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一部
第七話
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金井沢三丁目は、あやめヶ崎駅の一つ隣の無人駅だ。小さな駅舎とささやかな改札を抜けるとすぐに、小規模なスーパーとそこに併設された申し訳程度のドラッグストアの看板が見える。そこから先はもう閑静な住宅街で、同じ駅で降りた何人かの学生は、真っ直ぐそちらへと歩いて行った。
六月に入ってから随分と日が長くなったように感じるが、街灯は既に煌々と灯って、道行く人の足元を照らしている。
買い物してく、と当然のように言った織がスーパーの自動ドアをくぐったので、陽たちもそれに倣う。店に入るなり、いやに大きな店内BGMと、がなり立てるような男性の声で特売を知らせるアナウンスが流れて、鼓膜をびりびりと揺らした。
金井沢マート、と大きく白で印字された橙色の籠を手に野菜コーナーの前に立った織が、ふと振り返る。
「晩飯さあ、唐揚げで良い?」
「あ、何でも」
良いです、と言いかけた初を遮るように、惺が溜息を吐きながら口を開いた。先程から擦れ違う人々が一瞬驚いたように彼の顔を見て行くが、そんなことは気にも留めていないらしい。
「唐揚げは一昨日食べたでしょ」
「そうだっけ?」
「そうですよ、呆けちゃったんですか?」
のろのろと進みながら、織は夕食の献立について再び考えているようだ。陽は何を言うでも無くその後ろを着いて行くが、やがて何かを閃いたように振り返った織と目が合う。
「陽ちゃん」
「?」
「何が好き?」
「オムライスとかっすかね」
織は陽の答えに満足したらしく、頷きながら卵を一パックと、黄色いバターの箱をひとつ籠に入れた。勝手知ったると言った様子で棚と棚の間の狭い通路を進むと、調味料の棚からバジルの小瓶を取る。
「惺ー?」
「なあに」
「ケチャップあったよね?」
「半分くらい残ってたと思う」
「おっけー」
何故惺が織の家のケチャップの残量を把握しているのか不思議に思った陽は、彼を呼びながら袖を引いた。騒がしい店内で声を聞き取る為か、惺は歩きながら少し身体を横に倒して陽に近付く。
「織ちゃん先輩んちのこと、詳しいんすね」
「ああ、一緒に住んでるからね」
「え」
「冗談だよ」
嘘でも無いけどね、と笑った惺が言うには、一年生の頃からずっと、彼は織の家に入り浸っているらしい。惺の家は金井沢三丁目の更に隣の、未迫という駅からバスで二十分ほどの場所にある団地だが、警備員の仕事をしている父が休みの日以外は家に帰っていないと言う。
惺は陽や初が何か言うよりも先に、家は大丈夫、心配なんか絶対しないから、と釘を刺すように言った。口元は笑っていたが、目の奥は笑っていない。
その間もぽんぽんと籠に缶詰や菓子類を放り込んでいた織が、日用品売り場で立ち止まる。彼は所狭しと並んだ歯ブラシを指差して、一本ずつ選ぶよう陽と初に言った。はあい、と気の抜けた返事をした陽は、一番初めに目に付いたオレンジの歯ブラシを手に取って籠の中に入れる。
織は初を見遣ると、自らが握っている籠を指差した。
「一緒に入れていいよ」
「いや、流石に自分で買いますよ!」
「いいからいいから、甘えられる時に甘えとこ」
な、と言った織が初の頭を撫でると、彼は暫く躊躇ったあと頷いた。棚の上部に引っ掛けられたピンク色の歯ブラシに伸ばされた初の手が、一瞬止まる。
初がそこから手を引っ込める前に、惺がその歯ブラシを取った。
「これ?」
「え、あ、……はい」
頷いた惺がそれを籠に入れたのを目で追うと、もう良いか、と呟いた織が通路を抜けて、セルフレジの台に籠を置く。
「さと、財布出して」
「はーい」
織の肩に掛けられたボストンバッグを開けた惺は、暫く中をまさぐった後に黒い皮の財布を取り出した。やはり慣れている。入り浸っていると言っていたから、こういうことは日常茶飯事なのだろう。惺はスキャンを終えた商品を織のバッグの中に次々と詰め込んでいく。会計を終えたレジから、小気味の良いベルの音と、ありがとうございました、と言う女の音声が流れた。
スーパーを出て数分歩いた。周囲の家々の大半には明かりが灯り、どこからかカレーの匂いが漂ってくる。通り過ぎた比較的古そうに見える一軒家の窓が開いていて、そこから大音量でバラエティ番組か何かの笑い声が漏れ出てきた。鳥の鳴き声と車の走行音が遠くから聞こえて、太陽の残滓のような薄い橙の空を走る黒い電線が、妙に浮いて見える。
悪く言えば平凡な色の家の中に、明らかに悪目立ちしている緑の家がある。その横にコンビニがあった。駐車場は狭く、この近辺の住民のために建てられたらしい店舗だ。
織の家は、そのコンビニを横切ってすぐの場所にあった。二階建ての、ごく一般的な一軒家だ。車が一台ぶんほどの駐車スペースには、バイクだけがぽつんと停まっている。壁紙は燻んだ上品な紫色で、玄関の前に黒い門があった。それを開けた織が、ボストンバッグの小さなポケットから鍵を取り出す。
右勝手、片開きの黒い扉の真ん中に、縦に長い分厚そうな磨り硝子が一本嵌っていた。鍵穴に差し込んだ鍵を回して、織が玄関の扉を開けた。入ってすぐ右手に大きな木製の下駄箱があって、その上には沢山の造花や犬を模した置物が置かれている。
それらは、全て埃に覆われていた。
「お邪魔しまーす」
「お邪魔します」
「はいどうぞー」
「どうぞー」
陽と初に軽く返事をして、家の中へ入った織と惺はすぐ右に曲がった。どうやらそちらがリビングであるようだ。階段と洗面所が正面に見えて、左手には和室らしい障子が見える。
靴を脱ぐために三和土に目を落とした陽の頭に、小さな違和感が過ぎる。
織と惺以外の靴が、一足も見当たらない。いくら普段家を空けているとは言え、織の両親の靴が無いわけはない。暫く考えた後に下駄箱に収納されているのだろうと納得して、陽は家に入った。初もそれに続く。
リビングの奥にある長細いキッチン、その冷蔵庫に先程買った食料を仕舞い込んでいる織に、初が問い掛けた。
「あの、ご両親はお仕事ですか?」
織は一瞬その動きを止めた後、惺と顔を見合わせて、言っといた方が良いかもね、と呟いた。それの意味を二人が理解する前に、織がキッチンを出て二人を追い抜き、リビングのドアの前で陽と初を手招く。ちょっとおいで、と目を細める織に導かれるまま、障子の前に立った。玄関から見た時は分からなかったが、障子の取っ手とその付近の壁が、ある箇所だけ長方形に黄色く変色していた。まるでテープか何かで塞いでいたかのような、そんな跡だ。
それに触れようか迷っているうちに、織が障子の取手に手を掛けて、ゆっくりと引いていく。和室の中はがらんとしていたが、部屋に入って左手の、一際大きな仏壇が目を引いた。その内部には、一枚の色褪せた写真が、黒い額縁に入れられた状態で収まっている。写真には揃って穏やかな微笑みを浮かべた和装の男女が並んで写っていて、その二人はどことなく織と似ているような気がした。印刷する時に目一杯引き伸ばしたのか、画質が荒い。
硬直する陽と初の後ろで、織が静かに口を開く。
「ごめん、仕事だって言ったの、あれ、嘘だよ。……本当は、こんな感じ」
事故でさ、と言った織は、仏壇の方を見もしない。
彼が小学生の、ある休日のことだった。両親は織を連れてドライブへ出掛けた。母が運転する車で少し遠くの遊園地へ行って、その帰り道に事故を起こしたと言う。車は炎上して、織だけがどうにか生き残った。その後は親戚の家をたらい回しにされていたが、高校進学を機にこの実家に戻ってきたのだと言う。
一頻り話し終えた織は陽と初に部屋から出るよう促すと障子を閉めて、何も気にしなくて良いからと笑った。リビングへ戻ろうとする織に、初が小声で呼び掛けた。
「あの」
「うん?」
「ごめんなさい」
「気にしなくて良いって言ったじゃん、もう昔のことだしさ」
言いながら初の髪を犬かのように撫で回した織は、そのまま初を伴ってリビングへ戻っていく。それの後に続くように、陽も和室に背を向けた。
──さり。
不意に耳を掠めたごく小さな音に、思わず振り返る。
障子の向こうに、何かがいた。まじまじと見て、真っ黒な二つの人影がこちらを向いて立っているのだと分かる。それはぴんと張られた障子に弱々しく爪を立てて、さり、さり、と引っ掻いていた。無数の黒い指先が真っ白な障子紙に当たる度、丸く赤黒い染みが増えていく。
部屋の中から、微かな声がする。
あけて、あけて、あけて、あけて、あけて、あけてあけてあけてあけてあけてあけてあけてあけてあけてあけてあけてあけてあけてあけてあけてあけてあけてあけてあけてあけてあけてあけてあけてあけて
あけて、
織。
「陽ちゃん」
耳元で聞こえた織の声で、我に返った。自分の手が障子戸の取手に掛かっていたことに気が付いて、陽は驚愕する。障子の向こうの影も、赤黒い染みも、あけてと繰り返す声も嘘のように消え失せていた。いつの間にかコンタクトレンズを外していたらしい織の深く赤い目が、柔らかく細められる。彼は陽の肩を掴んで障子から引き剥がすと、そのままリビングへ入って、扉を閉めてしまった。
「見えた?」
「あれ、何──」
「親」
「え」
「大丈夫、何もしてこないよ」
織は、それ以上何も言わなかった。必死に忘れようと努めていた数週間前の腕のこと、職員室前の鏡を見て織が呟いたことが、陽の中で急速に息を吹き返し始める。強烈な不安感に駆られて、陽は織の制服の袖を掴んだ。晴がいなくなった日のことが鮮明に思い出されて、手が震えた。
キッチンで談笑している初と惺に聞こえないように、出来るだけ声を潜める。
「織ちゃん先輩」
「?」
「織ちゃん先輩は、どっか行ったりしないっすよね……?」
陽の問いに織は一瞬目を見開いたが、やがて陽の頭を撫でた。
「行かないよ」
「ほんとに?」
「ほんとだって」
けらけらと笑う織に大人しく頭を撫でられながら、陽はリビングの扉の向こうにうっすらと見える障子を、ちらりと覗き見た。
あれは、親。
織が小学生の時に交通事故で死んだと言う、両親。
あの日、放送室から第二視聴覚室へ戻る道すがらに見たあの織の肩をしっかりと掴む赤黒い、焼け爛れたような腕も、「そう」なのだとしたら。
遺された一人息子の肩を、あんな風に、まるで縋り付くように掴むだろうか。
障子の向こうの声は、確かに織を呼んでいた。それは焼けた喉から絞り出しているような聞くも悍ましい声で、愛情などとは程遠い、殆ど怨嗟の絶叫であるように聞こえた。
言い知れぬ不安と決して聞けない疑問を持て余して、陽は織の袖を一層強く握り締めた。
*
リビングに設置された可愛らしい鳩時計が、八回鳴いた。点けっ放しのテレビからは、最近流行のバラエティ番組が垂れ流されている。
あのあと、制服のままでは窮屈だろうと織から借りたスウェットに着替えた。初と織は身長がほぼ同じであるため問題無かったが、陽にはかなりオーバーサイズだった。服に着られているみたいだと他の三人は笑って、お決まりの遣り取りをした後夕食の準備に取り掛かった。
そして夕食のオムライスと親戚から送られてきたと言う苺で作ったタルトを食べ終えて、今に至る。皿洗いくらいはしようと考えていた陽と初だったが、それは織と惺によって一蹴されてしまった。陽が腹の辺りを軽く叩きながらその場に寝転がると、初がそれを小さく咎める。
「食べてすぐ寝ないの」
「めっちゃ食べたもん……」
その時、一連の片付けを終えたらしい織と惺が、キッチンから出てくる。料理が趣味だと言っていたのは本当のことだったようで、その腕は予想以上だった。自分が食べると言うよりは、人に食べさせるのが好きらしい。
「美味しかった?」
「店って感じっすね」
「はは、そりゃどうも」
陽の言葉に笑いながら、織はテレビの前の座布団に腰を下ろした。惺はリビングの扉に手を掛けて、陽と初に向かって問い掛ける。
「陽くんと初くん、お風呂先入る?」
「もうちょっと腹落ち着いてからにするっす」
「僕もそんな感じにします」
二人の言葉に惺は頷いて、じゃあ先にお風呂入っちゃうね、と笑った。リビングの扉が閉まって、やがて脱衣所の引き戸ががらがらと音を立てる。
陽はそれを見計らって、躊躇いがちに織に惺の怪我のことについて尋ねた。初もそれに加わって、あれ、殴られた痕ですよね?と言う。織は暫く考え込んだ後、静かに頷いて初の言葉を肯定した。
「あいつの親父が」
惺の父親──和泉譲は、民俗学を主に研究する大学教授だった。教職の傍ら、心霊スポットのレポートや実話怪談を記したブログサイトを運営していて、それ絡みの書籍を何冊か出版したこともあると言う。非常に穏やかな男で、惺は父親に怒鳴られたことは無かったらしい。
ある時、妻──惺の母親が他所に男を作って出て行った。研究と怪談に熱中し過ぎた夫に愛想を尽かしたようで、息子である惺のことも置いて行ってしまった。それでも、惺の父は呑気なものだった。幼い惺を連れて廃墟を見に行ったり、夜な夜な怪談を語って聞かせたりして、母親がいなくてもある程度満たされた生活をしていたと言う。
それが狂い始めたのは、父が職場の付き合いで小さなバーを訪れた時だ。そこで働いていた十六も年下の女に一目惚れして、それ以降父はそのバーに通い詰めるようになった。酒など全く飲めなかった父が、酔って朝帰りをするようになった。それを続けて暫く経つと、大学の仕事にも支障を来たし始めた。遅刻、無断欠勤などが相次ぎ、やがて教職を追われてしまった。
父は警備員の職に就いて、その女と結婚した。女には連れ子がいたが、やがて父と女との間にも子供が出来た。父の貯蓄も底をつき、持ち家を売り払って団地に住み始めた。その頃には、父の酒癖は最悪の状態になっていた。仕事に行かない時は、殆ど飲んでいる。そうすると、父は惺に暴力を振るう。新しい妻はそれを止めるどころか、笑って見ていると言う。どうもその新しい妻が何か父親に吹き込んでいるらしく、全く覚えの無いことで怒鳴り散らされ、時には命の危険を感じるほどの暴行を受ける。
それでも、惺は父が休みの日は家に帰るのだ。今日は機嫌良いかもしれないし、と帰って、結局翌日には痣だらけで登校してくる。
「じゃあ、今日のあれも」
初の言葉に織は頷いた。惺は昨日、家に帰っていた。
夜九時頃、織がコンビニで買い物を済ませて自宅に戻ると、惺から電話が掛かってきたと言う。珍しい、と思った。出ると、向こう側から荒い息遣いと嗚咽が聞こえて来る。電話の向こうの惺が息も絶え絶えに、殺されるかと思った、と言ったのを聞いた瞬間、織の身体は勝手に動いていた。片手間で取ったバイクの免許が初めて役に立った。電車やバスでは遅過ぎる。惺の家である団地の場所は何となく分かっていたが、話を聞くと駅方面に向かっていると言うので、惺の家から歩いて十分ほどの場所にあるコンビニを指定した。追い掛けてくるかもしれないなら、身を隠せと言い含めて。
「そしたらさ、あんな感じだよ。灰皿と包丁持ち出して来たから逃げてきたんだって。一応そっからタクシー呼んで病院連れてって、俺んちにきたの。バイクは惺が寝たあと取りに行った」
殆ど朝だったけどね、と織は溜息を吐く。陽と初は何も言えずに、ただ呆然と目の前の織を見ていた。それは虐待と言って相違ないのでは無いか、然るべき場所に相談すれば、何かしら動いてくれるのでは無いかと陽は考えた。それは初も同じだったようで、警察とか、と言いかける。
「考えたけど、惺がさあ、止めるんだよね。学校も何もしてくれんよ。穂積ちゃんが色々やってくれてたけど、全部駄目だった。本人が好きで帰ってるって言っちゃうんだもん。あんなことされてさあ、まだ、昔の親父に戻るかもしれないって、本気で思ってんだよ」
戻るわけないよ、一回壊れたら。
絞り出すように織が呟く。
結局のところ、本人の意思に依存してしまうらしい。これが幼い子供ならまだ強制的に引き剥がすことも出来たかもしれないが、惺は今年十八だ。警察にでも駆け込んでしまえば傷害罪か何かにも問えるのだろうが、惺本人がそれを拒否しているのではどうしようもない。
「暫くは帰んないって言ってたし、俺も帰すつもりないから」
織はそこで一度言葉を切ると、底冷えのするような声音でこう続けた。
「あいつの、──親父の方が死んじまえば良いのにな」
その時、リビングのドアが音を立てて開いた。惺がタオルで髪を拭きながら入ってくる。燻んだ青い半袖Tシャツに拭ききれない水滴が落ちて染みを作っていた。そこから伸びる心配になるほど華奢な腕には、所々治りかけらしい痣が浮いている。
顔の、絆創膏や眼帯で隠されていた箇所は、やはり紫色に変色していた。左目の瞼は殆ど開いていないが、見えていることは見えているらしい。
惺は陽たちに向かって微笑んで、首を傾げた。何話してたの、と問い掛けた惺に、織が返事をする。
「怖い話、」
「えーずる!おれにも聞かせてよ」
「良いからそれ冷やしときなって、可愛い後輩がビビるでしょ」
織の言葉を聞いた惺は、ばつが悪そうに陽と初から目を逸らした。
キッチンから保冷剤を手に戻ってきた惺を呼んだ陽は、自らの横に腰を下ろした惺を見る。初も、惺を心配そうに見ていた。
「痛くないすか?それ」
「ちょっとね」
気を抜いているのか、少しばかり素直だ。病院に行ったのであれば、顔の怪我は心配ないだろうと思う。しかし、心の方の傷は計り知れない。惺の家と言い初の家と言い、どうしてそうなってしまうんだと、陽は心底落胆した。
次に初が浴室へと向かうと、それを見送った織は陽にこう切り出す。
「はーくんちもさあ、何かアレな感じ?」
「それおれも思った、初くんちってお医者さんなんだよね?」
「そうなんすけど、それが──」
初の家の教育方針、ずっとそれに従って来た初の幼少期、一度逸れただけで一気に扱いが酷くなったこと。直接的に暴力を受けているわけでは無いし、初自身も気にしていない風だが、どうしても心配なのだ、と陽は話を結んだ。
「お金貰えてるだけ良いって初は言うんすけど、そうじゃないだろって」
「後ではーくんに言っといて、何かあったらいつでもここおいでってさ」
俺から言うと遠慮しちゃいそうだし、と織は笑った。確かに初の性格上、目上の人間からそんなことを言われても社交辞令か何かだと受け取ってしまうだろう。陽がそれに頷くと、惺が織に続けるようにこう言った。
「陽くんもいつでも来て良いんだからね、ご飯食べるだけでも」
「店かよって」
それまで凝り固まっていた雰囲気が、少しずつ解れていく。
やがて初が戻ると、次は陽が入浴した。歯磨きもそこで済ませてしまう。和室の斜め向かいにある脱衣所、その奥に浴室がある。陽は行きも帰りも、和室を視界に入れないように努めた。
湯船にゆっくり浸かったのは、一体何年振りだろうか。眠気が徐々に頭をもたげてうとうとと船を漕いでいると、思い切りお湯の中に顔を沈めてしまった。
これではいけないと急いで浴室を出て、全身を拭いて、借りたぶかぶかのスウェットを着てリビングへ戻った。
明日は忙しいからそろそろ寝るか、と言う織の言葉を合図に、全員で二階へ上がる。階段を上がってすぐに一部屋あって、そこを曲がって突き当たりに一部屋、更にその右奥に一部屋。階段すぐの部屋は元々客間として使われていたらしく、入ってみるとそこそこの広さがある。陽と初は、そこに布団を敷いて寝ることになった。床はフローリングではあるが、敷き布団を二枚も重ねればそこそこ快適だ。
織は突き当たりの部屋を指差して、そこが自分の部屋だから、何かあれば言って、と告げた。右奥の部屋は惺が使っているらしい。頷いた二人に織と惺は手を振って、それぞれの部屋へと向かう。
「おやすみなさい」
「おやすみー」
部屋に入ると、二人はすぐにクローゼットから引っ張り出した布団を敷いた。陽は奥、初は入り口側だ。電気を消すと、窓から街灯の灯りが差し込んで部屋を薄暗く照らしている。
布団に寝転がって天井をぼんやりと見上げながら、陽は呟いた。
「何かさあ」
「うん」
「心配なんだけど」
「惺先輩?」
「そうだけど、織ちゃん先輩も、お前もだよ」
「ええ?僕は大丈夫だって」
「もう!みんなすぐ大丈夫だって言う!絶対大丈夫なわけないだろ!」
「大丈夫?情緒」
「駄目かも……」
枕に顔を埋めた陽に、初は早く寝ちゃいなよと笑う。そうだ。明日は定期公演会本番で、初めてのライブだ。寝不足になど陥っている場合では無い。惺は本調子ではないから、それをカバーするくらいはしたかった。
「寝る」
「そうしな」
おやすみ、と短く言葉を交わして、陽は目を閉じる。数秒後には、すっかりその意識は眠りの底に落ちていた。
*
「、」
ふと、初は目を開けた。横の布団から陽の穏やかな寝息が聞こえる。天井はまだ薄暗く、陽を起こさないようにと布団に潜り込んで携帯を点けると、液晶は午前三時数分前を表示した。
最近夜中に目を覚ますことが多くなってきたように思う。検索するとストレスとしか出て来ないため、もうそれについて調べるのは止めてしまった。
外からは虫の鳴き声が聞こえてくる。この時間では、鳥も寝ているのだ。
初はそっと起き上がって、布団から出る。一度こうなってしまうと、水でも飲まなければ眠れない。出来るだけ音を立てないように歩いて、そっと部屋の扉を開けた。階段の電気は点けないまま、一段一段静かに下りていく。ふと、一階の和室の障子から、薄明かりが見えた。ぼやぼやとオレンジ色に光るそれは時折大きく揺らめいていて、蝋燭の火なのだなと理解する。
それの中に、長い髪の影が見えた。一瞬硬直した初だったが、髪を下ろした織だろうと胸に手を当てて自分を落ち着かせた。
恐怖の感情が消えるのと同時に、こんな時間に何を、と言う疑問が浮き出てくる。和室に用があるなら電気を点ければ良いのだ。わざわざ蝋燭を灯す意味が分からなかった。無意識に爪先から浸すように階段を下りている自分に気がついて、初は一人苦笑した。相手は部活の先輩で、生きた人間だ。だから、恐れる必要は全く無い。最近妙な話ばかり聞くから、過敏になっているのだろうと思った。幼い頃から柔道や空手などをそこそこの年数続けていたが、まだまだだなと自分に対して喝を入れた。
障子戸が、若干開いている。中を覗くのには申し分無さそうな隙間だ。初は足音を殺して階段を下り切ると、そっと障子戸に歩み寄る。仏間であるから、掃除でもしているに違いないと思った。片目を閉じてその隙間を覗き込んで、そして
ああ、見なければ良かった、と、後悔した。
織が仏壇の前に正座をして、金と黒の装飾が施された板のようなもの、恐らく位牌だろう──それに、何かの紙を釘で打ち付けているのが見えた。織が金槌を振り下ろすたびに、とん、かん、とん、かん、と言う乾いた音が響く。織の髪は解かれてだらりと垂れて、その隙間から見える横顔は、凡そ普段の彼とはかけ離れていた。目一杯見開かれた目が、その紙を凝視している。その薄く開かれた口元は、何かをぶつぶつと呟いていた。
──死ね、死ね、死ね、お前がいるから、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね──。
もう、見ていられなかった。
初はそっと障子戸から離れると、少しも音を立てないように階段を駆け上がった。あの織に存在を感知されれば、無事でいられる保証が無い。本能的な恐怖が、頭の天辺から足の先までを覆っていた。
部屋に飛び込んで布団に潜り込むと、震えながら目を閉じた。これは夢だ、これは夢だと繰り返し頭の中で唱える。布団から足の先を出すのも怖くて、目一杯身を縮こめた。
そうしていつの間にか、初は気絶するように眠りに落ちていた。
六月に入ってから随分と日が長くなったように感じるが、街灯は既に煌々と灯って、道行く人の足元を照らしている。
買い物してく、と当然のように言った織がスーパーの自動ドアをくぐったので、陽たちもそれに倣う。店に入るなり、いやに大きな店内BGMと、がなり立てるような男性の声で特売を知らせるアナウンスが流れて、鼓膜をびりびりと揺らした。
金井沢マート、と大きく白で印字された橙色の籠を手に野菜コーナーの前に立った織が、ふと振り返る。
「晩飯さあ、唐揚げで良い?」
「あ、何でも」
良いです、と言いかけた初を遮るように、惺が溜息を吐きながら口を開いた。先程から擦れ違う人々が一瞬驚いたように彼の顔を見て行くが、そんなことは気にも留めていないらしい。
「唐揚げは一昨日食べたでしょ」
「そうだっけ?」
「そうですよ、呆けちゃったんですか?」
のろのろと進みながら、織は夕食の献立について再び考えているようだ。陽は何を言うでも無くその後ろを着いて行くが、やがて何かを閃いたように振り返った織と目が合う。
「陽ちゃん」
「?」
「何が好き?」
「オムライスとかっすかね」
織は陽の答えに満足したらしく、頷きながら卵を一パックと、黄色いバターの箱をひとつ籠に入れた。勝手知ったると言った様子で棚と棚の間の狭い通路を進むと、調味料の棚からバジルの小瓶を取る。
「惺ー?」
「なあに」
「ケチャップあったよね?」
「半分くらい残ってたと思う」
「おっけー」
何故惺が織の家のケチャップの残量を把握しているのか不思議に思った陽は、彼を呼びながら袖を引いた。騒がしい店内で声を聞き取る為か、惺は歩きながら少し身体を横に倒して陽に近付く。
「織ちゃん先輩んちのこと、詳しいんすね」
「ああ、一緒に住んでるからね」
「え」
「冗談だよ」
嘘でも無いけどね、と笑った惺が言うには、一年生の頃からずっと、彼は織の家に入り浸っているらしい。惺の家は金井沢三丁目の更に隣の、未迫という駅からバスで二十分ほどの場所にある団地だが、警備員の仕事をしている父が休みの日以外は家に帰っていないと言う。
惺は陽や初が何か言うよりも先に、家は大丈夫、心配なんか絶対しないから、と釘を刺すように言った。口元は笑っていたが、目の奥は笑っていない。
その間もぽんぽんと籠に缶詰や菓子類を放り込んでいた織が、日用品売り場で立ち止まる。彼は所狭しと並んだ歯ブラシを指差して、一本ずつ選ぶよう陽と初に言った。はあい、と気の抜けた返事をした陽は、一番初めに目に付いたオレンジの歯ブラシを手に取って籠の中に入れる。
織は初を見遣ると、自らが握っている籠を指差した。
「一緒に入れていいよ」
「いや、流石に自分で買いますよ!」
「いいからいいから、甘えられる時に甘えとこ」
な、と言った織が初の頭を撫でると、彼は暫く躊躇ったあと頷いた。棚の上部に引っ掛けられたピンク色の歯ブラシに伸ばされた初の手が、一瞬止まる。
初がそこから手を引っ込める前に、惺がその歯ブラシを取った。
「これ?」
「え、あ、……はい」
頷いた惺がそれを籠に入れたのを目で追うと、もう良いか、と呟いた織が通路を抜けて、セルフレジの台に籠を置く。
「さと、財布出して」
「はーい」
織の肩に掛けられたボストンバッグを開けた惺は、暫く中をまさぐった後に黒い皮の財布を取り出した。やはり慣れている。入り浸っていると言っていたから、こういうことは日常茶飯事なのだろう。惺はスキャンを終えた商品を織のバッグの中に次々と詰め込んでいく。会計を終えたレジから、小気味の良いベルの音と、ありがとうございました、と言う女の音声が流れた。
スーパーを出て数分歩いた。周囲の家々の大半には明かりが灯り、どこからかカレーの匂いが漂ってくる。通り過ぎた比較的古そうに見える一軒家の窓が開いていて、そこから大音量でバラエティ番組か何かの笑い声が漏れ出てきた。鳥の鳴き声と車の走行音が遠くから聞こえて、太陽の残滓のような薄い橙の空を走る黒い電線が、妙に浮いて見える。
悪く言えば平凡な色の家の中に、明らかに悪目立ちしている緑の家がある。その横にコンビニがあった。駐車場は狭く、この近辺の住民のために建てられたらしい店舗だ。
織の家は、そのコンビニを横切ってすぐの場所にあった。二階建ての、ごく一般的な一軒家だ。車が一台ぶんほどの駐車スペースには、バイクだけがぽつんと停まっている。壁紙は燻んだ上品な紫色で、玄関の前に黒い門があった。それを開けた織が、ボストンバッグの小さなポケットから鍵を取り出す。
右勝手、片開きの黒い扉の真ん中に、縦に長い分厚そうな磨り硝子が一本嵌っていた。鍵穴に差し込んだ鍵を回して、織が玄関の扉を開けた。入ってすぐ右手に大きな木製の下駄箱があって、その上には沢山の造花や犬を模した置物が置かれている。
それらは、全て埃に覆われていた。
「お邪魔しまーす」
「お邪魔します」
「はいどうぞー」
「どうぞー」
陽と初に軽く返事をして、家の中へ入った織と惺はすぐ右に曲がった。どうやらそちらがリビングであるようだ。階段と洗面所が正面に見えて、左手には和室らしい障子が見える。
靴を脱ぐために三和土に目を落とした陽の頭に、小さな違和感が過ぎる。
織と惺以外の靴が、一足も見当たらない。いくら普段家を空けているとは言え、織の両親の靴が無いわけはない。暫く考えた後に下駄箱に収納されているのだろうと納得して、陽は家に入った。初もそれに続く。
リビングの奥にある長細いキッチン、その冷蔵庫に先程買った食料を仕舞い込んでいる織に、初が問い掛けた。
「あの、ご両親はお仕事ですか?」
織は一瞬その動きを止めた後、惺と顔を見合わせて、言っといた方が良いかもね、と呟いた。それの意味を二人が理解する前に、織がキッチンを出て二人を追い抜き、リビングのドアの前で陽と初を手招く。ちょっとおいで、と目を細める織に導かれるまま、障子の前に立った。玄関から見た時は分からなかったが、障子の取っ手とその付近の壁が、ある箇所だけ長方形に黄色く変色していた。まるでテープか何かで塞いでいたかのような、そんな跡だ。
それに触れようか迷っているうちに、織が障子の取手に手を掛けて、ゆっくりと引いていく。和室の中はがらんとしていたが、部屋に入って左手の、一際大きな仏壇が目を引いた。その内部には、一枚の色褪せた写真が、黒い額縁に入れられた状態で収まっている。写真には揃って穏やかな微笑みを浮かべた和装の男女が並んで写っていて、その二人はどことなく織と似ているような気がした。印刷する時に目一杯引き伸ばしたのか、画質が荒い。
硬直する陽と初の後ろで、織が静かに口を開く。
「ごめん、仕事だって言ったの、あれ、嘘だよ。……本当は、こんな感じ」
事故でさ、と言った織は、仏壇の方を見もしない。
彼が小学生の、ある休日のことだった。両親は織を連れてドライブへ出掛けた。母が運転する車で少し遠くの遊園地へ行って、その帰り道に事故を起こしたと言う。車は炎上して、織だけがどうにか生き残った。その後は親戚の家をたらい回しにされていたが、高校進学を機にこの実家に戻ってきたのだと言う。
一頻り話し終えた織は陽と初に部屋から出るよう促すと障子を閉めて、何も気にしなくて良いからと笑った。リビングへ戻ろうとする織に、初が小声で呼び掛けた。
「あの」
「うん?」
「ごめんなさい」
「気にしなくて良いって言ったじゃん、もう昔のことだしさ」
言いながら初の髪を犬かのように撫で回した織は、そのまま初を伴ってリビングへ戻っていく。それの後に続くように、陽も和室に背を向けた。
──さり。
不意に耳を掠めたごく小さな音に、思わず振り返る。
障子の向こうに、何かがいた。まじまじと見て、真っ黒な二つの人影がこちらを向いて立っているのだと分かる。それはぴんと張られた障子に弱々しく爪を立てて、さり、さり、と引っ掻いていた。無数の黒い指先が真っ白な障子紙に当たる度、丸く赤黒い染みが増えていく。
部屋の中から、微かな声がする。
あけて、あけて、あけて、あけて、あけて、あけてあけてあけてあけてあけてあけてあけてあけてあけてあけてあけてあけてあけてあけてあけてあけてあけてあけてあけてあけてあけてあけてあけてあけて
あけて、
織。
「陽ちゃん」
耳元で聞こえた織の声で、我に返った。自分の手が障子戸の取手に掛かっていたことに気が付いて、陽は驚愕する。障子の向こうの影も、赤黒い染みも、あけてと繰り返す声も嘘のように消え失せていた。いつの間にかコンタクトレンズを外していたらしい織の深く赤い目が、柔らかく細められる。彼は陽の肩を掴んで障子から引き剥がすと、そのままリビングへ入って、扉を閉めてしまった。
「見えた?」
「あれ、何──」
「親」
「え」
「大丈夫、何もしてこないよ」
織は、それ以上何も言わなかった。必死に忘れようと努めていた数週間前の腕のこと、職員室前の鏡を見て織が呟いたことが、陽の中で急速に息を吹き返し始める。強烈な不安感に駆られて、陽は織の制服の袖を掴んだ。晴がいなくなった日のことが鮮明に思い出されて、手が震えた。
キッチンで談笑している初と惺に聞こえないように、出来るだけ声を潜める。
「織ちゃん先輩」
「?」
「織ちゃん先輩は、どっか行ったりしないっすよね……?」
陽の問いに織は一瞬目を見開いたが、やがて陽の頭を撫でた。
「行かないよ」
「ほんとに?」
「ほんとだって」
けらけらと笑う織に大人しく頭を撫でられながら、陽はリビングの扉の向こうにうっすらと見える障子を、ちらりと覗き見た。
あれは、親。
織が小学生の時に交通事故で死んだと言う、両親。
あの日、放送室から第二視聴覚室へ戻る道すがらに見たあの織の肩をしっかりと掴む赤黒い、焼け爛れたような腕も、「そう」なのだとしたら。
遺された一人息子の肩を、あんな風に、まるで縋り付くように掴むだろうか。
障子の向こうの声は、確かに織を呼んでいた。それは焼けた喉から絞り出しているような聞くも悍ましい声で、愛情などとは程遠い、殆ど怨嗟の絶叫であるように聞こえた。
言い知れぬ不安と決して聞けない疑問を持て余して、陽は織の袖を一層強く握り締めた。
*
リビングに設置された可愛らしい鳩時計が、八回鳴いた。点けっ放しのテレビからは、最近流行のバラエティ番組が垂れ流されている。
あのあと、制服のままでは窮屈だろうと織から借りたスウェットに着替えた。初と織は身長がほぼ同じであるため問題無かったが、陽にはかなりオーバーサイズだった。服に着られているみたいだと他の三人は笑って、お決まりの遣り取りをした後夕食の準備に取り掛かった。
そして夕食のオムライスと親戚から送られてきたと言う苺で作ったタルトを食べ終えて、今に至る。皿洗いくらいはしようと考えていた陽と初だったが、それは織と惺によって一蹴されてしまった。陽が腹の辺りを軽く叩きながらその場に寝転がると、初がそれを小さく咎める。
「食べてすぐ寝ないの」
「めっちゃ食べたもん……」
その時、一連の片付けを終えたらしい織と惺が、キッチンから出てくる。料理が趣味だと言っていたのは本当のことだったようで、その腕は予想以上だった。自分が食べると言うよりは、人に食べさせるのが好きらしい。
「美味しかった?」
「店って感じっすね」
「はは、そりゃどうも」
陽の言葉に笑いながら、織はテレビの前の座布団に腰を下ろした。惺はリビングの扉に手を掛けて、陽と初に向かって問い掛ける。
「陽くんと初くん、お風呂先入る?」
「もうちょっと腹落ち着いてからにするっす」
「僕もそんな感じにします」
二人の言葉に惺は頷いて、じゃあ先にお風呂入っちゃうね、と笑った。リビングの扉が閉まって、やがて脱衣所の引き戸ががらがらと音を立てる。
陽はそれを見計らって、躊躇いがちに織に惺の怪我のことについて尋ねた。初もそれに加わって、あれ、殴られた痕ですよね?と言う。織は暫く考え込んだ後、静かに頷いて初の言葉を肯定した。
「あいつの親父が」
惺の父親──和泉譲は、民俗学を主に研究する大学教授だった。教職の傍ら、心霊スポットのレポートや実話怪談を記したブログサイトを運営していて、それ絡みの書籍を何冊か出版したこともあると言う。非常に穏やかな男で、惺は父親に怒鳴られたことは無かったらしい。
ある時、妻──惺の母親が他所に男を作って出て行った。研究と怪談に熱中し過ぎた夫に愛想を尽かしたようで、息子である惺のことも置いて行ってしまった。それでも、惺の父は呑気なものだった。幼い惺を連れて廃墟を見に行ったり、夜な夜な怪談を語って聞かせたりして、母親がいなくてもある程度満たされた生活をしていたと言う。
それが狂い始めたのは、父が職場の付き合いで小さなバーを訪れた時だ。そこで働いていた十六も年下の女に一目惚れして、それ以降父はそのバーに通い詰めるようになった。酒など全く飲めなかった父が、酔って朝帰りをするようになった。それを続けて暫く経つと、大学の仕事にも支障を来たし始めた。遅刻、無断欠勤などが相次ぎ、やがて教職を追われてしまった。
父は警備員の職に就いて、その女と結婚した。女には連れ子がいたが、やがて父と女との間にも子供が出来た。父の貯蓄も底をつき、持ち家を売り払って団地に住み始めた。その頃には、父の酒癖は最悪の状態になっていた。仕事に行かない時は、殆ど飲んでいる。そうすると、父は惺に暴力を振るう。新しい妻はそれを止めるどころか、笑って見ていると言う。どうもその新しい妻が何か父親に吹き込んでいるらしく、全く覚えの無いことで怒鳴り散らされ、時には命の危険を感じるほどの暴行を受ける。
それでも、惺は父が休みの日は家に帰るのだ。今日は機嫌良いかもしれないし、と帰って、結局翌日には痣だらけで登校してくる。
「じゃあ、今日のあれも」
初の言葉に織は頷いた。惺は昨日、家に帰っていた。
夜九時頃、織がコンビニで買い物を済ませて自宅に戻ると、惺から電話が掛かってきたと言う。珍しい、と思った。出ると、向こう側から荒い息遣いと嗚咽が聞こえて来る。電話の向こうの惺が息も絶え絶えに、殺されるかと思った、と言ったのを聞いた瞬間、織の身体は勝手に動いていた。片手間で取ったバイクの免許が初めて役に立った。電車やバスでは遅過ぎる。惺の家である団地の場所は何となく分かっていたが、話を聞くと駅方面に向かっていると言うので、惺の家から歩いて十分ほどの場所にあるコンビニを指定した。追い掛けてくるかもしれないなら、身を隠せと言い含めて。
「そしたらさ、あんな感じだよ。灰皿と包丁持ち出して来たから逃げてきたんだって。一応そっからタクシー呼んで病院連れてって、俺んちにきたの。バイクは惺が寝たあと取りに行った」
殆ど朝だったけどね、と織は溜息を吐く。陽と初は何も言えずに、ただ呆然と目の前の織を見ていた。それは虐待と言って相違ないのでは無いか、然るべき場所に相談すれば、何かしら動いてくれるのでは無いかと陽は考えた。それは初も同じだったようで、警察とか、と言いかける。
「考えたけど、惺がさあ、止めるんだよね。学校も何もしてくれんよ。穂積ちゃんが色々やってくれてたけど、全部駄目だった。本人が好きで帰ってるって言っちゃうんだもん。あんなことされてさあ、まだ、昔の親父に戻るかもしれないって、本気で思ってんだよ」
戻るわけないよ、一回壊れたら。
絞り出すように織が呟く。
結局のところ、本人の意思に依存してしまうらしい。これが幼い子供ならまだ強制的に引き剥がすことも出来たかもしれないが、惺は今年十八だ。警察にでも駆け込んでしまえば傷害罪か何かにも問えるのだろうが、惺本人がそれを拒否しているのではどうしようもない。
「暫くは帰んないって言ってたし、俺も帰すつもりないから」
織はそこで一度言葉を切ると、底冷えのするような声音でこう続けた。
「あいつの、──親父の方が死んじまえば良いのにな」
その時、リビングのドアが音を立てて開いた。惺がタオルで髪を拭きながら入ってくる。燻んだ青い半袖Tシャツに拭ききれない水滴が落ちて染みを作っていた。そこから伸びる心配になるほど華奢な腕には、所々治りかけらしい痣が浮いている。
顔の、絆創膏や眼帯で隠されていた箇所は、やはり紫色に変色していた。左目の瞼は殆ど開いていないが、見えていることは見えているらしい。
惺は陽たちに向かって微笑んで、首を傾げた。何話してたの、と問い掛けた惺に、織が返事をする。
「怖い話、」
「えーずる!おれにも聞かせてよ」
「良いからそれ冷やしときなって、可愛い後輩がビビるでしょ」
織の言葉を聞いた惺は、ばつが悪そうに陽と初から目を逸らした。
キッチンから保冷剤を手に戻ってきた惺を呼んだ陽は、自らの横に腰を下ろした惺を見る。初も、惺を心配そうに見ていた。
「痛くないすか?それ」
「ちょっとね」
気を抜いているのか、少しばかり素直だ。病院に行ったのであれば、顔の怪我は心配ないだろうと思う。しかし、心の方の傷は計り知れない。惺の家と言い初の家と言い、どうしてそうなってしまうんだと、陽は心底落胆した。
次に初が浴室へと向かうと、それを見送った織は陽にこう切り出す。
「はーくんちもさあ、何かアレな感じ?」
「それおれも思った、初くんちってお医者さんなんだよね?」
「そうなんすけど、それが──」
初の家の教育方針、ずっとそれに従って来た初の幼少期、一度逸れただけで一気に扱いが酷くなったこと。直接的に暴力を受けているわけでは無いし、初自身も気にしていない風だが、どうしても心配なのだ、と陽は話を結んだ。
「お金貰えてるだけ良いって初は言うんすけど、そうじゃないだろって」
「後ではーくんに言っといて、何かあったらいつでもここおいでってさ」
俺から言うと遠慮しちゃいそうだし、と織は笑った。確かに初の性格上、目上の人間からそんなことを言われても社交辞令か何かだと受け取ってしまうだろう。陽がそれに頷くと、惺が織に続けるようにこう言った。
「陽くんもいつでも来て良いんだからね、ご飯食べるだけでも」
「店かよって」
それまで凝り固まっていた雰囲気が、少しずつ解れていく。
やがて初が戻ると、次は陽が入浴した。歯磨きもそこで済ませてしまう。和室の斜め向かいにある脱衣所、その奥に浴室がある。陽は行きも帰りも、和室を視界に入れないように努めた。
湯船にゆっくり浸かったのは、一体何年振りだろうか。眠気が徐々に頭をもたげてうとうとと船を漕いでいると、思い切りお湯の中に顔を沈めてしまった。
これではいけないと急いで浴室を出て、全身を拭いて、借りたぶかぶかのスウェットを着てリビングへ戻った。
明日は忙しいからそろそろ寝るか、と言う織の言葉を合図に、全員で二階へ上がる。階段を上がってすぐに一部屋あって、そこを曲がって突き当たりに一部屋、更にその右奥に一部屋。階段すぐの部屋は元々客間として使われていたらしく、入ってみるとそこそこの広さがある。陽と初は、そこに布団を敷いて寝ることになった。床はフローリングではあるが、敷き布団を二枚も重ねればそこそこ快適だ。
織は突き当たりの部屋を指差して、そこが自分の部屋だから、何かあれば言って、と告げた。右奥の部屋は惺が使っているらしい。頷いた二人に織と惺は手を振って、それぞれの部屋へと向かう。
「おやすみなさい」
「おやすみー」
部屋に入ると、二人はすぐにクローゼットから引っ張り出した布団を敷いた。陽は奥、初は入り口側だ。電気を消すと、窓から街灯の灯りが差し込んで部屋を薄暗く照らしている。
布団に寝転がって天井をぼんやりと見上げながら、陽は呟いた。
「何かさあ」
「うん」
「心配なんだけど」
「惺先輩?」
「そうだけど、織ちゃん先輩も、お前もだよ」
「ええ?僕は大丈夫だって」
「もう!みんなすぐ大丈夫だって言う!絶対大丈夫なわけないだろ!」
「大丈夫?情緒」
「駄目かも……」
枕に顔を埋めた陽に、初は早く寝ちゃいなよと笑う。そうだ。明日は定期公演会本番で、初めてのライブだ。寝不足になど陥っている場合では無い。惺は本調子ではないから、それをカバーするくらいはしたかった。
「寝る」
「そうしな」
おやすみ、と短く言葉を交わして、陽は目を閉じる。数秒後には、すっかりその意識は眠りの底に落ちていた。
*
「、」
ふと、初は目を開けた。横の布団から陽の穏やかな寝息が聞こえる。天井はまだ薄暗く、陽を起こさないようにと布団に潜り込んで携帯を点けると、液晶は午前三時数分前を表示した。
最近夜中に目を覚ますことが多くなってきたように思う。検索するとストレスとしか出て来ないため、もうそれについて調べるのは止めてしまった。
外からは虫の鳴き声が聞こえてくる。この時間では、鳥も寝ているのだ。
初はそっと起き上がって、布団から出る。一度こうなってしまうと、水でも飲まなければ眠れない。出来るだけ音を立てないように歩いて、そっと部屋の扉を開けた。階段の電気は点けないまま、一段一段静かに下りていく。ふと、一階の和室の障子から、薄明かりが見えた。ぼやぼやとオレンジ色に光るそれは時折大きく揺らめいていて、蝋燭の火なのだなと理解する。
それの中に、長い髪の影が見えた。一瞬硬直した初だったが、髪を下ろした織だろうと胸に手を当てて自分を落ち着かせた。
恐怖の感情が消えるのと同時に、こんな時間に何を、と言う疑問が浮き出てくる。和室に用があるなら電気を点ければ良いのだ。わざわざ蝋燭を灯す意味が分からなかった。無意識に爪先から浸すように階段を下りている自分に気がついて、初は一人苦笑した。相手は部活の先輩で、生きた人間だ。だから、恐れる必要は全く無い。最近妙な話ばかり聞くから、過敏になっているのだろうと思った。幼い頃から柔道や空手などをそこそこの年数続けていたが、まだまだだなと自分に対して喝を入れた。
障子戸が、若干開いている。中を覗くのには申し分無さそうな隙間だ。初は足音を殺して階段を下り切ると、そっと障子戸に歩み寄る。仏間であるから、掃除でもしているに違いないと思った。片目を閉じてその隙間を覗き込んで、そして
ああ、見なければ良かった、と、後悔した。
織が仏壇の前に正座をして、金と黒の装飾が施された板のようなもの、恐らく位牌だろう──それに、何かの紙を釘で打ち付けているのが見えた。織が金槌を振り下ろすたびに、とん、かん、とん、かん、と言う乾いた音が響く。織の髪は解かれてだらりと垂れて、その隙間から見える横顔は、凡そ普段の彼とはかけ離れていた。目一杯見開かれた目が、その紙を凝視している。その薄く開かれた口元は、何かをぶつぶつと呟いていた。
──死ね、死ね、死ね、お前がいるから、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね──。
もう、見ていられなかった。
初はそっと障子戸から離れると、少しも音を立てないように階段を駆け上がった。あの織に存在を感知されれば、無事でいられる保証が無い。本能的な恐怖が、頭の天辺から足の先までを覆っていた。
部屋に飛び込んで布団に潜り込むと、震えながら目を閉じた。これは夢だ、これは夢だと繰り返し頭の中で唱える。布団から足の先を出すのも怖くて、目一杯身を縮こめた。
そうしていつの間にか、初は気絶するように眠りに落ちていた。
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