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初恋
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初恋っていつだったか、覚えてますか?
大体みんな幼稚園とか小学校とか、その辺りですよね。わたしもそのくらいでした。幼稚園の、確か、年長さんくらい。
わたしは幼稚園の頃、昼間だけお母さんの実家に預けられていたんです。両親が共働きでしたからね。大体夜六時か七時頃、仕事を終えた母がわたしを迎えに来て、家に帰る。そういう生活を、ずっと続けていました。
お母さんの実家は、わたしの家から車で大体二十分くらいのところにあります。今はもう整備されてるんですけど、わたしが子供の時は最低限の道路しか通ってなくて、あとはほとんど砂利道で。ぼこぼこした道を走る振動が心地良くて、良く車の中で寝ちゃってました。
そこは、いわゆる、集落って言うんですか?そういう感じの、古い民家が数件建ってる以外は、田んぼと畑しかないようなところで、周りの家はお年寄りしか住んでいませんでした。お祖父ちゃんもお祖母ちゃんも、叔母さんも含めて、そこの人は皆、わたしのことをすごく可愛がってくれました。
お母さんの実家には庭と呼べるようなものが無くて、代わりに大きな車庫が家の前後に建っていました。家の前にあったのはビニールハウスを改造したような簡素な作りだったんですけど、裏に物置と車庫を兼ねた大きな建物があったんです。シャッター付きの。
その建物の前──車の出入りの邪魔にならない場所に、大人の膝より少し高いくらいの、小さな祠が建っていたんです。母が子供の時からあったらしいそれが、わたしは大のお気に入りでした。雨が降れば雨合羽を着て傘を差しに行ったし、時々お供物もして、返事が来ないのは知っていたんですけど、幼稚園であったことを話したりとか。
そんなことをずっと続けていた、ある日のことでした。
その日、お母さんの実家にはお祖父ちゃんしかいなかったんです。お祖母ちゃんは同級会で旅行でしたし、叔母さんも仕事に行っていました。お祖父ちゃんは気難しい昭和のお父さんって感じでしたけど、わたしにはとっても優しかったですよ。
幼稚園から帰ると、わたしはいつものように祠の前でお話をしました。そして家の中に入って、お祖母ちゃんが用意してくれたビスケットを食べていたんです。その間、ずっとお祖父ちゃんは自分の部屋で何か探し物をしていたみたいでした。だって、仏壇の横にあるお祖父ちゃんの部屋から、がたごと、がたごと、って言う音がするんです。
少しして部屋を出てきたお祖父ちゃんが持っていたのは、茶封筒と、大人の手のひらくらいのサイズの木箱でした。それは大事そうにその二つを卓袱台に置いて、お祖父ちゃんがわたしの隣に座ります。
なっちゃん、と呼ばれて、わたしはお祖父ちゃんの方を見ました。お祖父ちゃんは、随分と古びた茶封筒の中身を取り出して、わたしに見せました。
それは、白黒の古い写真でした。ずうっと昔に撮られたようで、所々に細かい傷が付いているのが分かります。
写っていたのは、白いシャツを着た若い男の子でした。
最初は、女の人かと思ったんです。折れてしまいそうなほど華奢で、髪がこの、……顎の辺りまで伸びていて、前髪が長くて、その奥の目が、穏やかに笑っていました。本当に綺麗な顔をしているんですよ、彼。
それでわたし、一瞬で恋に落ちてしまったんですよね。まあ、まだ子供ですから、それが恋なのかどうかも分かりませんでしたけど、思えば、あれが初恋だったんだなって。
顔がかあっと熱くなって、彼と目を合わせているのが妙に恥ずかしくなって、わたしは思わず俯きました。
お祖父ちゃんはそんなわたしに、その写真と木箱を手渡して、こう言いました。
「これは、なっちゃんの■■■だよ。……このことは、お母さんにもお父さんにも、あっちのじいちゃんばあちゃんにも、友達にも、先生にも、……誰にも、言ってはいけない。箱は、大人になったら開けなさい。決して、決して、二十歳になるまで開けてはいけないよ。祖父ちゃんとの約束だ」
って。
わたしは、訳もわからずそれに何度も頷きました。どうしても聞き取れないところがあったんですが、あんまり気になりませんでしたね。箱も見てみたんですけど、開けるなって言うか、開けようと思っても開きませんでした。本当に小さな鍵穴がついていたんです、それ。
わたしは家に帰ったあと、その写真が入った茶封筒と箱を、小学校入学に向けて既に買って貰っていた勉強机の鍵付きの引き出しに仕舞い込みました。母に見られやしないかと肝を冷やしましたが、どうにか気付かれないで済んで、ほっとしましたよ。とっても。
その翌日に母の実家に行くと、既にあの祠は跡形も無く消えていました。お祖父ちゃんは、あれはもう必要なくなったから、と言ってわたしの頭を撫でてくれました。
あれだけ気に入っていたのに、不思議と寂しくはなかったですよ。何だか、ずっと傍にいてくれているような、そんな気がしたんです。
その日、わたしはお祖父ちゃんに、こっそりと彼の名前を尋ねました。
「■■■」
確かに聞いたはずなんですけど、でも、覚えていません。
それで、今までは祠に向かって話し掛けていたのを、今度は写真の彼とお話しするようになったんです。わたしが自分の部屋で寝るようになったのも、その頃でした。もうじき小学生になるのに、いつまでもお父さんお母さんと寝ているようでは、と両親に言われたのを覚えています。
嬉しかったですよ。家に帰って来て、晩御飯が終わって、お風呂に入って。両親におやすみなさいと言ってしまえば、あとは彼とお話が出来るんですから。勿論、両親に聞かれては不味いので、布団を被って、内緒話しか出来ませんでしたけど。
ええ。とっても優しいんです、あのひと。
それから、わたしは幼稚園を卒園して、家から歩いて数分のところの小学校に入学しました。両親は変わらず仕事でしたので、父方の祖父母が家に越してきて、わたしの面倒を見てくれることになりました。
学校は、わたしはあまり話すのが得意な方では無くて、足も遅かったんです。だから、あっと言う間に目を付けられて、軽い苛めを受けていました。
ああ、苛めと言っても、直接暴力を受けるとかそう言うことは無くて、後ろから消しゴムの欠片を投げられたり、筆箱を隠されたり、名前のマグネットを折られたり、そういう感じでしたよ。
大人になってしまえば笑いごとにも出来ますけど、当時は、とっても怖かったんです。両親もね、昔気質な人たちだったので、それで学校を休むなんてことは絶対に許してくれませんでした。
あれは、紛れもなく地獄でした。
わたし、とうとう耐えられなくなって。
話したんです、あの人に。誰々にこういうことをされた、こういうことを言われた、って。
そしたら、どうなったと思いますか?
消しゴムを投げてきた湯田くん、筆箱を隠した伊藤さんと小池さんと皆川さん、マグネットを折った増井くん、全員が全員、何らかの形で大怪我をしました。死はしませんでしたよ。そういうことがあって、彼らが入院もしくは自宅療養している間に、わたしへの苛めは下火になって行ったんです。
わたしが十八歳の時、お祖父ちゃんが亡くなりました。初めて人間が死ぬ瞬間と言うものに立ち会ったんです。人って、あんなに冷たくなるものなんですね。
かなり前から危ない危ないとは言われていたので、覚悟が出来ていたのでしょう。皆泣きはしましたけれど、穏やかな気持ちで、お祖父ちゃんを見送りました。
お通夜と火葬を終えて、母の実家で、親戚の皆で食事をしている時でした。叔母が、台所の方からわたしを呼びました。彼女はわたしを皆から見えないところに連れていくと、そっと封筒を手渡しました。
「これ、祖父ちゃんから、あんたに」
丁寧にふたつに折り畳まれていたので、お金の類ではないようでした。ぴったり糊付けされた封筒をまじまじと見ると、裏面にお祖父ちゃんの字で、こう書かれていました。
なっちゃんへ
二十歳になったら開けてください
じいちゃんより
わたしはそれを受け取って、蛍光灯に中身を透かしてみました。小さな鍵のシルエットが映った時、わたしは即座にそれが何の鍵なのか察しました。
あの箱。幼稚園の頃に写真と一緒に貰った、あの箱の鍵に違いないのです。
わたしが叔母にお礼を言うと、叔母もその封筒の中身は知らなかったようで、何が入ってるの?と聞かれました。が、どうにか誤魔化して、わたしはその封筒をポケットに捩じ込み、彼女と連れ立って食事の席へ戻りました。
家に帰って、わたしは随分悩みましたよ。好奇心との戦いでした。あの人はずっと穏やかにわたしに向かって微笑んでいて、もしも約束を違えでもしたら、嫌われてしまうかもしれない。
そう思うと、好奇心なんてものは簡単に消えて無くなりました。
優しい人ほど、怒らせたら怖いんです。
わたしですか?今?二十八です。ええ。
はい。
開けましたよ。
二十歳の誕生日の夜、家族が寝静まった頃です。
まだわたしの部屋には勉強机が置いてあって、鍵付きの引き出しもそのままでした。お祖父ちゃんが亡くなった時に貰った鍵とあの人の写真と木箱は、まとめてそこに入れていたんです。
鍵の入った封筒を破いて逆さにすると、中からはくすんだ銀色の、小さな鍵が出てきました。それを木箱の横についた小さな穴に差し込んで、ぐるりと回します。
かちり、と言う存外軽い音がして、それで、開いたな、って分かりました。
わたしは酷く緊張していました。十数年越しですからね。恐る恐る、箱を開けました。そこには。
そこには、
薬指が入っていたんです。
どうして薬指だと直感したのか、わたしにも分かりません。指なんて長さが違うだけで、皆どれも同じような見た目をしていますから、もしかしたら人差し指だったのかも知れませんし、中指だったのかも知れません。でもあれは、あれは間違いなく、左手の薬指でした。
だって、あのひとには、左手の薬指が無かったんです。
その時、肩を誰かに叩かれました。わたしは振り向くことも出来ずに、ただ目の前の薬指を凝視していました。
箱と一緒に机の上に出していたあの人の写真はいつの間にか黒ずんでどろどろに溶けて、机に染みを作っていました。
あの人は、低くて少し掠れた優しい声で、さも愛しげに、わたしを呼びました。あの人の、酷く冷たい手が頬を撫でて、それで、──その後のことは、覚えていないんです。
気が付いた時には朝になっていて、木箱も、鍵も、写真も薬指も、最初から無かったみたいに消えていました。
一番最初、お祖父ちゃんがわたしに写真と箱を手渡した時に、聞き取れなかったところがあったって言ったじゃないですか。
あれ、思い出したんです。何て言ってたのか。
「これは、なっちゃんの、つ が い だよ」
って。
お祖父ちゃん、そう言っていたんですよ。教えて貰ったのに忘れてしまっったあの人の名前も、もう少しで思い出せそうな気がするんです。もう少しで。もう、そこまで来てるんです。
長々とすいませんでした。長いばっかりで、怖く無かったかもしれませんね。
わたし、そろそろ帰ります。あまり長く外にいると、お腹の子にも良くないかもしれませんし。
わたしね。
わたし、そういうこと、した覚えが無いんです。なのに、突然、こんな。
ねえ。
産まれてくるのって、誰なんでしょう?
大体みんな幼稚園とか小学校とか、その辺りですよね。わたしもそのくらいでした。幼稚園の、確か、年長さんくらい。
わたしは幼稚園の頃、昼間だけお母さんの実家に預けられていたんです。両親が共働きでしたからね。大体夜六時か七時頃、仕事を終えた母がわたしを迎えに来て、家に帰る。そういう生活を、ずっと続けていました。
お母さんの実家は、わたしの家から車で大体二十分くらいのところにあります。今はもう整備されてるんですけど、わたしが子供の時は最低限の道路しか通ってなくて、あとはほとんど砂利道で。ぼこぼこした道を走る振動が心地良くて、良く車の中で寝ちゃってました。
そこは、いわゆる、集落って言うんですか?そういう感じの、古い民家が数件建ってる以外は、田んぼと畑しかないようなところで、周りの家はお年寄りしか住んでいませんでした。お祖父ちゃんもお祖母ちゃんも、叔母さんも含めて、そこの人は皆、わたしのことをすごく可愛がってくれました。
お母さんの実家には庭と呼べるようなものが無くて、代わりに大きな車庫が家の前後に建っていました。家の前にあったのはビニールハウスを改造したような簡素な作りだったんですけど、裏に物置と車庫を兼ねた大きな建物があったんです。シャッター付きの。
その建物の前──車の出入りの邪魔にならない場所に、大人の膝より少し高いくらいの、小さな祠が建っていたんです。母が子供の時からあったらしいそれが、わたしは大のお気に入りでした。雨が降れば雨合羽を着て傘を差しに行ったし、時々お供物もして、返事が来ないのは知っていたんですけど、幼稚園であったことを話したりとか。
そんなことをずっと続けていた、ある日のことでした。
その日、お母さんの実家にはお祖父ちゃんしかいなかったんです。お祖母ちゃんは同級会で旅行でしたし、叔母さんも仕事に行っていました。お祖父ちゃんは気難しい昭和のお父さんって感じでしたけど、わたしにはとっても優しかったですよ。
幼稚園から帰ると、わたしはいつものように祠の前でお話をしました。そして家の中に入って、お祖母ちゃんが用意してくれたビスケットを食べていたんです。その間、ずっとお祖父ちゃんは自分の部屋で何か探し物をしていたみたいでした。だって、仏壇の横にあるお祖父ちゃんの部屋から、がたごと、がたごと、って言う音がするんです。
少しして部屋を出てきたお祖父ちゃんが持っていたのは、茶封筒と、大人の手のひらくらいのサイズの木箱でした。それは大事そうにその二つを卓袱台に置いて、お祖父ちゃんがわたしの隣に座ります。
なっちゃん、と呼ばれて、わたしはお祖父ちゃんの方を見ました。お祖父ちゃんは、随分と古びた茶封筒の中身を取り出して、わたしに見せました。
それは、白黒の古い写真でした。ずうっと昔に撮られたようで、所々に細かい傷が付いているのが分かります。
写っていたのは、白いシャツを着た若い男の子でした。
最初は、女の人かと思ったんです。折れてしまいそうなほど華奢で、髪がこの、……顎の辺りまで伸びていて、前髪が長くて、その奥の目が、穏やかに笑っていました。本当に綺麗な顔をしているんですよ、彼。
それでわたし、一瞬で恋に落ちてしまったんですよね。まあ、まだ子供ですから、それが恋なのかどうかも分かりませんでしたけど、思えば、あれが初恋だったんだなって。
顔がかあっと熱くなって、彼と目を合わせているのが妙に恥ずかしくなって、わたしは思わず俯きました。
お祖父ちゃんはそんなわたしに、その写真と木箱を手渡して、こう言いました。
「これは、なっちゃんの■■■だよ。……このことは、お母さんにもお父さんにも、あっちのじいちゃんばあちゃんにも、友達にも、先生にも、……誰にも、言ってはいけない。箱は、大人になったら開けなさい。決して、決して、二十歳になるまで開けてはいけないよ。祖父ちゃんとの約束だ」
って。
わたしは、訳もわからずそれに何度も頷きました。どうしても聞き取れないところがあったんですが、あんまり気になりませんでしたね。箱も見てみたんですけど、開けるなって言うか、開けようと思っても開きませんでした。本当に小さな鍵穴がついていたんです、それ。
わたしは家に帰ったあと、その写真が入った茶封筒と箱を、小学校入学に向けて既に買って貰っていた勉強机の鍵付きの引き出しに仕舞い込みました。母に見られやしないかと肝を冷やしましたが、どうにか気付かれないで済んで、ほっとしましたよ。とっても。
その翌日に母の実家に行くと、既にあの祠は跡形も無く消えていました。お祖父ちゃんは、あれはもう必要なくなったから、と言ってわたしの頭を撫でてくれました。
あれだけ気に入っていたのに、不思議と寂しくはなかったですよ。何だか、ずっと傍にいてくれているような、そんな気がしたんです。
その日、わたしはお祖父ちゃんに、こっそりと彼の名前を尋ねました。
「■■■」
確かに聞いたはずなんですけど、でも、覚えていません。
それで、今までは祠に向かって話し掛けていたのを、今度は写真の彼とお話しするようになったんです。わたしが自分の部屋で寝るようになったのも、その頃でした。もうじき小学生になるのに、いつまでもお父さんお母さんと寝ているようでは、と両親に言われたのを覚えています。
嬉しかったですよ。家に帰って来て、晩御飯が終わって、お風呂に入って。両親におやすみなさいと言ってしまえば、あとは彼とお話が出来るんですから。勿論、両親に聞かれては不味いので、布団を被って、内緒話しか出来ませんでしたけど。
ええ。とっても優しいんです、あのひと。
それから、わたしは幼稚園を卒園して、家から歩いて数分のところの小学校に入学しました。両親は変わらず仕事でしたので、父方の祖父母が家に越してきて、わたしの面倒を見てくれることになりました。
学校は、わたしはあまり話すのが得意な方では無くて、足も遅かったんです。だから、あっと言う間に目を付けられて、軽い苛めを受けていました。
ああ、苛めと言っても、直接暴力を受けるとかそう言うことは無くて、後ろから消しゴムの欠片を投げられたり、筆箱を隠されたり、名前のマグネットを折られたり、そういう感じでしたよ。
大人になってしまえば笑いごとにも出来ますけど、当時は、とっても怖かったんです。両親もね、昔気質な人たちだったので、それで学校を休むなんてことは絶対に許してくれませんでした。
あれは、紛れもなく地獄でした。
わたし、とうとう耐えられなくなって。
話したんです、あの人に。誰々にこういうことをされた、こういうことを言われた、って。
そしたら、どうなったと思いますか?
消しゴムを投げてきた湯田くん、筆箱を隠した伊藤さんと小池さんと皆川さん、マグネットを折った増井くん、全員が全員、何らかの形で大怪我をしました。死はしませんでしたよ。そういうことがあって、彼らが入院もしくは自宅療養している間に、わたしへの苛めは下火になって行ったんです。
わたしが十八歳の時、お祖父ちゃんが亡くなりました。初めて人間が死ぬ瞬間と言うものに立ち会ったんです。人って、あんなに冷たくなるものなんですね。
かなり前から危ない危ないとは言われていたので、覚悟が出来ていたのでしょう。皆泣きはしましたけれど、穏やかな気持ちで、お祖父ちゃんを見送りました。
お通夜と火葬を終えて、母の実家で、親戚の皆で食事をしている時でした。叔母が、台所の方からわたしを呼びました。彼女はわたしを皆から見えないところに連れていくと、そっと封筒を手渡しました。
「これ、祖父ちゃんから、あんたに」
丁寧にふたつに折り畳まれていたので、お金の類ではないようでした。ぴったり糊付けされた封筒をまじまじと見ると、裏面にお祖父ちゃんの字で、こう書かれていました。
なっちゃんへ
二十歳になったら開けてください
じいちゃんより
わたしはそれを受け取って、蛍光灯に中身を透かしてみました。小さな鍵のシルエットが映った時、わたしは即座にそれが何の鍵なのか察しました。
あの箱。幼稚園の頃に写真と一緒に貰った、あの箱の鍵に違いないのです。
わたしが叔母にお礼を言うと、叔母もその封筒の中身は知らなかったようで、何が入ってるの?と聞かれました。が、どうにか誤魔化して、わたしはその封筒をポケットに捩じ込み、彼女と連れ立って食事の席へ戻りました。
家に帰って、わたしは随分悩みましたよ。好奇心との戦いでした。あの人はずっと穏やかにわたしに向かって微笑んでいて、もしも約束を違えでもしたら、嫌われてしまうかもしれない。
そう思うと、好奇心なんてものは簡単に消えて無くなりました。
優しい人ほど、怒らせたら怖いんです。
わたしですか?今?二十八です。ええ。
はい。
開けましたよ。
二十歳の誕生日の夜、家族が寝静まった頃です。
まだわたしの部屋には勉強机が置いてあって、鍵付きの引き出しもそのままでした。お祖父ちゃんが亡くなった時に貰った鍵とあの人の写真と木箱は、まとめてそこに入れていたんです。
鍵の入った封筒を破いて逆さにすると、中からはくすんだ銀色の、小さな鍵が出てきました。それを木箱の横についた小さな穴に差し込んで、ぐるりと回します。
かちり、と言う存外軽い音がして、それで、開いたな、って分かりました。
わたしは酷く緊張していました。十数年越しですからね。恐る恐る、箱を開けました。そこには。
そこには、
薬指が入っていたんです。
どうして薬指だと直感したのか、わたしにも分かりません。指なんて長さが違うだけで、皆どれも同じような見た目をしていますから、もしかしたら人差し指だったのかも知れませんし、中指だったのかも知れません。でもあれは、あれは間違いなく、左手の薬指でした。
だって、あのひとには、左手の薬指が無かったんです。
その時、肩を誰かに叩かれました。わたしは振り向くことも出来ずに、ただ目の前の薬指を凝視していました。
箱と一緒に机の上に出していたあの人の写真はいつの間にか黒ずんでどろどろに溶けて、机に染みを作っていました。
あの人は、低くて少し掠れた優しい声で、さも愛しげに、わたしを呼びました。あの人の、酷く冷たい手が頬を撫でて、それで、──その後のことは、覚えていないんです。
気が付いた時には朝になっていて、木箱も、鍵も、写真も薬指も、最初から無かったみたいに消えていました。
一番最初、お祖父ちゃんがわたしに写真と箱を手渡した時に、聞き取れなかったところがあったって言ったじゃないですか。
あれ、思い出したんです。何て言ってたのか。
「これは、なっちゃんの、つ が い だよ」
って。
お祖父ちゃん、そう言っていたんですよ。教えて貰ったのに忘れてしまっったあの人の名前も、もう少しで思い出せそうな気がするんです。もう少しで。もう、そこまで来てるんです。
長々とすいませんでした。長いばっかりで、怖く無かったかもしれませんね。
わたし、そろそろ帰ります。あまり長く外にいると、お腹の子にも良くないかもしれませんし。
わたしね。
わたし、そういうこと、した覚えが無いんです。なのに、突然、こんな。
ねえ。
産まれてくるのって、誰なんでしょう?
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