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第十六話

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目覚まし時計代わりのアラームが、左の耳から飛び込んでくる。目は瞑ったまま意識だけが浮上して、ぼんやりと鳥の声を聞いていた。薄目で周囲を見渡すと、開け放たれたカーテンから朝日がこれでもかと差し込んでくる。顔を顰めてゆっくりと上体を起こして、未だ自らの存在を主張し続けるアラームを止めた。タオルケットを足に掛けたまま、陽は深い溜息と共に頭を抱える。
あれが悪い夢だったなら、どんなに良かったか知れない。

昨日島村によって持ち込まれた、かつてのオカルト研究部──怪談同好会が七不思議を検証し、それを記録したノート。その内容は読み進めるごとにどんどん不穏になって行き、最終的に赤黒い飛沫が大量に付着したページと、晴の字で書かれた「こっちにくるな」の七文字で締め括られていた。
島村は、七不思議や鏡にまつわる噂は人を誘き寄せる為の擬似餌に過ぎず、その本体はまた別にいるのではないか、と考察していた。そして晴は放送室の鏡が割られた時にその場にいたがために、それに拡散者として選ばれてしまった。怪談同好会の加賀と三石はその擬似餌にまんまと引っ掛かって食われた、完全な被害者だ。会長の井塚に関しても、恐らくそうだろう。惺によって遮られなければ、島村はこう言い切っていたに違いない。
──これを書いている井塚を、後ろから殴って、殺した。
陽は歯を食い縛って、頭を数度思い切り掻き毟る。ぶちぶちと言う音を立てて、鋭い痛みと共に髪が数本手に絡み付いてきた。頭の中に、映像が勝手に再生される。

早朝の薄暗い校舎、教室の、自分の席に座って日誌を書く井塚。その後頭部に向かって、どこかから持ってきたバールを振り下ろす。湿った音と同時に文章の上に飛沫が飛んで、井塚が倒れる。それを見下ろして、机の上に置かれたノートを一枚捲り、先程まで井塚が持っていたペンでそこに怨嗟を書き連ねる。ノートを閉じて、動かない井塚をどこかへ引き摺っていく、晴の姿。
殺した?井塚を?あの虫も殺せないような晴が?

その想像を振り払おうと思い切り頭を振った陽の頬に、一筋の涙が伝う。
島村は、こうも言っていた。七不思議の奥にいるそれと、晴が抱えているものの相性が良かった、と。井塚も日誌の中で、晴がクラスで無視されたり、仲間外れにされているらしいと書いている。
陽も、そして恐らく両親も全く知らないところで、晴は一人で苦しんでいたのかもしれない。そう思うと、罪悪感の濁流が一気に頭の中を満たす。
今更だなんて、そんなことは分かっている。喉の奥で声に出さずに晴を呼びながら、陽は暫くベッドの上に蹲っていた。どこにいるんだよ、と声に出せば、涙は止めどなく溢れて寝間着がわりのTシャツを濡らした。

その心境など知りもしない母の突き抜けるような声が、階下から聞こえる。
「陽ー!いつまで寝てんの!遅刻するよ!」
「はーい!」
それに声を張り上げて返事をして、涙を拭った。ベッドを抜け出して部屋を出る。あれ以来閉じたままの晴の部屋のドアを暫く見詰めて大きく深呼吸をすると、陽は階段を早足で下りた。
最初に顔を洗ってしまおうと、脱衣所へと向かう。端に置かれたカラーボックスの中から適当なタオルを取って、洗濯機の上に置いた。洗面台の前に立って鏡を見る。理由は様々だが、ここ数日ずっと泣いているような気がした。先程強く擦ったせいか、赤く腫れた目がぴりぴりと痛む。
朝の水は、特段に冷たく感じた。手の中に汲んだそれを、顔に数度浴びせ掛ける。洗濯機の上のタオルを手探りで取って、顔に当てた。擦るのはいけないと初に言われたことを思い出して、押し付けるように水分を取る。捻れた思考が、徐々に解れていく。幾分すっきりした頭で、陽は顔を上げた。

リビングのドアを開けると、父はすでに自分の椅子で朝食を食べていた。軽く挨拶をしてその斜め向かいに座る。パステルイエローのパジャマを着た昊はとっくに朝食を終えてしまったらしく、奥のソファでテレビに齧り付いている。着替えようとしていたようで、その手には水色の半袖シャツが握られていた。
「昊!テレビ見てないで着替えちゃいなさいよ!」
「うんー」
昊の背中に声を掛けながら陽の目の前に朝食のトーストを運んできた母は、陽の顔を見るなりその動きを止めた。
「陽、…泣いてるの……?」
「え、いや」
母の言葉に反応した父が、もの凄い勢いで顔を上げた。テレビに夢中だったはずの昊も、パジャマのままでこちらに駆け寄ってくる。ふくはソファの上に姿勢良く座って、目を丸くして家族を見ていた。
「泣いた!?どうしたんだ、何かあったのか」
「お兄ちゃんいじめられてるの?そらがやっつけてあげる?」
家族の視線を一身に浴びて、陽は迷った。
あの日誌のことを、晴がクラスメイトからされていたことを、話してしまっても大丈夫なのだろうか。両親は、恐らく何も知らない。話したとして、信じて貰えるかどうかも分からない。いや、信じてはくれるだろうか。だからこそ、両親に要らぬ心労を掛けてしまう。晴の居場所が分かったわけではないし、あの日誌の中身は結末としては最悪な部類だ。両親が、昊が悲しむところなど見たくない。
「いや、昨夜めっちゃ泣ける動画見てさ」
だから、今は何も話さなくていいのだ。
本当のことが分かってからでも、何も遅くはない。

陽の言葉に父は安堵したように胸を撫で下ろして、何だあ、と息を吐いた。
「心配しただろ、全く」
「お兄ちゃん、猫ちゃんのどーが?見るとすぐ泣くんだもんねー」
昊は陽の隣の椅子の上に立って、陽の頭をぽんぽんと軽く叩くと、すぐにそこを下りてまたソファに座った。母はテーブルに手をついて、陽をじっと見詰めている。全て見抜かれてしまいそうで、陽は思わず目を逸らした。
「陽、」
「本当だよお母さん、学校帰ったら観せてあげる?」
「……本当に大丈夫なのね?」
「大丈夫だって」
「そう、…それならいいけど。何かあったら、ちゃんと言ってね。置いていかれると、お母さんもお父さんも、昊も、寂しいよ」
悲しそうな母の笑顔に、陽はまた泣きそうになってしまう。その涙を必死に抑え込んで、陽は頷いて笑ってみせた。念押しのように大丈夫だよ、と言うと、母はひとつ頷いてキッチンへ戻る。それを見届けて、陽は手元のトーストに噛み付いた。口の中にマーガリンの味が広がって、表情筋が緩む。
テレビでは星座占いが放送されていて、それを観ていたらしい昊が、あ、と声を上げる。
「ねえ!おひつじざ、最下位だって!初ちゃんおひつじざだよね?」
「お兄ちゃんも牡羊座なんだけど!」
「あそっか、お兄ちゃんも最下位!」
「最下位とか言わないでテスト近いんだから!」
昊は昔から初のことを初ちゃんと呼んで、良く懐いている。初は満更でもないようで、昊くんみたいな弟が欲しかったなどと冗談めかして言っていた。彼には妹が一人いるが、親のお陰であまり関係は良くないらしい。

昨日、泣き疲れた陽と惺は電車の中で熟睡してしまった。高々十五分程度だが、良く眠れたと思う。買い物をしていくと言う織と惺と別れた陽と初は、敢えて他愛のない話をしながら帰宅した。そうでもしないと、また泣いてしまいそうだった。家の前で別れる時の、初の妙に憂鬱そうな、暗い表情を思い出す。どうかしたのか、と一言聞ければ良かったが、陽にはそんな精神的余裕は無かった。

トーストを咀嚼しながら、ぼんやりと初のことを考える。
すると、インターホンがリビングに響いた。母が手をタオルで拭いて、リビングのドアに向かいながら陽を見る。
「初ちゃんじゃないの?」
「いやまだそんな時間じゃないもん」
「こないだみたいに朝練とか、忘れてるんじゃない?」
「ないよお」
その陽の言葉を聞いていたのかそうでないのか、母はリビングを出て玄関へ向かった。そちらの方から、初ちゃん?どうぞー、と言う母の間延びした声と、玄関の扉が開く音がした。お邪魔します、と言う微かな呟きが聞こえる。いつもよりも声色が暗い気がした。
直後、母の大声がリビングに届く。
「初ちゃん!?どうしたの!大丈夫!?」
それに驚いて飲んでいた麦茶を吐き出しそうになりながら、陽はリビングのドアを見た。斜め向かいに座る父と顔を見合わせる。陽が立ち上がるよりも前に、大変、早くおいで、と慌てた母の声がこちらに近付いてくる。彼女は初の手を引いて、リビングに招き入れた。
初の顔を見て、陽は絶句する。

その左の頬には赤紫色の痣が出来て、唇の端には血が滲んでいた。父親が存命だった頃の惺と同じ、殴られた時に出来る怪我だった。
思わず立ち上がった陽と目が合うと、初はへらりと微笑んだ。
「初、お前、それ」
「……おはよう、陽、…やられちゃった」
母はリビングの奥の棚から救急箱を持って来てテーブルの上に置くと、陽の隣の椅子に初を座らせた。彼女は父に、保冷剤とタオルを持ってくるように指示をする。父が頷いて、リビングを出て行った。
初は母に、聞き取れないほど小さな声でごめんなさい、と言った。母はそれに首を振って見せて、何があったの、と静かに聞く。脱衣所からタオルを取ってきたらしい父が、キッチンの冷凍庫から保冷剤を取り出していた。

今朝初が起きると、相変わらず朝食は用意されていなかった。制服に着替えて、部屋のドアに貼り付けられた五千円札を毟り取って階段を下り、水を飲みにリビングへ向かう。大きな木製の引き戸を開けると、そこにはソファに腰掛けてコーヒーを飲んでいる父がいた。母はその横で召使いのように控えている。
おはようございます、と初が呟いてキッチンに向かおうとした時、父に呼び止められた。
大体言われることは予想出来ていたが、それは殆ど的中する。髪型に対する嫌味、成績のこと。その実初の成績は全く落ちていなかったが、父はそれでも足りないらしい。一番でなければ意味がないと言い、妹を持ち上げ始める。
母は、俯いて何も言わない。
そこまではいつものことだった。

だが、次いで父は軽音部のことに触れた。母か妹が告げ口したんだろうと思った。そんなものに入れ込んで、と言われた時、初は人生で初めて、父を睨み返した。
自分が思っていたよりもずっと自分の精神は摩耗していたのだと、頭のどこかで考えていた。今まで堪えてきたものが一気に溢れ出してきて、何を言ったのかもあまり覚えていない。ただ殆ど怒鳴り散らすようにして、どうして普通にしてくれないの、理解してくれないなら放っておいてよ、などと言ったことだけは覚えている。
父はそんな初に近寄ると、その頬を思い切り殴った。母が目を見開いて小さく悲鳴を上げる。
初は少しよろける程度で済んだが、父は初を指差して、耳を塞ぎたくなるような罵詈雑言の類を浴びせかけた。育ててやったのにとか、産ませるんじゃなかったとか、そんなことを言っていたような気がする。初はリビングを出て部屋に駆け込み、鞄を取って、逃げるように家を出た。
母が自分の名前を呼ぶ声が聞こえたが、それも無視した。

そうして、いつもの習慣で陽の家の前に立っていたと言う。
話を聞いた陽の母は大きな溜息を吐いて、そうなの、とだけ呟いた。初はいつもの愛想笑いを浮かべたが、あまりにもぎこちない。
「すいません、朝早くから押しかけて、…こんな話」
「いいの、……いいからね、初ちゃん、そんなこと気にしないで」
母は父からタオルに巻かれた保冷剤を受け取って、痣の上に優しく当てる。そして唇の端の血を拭き取って、慎重に消毒をした。小さな絆創膏をそこに貼り付けた時、いつの間にか近くに来ていたらしい昊が、初の膝の上に乗って首を傾げる。
「初ちゃん、いたい」
「痛くないよ」
「んーん、いたいもん」
そう言った昊は痛いの痛いの飛んでけ、と言うお決まりの呪文を唱えて、保冷剤の上から初の頬を撫でる。それを見ていた父が、静かに口を開いた。
「初くん」
「はい」
「痛い時は痛いって言うものだし、辛い時は泣くものだよ」
それを聞いた初の目から、堰を切ったように大粒の涙が落ちてくる。昊が酷く焦った様子で初の頭を撫でていた。
どうしても辛くて、今までも何度も死のうと思った、と。嗚咽の隙間から吐き出されるそれに、陽の方も泣きそうになってくる。そこまで考えていたとは、陽も予想だにしていなかった。陽は強く拳を握り締めて、初を呼ぶ。
「今日、家に泊まってけよ」
「え」
泣き腫らした目が一瞬見開かれて、視線が下がる。次にきっと、唇を引き結ぶだろう。それは、初が本心に蓋をしている時の癖だった。随分長いこと付き合っているのだから、そのくらいは分かるようになっていた。
唇が横一文字に結ばれるのを確認して、陽は更に言い募る。
「家には連絡しとく。お母さんに言っとけばいいだろ」
「え、で、でも」
「お母さん!後で連絡しといて、俺のせいにしていいから!」
「全く、強引なんだから」
そんなことを言いつつも、母は納得したように頷いた。彼女は初の涙が止まったのを確認すると、こう続けた。
「そうだ初ちゃん、陽にお勉強教えてあげてくれない?期末テスト、来週なんでしょ?」
「あ、……は、い」
「それじゃあ、決まりね。お家、…良美ちゃんには連絡しておくから、心配しないでね」
良美ちゃんとは、初の母の名前だ。陽の母は初の母とそこそこ交流があり、お互いの仕事が休みの時に度々食事に出掛けたりもしている。初が陽の家に泊まる時も、連絡を取り合っているようだった。
「初ちゃん、朝ごはん食べてく?食パンくらいしかないけど」
「いや、そんな、そこまで」
「マーガリンと苺ジャムとピーナッツバター、どれがいい?」
母はキッチンに戻ると、初の分の朝食を準備し始めた。食パンを袋から取り出して、トースターに放り込む。呆然としている初の袖を引いて、陽は声を潜めた。
「早く答えないと問答無用でマーガリンにされんぞ」
「あ、あの、苺ジャムで!」
初の言葉に返事をした母を見て、陽は父と目を合わせて小さく笑う。結局のところ、初のような人間には多少強引に接した方が良いのだ。昊は初の膝の上でにこにこと笑って、声を上げる。
「初ちゃん、今日泊まるの?」
「うん、泊まる、…ことになった」
「やったあ!昊にもお勉強教えて!ゲームもしよ!」
「初は俺に勉強教えてくれんだけど」
「お兄ちゃんばっかりずるくない?」
「ずるくないでーす」
陽と昊の遣り取りに初が吹き出して、やがて初の前に苺のジャムが塗られたトーストと麦茶が置かれた。
「いただきます」
「はい、どうぞ」
母はそう言うとキッチンに戻って冷蔵庫を開け、今日の夕食の内容を楽しげに呟いている。いつまでも初の膝の上から動かない昊を父が抱き上げてソファの前まで連れて行き、着替えるようにと促した。テレビはいつの間にか天気予報に移り変わって、今日が快晴で、蒸し暑くなると告げている。





「行ってきまーす」
ギターのギグバッグを背負った陽が振り返ると、玄関まで見送りに来ていた母と昊が手を振った。隣の初はこれまでよりも深く会釈をする。直後その背中に、昊の大声が投げつけられた。
「初ちゃんも、行ってらっしゃい!」
「……あ、…行ってきま、す」
少しだけ微笑んで手を振った初は、ぎこちなくそう言った。
家を出て、駅に向かって歩く。初の左頬には保冷剤の代わりにそこそこの大きさの絆創膏が貼られていた。惺のものよりは小さく感じるが、痛々しいことに違いは無い。
ふと、隣を歩いていた初が口を開いた。
「何かさあ」
「うん」
「久し振りかも、ちゃんと行ってきますって言ったの」
初が家を出る時、もう誰も見送りになど出て来ない。帰った時も同じだ。だから、無言で家を出て、無言で家に帰る。そういう生活を、もう数ヶ月も続けていた。
「僕ね」
「うん」
「初めてなんだよね、お父さんに口答えしたの」
「マジ?」
「マジだよ、……今日、軽音部のことに口出された時、自分でも訳分かんなくなっちゃって、…そんなの初めてだったから、変な感じ」
夢見てるみたいだよ、と笑った初に立ち止まって、陽は彼を手招いた。きょとんとしている初をよそに陽は少し背伸びをして、若干位置がずれたネクタイを直してやる。
「ネクタイ曲がってた」
「……ありがとう」
一頻り泣いたお陰か、先程よりは初の気分は晴れているらしい。最近自分たちが泣きすぎている自覚はあるが、原因となる出来事が多すぎるのだ。
いつもより少し遅れて家を出たせいか、駅前には学生の数が多い。これは混雑帯に当たってしまったと二人で溜息を吐いた時、初の通学鞄の小さいポケットが震えた。どうやら着信らしい。携帯の液晶を覗き見ると、そこには惺の名前が表示されている。
初が通話ボタンを押して、それを耳に当てた。
「はい、…あ、はい、ちょっと遅れちゃって……あ、でも電車には間に合う時間です…はい、了解です、二両目で、はい、すぐ行きます」
通話を切った初は陽を見て、柔らかく笑った。
「場所取っといてくれてるから、早く来いってさ」
「神じゃん……」
「ね」
横断歩道を渡って、早足で三番線に向かった。
列車は既に到着していて、既に席からあぶれて立っている生徒が目立つ。陽と初は二両目に駆け込んで、周りを見渡した。端の席に並んで座っていた二人を見つけて、立っている生徒の間を擦り抜けるようにしてそこに辿り着く。
大体予想は出来ていたが、惺と織は初の顔を見るなり表情を変えた。どう見ても殴られたと分かる絆創膏の位置であるし、初の家庭環境について知っていれば、それが誰によって齎されたものになるかは大方予想が付くだろう。
「親父にやられたの」
「はは、……はい、そんな感じで」
織の問いに苦笑いを浮かべながら返すと、初は今朝の出来事を大雑把に説明した。初めて父に口答えをしたこと、陽の家で手当てをされて、今日の夜も世話になること。
織と惺はそれを座ったまま黙って聞いていたが、発車を知らせるアナウンスが流れると立ち上がって、当然のように陽と初をそこに座らせた。陽の背中から剥ぎ取ったギターのギグバッグを背負う織とそれを手伝う惺に、初が抗議の声を上げる。
「いや、僕は座んなくても大丈夫ですけど」
「怪我人じゃん」
「怪我ってほどじゃないですよ、こんな」
「先輩の言うことは聞くもんだよ、はーくん」
言いながら、織が初の額を人差し指で突く。初のような人間は、上下関係を盾にされると抵抗出来なくなる。どうやら織はそのことを良く知っているらしい。
初は小声でずるい、と呟くと、鞄を抱き締めてそこに顔を埋めた。
列車はゆっくりと線路を滑って、車窓を見慣れた風景が流れていく。







「へー、今日は陽んちに泊まるんだ?」
「うん、そのつもり」
前川と初の会話を、陽はぼんやりと聞いていた。六限目は教師の都合とテスト対策のため自習と言われていたが、教師がいない状態で一人で自習に励む生徒など、このクラスでは少数派だ。皆それぞれの友人たちと小声で話しながら、お飾りの教科書と板書のノートを広げている。陽たちも例外では無く、時々思い出したようにテスト範囲内の問題を出し合いながら、雑談に興じていた。
朝、初の顔の怪我を見た前川と最上、そして時藤は口々に初に大丈夫かと声を掛けた。初はその度にけらけらと笑って、大して痛くないから大丈夫だと返していた。父親に殴られたとは、ついぞ言わなかった。


六限目の終了を告げるチャイムが鳴る。生徒たちはそれぞれ自らの席に戻って行き、やがて担任の渡利が教室の引き戸を開けた。
彼女は開口一番に、来週の月曜から行われる期末テストについて話し出す。
テスト期間は月曜日から水曜日の計三日間で、その期間は自習時間も含めて一日が五限目までになる。部活は通常通り行っても構わないが、テストに影響が出ることのないように、と話を締め括った。
「木曜日からは普通の授業に戻るから、皆間違えないようにね。それじゃあ日直の人、挨拶をお願いします」
日直の女子生徒の号令に従って、クラスメイトたちが次々と立ち上がる。さようなら、と言う疎らな声が散らばって、がたがたと椅子の音を立てて皆が一斉に動き出した。
「陽、行くよ」
「おー」
こちらにやって来た初と時藤に頷いて、陽はギターのギグバッグを背負った。三人に向けて、鞄を肩に掛けた最上と前川が手を振る。最上は初の顔のあたりをじっと見て、お大事にね、と言った。それに軽く礼を言った初が、最上と前川を交互に見る。
「ありがとう、二人とも大会近いんだっけ?」
「そ、俺も悠も同じ日なの。期末が終わって次の日!だからさあ」
前川はそこで言葉を切ると、にやにやと口角を上げながら陽に擦り寄っていく。
「陽ぃ、ごめんなあ寂しい思いさせて」
「別に寂しくねえから!」
「またまたあ」
素直じゃないんだから、と言った前川は陽から離れて一頻り笑うと、初の方を見てこう言った。
「顔、よーく冷やせよ。残るもんじゃ無いと思うけど、心配だから!」
それだけを言って、前川は最上と教室を出て行った。手を振ってその背中を見送った陽と初、時藤も、反対側のドアから連れ立って廊下に出る。職員室の前を通って階段を上りながら、陽は時藤を呼んだ。首を傾げる彼だったが、陽が選択授業の、と言うと、何かを思い出したように頷いた。
「あ、うん、あの、部長から聞いてる……次の選択授業って、期末の次の日、…木曜だったよね……?」
島村は陽たちに日誌を見せた後部室に戻り、陽と初が土地の歴史を知りたがっているから、出来る限りで協力してやれと時藤に言ったらしい。島村は選択授業のことは知らないが、時藤の大伯父が元拝み屋で、祖父母とともに長いことこの土地に住んでいることは知っていた。
時藤は、日誌の中身を見ていないようだった。怪談同好会の日誌を見たかと尋ねると、お前が部長になったら見せてやるから、今は見るなと島村に念押しされている、と返ってきた。その代わりに、彼が井塚の家から持ってきた大量の怪談本や雑誌を片っ端から読み漁っているのだと言う。
「それでね、多分、その日に行けると思う。いつでもおいでって言ってたから、……」
時藤が選択授業のことを話して行ってもいいかと尋ねると、祖父母はそれを快諾してくれたらしい。その日は他のグループも清掃ボランティアに行くようで、いつもは一時間の授業時間が二時間に拡大されていた。このチャンスを逃す手は無い。
例え何の手掛かりも得られないとしても、何もしないよりはマシだと思った。
時藤を見送って、陽と初は第二視聴覚室へと向かった。

「あれえ?」
重たい扉を開けて中に飛び込んだ陽の素っ頓狂な声が、等間隔に穴の空いた第二視聴覚室の壁に吸い込まれていく。
惺がいつもの場所で教科書を広げながら手を振るが、そこに織の姿は無かった。陽と初は机に鞄を置いて、目の前の惺に織はいないのかと首を傾げる。
「先輩ねえ、職員室だよ」
「え、よ、呼び出しっすか」
「はは、違うよ。補講受けてんの、一対一で」
聞けば、来週の期末と今後の進路を考えて担任と話したところ、もう一度しっかり勉強し直した方がいいのでは、と言う話になったそうだ。その結果、期末テストの当日まで毎日二時間程の補講を受けることになったのだと言う。
「おれだけじゃ限界があるし、先生はプロだからねえ、曲がりなりにも」
ちゃんとやってくれるんじゃない、と続けて、惺は手元のチョコレートを口に放り込んだ。彼は心底愉快そうに笑うと、話の矛先を陽に向けた。それを察したのか、初も陽の肩を叩く。
「オリ先輩は先生に任せるとして、…おれは陽くんに集中しよっかな」
「僕も自分の復習ついでだし、いくらでも付き合うからね」
「ひえ……」
自分の口から漏れた驚くほど情けない声を、陽はどこか他人事のように聞いていた。







結局織が第二視聴覚室に来たのは、完全下校の童謡が鳴る直前だった。本来は二時間と言う話だったのだが、教師も織も完全に時間を忘れてしまっていたのだと言う。その間延々と数学の問題を解き続けていた陽の脳は、とっくに悲鳴を上げていた。適度に休憩を取っていたとは言え、慣れないことはするものではないと思い知らされた。

そして初と共に自宅に帰った今も、その状況は続いている。
「頭爆発しそう……」
「しないから」
「しないからー!」
「お兄ちゃんたちお勉強してるんだから、邪魔しない!」
初の膝の上で声を上げた昊を、母が抱き上げる。
陽と初が帰宅した時、既に夕食のオムライスがテーブルの上に並べられていた。自分の好物が出てきたと喜ぶ陽に、母はこの後勉強がんばってね、と笑って見せた。その直後に父も帰宅して、両親と陽、昊と初で夕食を囲んだ。昊はずっと初と話していたいらしく、その膝の上から中々退こうとしなかった。

夕食を終えて暫く休んで、リビングでテスト範囲の復習を開始して、今に至る。午後二十時半で、昊はじきに寝る時間だった。
「これ解けたら終わりにするから、がんばって陽」
「終わったら絶対ゲームする」
「はいはい」
その時、ふと電話の音が響く。携帯電話では無く、陽の家の固定電話だ。母が昊を抱いたままリビングから出て、廊下に設置してある電話機の受話器を取る音がした。
「はい、御子柴で、……ああ!良美ちゃん!ううん良いのよ、すごく助かってる。うん──…ちょっと待ってね」
母の声は良く通る。扉を突き抜けて聞こえてきたそれに、穏やかに微笑んでいた初の顔が一気に強張るのが分かった。初の母親からの電話だ。今朝のことを思い出したのか、テーブルの上に乗せられた初の手が僅かに震えている。
やがて扉から母が顔を出し、初を呼んだ。彼は暫く硬直していたが、母が大丈夫だからと言葉を掛けると、頷いてリビングを出て行く。
戻ってきた母に、陽は抗議の視線を投げた。
「お母さん、本当に大丈夫なの、あれ」
「大丈夫よ」
「でもさあ」
「お母さんだってねえ、良美ちゃんとはあんたと初ちゃんと同じくらいの付き合いなの、ほら」
大丈夫そうでしょ、と母は言って、扉の方を目で示した。初の声がする。
「はい、……はい、…大丈夫です。はい、ごめんなさい、今後は──え?……はい、分かりま……う、ん、」
凝り固まっていた初の声が、徐々に柔らかくなっていく。陽は思わず扉に駆け寄って、そっと廊下を覗き見た。
「分かった、…よ、……お母さん」
戸惑いの空気を残して、初が受話器を置いた。彼はリビングの扉から顔だけを出す陽を見て、心底不思議そうに首を傾げる。初の母親は最初に、今朝父に殴られた顔について聞いた。それに大丈夫だと答えた初は、次いで今後は気を付けます、と言おうとした。今まで父を怒らせた時は、そうするのが正解だった。しかし電話の向こうの母はそれを遮って、こう言ったのだと言う。
もうやめましょう、こんなこと、と。
それに対しても初は機械的に敬語で答えようとした。ところが母はそれも遮ると、親子なんだから、敬語も使わなくて良いと言った。
お父さんは明日から学会で数日間留守にするから、明日、お母さんと話をしましょう。いつになく強い声音でそう言って、おやすみ、と初の母は電話を切った。

リビングに戻った初を見て、母が笑う。
「大丈夫だったでしょ?」
「あ、はい……でも、何で」
「初ちゃんうちに泊まるからねって電話をした時、良美ちゃんねえ、ずっと泣いてたの。初ちゃんがお父さんに叩かれた時、何も出来なかったって。今までも押さえつけるばっかりだったって」
「……今更、」
吐き捨てるように言った初に頷いて、だからね、と母は続けた。
「明日は帰って、ちゃんと自分の思ってること、全部ぶつけたら良いの。もしそれで何も変わらなかったら、またうちにいらっしゃい」
初は考え込んで、一つだけ頷いた。
猜疑心と安堵が綯い交ぜになった目は潤み、唇からはごく小さな、大丈夫かな、と言う声が漏れる。
「大丈夫だって、お前、出来る子だもん」
陽の言葉に吹き出した初の顔に、徐々に笑みが戻ってくる。何それ、と言いながら椅子に座った初は、短く息を吐いた。自分に言い聞かせるように、そうだね、と呟く。
「僕、明日は帰るよ」
少し曇りの取れた表情の初を見て、陽は目を細めた。せめて母親とだけでも話が出来るようになればいい。そう思いながら、陽は一つだけ残った数式に向かった。





「電気消すぞー」
「うん」
自室のベッドに上がって、ぶら下がっている紐を引いた。白い月明かりが、室内をぼんやりと包んでいる。ベッドの下に敷いた来客用の夏布団に潜り込む菖蒲ヶ崎高校のジャージを着た初を見ながら、陽もタオルケットを全身に被った。
「陽」
「うん?」
タオルケットを退けて初の方を向くと、彼は陽を見上げて微笑んで、静かにこう言った。
「ありがとう、色々」
「……ばか、当然だろ」
それだけを言い捨てて、陽はタオルケットを被り直した。改めて言われると、妙に照れ臭い。紅潮する頬を見られていないか不安になりながらも、陽はぎゅっと強く目を閉じた。
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