透かされるのでは、と言う恐怖に逃げ出してしまいたかったが、不思議と足は少しも動かなかった。蛇に睨まれた蛙、と言うのとは少し違うけれど、心情的にはそれが最も近い。
まさか、と織が口を開く。
「赤点出たとか」
「いやそれはまだ出てないっす!」
「まだ?」
「いや、で、出ないと思、……出ない!」
「よし!」
織と陽が軽妙とも取れるやり取りをしている間、惺はずっと陽を見ていた。そして一瞬考え込むように視線を伏せたかと思うと、また陽と目を合わせて、こう言った。
「晴先輩のこと?」
その穏やかだが有無を言わさない口調に、陽の思考は白旗を上げた。
この二人には、どうやっても隠し通せない。観念した陽は、五限目の授業で時藤の家に行くこと、そこで土地の歴史を聞けば、晴の行方に関する何かしらの手掛かりが得られるかもしれないことを簡潔に話した。
「黙っててごめんなさいでした、……」
「ううん、謝るようなことじゃないよ」
肩を落とす陽を宥めるように、惺がその背中を優しく叩く。それを見ていた織が、何かを思い出したようにこう言った。
「この間島村が言ってたのってそれじゃないの」
「島村先輩が?」
「ああ、そうかも」
島村が日誌を持って来た次の日、惺は島村のクラスを訪れたと言う。昨日はごめんねと惺が謝罪すると、島村はこともなげに別に良いよ、と答えた。どうやら彼の中では、惺がああなることは折り込み済みだったらしい。島村は続けて、目を細めた。
──日誌が思ったよりも役に立たなかったから、その代わりって訳でもないけど。御子柴くんたちに助言はしたよ。後はもう、あの子達次第だね。
「……島村先輩って、未来予知とか出来るんすか…?」
島村の言動について、陽はかねてから不思議に思っていた。どうも時々全てを見透かしていたり、先を読んでいると言うか、未来を知って動いているような素振りが見られる。オカルト研究部であるから占いでもしているのかとも思ったが、それにしては正確すぎるのだ。
「それねえ、本人に聞いたことあるんだけど、ちょっと違うって言ってた」
惺の言葉に、織と陽は揃って首を傾げた。ちょっと、とは一体どういうことなのだろうか。それに似た能力を、島村が持っていると言うことかもしれない。

その時、A組のドアが音を立てて開いた。失礼します、と聞き慣れた声がする。
「初!」
「もう、お弁当食べる時間無くなるよ!」
初は織と惺にお疲れ様です、と軽く挨拶をすると、陽に向かって呆れ顔で溜息を吐いた。陽の帰りが遅いので、迎えにやって来たらしい。織が机に肘をついて、初を見上げる。
「はーくんも大変だねえ」
「何かもう慣れましたよ、……惺先輩?」
「え、……ううん!何でもない」
織に返事をした初が惺の顔を覗き込むと、惺ははっとしたように顔を上げて、いつものように微笑んだ。彼は初に、先程織が陽に渡したクッキーのことを告げる。それを聞いた初の顔が一気に輝いて、陽は苦笑しながら初にクッキーの袋を差し出した。彼は受け取ったそれを可愛い可愛いと連呼しながら眺めて、真顔でこう呟いた。
「これ部屋に飾っておこうかな……」
「ちゃんと食べてよ」
織が笑いながら立ち上がって、陽にそうしたように初の頭を撫でる。もうすっかり習慣になってしまったそれを、初は何の抵抗も無く受け入れていた。その姿はまるで猫のようで、陽の脳裏にふくの姿が浮かぶ。
やがて我に返った初によって、陽は教室へと連れ戻された。予鈴が鳴るまでは後二十分ほどある。
初が前川の席に座るのを横目に、陽はリュックから出した弁当の中身を掻き込んだ。





「外に出る奴は、くれぐれも他人の迷惑になるようなことはするんじゃないぞ。それじゃあ、気を付けてな」
解散。
篠の言葉を合図に、陽たちを含めた十数人が一斉に動き出した。女子が複数のグループに分かれて、一年生の昇降口へと向かう。彼女たちは近所の商店の手伝いや、駅近辺の清掃ボランティアに行くらしい。男子生徒で教室を出て来たのは、陽たちだけであるようだった。どうもテーマ自体を決めあぐねているらしいと、初が苦笑する。
校門を出て、右手のすっかり朽ちて雑草に覆われた数件の民家を眺めながら進む。人が住まなくなった家の劣化は早い。このささやかな物置小屋のような風体の家々がいつ頃から放置されているのかは分からないが、昭和か、それよりも前に建てられたものであることは明らかだった。
「なあ瑞樹」
「うん?」
「この辺の家ってさあ、人住んでないだろ?」
「えと、うん、俺が子供の頃から、ずっと、……」
時藤がまごついた様子で答える。それに陽はふうん、と鼻を鳴らして、もう一度右側に目をやった。青々と生い茂った雑草の隙間から見える硝子窓は割れていて、中に放置された箪笥らしきものがこちらを覗いている。

その窓から、襤褸を着た何人もの子供がこちらをじっと見ていた。それは餌を求める鯉のように口をはくはくと動かすと、心底楽しげに笑って、一斉に歌い出した。
──うしろのしょうめん、だあれ?
「あ」
「陽くん」
陽の目を、後ろから時藤が両手で塞いだ。そのいやにひんやりとした感触に、思わず肩がびくりと震える。時藤は陽の耳に顔を寄せて、し、と息を吐いて、こう囁きかけた。
「三つ数えたら手を退けるから、お祖父ちゃんちに着くまで、絶対右と後ろは見ないで」
本当にこういう時の時藤は、島村に似た喋り方をする。拒否権を与えないその口調に陽が頷くと、背後で数を数える声がした。
「いち、にい、さん」
ぱ、と時藤の手が離れて、陽の視界が一気に明るくなる。突き刺さるような太陽光に目を細めている間もなく、時藤に手を引かれた。右に曲がる脇道のところで待っていたらしい初が、こちらに駆け寄ってくる。酷く心配そうに大丈夫?と問われたので、何度も頷いた。
その間も、ずっと後ろから小さな、子供のものらしい足音がしていた。
ついて来ている。
「瑞樹、」
「絶対振り向かないで。……お祖父ちゃんの家までは、ついて来れないから」
時藤の言葉通り、脇道を曲がって祖父母宅だと言うあの家が見えてくると、その足音はぱったりと途切れた。四月の中旬、玄関にいた車椅子の老人を見て以来だが、相変わらず周囲のブロック塀には蔦が這って、郵便受けは殆どが錆に覆われている。時藤は郵便受けの上についているインターホンを押すことなく玄関の戸を開けると、家の奥に向かってこんにちは、と呼びかけた。
確かに古い家だが、外見から想像すると意外なほど綺麗に思えた。三和土に揃えて置かれたサンダルと祖父母のものらしい靴が、彼らの人格を表しているようだ。玄関を入ってすぐ、右側に設置された古い木製の下駄箱の上には、硝子ケースに入った小さな日本人形や狸の置物が並んでいる。
時藤の呼び掛けに反応して、右手側から引き戸が開く音がした。はあい、と言う返事が聞こえて、ぱたぱたと言う足音と共に白髪頭の老婆が顔を出す。彼女は時藤を見ると、その顔を一層しわくちゃにして、瑞樹ちゃん、と笑った。白い割烹着で手を拭っているから、家事でもしていたらしい。時藤は陽と初にお祖母ちゃんだよと耳打ちした。
時藤の祖母は陽たちに視線を向けると、愛想良く会釈した。
「瑞樹ちゃんのお友達?いつも孫がお世話になっています、どうぞ、上がって」
陽と初は彼女に頭を下げて、お邪魔します、と言いながら靴を脱いだ。時藤が、自分より背の小さい祖母の割烹着を引く。
「おばあ、大伯父さんは?寝てる?」
「ええ、ええ、寝ているよ。大丈夫」
家に上がると左手に障子戸があって、右手側には廊下が伸びている。その廊下の中腹に、磨り硝子が嵌め込まれた引き戸があった。その中からテレビの音が聞こえるので、恐らくそこが居間なのだろう。
ふと陽は、背後の障子戸に目をやる。その向こうで、何かが動いた気がした。

居間に通されると、四角い地味な卓袱台が陽たちを出迎えた。その奥側に座ってテレビを観ていた時藤の祖父は、陽たちを見るとこれまた愛想良く挨拶をする。居間に入ってすぐの、客人向けであろう座布団が敷かれた場所に、初と並んで腰を下ろした。時藤は隅にあった座布団を取ると、陽の横に座った。祖母は居間の奥にあるらしい台所へと早足で向かって、やがてオレンジジュースが入ったコップを三つと、複数のお茶菓子が乗せられた大皿を運んできた。そして手慣れた様子でお茶を淹れて、湯呑みを祖父に手渡す。
口火を切ったのは、時藤だった。
「おばあ、おじい、あのね、この間話したと思うけど」
授業でこの辺りの歴史を調べている、と言うと、祖父母は色々な話を聞かせてくれた。
昔、この辺りは掛館と言う人口が数十人の小さな村だった。
主に農業や地元に根差したごく小さな商店で形成され、そこまで閉鎖的と言うわけでは無かったものの、村の外との関わりは希薄だった。今の菖蒲ヶ崎高校の校舎は、昭和の終わり頃に建てられた村立の小学校のものだと言う。元々あの土地は更地だったのだが、地区の再編や周辺の町村との合併に伴って急激に土地開発が進み、そこに小学校が建設された。線路が整備され、列車が通るようになったのもその頃だ。
「外に出なくても色んな工事の音が聞こえてね、この辺りも変わってしまうんだなあと、少し残念な気分になったねえ」
懐かしげに言う祖母の言葉に続けるように、祖父が口を開く。
「でもまあ、結局田舎は田舎だね。若い人は都会がいいからどんどん出ていくし、残った年寄りも死ぬからね。それであっと言う間に子供も減って、せっかく建てた小学校は数年で閉校になっちまった。あれだけやって、金をドブに捨てたようなもんじゃあないかね」
どんどん住民が出て行ったその結果が、あの廃屋なのだろうか。初は生真面目にもメモを取っていて、ペンが紙面を走る音がする。
目まぐるしい、と言うしかない変遷だ。完全に時代の流れに呑まれている。
しかしまるで虫に食われた本を読んでいるかのようで、すっきりとしない。何かもっと重要なことが奥に隠れているのではないか、そんな予感が、どうしても拭えなかった。
黙って話を聞いていた時藤が、何気なく尋ねる。
「小学校の前も、あそこはずっと更地だったの?」
「更地にしておいた方が良かったのにねえ、あそこは──」
「おい」
祖母が苦々しい顔で何かを言い掛けたが、祖父がそれを咎めた。
「子供に聞かせるような話じゃあない」
そう続けた祖父は湯呑みの中身を一気に飲み干すと、貼り付けたような笑みを浮かべた。口元は笑っているが、目は笑っていない。その顔に、時藤の大伯父であると言う念仏を唱えていた老人の面影を見る。
「お祖父ちゃん、何か知ってるなら教えてよ」
「授業の役には立たないよ」
暫くそんな押し問答を続けたが、祖父は時藤の言葉をやんわりと躱すだけで、決して口を割ろうとはしなかった。ここはただの過疎田舎だ、何もないと繰り返してはいるが、明らかに態度がおかしかった。祖母も何も言わない。
今の話が彼らの持つ全てであるとすれば、そこに晴の行方に関するヒントは何一つとしてない。素直に警察の捜査の進展を待った方が幾分ましのようにすら思えてくる。勝手に期待していただけなのだが、それだけに陽の落胆は大きかった。

陽が俯きかけたその時、ぎぃ、と床板が微かに軋む音がする。それから数秒と経たずに、背後の引き戸ががらがらと音を立てて、ゆっくりと開かれた。
「話してやったらいいじゃないか」
はっきりとした口調でそう聞こえて、陽と初は振り返る。時藤と祖父母が目を見開いて、息を呑む気配がした。
あの時車椅子に乗って念仏を唱えていた老人が、そこに立って陽と初を見下ろしていた。しかしいつぞやとは打って変わって、その目線は穏やかに細められている。連日夏の陽気だと言うのに、変わらずあの半纏を羽織っていた。
大伯父さん、と時藤が呟くと、彼はそれに返事をするように頷く。それと同時に、祖母が立ち上がって大伯父に駆け寄った。肩に置かれたその手をゆっくりと下ろして、彼は微笑む。
「お義兄さん!だめよ、寝ていないと」
「今日は頗る調子が良いんだ、瑞樹も来ているし、それに──」
大伯父は居間の端に置かれた椅子をずず、と音を立てて引き寄せた。そこに座って、陽に視線を向ける。
「その子、探し物があるようだよ」







旧掛館村では大正時代に入るまで、子供を使った人身御供の祭事がおおよそ七年に一度の頻度で行われていた。
全ての始まりは酷い干ばつと飢餓で、雨と豊作を願って生贄を捧げた。増え過ぎた子供や奇形児などの間引きも兼ねていたと言う。対象になるのは七歳以下で、男女は問われなかった。
かごめかごめで負けた子供が、その年の生贄となる。

祭事の手順はこうだ。
村の奥にある山、その手前にある空き家に、その子供と母親を一週間ほど住まわせる。子供には最初の三日間は食事を与え、四日目からは水以外の一切を口にさせない。
途中で子供が死んでしまった場合は、生贄を選び直す。
一週間経ったら子供を山の中へ連れて行く。自力で歩けない時は母親に運ばせる。
生贄が男児である場合は木に縄を括り付けて首を吊るし、女児であれば池に沈める。遺体は暫く放置され、四十九日後に回収して、空き家の敷地内にある井戸に落とす。
もしこの過程で母親が暴れた場合、殺してしまっても良いとされていた。

この祭事が行われなくなって数十年。奥の空き家は取り壊され、その跡には小さな精神病院が建った。建設時に遺体を投げ込んでいた井戸も潰されたが、山はそのまま残った。
その病院では人体実験紛いの治療や看護師による暴行が横行し、院内の衛生状態も良くなかった。
ある時、看護師二人、入院患者四人が一斉に死んだ。女性は便所や浴室、洗面所等で溺死しており、男性はベッドのパイプやドアノブ、柱などで首を括っていたと言う。当時勤務していた医師一人が行方不明になっていたが、山の中で首を吊っているのが見つかった。
この事件は、医師が発狂して看護師と患者を殺し、自らも自殺したのだと言うことで処理された。
病院は取り壊され、更地になった。

「そしてその後に建ったのが、掛館小学校と言うわけだね。周辺住民が相当反対したんだが、そんなことは聞き入れられなかった。小学校も、幽霊の噂や目撃情報が絶えなかった。やがて過疎化によって子供が減り、小学校は廃校になった。校舎をそのまま残して。そしてその校舎は、──菖蒲ヶ崎高校のものとして使われている」
大伯父の話では、菖蒲ヶ崎高校設立の際に知濃山を切り崩して武道場なり合宿所を建てようと言う話が持ち上がったと言う。しかしそれは、周辺住民の激烈な反対と懇願により無しになったらしい。
「──知濃山、と言う名前は、今は知を濃くすると書くけど。昔は、稚児を乞う、と書いた」
言いながら、大伯父は空に文字を書くように指を動かした。そして憐れむように瞼を伏せて、泣きそうな声でこう言う。
「子供だからなあ、寂しいんだろう。呼ぶんだよ」
かわいそうに。
そこで大伯父は一旦話を切ると、陽の方を見た。
「君、探し物は、必ず知らせを出して来ている筈だ。ここにいる、とね。よおく、思い返してご覧」
陽は呆然と、その言葉に頷いた。まるで探し物の正体を知っているかのような口振りを不審に思うよりも前に、大伯父が半纏のポケットから何かを取り出して、陽に差し出した。慌てて両手でそれを受け取ると、小さな赤いお守り袋が掌の上に乗っていた。大きさの割にずしりと重たく、中に石でも入っているのでは、と思う。
「必ず君を助けてくれる」
そこまで言うと、大伯父は電池が切れたかのように首をがくんと垂らした。その目は完全に閉じられて、肩はゆっくりと大きく上下している。
陽と初が立ち上がりかけたのを、時藤が宥めた。
「寝てるだけだから、大丈夫だよ」
そう言いながら立ち上がった彼は、ずっと黙っていた祖父と共に大伯父の肩を抱えるようにして居間を出て行った。慣れているのだろうか、その動作に一切の淀みは見られない。
残された祖母と陽と初との間に、沈黙が流れる。握ったままのお守り袋を、そっとスラックスのポケットに捩じ込んだ。
壁の掛け時計の秒針が立てるかちこちと言う音が、やたらと大きく響いた。時藤と祖父が何やら話している声がしたが、内容までは聞き取れない。
「ごめんなさいね、あんな話、……とてもじゃないけど使えないわよね」
ぽつり、と祖母が言う。初がそれに首を振って、上手いことやります、と笑った。彼女はそれに安堵の表情を見せながらも、不安げに眉を顰める。
やがて祖父と時藤が戻って来たが、それからの祖父母は大伯父自身や彼が話した内容には一切触れず、あそこの畑ではこんな作物を作っていたとか、駅が出来た時の盛り上がりようだとか、そういう他愛のない話に終始した。初がそれに相槌をうち、当たり障りのない質問をして、メモを取る。正直陽はそれどころでは無かったために、初のその対応には感服した。

話が一区切りついたタイミングで、時藤が時計を見上げる。彼は手元のオレンジジュースを飲み干し、そろそろ帰るよ、と祖父母に笑いかけた。玄関まで見送りに来た祖父母に丁重に礼を言って頭を下げて、陽たちは祖父母宅を後にする。
学校まで戻る道中は先程の廃屋を見ないように必死だったが、結局校門を抜けるまで、あの足音や歌が聞こえてくることは無かった。
昇降口でサンダルに履き替えながら、陽は時藤に大伯父のことについて尋ねる。結局大伯父は本当に寝てしまっていて、ベッドの横で時藤と祖父が話していても起きる気配を見せなかったらしい。祖父からは、大伯父が言ったことは教師には漏らすなと念押しされたと言う。
「あんなにはっきり喋ってるの、いつぶりかなあ。お医者さんが見たらひっくり返っちゃうんじゃない?」
そう言って笑う時藤はどこか嬉しそうに、俺のこと覚えててくれて良かった、と続けた。陽の顔を覗き込むようにした時藤の不器用に編まれた横髪が、ふわふわと揺れている。
「大伯父さんのお守りね、本当に良く効くの。だから、絶対陽くんのこと助けてくれるよ」

陽たちが教室に戻ると、教卓の前に座っていた篠が右手を上げた。一緒に学校を出た女子のグループは、これから帰ってくるらしい。良い話聞けたか、と言う篠の言葉に、時藤が大きく頷く。そして当然のように彼は最上の席に、初は前川の席に移動した。
「部長にも良い話聞かせてあげられそう」
時藤がシャツのポケットからボイスレコーダーを取り出して、悪戯っぽく笑った。どうやら祖父母宅に入った瞬間から、ずっと会話を録音していたらしい。陽は心底驚いて、思わず声を上げる。
「録るなら録るって言えよ!」
「だ、だって緊張しちゃうでしょ……?お祖父ちゃんもお祖母ちゃんも、陽くんも」
全く返す言葉も無く黙り込む陽を見て、初が苦笑する。時藤は早速ボイスレコーダーにイヤホンを挿して、小さなメモ帳に会話内容の文字起こしを始めた。こういう所も、島村に似ている。
そんな時藤を暫く眺めていた初だったが、ふと陽を見た。
「それで、何か覚えはある?」
「知らせてきてるからってやつ?」
「そう」
陽は腕を組んで暫く考え込む。お知らせと言うと、第六感のようなものだろうか。虫の知らせかそれに似た現象は、未だ経験したことがない。強いて言うならば四階で晴を見たくらいだが、あれは鏡がある場所を教えてくれていたとしか思えなかった。もっと前に、晴に関わる何かを体験しただろうか。毎日に埋もれて見えなくなったこと。忘れてしまっていること。
もう考えたくなくて、蓋をしたままだったもの。

夢を見た。
土砂降りの山道、水を吸って重い制服とスニーカー、顎先から落ちた雨粒。
首を吊って潰れた喉で、ごめんな、と言った晴。
「──山だ」
顔を上げた陽の呟きが、六限目の終了を告げるチャイムに掻き消えていった。
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