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一部
序(二)
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田舎だからか車が殆ど通らない道を、菖蒲ヶ崎高校に向かって歩く。学校から通学路として推奨されているのは駅を出て真っ直ぐの大きな通りだが、殆どの生徒はすぐ左に逸れて、車一台がやっと通れるような狭い路地へ入っていった。聞けば、そうした方が僅かに近いのだと言う。大通りを使うと回り道になるために学校まで十分程度かかってしまうが、脇道だと七分程で着く。陽は当初、三分ごときでと思っていたが、実際に通ってみるとその近さが魅力的に感じた。入学からおよそ二週間経った今は、陽と初も他の大多数の生徒と同じように、この脇道を使っている。
数人の生徒は、大通りに向かって歩いていった。真面目な性分だと、学校から言われたことをそのまま守ってしまうのだろうかと思う。別に遅刻寸前などでなければ、三分程度は誤差の範囲だろう。どちらを使っても良い。要するに好みの問題だ。
脇道に入って少しすると、右手に木造の小さな平屋建てが見える。随分古い家のようで、郵便受けは元の色が分からないほど錆び付いていた。雑草が好き放題に伸びて、灰色のブロック塀には所々蔦が這っている。駅近辺にある民家は、この家だけだ。
その家の玄関口から、性別のはっきりしない、車椅子の痩せた老人が引き戸を開けて、歩く生徒をじっと見詰めている。見詰めていると言うよりは、睨んでいる。噂には聞いていたが、実際に目にするのは初めてだ。
老人は、落ち窪んで白く濁った両目を目一杯見開いていた。土気色の顔に数え切れない程の黒子とシミが散らばって、右の小鼻のところにある一際大きな赤茶色の疣が目を引いた。草臥れて黄ばんだ白い長袖のシャツに、茶色い半纏を羽織って、目の前を歩く生徒の一人一人を睨め付けて、ぶつぶつと何事かを呟いている。
毎日こうしているわけではない。頻度は完全に不定期で、三ヶ月現れない時もあれば、一週間続けて出て来る時もあると言う。精神を病んでいるか、認知症を患っているのでは無いか、と言う話だ。
大通りの方を通る生徒の中には、この老人に怯えて脇道を使わない者もいるらしい。危害を加えて来るわけでは無いようだが、確かに不気味だ。
他の生徒は、その老人の前を通る時だけ顔を伏せて、早足になっている。陽と初のすぐ前を歩いていた生徒など、そこだけ小走りに駆け抜けていた。目を合わせてはいけないと言うのは、共通認識であるようだ。
その家の前に差し掛かる直前、初は陽の左腕を引いて、自分と陽の場所を入れ替えた。その行動の意図が分からず、陽は初を見上げる。そうしたことで初が老人の側を歩く形になったが、陽にはその老人が何を呟いているのか、はっきりと聞こえた。
「南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏」
全身がわっと粟立って、頭から氷水をかけられたような感覚に身震いする。他の生徒がこの老人の近くを歩かない理由が分かった気がした。早くその視界から外れたくて、自然と早足になる。
その家から続いていたブロック塀が切れて道の終わりに差し掛かった頃、陽と初はその場に立ち止まり、深い溜息を吐いた。
「初」
「うん」
「聞こえた?今の」
「ばっちり聞こえたよ……」
通学途中の高校生に対して挨拶しこそすれ、念仏を唱えると言うのは倫理的に逸脱した行為ではないだろうか。何もしてこないとは言え、流石に気味が悪すぎる。暫く考え込んだ初が、通学鞄を持ち直しながら陽を呼んだ。
「提案なんだけど」
「多分俺も同じこと考えてる」
「うん、だろうと思った」
明日から、通学には大通りを使うことで一致した。気にならない生徒は本当に気にならないのかもしれないが、呆けた老人の譫で片付けたとしても、毎朝念仏を聞かされ続けるのは御免だ。いつまでああしているのか気になったが、老人がまだこちらを見ていそうで、振り返ることは出来なかった。
脇道を抜けて左に曲がると、誰も住んでいない数軒の木造民家が雑草と木に埋もれている。隙間から見える家はすっかり朽ちて、いかにもな廃墟だ。
その先に菖蒲ヶ崎高校の校門が、校舎の裏手には小さな山が見える。知濃山、と呼ばれているその山に背を向ける形で、コの字型の校舎が鎮座していた。白い外壁は所々罅割れ剥がれ落ちて、内部のコンクリートが露出している。外見は古く見えるが、中はそこそこ綺麗だ。元々そこにあった小学校の校舎を再利用したもので、高校にするにあたって内部だけをリフォームしたのだと、学校のホームページには書かれていた。それでも、全くの新築と比べると、やはり古びて見えるに違いない。新しいのは私立菖蒲ヶ崎高校と彫られた銘板と、昇降口に取り付けられた校章の石板だけだ。駅と同じだな、と陽は思う。
校門前には生徒指導教員である増田がジャージ姿で立っている。野球部と柔道部の顧問をしているらしく、背はそこまで高くないが、体格が良い。ワックスで撫でつけたらしい若干薄くなった髪が、太陽光に反射して光っている。
「そう言えばさあ」
増田を見た初が、何かを思い出したように口を開いた。
「陽は決まった?部活」
「部活?」
初が言うには、菖蒲ヶ崎高校の一年生は必ず何かしらの部活動に所属しなければならないようだ。四月末までに部活動に入らなければ、生徒指導の増田と担任に呼び出されてしまう。そうなってしまうと、どこに入るか決めるまで家に帰して貰えない。
「何それ、噂?」
「いや何かほんとの話らしいよ」
「へえ、幽霊よりこえーじゃん」
部活のことはオリエンテーションの時に説明されたでしょ、と言う初の言葉に、数秒間首を捻る。実の所、陽はオリエンテーションの内容を殆ど覚えていなかった。
それは入学の翌日に実施されたが、その前日──入学式を終えた晩、新発売のゲームに熱中し過ぎて二時間弱しか眠れていなかったのだ。結果として昼間は強烈な眠気と戦い続ける羽目になり、校長の話も校舎の案内も、何も頭に入ってこなかった。立って歩くことで精一杯で、初には大層呆れられたし、最終的には彼の手によって保健室に連れて行かれて、その日は終わってしまった。
「その話してた時さ、俺いた?」
「いたよ。半分どっか行ってたけど」
呆れながら小さく笑った初も、自分の部活については決めかねているようだった。初が部活に入ったという話は聞いたことがないし、もし陽の知らないところでどこかに入部していたのだとしたら、もっと早くに耳に入っているはずだ。その旨を尋ねると、初からは予想通りの返答が帰って来る。
「僕もまだ決めてない」
「でしょうね」
「運動はもう良いかなって感じだし……」
「何か無いかなあ。どうせならさあ、青春っぽいのが良くね?」
増田に挨拶とともに軽く会釈をして、校門を抜ける。一年生の昇降口と二、三年生の昇降口は別々になっていて、前者は向かって左側、後者は右側だ。生徒たちは各々の学年の昇降口へ向かっていく。
ふと、陽は上級生の昇降口に目を向けた。鼠色の下駄箱が壁に沿うようにして三つと、それに囲われるように二つずつを背中合わせにして縦に三列並んでいる。記憶では、壁についている方が二年生、縦に並んでいる方が三年生のものだっただろうか。
視線を動かすうち、三年生の下駄箱のところに晴を見つけた。
「兄ちゃん?」
「え」
初の疑問符を聞かずに、陽は走り出していた。教科書類が詰まったリュックが重く、思うような速度で走れないのがもどかしい。どこに行っていたのか、何故何も言わずにいなくなったのか、今まで何をしていたのか。聞きたいことは山程ある。上級生たちの間を走り抜けて、兄の右腕を掴んだ。
「兄ちゃん!今までどこ、に、あれ?」
「あ……?」
聞き覚えの無い声が降ってくる。見上げた先にいたのは、兄では無かった。男にしては長い、顎先ほどで雑に切られた黒髪。伸びた前髪とその奥の虚ろな目が、陰鬱そうな雰囲気に拍車をかけている。掴んだ腕は陽の指が一周してしまうほど細く、ブレザーの袖から覗く生白い手指は関節の形が浮いて見えていた。
「陽!」
追い掛けてきた初の声で我に返る。すいません、と蚊の鳴くような声で呟いて、掴んでいた華奢な腕を離した。ネクタイの色からして、三年生だろう。右の頬には真四角の白い絆創膏が貼られている。初より背が高く見えるその上級生は陽の謝罪に首を横に振った後、前髪の奥で目を細めて首を傾げ、どうしたの、と微笑んだ。その優しげな響きに安心したものの、どう言ったものか一瞬思案する。
行方不明になった兄と間違えたとは、口が裂けても言えない。
「み、道に迷って」
「うっそでしょ」
あまりにも稚拙な陽の言い訳を聞いて小さく声を漏らした初を、肘で弱く小突いた。陽自身も流石に無理矢理すぎるかと思ったが、急に掴みかかったことを誤魔化すには、これしか無いように思えたのだ。
その上級生はゆっくりと右を指差して、穏やかな声音でこう言った。
「そう、……一年の昇降口は、あっち」
「ああ!そうだったんですね!すいません、ありがとうございました!先輩!」
大袈裟なほど頭を下げた後、陽と初は小走りで二、三年生の昇降口から出た。擦れ違う上級生の視線が痛い。職員玄関を横切って、一気に一年生の昇降口まで走った。クラスごとに下駄箱が分けられて、縦に三列並んでいる。ひと学年だけだからか、若干スペースにゆとりがあるように感じられた。
三角に折られた紙にA組、B組、C組と書かれてラミネートされたものが、それぞれの下駄箱の上に置かれている。陽と初はB組であるから、真ん中の下駄箱だ。自分の場所を探すのには、まだ少し手間取ってしまう。内履きのサンダルを履いて、靴を下駄箱の下の段に入れた。数名のクラスメイトと擦れ違って、軽く挨拶を交わす。
菖蒲ヶ崎高校は、三年間クラス替えを行わない。つまり、一年生の時のクラスが卒業するまで続くのだ。初と離れなくて本当に良かったと、陽は毎朝のように思っている。
一年生の教室は昇降口の反対側にあるため、事務室と職員室の前を通らなければならない。職員玄関と事務室の前に置かれた鍵付きの上等そうな硝子棚には、設立当時の集合写真や賞状、トロフィーが飾られていた。職員室前の廊下には、姿見がひとつ置かれている。それには可愛らしい花柄の布が被せられていて、誰かが使っている様子は無い。擦れ違う教師に挨拶をしながら教室に向かう。
歩きながら、初が先程のことを尋ねてきた。
「さっき、どうしたの?」
「何かあの人、兄ちゃんに似てる気がしてさあ」
「そう?晴さんってあんな感じだったっけ?」
「いや?全然」
初が言ったように、あの上級生と晴は全く似ていない。陽の母の家系は皆色素が薄く、晴も類に漏れず若干茶色がかった髪色をしていた。癖毛でもあったのだが、確か高校二年生の時に縮毛矯正をかけている。どう考えても似ていないのに何故見間違えてしまったのか、陽自身にも分からない。雰囲気が似ていたのだと、無理矢理自分を納得させた。
それよりも、気になることがある。
「初さあ、見た?」
「何?」
「あの先輩の下駄箱の中」
「見えなかったよ、角度的に」
「俺見ちゃったんだけどさあ」
腕を掴んだ時、あの上級生はちょうど自分の背丈ほどの高さにある下駄箱を開けていた。陽が彼の顔を見た時に同時に目に入ったのは、小さな下駄箱の中に詰め込まれた紙屑や木の枝などのゴミと、黒いペンで大量に書かれた罵詈雑言の数々。幼稚園児が書いたのかと思うほど汚い字だったが、そこにある悪意は本物のように感じられた。
話を聞いていた初の顔が、みるみるうちに曇っていく。
「……それ、本当の話なの」
「ほんとだって、絶対見間違いとかじゃ無かったよ」
一瞬二人の間に沈黙が下りる。どこの学校にもそういうことはあるものだと分かってはいたし、通っていた中学校でも似たような話を聞かなかったわけではないけれど、実際に目の当たりにするのはこれが初めてだった。あの名前も知らない三年生の疲れたような笑顔を思い出して、陽は少し俯く。初はそんな陽の肩を子供をあやすように叩いて、その顔を覗き込んだ。
「ちょっと疲れちゃったね、朝から」
「ほんとそれ、走ったからさあ、あっついよ」
言いながら、陽がB組の引き戸を開ける。その振動に合わせて、ドア上にぶら下がった真新しいプレートが小さく揺れた。このクラスは三十五人が在籍していて、この時間になればもう殆どのクラスメイトが登校してきている。初は入り口から三列目の先頭、陽は一番窓際の後ろから二番目の自分の席へ向かった。最初の席順は五十音の並びだったのだが、担任の判断で早々に席替えが実施されたのだ。
「おはよ、遅いじゃん御子柴」
陽のすぐ前の席に座って携帯を弄っていた前川颯紀が振り返って、陽を見上げた。逆立った短髪の前川はがたがたと音を立てながら椅子を陽の机に向け、手元の紙パックの紅茶に刺さったストローを咥える。
陽はリュックを机に下ろして、後ろの席に突っ伏して微動だにしない最上悠を指差した。
「はよ、……何してんの?最上」
「昨日夜遅くまで台本読みしてたんだって、演劇部の」
「あー、そういうことね」
前川が携帯のカメラを向けてくるので、陽は最上の机に寄りかかって前川の方にピースサインを向けた。最上は熟睡しているようで、肩が大きく上下している。いつまで経っても聞こえないシャッター音に陽が違和感を覚えたと同時に、前川が堪えきれないと言った様子で笑い出した。
「動画なんですけど」
「動画かよ!」
「後で送っとくな」
「いらねえ……」
リュックから教科書とノートを取り出して、机の中に捩じ込んだ。先程から結構な音量で話しているのに、最上は全く起きる気配が無い。それを陽の机越しに眺めていた前川が、片肘をついてしみじみと口を開いた。
「演劇部って意外と過酷なんだなあ、夏頃にでっかい大会があって、近いうちにそれの主役オーディションやんだって」
「マジ?大会とかあんの?」
「な、俺も知らんかったわ」
菖蒲ヶ崎高校は活発な部活動が多く、それだけ実績もある。その結果があの硝子棚の中身なのだろう。特にバスケ部、野球部、柔道部、吹奏楽部は全国レベルの実力らしく、その分部員の数も多い。とは言え部員数が多くとも、大会など公の場に出られる人数は限られている。そんなわけだから生存競争も苛烈なのだと、前川は半ば愚痴のように言った。入部したばかりの一年生は雑用や基礎トレーニングばかりで、実戦どころか先輩の使い走りになってしまう人間もいるらしい。それを踏み台にして成長できるような人材ならまだしも、そうでない場合はどうなってしまうのか、考えたくもない。
「前川は?何部だっけ」
「バスケ部だけど、もう毎日延々走り込みよ」
運動部は完全下校の時間が来るまで、下手をすればそれを過ぎても、トレーニングや練習試合が続く場合があると言う。本気でやるのならそれでも良いのだろうと思うが、陽はどうしてもそれに馴染める気がしなかった。そもそも陽の身長では、入れる運動部は限られている。
前川の話では、殆どの一年生が部活動への加入を済ませているらしい。やはり初が言っていた呼び出されると言う話は本当だったようで、それを避けるために適当な部活へ入る者も少なくないようだ。
そこまで話したところで教室の戸が開いて、担任の渡利と言う女性教師が入ってきた。暗めの茶髪を後ろで一つに纏めている。四十代で、娘が二人いるのだと最初に言っていた。彼女の入室と同時に、散らばっていた生徒がぞろぞろと席に戻り出す。前川も椅子を正面に向け直した。陽が未だ後ろで熟睡している最上を揺すると、大きな欠伸とともに彼が顔を上げた。腕を真上に上げて大きく伸びをしている。HR始まるぞ、と陽が小声で言うと、最上はまだ眠そうな顔でゆるゆると頷いて、ありがと、と笑った。
教壇の前の渡利は良く通る声で今日の予定を話した後、再び手元のクリップボードを見た。
「入部届の提出期限がもうすぐだから、まだの人は早く決めてね。入部届は各部の部長に渡して貰って大丈夫です」
彼女の話がひと段落した時、今日の日直の生徒が、起立、礼、と一連のお決まりな号令を投げかける。それに皆一様に従ったと同時に、古びたスピーカーから始業のチャイムが響いた。
*
数学、美術、古典と続いて、四限目の現代文。温厚そうな白髪混じりの背が低い男性教師が、黒板を指示棒で突いている。朗々とした喋り、妙にリズミカルなかんかん、かんかん、と言う音が眠気を誘った。この教師の授業は眠くなると評判で、現に数人の生徒が船を漕ぎ始めている。
陽は机に左の肘をついて、教師に言われるまま赤いボールペンで教科書に波線を引いた。窓がすぐ横にあるから、ぽかぽかとして暖かい。グラウンドではどこかのクラスが体育の授業をしていた。
今朝見た夢のことを思い出す。
森の中で首を吊っている晴、それが言ったごめんな、と言う言葉を反芻する。眼球が溶け落ちてしまったような眼窩の赤黒さを、そこから這い出てくる蛆虫が跳ねる様を鮮明に思い出して、気分が悪くなる。それを誤魔化すように天井を向いて、周りに悟られないように大きく深呼吸した。久し振りに見た兄の顔があれだとは、どうしても認めたくない。晴を心配する気持ちが、あんな夢を見せたのだろうか。
だとしたら、あまりにもちぐはぐだ。
「御子柴ー!」
「はいっ!?」
教師に突然名前を叫ばれて、反射的に立ち上がる。陽の前の生徒たちは、皆一様にこちらを見ていた。考え事をしている間に、教科書の音読をするようにと当てられたらしい。前川が笑いながら振り返って、小声で四十五ページの三行目、と言う。そこから読めと言うことらしい。それに軽く礼を言って、陽は教科書を持ち、次の読点までを読み上げた。
一頻り読んで席についた時、不意に初と目が合う。彼が唇の動きだけで大丈夫?と言ったので、それに笑って頷きながら、手を振って見せた。
結局四限の終わりのチャイムが鳴るまで、陽はずっと夢のことを考えていた。
四限が終わると四十五分間の昼休みになる。最上は演劇部の打ち合わせがあると言って、授業が終わると同時に小走りで教室を出て行った。他のクラスメイトも、その場で持ち込みの昼食を広げるか、あるいは教室を出ていく。初が数個の菓子パンと何かのプリントを持って、陽の机に置いた。それを見た前川が、初に声を掛ける。
「香西、俺のとこ使っていいよ」
「え、前川くんここで食べるんじゃないの?」
「俺バスケ部の昼練あるからさあ、体育館で食うんだわ」
「へえ、じゃあお言葉に甘えようかな」
「どうぞどうぞ」
一連の会話の後、前川はコンビニの袋を持って体育館へ向かった。それを見送った初が、パンの袋を開けながら言う。
「昼練あるんだ、真面目だね」
「なー」
それに短く返事をして、陽は右横のフックに引っ掛けていたリュックを開ける。弁当箱が入った巾着袋を取り出して、両方の人差し指でそれを開けた。保冷剤とともに二段の弁当箱と、青色の箸が入っている。何かのキャラクターがプリントされていた気がするが、その絵柄はすっかり褪せてしまっていた。弁当箱を開けて、その中身のブロッコリーを口の中に放り込む。
「初のさあ、それ、何パン?」
「うん?ふふ、見て!」
陽の言葉に、初が自慢げに食べかけのパンの袋を広げた。全体的にパステルピンクで統一されていて、デフォルメされた苺が四隅にプリントされている。中央に大きく丸いフォントで書かれた文字を、陽はそのまま読み上げた。
「ふわふわ!いちごホイップメロンパン……」
「良いでしょう!昨日コンビニで見つけたんだけど、新商品かなあ」
「ほんと好きだよなあ、そういうの」
「ん、これ当たりかも」
そこまで言ったところで、初が何かを思い出したようにあっと声を上げた。部活の一覧だと言いながら、陽に手元のプリントを差し出してくる。それを受け取って、卵焼きを頬張りながら視線を落とした。
「こんなの貰ったっけ?」
「オリエンテーションの時に貰ったファイルに入ってたでしょ。僕は家に置いてきちゃったからさあ、村井さんに貰ったの」
「へえ、村井ももう部活決めたんだ」
「バレー部だって」
村井静香は、このクラスの副委員長を務めている、活発そうなショートカットの女子生徒だ。二年の先輩と付き合っているらしく、今も友人たちと惚気話に興じている。陽は村井の席をちらりと見遣った後、再びプリントを眺めた。
それには、上から野球部、男女のバスケ部、柔道部など、二十ほどの部活動が羅列されていた。左は運動部、右は文化部と分けられていて、それぞれの部名の横に部長らしき生徒の名前と、活動場所が記されている。
上から一つ一つ文字を追っていく。すると、文化部の一番下に、軽音部、と言う記載を見つけた。それを指差して、陽は目を輝かせる。
「軽音部じゃん!」
陽は三年程前、晴の影響でギターを弾き始めた。彼が最初に買った赤いレスポールを譲って貰ったのだ。毎日弾かないと指が動かなくなる、と言う晴の教え通り、ギターを触らない日は無い。それは今でもそうだった。
「初、ドラムまだ叩ける?」
「え?うん、多分いけると思うけど……ゲーム上がりで大丈夫なのかな」
陽と初でゲームセンターに行くと、初は必ずドラムをメインにしたリズムゲームをプレイする。筐体がドラムセットを模しているため、殆ど本物の電子ドラムと変わらないようだ。物は試しと、豊永駅の近隣にあるバンドマンが使うようなスタジオに入ってみたことがあったが、初はゲームと実物の違いに戸惑いつつも、しっかり叩けていたように思う。根本的に要領が良いのだ。
「平気だって、本物叩いたこともあんだろ……第二視聴覚室?」
「あれでしょ?三階の奥の」
「詳しいなお前」
「案内して貰ったじゃん、殆ど使われてないって言ってた気がするけど……でもまあ、放課後行ってみる?」
初の言葉に陽が大きく頷く。入部届書いちゃわないとね、と言いながら立ち上がった初が、自らの机の中からもう一枚のプリントとボールペンを手に戻ってきた。それを見た陽も机の中を漁る。すると、教科書類に挟まれるようにして、入部届、と書かれた紙が出てきた。
「珍しい、持ってたんだ」
「教科書の間に挟まってたんだよ」
「自慢するとこ?」
名前と日付、軽音部、と書き終わったところで、予鈴が鳴った。後五分で午後の授業が始まる。五限目は確か世界史だった。各所に散らばっていたクラスメイトたちが、ぞろぞろと戻ってき始めた。慌てて端に寄せていた空の弁当箱を片付けながら、陽はふと浮かんだ疑問を初に投げかける。
「初は良いのかよ、軽音部で」
「陽が誘った癖に」
「そうだけど」
「良いよ。文化部らしい文化部より、そっちの方が文句も言われなそうだしね」
いつもと変わらない笑みを浮かべた初は、戻ってきた前川にありがとうと告げると、プリント類とパンの空袋を持って自分の席へ戻って行った。
*
六限終了の後すぐ入ってきた渡利によって、帰りのHRが行われている。簡潔に明日の予定を述べた後、帰り道に気を付けてねと笑って、日直に帰りの挨拶をするよう促した。さようなら、と言う日直に続くように、疎らな挨拶が散らばる。一目散に教室を出て行く最上と前川を見送って、陽は入部届を持ったままリュックを背負って初の元へ駆け寄った。彼も同じように、入部届を持っている。通学鞄を肩にかけた初は近くの席の生徒に愛想良くまた明日、と言うと、陽の方に向き直った。
「行こっか」
教室を出て、一年の昇降口の近くの階段──西側階段へ向かう。陽は昼休みに見た部活一覧を眺めて、部長の名前に目を留めた。
「これ部長だろ?和泉って言うんだ」
「怖い人じゃないと良いね」
「でもさあ、今まで学校でバンドっぽい音聞こえたことあったか?」
「吹奏楽とか合唱部とか、演劇部は賑やかだけどね……部活紹介にも出てなかったと思うし、本当に活動してるのかな?」
「活動してなかったらここに書いてないだろ」
「それもそうだね」
話しながら、三階へ到着する。左手には図書室、右手には長い廊下が走り、理科室、理科準備室などが並んでいる。いずれにも人の気配は無く、しんと静まり返っていた。窓は知濃山の緑で覆われている。もう春になってしばらく経つと言うのに、うっすら肌寒さすら覚えた。
遠くから、生徒たちのはしゃぐ声が聞こえる。
第二視聴覚室は、本当に三階の一番奥にあった。窓が数歩手前で途切れているせいでそこだけ薄暗く、レバーノブ式の扉が酷く重そうに見えた。視聴覚室、映像を見る部屋なのだから、ドアも分厚いのだろうか。
「ここ?」
「そう、ほら」
初が指差した先を見ると、ドアの真上の白いプレートに「第二視聴覚室」と掠れた文字が書かれていた。
ドアノブに触れると、ひやりと冷たい。陽は一度深呼吸をすると、思い切りドアノブを下げて、手前に引いた。鍵でも掛かっていたらと心配したが、すんなりと扉は開いた。陽と初は恐る恐る中を覗き込む。
「失礼しまーす……」
「失礼します……」
第二視聴覚室の中はがらんと広く、入り口から数歩は色褪せたフローリングだ。そこから段差を下りた床には小豆色を水で薄めたような色味のタイルカーペットが敷かれ、教室にあるような机とパイプ椅子が数個、雑に置かれている。壁は音楽室のような有孔ボードで覆われていて、両サイドの窓から外が見える。真っ黒なカーテンは開け放たれていた。奥にはホワイトボードが置かれ、その真横に物置のような部屋の入り口があった。
誰もいないのかと思いかけた、その時だった。
「誰?」
すぐ右側からいきなり声を掛けられて、陽は飛び上がるほど驚いた。見るとそこには初と同じくらいの背丈の男子生徒が腕を組んで、壁に寄りかかるようにして立っている。大雑把に纏めた髪をこれまた大雑把にお団子にしたものが、左側の襟足から覗いている。右横の髪は肩を少し過ぎたところまで垂らされていて、前髪は大きなヘアピンで流れるようにして留められていた。声の低さと制服のことがなければ、女と見間違っていたかもしれない。ネクタイはしておらず、着崩された水色のシャツからは黒いインナーが見えた。
「ここって軽音部の部室で合ってますか?」
「軽音?……あー、そうだけど」
初とその男子生徒が会話している間、陽はふと彼の足元を見た。自分たちと同じ色のサンダルを履いている。一年生と言うことだろうか?それにしては偉そうだな、と思いつつも、陽は口を開く。
「和泉先輩は」
「何?惺の友達?一年が?」
お前も一年だろと思った陽が言い返す前に、男子生徒は奥の部屋に向かって呼びかけた。
「惺!制服もう乾いた?」
「うん、ありがとうオリ先輩、助かった……あれ?」
惺、と呼ばれた人物が奥から出てくる。今はジャケットを着ておらず、薄手のグレーのカーディガンだ。今朝陽が晴と見間違えて掴み掛かった、あの上級生だった。彼が軽音部の部長、和泉惺らしい。
右頬の絆創膏は、相変わらず痛々しかった。
彼は今朝よりも幾分明るく微笑んで、今朝の子達だよね、と言う。
「はい!すいませんでした、今朝は」
「ううん、最初は迷っちゃうよね」
兄ちゃんと呼びかけてしまったことについては、触れられなかった。聞こえていなかったのかもしれない。まじまじと見るとやはり似ていない。惺は入り口に立ったままの陽と初に、どうかしたの、と尋ねる。本来の目的を思い出した陽は、すぐ横で自分を見ている先輩と呼ばれた男子生徒の視線を振り切って言った。
「和泉先輩ですか?」
「うん、そうだよ」
「あの、俺たち、軽音部に入部しに来たんですけど」
それを聞いた惺は暫く考え込んだ後、「先輩」に向かって首を傾げて見せた。
「軽音部ってまだ廃部になった訳じゃなかったんです?」
「勝手に殺すなよ」
聞けば、一昨年の三年生が卒業して以降二人になってしまった軽音部は、活動停止状態に陥っているらしい。文化祭にも出ておらず、顧問もいない。故に、生徒からも教師からも忘れ去られたような状態だと言う。それではどうして配られたプリントに軽音部の名前があったのかというと、一昨年部長を更新した時に使われた資料をそのまま流用しているのではないか、と言う話だった。意外と仕事が雑だなあと陽は思うが、口には出さない。
「それじゃあとりあえず、おやつにしようか」
「えっ」
聞こえてきたあまりにも気の抜けた言葉に、陽は思わず素っ頓狂な声を上げてしまう。入部届を渡したら、あとはすぐバンドの話になるものだと思っていた。だが、どうやらそんなことは無いらしい。尤も、陽も楽器を持ってきているわけでは無いから、すぐに演奏、と言うわけにはいかないのだが。
惺は陽と初を手招きしながら、散らばった机をくっつけ始めた。
「二人とも、お腹空いてない?昨日まとめ買いしたいちごシュークリームがあるんだけど、五個くらい」
「いただきます!」
「返事早!」
「うん、元気で良いね」
いちごシュークリーム、と言う言葉に反応した初に、惺は満足げに頷いた。机とパイプ椅子を二つずつ向かい合わせに整えると、彼は奥の部屋に引っ込んで行ってしまった。長髪の男子生徒はずっと壁に寄りかかったまま一連の会話を見ていたが、一つ息を吐いて段差を下りて、向かい合わせになった机の、向かって右奥に座る。
「突っ立ってないで、座ったら」
にこりともせず発せられたその言葉に背中を押されて、陽と初は手前側に並んで腰掛けた。陽が右側、初が左側だ。真向かいで机に肘をついているその男子生徒に、陽は先程からの疑問をぶつけることにする。
「あの、何年生なんですか?」
「三年だけど、何で?」
「サンダルの色が」
ああ、と納得したように自らの足元を見た男子生徒が口を開く前に、惺がシュークリームの乗った皿と数本のペットボトルを抱えて戻ってきた。ピンク色の、可愛らしいチョコレートでコーティングされたシュークリームが乗った皿を机の中央に、その横にペットボトルを置きながら話し出す。
「その人ね、方保田織って言うんだけど、留年してるの。前の三年生なんだよ」
「ま、そんなとこ」
惺がオリ先輩と呼んでいたのは、シキを読み違えたものだったのかと陽は納得する。織は並べられたペットボトルに手を伸ばすと、桃味のサイダーを取った。それを見た惺が小さい子供を咎めるような口調で言う。
「後輩に最初に選ばせてあげなさいよ、先輩でしょ」
「こういうのは早いもん勝ちなの」
初がシュークリームを手に取り、いただきます、と呟く。それにどうぞと返した惺に、陽は入部届を手渡した。それを見た初も思い出したようで、シュークリームをナプキンの上に置いて入部届を差し出した。二枚の入部届を受け取った惺の手元を、織が覗き込む。
「香西初くん?」
「あ、はい」
「甘い物好きなんだ?」
「はい!」
「ふふ、きみは何の楽器やるの?」
「あ、えっと、一応ドラムなんですけど」
「へえ、すごいね、レアじゃん」
「あ、いや、でも」
初は恐る恐る、ゲームから始めたこと、スタジオで本物を叩いた経験はあるが、回数を重ねたわけでは無いことを伝えた。それに細かく相槌を打っていた惺が全然問題ないよ、と言って笑うと、初は安心したように胸を撫で下ろす。初の入部届を捲って、陽のそれに目を通し始めた惺と織の動きが、一瞬止まった。御子柴、と呟いた織と一瞬顔を見合わせて、惺が机の上で手を組む。
「きみ、もしかして晴先輩の」
「あ!兄ちゃんのこと知ってるんですか?」
「知ってるも何も、晴くんは」
織は、晴のことを晴くん、と呼ぶ。
晴は軽音部に所属していたと言う。ギターの腕は部内で一番で、良く後輩の面倒を見ていたらしい。陽は部活のことについては聞いたことが無かったが、バンドを組んだと言う話は知っている。多分それが軽音部のことだったのだろう。
「あの、兄ちゃんがどこ行ったとか、知らないですか?」
部活が一緒なら、何か知っているかもしれないと思った。学校の生徒には警察が話を聞いているとは思ったが、もしかして、と言う希望を持つことくらいは許して欲しかった。
惺は再び織と目を合わせたあと、ゆっくりと首を横に振った。
「ごめんね、おれもオリ先輩も何も知らない」
「いえ、こっちこそすいません、変なこと聞いて」
笑って取り繕いながら、シュークリームを取って口に入れる。口の中いっぱいに広がる甘味に、多少心が落ち着いた気がした。
「あ!いただきます!」
「別に良いのに、……御子柴くんは、何のパート?」
「あ、ギターです!」
「ふうん、そうなんだ。じゃあバンド出来るね」
「え!」
その惺の言葉に、陽は自分の口角が一気に上がるのを感じた。それって、と言いかけると、惺が織を指して言う。
「オリ先輩はベースだし、おれは、まあ、一応キーボードで」
織は幼少の頃から音楽に親しんでいて、ずっとベースを弾いているらしい。惺も小さな頃にピアノを習っていたと言う。それを聞いた陽は欲しい玩具を買って貰った子供のようにはしゃぎ回った。それを見ていた織は、先程までの無愛想さとは打って変わってけらけらと笑う。
「陽くん、そんなにやりたかった?バンド」
「はい!何か青春っぽくて格好良いじゃないですか!」
それを微笑みながら見ていた惺が、ふと何かを思い出したように口を開く。
「それで、お願いがあるんだけど、聞いてくれる?」
「何ですか?」
陽の制服の裾を引いて座らせながら、初が問う。惺は心底楽しそうに口角を上げて、あのねえ、と話し出した。
「二人とも、怖い話は好き?」
数人の生徒は、大通りに向かって歩いていった。真面目な性分だと、学校から言われたことをそのまま守ってしまうのだろうかと思う。別に遅刻寸前などでなければ、三分程度は誤差の範囲だろう。どちらを使っても良い。要するに好みの問題だ。
脇道に入って少しすると、右手に木造の小さな平屋建てが見える。随分古い家のようで、郵便受けは元の色が分からないほど錆び付いていた。雑草が好き放題に伸びて、灰色のブロック塀には所々蔦が這っている。駅近辺にある民家は、この家だけだ。
その家の玄関口から、性別のはっきりしない、車椅子の痩せた老人が引き戸を開けて、歩く生徒をじっと見詰めている。見詰めていると言うよりは、睨んでいる。噂には聞いていたが、実際に目にするのは初めてだ。
老人は、落ち窪んで白く濁った両目を目一杯見開いていた。土気色の顔に数え切れない程の黒子とシミが散らばって、右の小鼻のところにある一際大きな赤茶色の疣が目を引いた。草臥れて黄ばんだ白い長袖のシャツに、茶色い半纏を羽織って、目の前を歩く生徒の一人一人を睨め付けて、ぶつぶつと何事かを呟いている。
毎日こうしているわけではない。頻度は完全に不定期で、三ヶ月現れない時もあれば、一週間続けて出て来る時もあると言う。精神を病んでいるか、認知症を患っているのでは無いか、と言う話だ。
大通りの方を通る生徒の中には、この老人に怯えて脇道を使わない者もいるらしい。危害を加えて来るわけでは無いようだが、確かに不気味だ。
他の生徒は、その老人の前を通る時だけ顔を伏せて、早足になっている。陽と初のすぐ前を歩いていた生徒など、そこだけ小走りに駆け抜けていた。目を合わせてはいけないと言うのは、共通認識であるようだ。
その家の前に差し掛かる直前、初は陽の左腕を引いて、自分と陽の場所を入れ替えた。その行動の意図が分からず、陽は初を見上げる。そうしたことで初が老人の側を歩く形になったが、陽にはその老人が何を呟いているのか、はっきりと聞こえた。
「南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏」
全身がわっと粟立って、頭から氷水をかけられたような感覚に身震いする。他の生徒がこの老人の近くを歩かない理由が分かった気がした。早くその視界から外れたくて、自然と早足になる。
その家から続いていたブロック塀が切れて道の終わりに差し掛かった頃、陽と初はその場に立ち止まり、深い溜息を吐いた。
「初」
「うん」
「聞こえた?今の」
「ばっちり聞こえたよ……」
通学途中の高校生に対して挨拶しこそすれ、念仏を唱えると言うのは倫理的に逸脱した行為ではないだろうか。何もしてこないとは言え、流石に気味が悪すぎる。暫く考え込んだ初が、通学鞄を持ち直しながら陽を呼んだ。
「提案なんだけど」
「多分俺も同じこと考えてる」
「うん、だろうと思った」
明日から、通学には大通りを使うことで一致した。気にならない生徒は本当に気にならないのかもしれないが、呆けた老人の譫で片付けたとしても、毎朝念仏を聞かされ続けるのは御免だ。いつまでああしているのか気になったが、老人がまだこちらを見ていそうで、振り返ることは出来なかった。
脇道を抜けて左に曲がると、誰も住んでいない数軒の木造民家が雑草と木に埋もれている。隙間から見える家はすっかり朽ちて、いかにもな廃墟だ。
その先に菖蒲ヶ崎高校の校門が、校舎の裏手には小さな山が見える。知濃山、と呼ばれているその山に背を向ける形で、コの字型の校舎が鎮座していた。白い外壁は所々罅割れ剥がれ落ちて、内部のコンクリートが露出している。外見は古く見えるが、中はそこそこ綺麗だ。元々そこにあった小学校の校舎を再利用したもので、高校にするにあたって内部だけをリフォームしたのだと、学校のホームページには書かれていた。それでも、全くの新築と比べると、やはり古びて見えるに違いない。新しいのは私立菖蒲ヶ崎高校と彫られた銘板と、昇降口に取り付けられた校章の石板だけだ。駅と同じだな、と陽は思う。
校門前には生徒指導教員である増田がジャージ姿で立っている。野球部と柔道部の顧問をしているらしく、背はそこまで高くないが、体格が良い。ワックスで撫でつけたらしい若干薄くなった髪が、太陽光に反射して光っている。
「そう言えばさあ」
増田を見た初が、何かを思い出したように口を開いた。
「陽は決まった?部活」
「部活?」
初が言うには、菖蒲ヶ崎高校の一年生は必ず何かしらの部活動に所属しなければならないようだ。四月末までに部活動に入らなければ、生徒指導の増田と担任に呼び出されてしまう。そうなってしまうと、どこに入るか決めるまで家に帰して貰えない。
「何それ、噂?」
「いや何かほんとの話らしいよ」
「へえ、幽霊よりこえーじゃん」
部活のことはオリエンテーションの時に説明されたでしょ、と言う初の言葉に、数秒間首を捻る。実の所、陽はオリエンテーションの内容を殆ど覚えていなかった。
それは入学の翌日に実施されたが、その前日──入学式を終えた晩、新発売のゲームに熱中し過ぎて二時間弱しか眠れていなかったのだ。結果として昼間は強烈な眠気と戦い続ける羽目になり、校長の話も校舎の案内も、何も頭に入ってこなかった。立って歩くことで精一杯で、初には大層呆れられたし、最終的には彼の手によって保健室に連れて行かれて、その日は終わってしまった。
「その話してた時さ、俺いた?」
「いたよ。半分どっか行ってたけど」
呆れながら小さく笑った初も、自分の部活については決めかねているようだった。初が部活に入ったという話は聞いたことがないし、もし陽の知らないところでどこかに入部していたのだとしたら、もっと早くに耳に入っているはずだ。その旨を尋ねると、初からは予想通りの返答が帰って来る。
「僕もまだ決めてない」
「でしょうね」
「運動はもう良いかなって感じだし……」
「何か無いかなあ。どうせならさあ、青春っぽいのが良くね?」
増田に挨拶とともに軽く会釈をして、校門を抜ける。一年生の昇降口と二、三年生の昇降口は別々になっていて、前者は向かって左側、後者は右側だ。生徒たちは各々の学年の昇降口へ向かっていく。
ふと、陽は上級生の昇降口に目を向けた。鼠色の下駄箱が壁に沿うようにして三つと、それに囲われるように二つずつを背中合わせにして縦に三列並んでいる。記憶では、壁についている方が二年生、縦に並んでいる方が三年生のものだっただろうか。
視線を動かすうち、三年生の下駄箱のところに晴を見つけた。
「兄ちゃん?」
「え」
初の疑問符を聞かずに、陽は走り出していた。教科書類が詰まったリュックが重く、思うような速度で走れないのがもどかしい。どこに行っていたのか、何故何も言わずにいなくなったのか、今まで何をしていたのか。聞きたいことは山程ある。上級生たちの間を走り抜けて、兄の右腕を掴んだ。
「兄ちゃん!今までどこ、に、あれ?」
「あ……?」
聞き覚えの無い声が降ってくる。見上げた先にいたのは、兄では無かった。男にしては長い、顎先ほどで雑に切られた黒髪。伸びた前髪とその奥の虚ろな目が、陰鬱そうな雰囲気に拍車をかけている。掴んだ腕は陽の指が一周してしまうほど細く、ブレザーの袖から覗く生白い手指は関節の形が浮いて見えていた。
「陽!」
追い掛けてきた初の声で我に返る。すいません、と蚊の鳴くような声で呟いて、掴んでいた華奢な腕を離した。ネクタイの色からして、三年生だろう。右の頬には真四角の白い絆創膏が貼られている。初より背が高く見えるその上級生は陽の謝罪に首を横に振った後、前髪の奥で目を細めて首を傾げ、どうしたの、と微笑んだ。その優しげな響きに安心したものの、どう言ったものか一瞬思案する。
行方不明になった兄と間違えたとは、口が裂けても言えない。
「み、道に迷って」
「うっそでしょ」
あまりにも稚拙な陽の言い訳を聞いて小さく声を漏らした初を、肘で弱く小突いた。陽自身も流石に無理矢理すぎるかと思ったが、急に掴みかかったことを誤魔化すには、これしか無いように思えたのだ。
その上級生はゆっくりと右を指差して、穏やかな声音でこう言った。
「そう、……一年の昇降口は、あっち」
「ああ!そうだったんですね!すいません、ありがとうございました!先輩!」
大袈裟なほど頭を下げた後、陽と初は小走りで二、三年生の昇降口から出た。擦れ違う上級生の視線が痛い。職員玄関を横切って、一気に一年生の昇降口まで走った。クラスごとに下駄箱が分けられて、縦に三列並んでいる。ひと学年だけだからか、若干スペースにゆとりがあるように感じられた。
三角に折られた紙にA組、B組、C組と書かれてラミネートされたものが、それぞれの下駄箱の上に置かれている。陽と初はB組であるから、真ん中の下駄箱だ。自分の場所を探すのには、まだ少し手間取ってしまう。内履きのサンダルを履いて、靴を下駄箱の下の段に入れた。数名のクラスメイトと擦れ違って、軽く挨拶を交わす。
菖蒲ヶ崎高校は、三年間クラス替えを行わない。つまり、一年生の時のクラスが卒業するまで続くのだ。初と離れなくて本当に良かったと、陽は毎朝のように思っている。
一年生の教室は昇降口の反対側にあるため、事務室と職員室の前を通らなければならない。職員玄関と事務室の前に置かれた鍵付きの上等そうな硝子棚には、設立当時の集合写真や賞状、トロフィーが飾られていた。職員室前の廊下には、姿見がひとつ置かれている。それには可愛らしい花柄の布が被せられていて、誰かが使っている様子は無い。擦れ違う教師に挨拶をしながら教室に向かう。
歩きながら、初が先程のことを尋ねてきた。
「さっき、どうしたの?」
「何かあの人、兄ちゃんに似てる気がしてさあ」
「そう?晴さんってあんな感じだったっけ?」
「いや?全然」
初が言ったように、あの上級生と晴は全く似ていない。陽の母の家系は皆色素が薄く、晴も類に漏れず若干茶色がかった髪色をしていた。癖毛でもあったのだが、確か高校二年生の時に縮毛矯正をかけている。どう考えても似ていないのに何故見間違えてしまったのか、陽自身にも分からない。雰囲気が似ていたのだと、無理矢理自分を納得させた。
それよりも、気になることがある。
「初さあ、見た?」
「何?」
「あの先輩の下駄箱の中」
「見えなかったよ、角度的に」
「俺見ちゃったんだけどさあ」
腕を掴んだ時、あの上級生はちょうど自分の背丈ほどの高さにある下駄箱を開けていた。陽が彼の顔を見た時に同時に目に入ったのは、小さな下駄箱の中に詰め込まれた紙屑や木の枝などのゴミと、黒いペンで大量に書かれた罵詈雑言の数々。幼稚園児が書いたのかと思うほど汚い字だったが、そこにある悪意は本物のように感じられた。
話を聞いていた初の顔が、みるみるうちに曇っていく。
「……それ、本当の話なの」
「ほんとだって、絶対見間違いとかじゃ無かったよ」
一瞬二人の間に沈黙が下りる。どこの学校にもそういうことはあるものだと分かってはいたし、通っていた中学校でも似たような話を聞かなかったわけではないけれど、実際に目の当たりにするのはこれが初めてだった。あの名前も知らない三年生の疲れたような笑顔を思い出して、陽は少し俯く。初はそんな陽の肩を子供をあやすように叩いて、その顔を覗き込んだ。
「ちょっと疲れちゃったね、朝から」
「ほんとそれ、走ったからさあ、あっついよ」
言いながら、陽がB組の引き戸を開ける。その振動に合わせて、ドア上にぶら下がった真新しいプレートが小さく揺れた。このクラスは三十五人が在籍していて、この時間になればもう殆どのクラスメイトが登校してきている。初は入り口から三列目の先頭、陽は一番窓際の後ろから二番目の自分の席へ向かった。最初の席順は五十音の並びだったのだが、担任の判断で早々に席替えが実施されたのだ。
「おはよ、遅いじゃん御子柴」
陽のすぐ前の席に座って携帯を弄っていた前川颯紀が振り返って、陽を見上げた。逆立った短髪の前川はがたがたと音を立てながら椅子を陽の机に向け、手元の紙パックの紅茶に刺さったストローを咥える。
陽はリュックを机に下ろして、後ろの席に突っ伏して微動だにしない最上悠を指差した。
「はよ、……何してんの?最上」
「昨日夜遅くまで台本読みしてたんだって、演劇部の」
「あー、そういうことね」
前川が携帯のカメラを向けてくるので、陽は最上の机に寄りかかって前川の方にピースサインを向けた。最上は熟睡しているようで、肩が大きく上下している。いつまで経っても聞こえないシャッター音に陽が違和感を覚えたと同時に、前川が堪えきれないと言った様子で笑い出した。
「動画なんですけど」
「動画かよ!」
「後で送っとくな」
「いらねえ……」
リュックから教科書とノートを取り出して、机の中に捩じ込んだ。先程から結構な音量で話しているのに、最上は全く起きる気配が無い。それを陽の机越しに眺めていた前川が、片肘をついてしみじみと口を開いた。
「演劇部って意外と過酷なんだなあ、夏頃にでっかい大会があって、近いうちにそれの主役オーディションやんだって」
「マジ?大会とかあんの?」
「な、俺も知らんかったわ」
菖蒲ヶ崎高校は活発な部活動が多く、それだけ実績もある。その結果があの硝子棚の中身なのだろう。特にバスケ部、野球部、柔道部、吹奏楽部は全国レベルの実力らしく、その分部員の数も多い。とは言え部員数が多くとも、大会など公の場に出られる人数は限られている。そんなわけだから生存競争も苛烈なのだと、前川は半ば愚痴のように言った。入部したばかりの一年生は雑用や基礎トレーニングばかりで、実戦どころか先輩の使い走りになってしまう人間もいるらしい。それを踏み台にして成長できるような人材ならまだしも、そうでない場合はどうなってしまうのか、考えたくもない。
「前川は?何部だっけ」
「バスケ部だけど、もう毎日延々走り込みよ」
運動部は完全下校の時間が来るまで、下手をすればそれを過ぎても、トレーニングや練習試合が続く場合があると言う。本気でやるのならそれでも良いのだろうと思うが、陽はどうしてもそれに馴染める気がしなかった。そもそも陽の身長では、入れる運動部は限られている。
前川の話では、殆どの一年生が部活動への加入を済ませているらしい。やはり初が言っていた呼び出されると言う話は本当だったようで、それを避けるために適当な部活へ入る者も少なくないようだ。
そこまで話したところで教室の戸が開いて、担任の渡利と言う女性教師が入ってきた。暗めの茶髪を後ろで一つに纏めている。四十代で、娘が二人いるのだと最初に言っていた。彼女の入室と同時に、散らばっていた生徒がぞろぞろと席に戻り出す。前川も椅子を正面に向け直した。陽が未だ後ろで熟睡している最上を揺すると、大きな欠伸とともに彼が顔を上げた。腕を真上に上げて大きく伸びをしている。HR始まるぞ、と陽が小声で言うと、最上はまだ眠そうな顔でゆるゆると頷いて、ありがと、と笑った。
教壇の前の渡利は良く通る声で今日の予定を話した後、再び手元のクリップボードを見た。
「入部届の提出期限がもうすぐだから、まだの人は早く決めてね。入部届は各部の部長に渡して貰って大丈夫です」
彼女の話がひと段落した時、今日の日直の生徒が、起立、礼、と一連のお決まりな号令を投げかける。それに皆一様に従ったと同時に、古びたスピーカーから始業のチャイムが響いた。
*
数学、美術、古典と続いて、四限目の現代文。温厚そうな白髪混じりの背が低い男性教師が、黒板を指示棒で突いている。朗々とした喋り、妙にリズミカルなかんかん、かんかん、と言う音が眠気を誘った。この教師の授業は眠くなると評判で、現に数人の生徒が船を漕ぎ始めている。
陽は机に左の肘をついて、教師に言われるまま赤いボールペンで教科書に波線を引いた。窓がすぐ横にあるから、ぽかぽかとして暖かい。グラウンドではどこかのクラスが体育の授業をしていた。
今朝見た夢のことを思い出す。
森の中で首を吊っている晴、それが言ったごめんな、と言う言葉を反芻する。眼球が溶け落ちてしまったような眼窩の赤黒さを、そこから這い出てくる蛆虫が跳ねる様を鮮明に思い出して、気分が悪くなる。それを誤魔化すように天井を向いて、周りに悟られないように大きく深呼吸した。久し振りに見た兄の顔があれだとは、どうしても認めたくない。晴を心配する気持ちが、あんな夢を見せたのだろうか。
だとしたら、あまりにもちぐはぐだ。
「御子柴ー!」
「はいっ!?」
教師に突然名前を叫ばれて、反射的に立ち上がる。陽の前の生徒たちは、皆一様にこちらを見ていた。考え事をしている間に、教科書の音読をするようにと当てられたらしい。前川が笑いながら振り返って、小声で四十五ページの三行目、と言う。そこから読めと言うことらしい。それに軽く礼を言って、陽は教科書を持ち、次の読点までを読み上げた。
一頻り読んで席についた時、不意に初と目が合う。彼が唇の動きだけで大丈夫?と言ったので、それに笑って頷きながら、手を振って見せた。
結局四限の終わりのチャイムが鳴るまで、陽はずっと夢のことを考えていた。
四限が終わると四十五分間の昼休みになる。最上は演劇部の打ち合わせがあると言って、授業が終わると同時に小走りで教室を出て行った。他のクラスメイトも、その場で持ち込みの昼食を広げるか、あるいは教室を出ていく。初が数個の菓子パンと何かのプリントを持って、陽の机に置いた。それを見た前川が、初に声を掛ける。
「香西、俺のとこ使っていいよ」
「え、前川くんここで食べるんじゃないの?」
「俺バスケ部の昼練あるからさあ、体育館で食うんだわ」
「へえ、じゃあお言葉に甘えようかな」
「どうぞどうぞ」
一連の会話の後、前川はコンビニの袋を持って体育館へ向かった。それを見送った初が、パンの袋を開けながら言う。
「昼練あるんだ、真面目だね」
「なー」
それに短く返事をして、陽は右横のフックに引っ掛けていたリュックを開ける。弁当箱が入った巾着袋を取り出して、両方の人差し指でそれを開けた。保冷剤とともに二段の弁当箱と、青色の箸が入っている。何かのキャラクターがプリントされていた気がするが、その絵柄はすっかり褪せてしまっていた。弁当箱を開けて、その中身のブロッコリーを口の中に放り込む。
「初のさあ、それ、何パン?」
「うん?ふふ、見て!」
陽の言葉に、初が自慢げに食べかけのパンの袋を広げた。全体的にパステルピンクで統一されていて、デフォルメされた苺が四隅にプリントされている。中央に大きく丸いフォントで書かれた文字を、陽はそのまま読み上げた。
「ふわふわ!いちごホイップメロンパン……」
「良いでしょう!昨日コンビニで見つけたんだけど、新商品かなあ」
「ほんと好きだよなあ、そういうの」
「ん、これ当たりかも」
そこまで言ったところで、初が何かを思い出したようにあっと声を上げた。部活の一覧だと言いながら、陽に手元のプリントを差し出してくる。それを受け取って、卵焼きを頬張りながら視線を落とした。
「こんなの貰ったっけ?」
「オリエンテーションの時に貰ったファイルに入ってたでしょ。僕は家に置いてきちゃったからさあ、村井さんに貰ったの」
「へえ、村井ももう部活決めたんだ」
「バレー部だって」
村井静香は、このクラスの副委員長を務めている、活発そうなショートカットの女子生徒だ。二年の先輩と付き合っているらしく、今も友人たちと惚気話に興じている。陽は村井の席をちらりと見遣った後、再びプリントを眺めた。
それには、上から野球部、男女のバスケ部、柔道部など、二十ほどの部活動が羅列されていた。左は運動部、右は文化部と分けられていて、それぞれの部名の横に部長らしき生徒の名前と、活動場所が記されている。
上から一つ一つ文字を追っていく。すると、文化部の一番下に、軽音部、と言う記載を見つけた。それを指差して、陽は目を輝かせる。
「軽音部じゃん!」
陽は三年程前、晴の影響でギターを弾き始めた。彼が最初に買った赤いレスポールを譲って貰ったのだ。毎日弾かないと指が動かなくなる、と言う晴の教え通り、ギターを触らない日は無い。それは今でもそうだった。
「初、ドラムまだ叩ける?」
「え?うん、多分いけると思うけど……ゲーム上がりで大丈夫なのかな」
陽と初でゲームセンターに行くと、初は必ずドラムをメインにしたリズムゲームをプレイする。筐体がドラムセットを模しているため、殆ど本物の電子ドラムと変わらないようだ。物は試しと、豊永駅の近隣にあるバンドマンが使うようなスタジオに入ってみたことがあったが、初はゲームと実物の違いに戸惑いつつも、しっかり叩けていたように思う。根本的に要領が良いのだ。
「平気だって、本物叩いたこともあんだろ……第二視聴覚室?」
「あれでしょ?三階の奥の」
「詳しいなお前」
「案内して貰ったじゃん、殆ど使われてないって言ってた気がするけど……でもまあ、放課後行ってみる?」
初の言葉に陽が大きく頷く。入部届書いちゃわないとね、と言いながら立ち上がった初が、自らの机の中からもう一枚のプリントとボールペンを手に戻ってきた。それを見た陽も机の中を漁る。すると、教科書類に挟まれるようにして、入部届、と書かれた紙が出てきた。
「珍しい、持ってたんだ」
「教科書の間に挟まってたんだよ」
「自慢するとこ?」
名前と日付、軽音部、と書き終わったところで、予鈴が鳴った。後五分で午後の授業が始まる。五限目は確か世界史だった。各所に散らばっていたクラスメイトたちが、ぞろぞろと戻ってき始めた。慌てて端に寄せていた空の弁当箱を片付けながら、陽はふと浮かんだ疑問を初に投げかける。
「初は良いのかよ、軽音部で」
「陽が誘った癖に」
「そうだけど」
「良いよ。文化部らしい文化部より、そっちの方が文句も言われなそうだしね」
いつもと変わらない笑みを浮かべた初は、戻ってきた前川にありがとうと告げると、プリント類とパンの空袋を持って自分の席へ戻って行った。
*
六限終了の後すぐ入ってきた渡利によって、帰りのHRが行われている。簡潔に明日の予定を述べた後、帰り道に気を付けてねと笑って、日直に帰りの挨拶をするよう促した。さようなら、と言う日直に続くように、疎らな挨拶が散らばる。一目散に教室を出て行く最上と前川を見送って、陽は入部届を持ったままリュックを背負って初の元へ駆け寄った。彼も同じように、入部届を持っている。通学鞄を肩にかけた初は近くの席の生徒に愛想良くまた明日、と言うと、陽の方に向き直った。
「行こっか」
教室を出て、一年の昇降口の近くの階段──西側階段へ向かう。陽は昼休みに見た部活一覧を眺めて、部長の名前に目を留めた。
「これ部長だろ?和泉って言うんだ」
「怖い人じゃないと良いね」
「でもさあ、今まで学校でバンドっぽい音聞こえたことあったか?」
「吹奏楽とか合唱部とか、演劇部は賑やかだけどね……部活紹介にも出てなかったと思うし、本当に活動してるのかな?」
「活動してなかったらここに書いてないだろ」
「それもそうだね」
話しながら、三階へ到着する。左手には図書室、右手には長い廊下が走り、理科室、理科準備室などが並んでいる。いずれにも人の気配は無く、しんと静まり返っていた。窓は知濃山の緑で覆われている。もう春になってしばらく経つと言うのに、うっすら肌寒さすら覚えた。
遠くから、生徒たちのはしゃぐ声が聞こえる。
第二視聴覚室は、本当に三階の一番奥にあった。窓が数歩手前で途切れているせいでそこだけ薄暗く、レバーノブ式の扉が酷く重そうに見えた。視聴覚室、映像を見る部屋なのだから、ドアも分厚いのだろうか。
「ここ?」
「そう、ほら」
初が指差した先を見ると、ドアの真上の白いプレートに「第二視聴覚室」と掠れた文字が書かれていた。
ドアノブに触れると、ひやりと冷たい。陽は一度深呼吸をすると、思い切りドアノブを下げて、手前に引いた。鍵でも掛かっていたらと心配したが、すんなりと扉は開いた。陽と初は恐る恐る中を覗き込む。
「失礼しまーす……」
「失礼します……」
第二視聴覚室の中はがらんと広く、入り口から数歩は色褪せたフローリングだ。そこから段差を下りた床には小豆色を水で薄めたような色味のタイルカーペットが敷かれ、教室にあるような机とパイプ椅子が数個、雑に置かれている。壁は音楽室のような有孔ボードで覆われていて、両サイドの窓から外が見える。真っ黒なカーテンは開け放たれていた。奥にはホワイトボードが置かれ、その真横に物置のような部屋の入り口があった。
誰もいないのかと思いかけた、その時だった。
「誰?」
すぐ右側からいきなり声を掛けられて、陽は飛び上がるほど驚いた。見るとそこには初と同じくらいの背丈の男子生徒が腕を組んで、壁に寄りかかるようにして立っている。大雑把に纏めた髪をこれまた大雑把にお団子にしたものが、左側の襟足から覗いている。右横の髪は肩を少し過ぎたところまで垂らされていて、前髪は大きなヘアピンで流れるようにして留められていた。声の低さと制服のことがなければ、女と見間違っていたかもしれない。ネクタイはしておらず、着崩された水色のシャツからは黒いインナーが見えた。
「ここって軽音部の部室で合ってますか?」
「軽音?……あー、そうだけど」
初とその男子生徒が会話している間、陽はふと彼の足元を見た。自分たちと同じ色のサンダルを履いている。一年生と言うことだろうか?それにしては偉そうだな、と思いつつも、陽は口を開く。
「和泉先輩は」
「何?惺の友達?一年が?」
お前も一年だろと思った陽が言い返す前に、男子生徒は奥の部屋に向かって呼びかけた。
「惺!制服もう乾いた?」
「うん、ありがとうオリ先輩、助かった……あれ?」
惺、と呼ばれた人物が奥から出てくる。今はジャケットを着ておらず、薄手のグレーのカーディガンだ。今朝陽が晴と見間違えて掴み掛かった、あの上級生だった。彼が軽音部の部長、和泉惺らしい。
右頬の絆創膏は、相変わらず痛々しかった。
彼は今朝よりも幾分明るく微笑んで、今朝の子達だよね、と言う。
「はい!すいませんでした、今朝は」
「ううん、最初は迷っちゃうよね」
兄ちゃんと呼びかけてしまったことについては、触れられなかった。聞こえていなかったのかもしれない。まじまじと見るとやはり似ていない。惺は入り口に立ったままの陽と初に、どうかしたの、と尋ねる。本来の目的を思い出した陽は、すぐ横で自分を見ている先輩と呼ばれた男子生徒の視線を振り切って言った。
「和泉先輩ですか?」
「うん、そうだよ」
「あの、俺たち、軽音部に入部しに来たんですけど」
それを聞いた惺は暫く考え込んだ後、「先輩」に向かって首を傾げて見せた。
「軽音部ってまだ廃部になった訳じゃなかったんです?」
「勝手に殺すなよ」
聞けば、一昨年の三年生が卒業して以降二人になってしまった軽音部は、活動停止状態に陥っているらしい。文化祭にも出ておらず、顧問もいない。故に、生徒からも教師からも忘れ去られたような状態だと言う。それではどうして配られたプリントに軽音部の名前があったのかというと、一昨年部長を更新した時に使われた資料をそのまま流用しているのではないか、と言う話だった。意外と仕事が雑だなあと陽は思うが、口には出さない。
「それじゃあとりあえず、おやつにしようか」
「えっ」
聞こえてきたあまりにも気の抜けた言葉に、陽は思わず素っ頓狂な声を上げてしまう。入部届を渡したら、あとはすぐバンドの話になるものだと思っていた。だが、どうやらそんなことは無いらしい。尤も、陽も楽器を持ってきているわけでは無いから、すぐに演奏、と言うわけにはいかないのだが。
惺は陽と初を手招きしながら、散らばった机をくっつけ始めた。
「二人とも、お腹空いてない?昨日まとめ買いしたいちごシュークリームがあるんだけど、五個くらい」
「いただきます!」
「返事早!」
「うん、元気で良いね」
いちごシュークリーム、と言う言葉に反応した初に、惺は満足げに頷いた。机とパイプ椅子を二つずつ向かい合わせに整えると、彼は奥の部屋に引っ込んで行ってしまった。長髪の男子生徒はずっと壁に寄りかかったまま一連の会話を見ていたが、一つ息を吐いて段差を下りて、向かい合わせになった机の、向かって右奥に座る。
「突っ立ってないで、座ったら」
にこりともせず発せられたその言葉に背中を押されて、陽と初は手前側に並んで腰掛けた。陽が右側、初が左側だ。真向かいで机に肘をついているその男子生徒に、陽は先程からの疑問をぶつけることにする。
「あの、何年生なんですか?」
「三年だけど、何で?」
「サンダルの色が」
ああ、と納得したように自らの足元を見た男子生徒が口を開く前に、惺がシュークリームの乗った皿と数本のペットボトルを抱えて戻ってきた。ピンク色の、可愛らしいチョコレートでコーティングされたシュークリームが乗った皿を机の中央に、その横にペットボトルを置きながら話し出す。
「その人ね、方保田織って言うんだけど、留年してるの。前の三年生なんだよ」
「ま、そんなとこ」
惺がオリ先輩と呼んでいたのは、シキを読み違えたものだったのかと陽は納得する。織は並べられたペットボトルに手を伸ばすと、桃味のサイダーを取った。それを見た惺が小さい子供を咎めるような口調で言う。
「後輩に最初に選ばせてあげなさいよ、先輩でしょ」
「こういうのは早いもん勝ちなの」
初がシュークリームを手に取り、いただきます、と呟く。それにどうぞと返した惺に、陽は入部届を手渡した。それを見た初も思い出したようで、シュークリームをナプキンの上に置いて入部届を差し出した。二枚の入部届を受け取った惺の手元を、織が覗き込む。
「香西初くん?」
「あ、はい」
「甘い物好きなんだ?」
「はい!」
「ふふ、きみは何の楽器やるの?」
「あ、えっと、一応ドラムなんですけど」
「へえ、すごいね、レアじゃん」
「あ、いや、でも」
初は恐る恐る、ゲームから始めたこと、スタジオで本物を叩いた経験はあるが、回数を重ねたわけでは無いことを伝えた。それに細かく相槌を打っていた惺が全然問題ないよ、と言って笑うと、初は安心したように胸を撫で下ろす。初の入部届を捲って、陽のそれに目を通し始めた惺と織の動きが、一瞬止まった。御子柴、と呟いた織と一瞬顔を見合わせて、惺が机の上で手を組む。
「きみ、もしかして晴先輩の」
「あ!兄ちゃんのこと知ってるんですか?」
「知ってるも何も、晴くんは」
織は、晴のことを晴くん、と呼ぶ。
晴は軽音部に所属していたと言う。ギターの腕は部内で一番で、良く後輩の面倒を見ていたらしい。陽は部活のことについては聞いたことが無かったが、バンドを組んだと言う話は知っている。多分それが軽音部のことだったのだろう。
「あの、兄ちゃんがどこ行ったとか、知らないですか?」
部活が一緒なら、何か知っているかもしれないと思った。学校の生徒には警察が話を聞いているとは思ったが、もしかして、と言う希望を持つことくらいは許して欲しかった。
惺は再び織と目を合わせたあと、ゆっくりと首を横に振った。
「ごめんね、おれもオリ先輩も何も知らない」
「いえ、こっちこそすいません、変なこと聞いて」
笑って取り繕いながら、シュークリームを取って口に入れる。口の中いっぱいに広がる甘味に、多少心が落ち着いた気がした。
「あ!いただきます!」
「別に良いのに、……御子柴くんは、何のパート?」
「あ、ギターです!」
「ふうん、そうなんだ。じゃあバンド出来るね」
「え!」
その惺の言葉に、陽は自分の口角が一気に上がるのを感じた。それって、と言いかけると、惺が織を指して言う。
「オリ先輩はベースだし、おれは、まあ、一応キーボードで」
織は幼少の頃から音楽に親しんでいて、ずっとベースを弾いているらしい。惺も小さな頃にピアノを習っていたと言う。それを聞いた陽は欲しい玩具を買って貰った子供のようにはしゃぎ回った。それを見ていた織は、先程までの無愛想さとは打って変わってけらけらと笑う。
「陽くん、そんなにやりたかった?バンド」
「はい!何か青春っぽくて格好良いじゃないですか!」
それを微笑みながら見ていた惺が、ふと何かを思い出したように口を開く。
「それで、お願いがあるんだけど、聞いてくれる?」
「何ですか?」
陽の制服の裾を引いて座らせながら、初が問う。惺は心底楽しそうに口角を上げて、あのねえ、と話し出した。
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