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第一章
第6話 牛
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静寂で満たされた暗闇の中、彼が独りで座っている。
彼はここ最近、この場所にやって来た。
来たばかりの頃は、叫び声を上げたり、暴れたりしてた。だけど、日を追うごとに大人しくなっていって、今では虚空を見つめるだけ。抜け殻のようになった。
(……あ)
彼に異変が起こる。
不自然な動作で立ち上がると、迷ない足取りで暗闇の中を歩み出したのだ。
(また弄られるんだ……)
これまでに彼がされたことを思い出すと、身震いがする。
暗闇を進む、彼を追った。
◇◇◇◇◇
意識が覚醒すると、地面の上に一人で立っていた。
「ここは……」
いつもの場所ではない。
拘束もされていない。
「どこだ?」
見知らぬ場所だったが、一先ず、自分の体を確認する。
連れて来られた時に着替えさせられた、一枚の布で作られた簡易的な衣服。袖や丈が短いせいで肌が剥き出しになっているが、傷は無く、異常も感じられない。
何もされていないと判断し、周囲に意識を向ける。
(……ちッ、やっぱり居やがった)
周囲に意識を向けてすぐに、見つけた。
「……」
見たくないと、本心から思う。だが同時に、そのまま無視し続けるのも気味が悪い。
嫌悪感を隠すことなく顔に出し、見つけた方へ顔を向ける。
――すると、
「ヒャッヒャッヒャッ、直ぐに居場所を把握できたようじゃな」
低く、割れた濁声が木霊する。
不愉快極まりないが、今は気にしていられない。すぐに視線を切って、周囲を見回す。
(クソッ)
視線を切りはしたが、決して気は緩めない。常に存在を意識し、何かあれば瞬時に動けるように備えておく。
(ここは?)
見知らぬ場所は、野球のグラウンド程の広さ。剥き出しの地面には、石一つ落ちていない。周囲には高い壁が聳え立ち、中からは逃げられないようになっている。
まるで、古代ローマの円形闘技場のようだった。
壁の外側は暗闇に包まれているが、内側は煌々とした光に照らされていて明るい。そのため、壁の上に居る魔族の姿も鮮明に確認できた。
皮膚は黒紫色をしており、髪は皮膚とは真逆に白色。背が低く、手足は枯れ枝のように細い。黄色く濁った目を見開き、遠くにいても分かるほどの悪臭を放っている。
「当り前じゃ、ワシが造ったんじゃぞ! 馬鹿がッ!」
「ワシのおかげじゃな! 感謝せい、貴様ら!」
「さすがは、ワシの傑作じゃ!」
魔族。それが、四体いる。
「ヒャッヒャッヒャッ、混乱しとる、混乱しとる」
「さっさと始めんか! うすのろがッ!」
「ワシの成果を貴様らに拝ませてやる!」
「傑作の性能と機能美を早くワシに見せるのじゃ!」
魔族たちは各々が好き勝手に喋り、会話は成立していない。それでも、今から何かをさせられるという事は分かった。
身構えていると、魔族がいる場所とは違う方向から以外なものを感じ取る。
(……熱?)
不思議な感覚だった。
例えるなら、遠くに置かれた暖房の熱が伝わってくるような感覚。
壁の向こう側から熱を感じ取るなど、本来あり得ない。
実際、壁で完全に遮断されていているのか、匂いも音も一切感じられないでいた。 だが、熱だけは壁を通過して感じ取れる。
(なんだ?)
感じ取った熱の正体を探るため、目を閉じて意識を研ぎ澄ます。直感的に、この方法が正しいと思ったからだ。
(……これ、か?)
壁の奥を辿っていくと、熱の正体が頭の中に浮ぶ。
それは、燃える火。
青く、轟々と燃え盛る大火だった。
(なんなんだ、これ?)
火は、ゆっくりとこちらへ近づいて来ている。
(もしかして、生き物か?)
絶え間なく揺らぐ大火を眺めていると、ふと生き物の鼓動のように思えた。
自分の考えが正しいのかを確かめるべく、魔族の方へ意識を向ける。
(やっぱり、生き物の気配だ)
壁の奥から感じ取った火よりも遥かに弱弱しいが、四体の魔族からも同じ青い火が感じ取れた。
(待てよ、火がデカいってことは……)
魔族よりも強大な力を持った生き物が、こちらに近づいて来ているということになる。そのことを理解した途端、一気に緊張感が高まった。
(一体、何が近づいてるんだッ?!)
険しい表情をさせたまま、固唾を呑んで壁を見つめる。
一歩、また一歩と青い火は近づき、とうとう壁の前に辿り着いた。 すると、地響きを鳴らしながら壁が割れ始める。
「う」
壁が割れた瞬間、獣臭に血の匂いが混ざった悪臭が流れ込んで来た。鼻を押さえながら目を向け続けると、壁が完全に開き、生き物の全貌が明らかになった。
「なッ」
全身の産毛が逆立つ。
現れたのは、六メートルは有りそうな牛の化け物。筋骨隆々な体に黒毛を生やし、肉食獣を彷彿とさせる牙を剥き出しながら低い唸り声を上げている。
異形。この世の生き物とは思えない化け物。
「うわぁああああああああ!!!」
数秒先の未来を想像し、叫んだ。
――が、
「あ?」
想像した未来は、訪れなかった。それどころか、信じられない出来事に思わず気の抜けた声を漏らす。
化け物はこちらに顔を向けた途端、脱兎の如く逃げ出したのだ。 そして、闘技場の壁際まで駆けると、腹這いに寝そべってしまった。
「な、なんなんだ……?」
化け物の行動が理解できず呆然と立ち尽くしていると、魔族はさも当然かのような声を上げる。
「ヒャッヒャッヒャッ、さすがは畜生。格の違いを察したか」
「当然じゃ、ボケがッ! ワシが造った最強の生物じゃぞ!」
「ワシが造ったんじゃからな、格が違うわい! 感謝せい貴様ら!」
「牛畜生と一緒にするでない! ワシが造った傑作じゃぞ!」
声に釣られて魔族に目を向けるが、言っていることの意味が分からなかった。
(格が違う? 俺と、あの化け物が?)
再び化け物に視線を向けるが、腹這いに寝そべったまま動こうとしない。
(……あいつ等、俺に何をした?)
異形の姿をした化け物が自分を見ただけで逃亡し、地に伏した。
信じられない。
両の掌を見つめ、自問自答を行う。自分はどうなってしまったのか、と。
「ヒャッヒャッヒャッ、実験にならんのう」
「それが分かっとるなら、さっさとせい! 愚図がっ!」
「貴様らも猿畜生の真似をせい! そうすればワシがやってやらんでもないぞぉ?」
「とっととあの牛畜生を操れ! ワシの傑作の動きが見れんだろ!」
喧しい魔族たち。その一切を無視して続けていた自問自答は、突然の爆発音によって中断させられた。
(今度は一体、なん――)
音がした方へ顔を向けようとした瞬間、全身に電流が走る。
それは先ほど感じ取った気配とは別。より明確で、より切迫した感覚だった。
(ヤバいっ!)
振り向くことを中断し、その場から飛び退く。すると、入れ替わるように巨大な塊が飛び込んできた。
「うわぁッ!」
塊が地面に着弾すると同時に、闘技場を揺るがすほどの轟音と衝撃が起こる。その衝撃は凄まじく、躱したにもかかわらず体が吹き飛ばされた。
天地がひっくり返る。
(クソッ!)
手足を動かし、体勢を立て直す。
「はぁ……はぁ……」
間一髪、片膝立ちの姿勢で着地することができた。そのことに一瞬安堵したが、すぐに数秒動くのが遅れていたら直撃していたという事実に戦慄し、鼓動が高鳴る。
(何が起こった?)
土煙に目をやる。
濛々と立ち込める土煙の中心、陥没した地面に巨影が佇んでいた。
(なんだ、あれ?)
土煙に佇む巨影を注視していると、巨影が僅かに動いた。
咄嗟に、後ろへ飛ぶ。
「ッ!?」
直後、巨影が再びこちらに向かって突っ込んできた。
(速いッ!)
巨影は、弾丸のような速度で迫ってくる。
「クソッ!」
それに比べ、こちらは片膝立ちの状態から跳躍したせいで大して勢いが付いていない。
(ギリギリ間に合う!)
だが自棄にならず、差し迫る巨影を躱す猶予があるかを見極める。
少しでも早く地面に降りようと、足先を延ばす。そして足先が地面に触れた瞬間、そのまま足先を軸に九十度体を回転させ、射線から外れるように横へ飛んだ。
(これならッ)
巨影は横へ逸れたことに反応し、腕を伸ばしてきた。
(なッ!? 腕が伸び――)
追撃されるだろうとは予想していた。そのため、巨影では届かないように、低く、地を這うように飛んだ。しかし――、
(長いッ?!)
伸びたと錯覚してしまう程に、化け物の腕は長かった。それに加え、腕は地面を抉りながら迫ってきたのだ。想定外の長さ、そして動きに対応できず、腹部を掴まれてしまう。
「クソッ! 離せッ!」
大声を上げるが、巨影は何の反応も返さぬままゆっくりと腕を持ち上げる。
両足が地面から離れると、タイミング良く土煙が晴れて巨影の正体が露わになった。
「ッ!? こいつッ!?」
巨影の正体は、壁際で腹這いに寝そべっていた牛の化け物だった。
(格が違うんじゃなかったのかよッ!)
魔族たちを信用しているわけではないが、化け物が自分を避けたのは事実。それが、何の前触れのなしに自分へ襲い掛かって来た。
化け物の不自然な行動に、疑問を抱く。
(何でだ? アレは油断させるためだったのか? ……ん? こいつ?)
思考を巡らせていると、化け物の様子がおかしいことに気が付く。
化け物は、目に光が無く、唸り声の一つも発していないのだ。
(生気が無くなった……。クソっ! 今は兎に角、腕を振り解くのが先かッ! 強く握られてない今なら、振り解け――)
「は?」
化け物の顔を見た後、右腕を辿って掴まれている腹部を見た。
黒毛が生えていない掌は岩肌のようであり、指は女性の腕のように太い。その内の一本。一際太く、歪に尖った親指の爪が腹部に深く突き刺さっていた。
「あぁああああああああああ!!!」
満身の力を込めた左拳を、化け物の腕へ振り落とす。
拳を通して、骨の折れる感触が伝わる。すると、化け物の腕がこと切れたように地面へ落ち、体が解放された。
「……」
本来ならば、化け物から距離を取っただろう。 しかし、とある異変を前にして身動き一つ取れなかった。
腹部に大穴が空いたのにもかかわらず、痛みを感じないのだ。
(なんで何も感じない……)
狼狽えながら腹部を見ていると、更なる異変が起こる。
「あ」
爪が刺さっていた腹部は、化け物の腕を力づくで外したせいで肉が抉れていた。
その箇所に、芋虫が群がっている。
(なッ)
急いで小虫を払おうとしたが、寸でのところで手が止まった。
「……」
虫など、一匹もいない。
動いていたのは虫ではなく、自分の筋繊維が絡み合い、再生をしていたのだ。
「うッ、おえぇ」
吐き気が込上げ、堪らず嘔吐する。
腹部は、瞬く間に再生を終えた。傷跡は残っておらず、痛みを感じなかったせいで怪我を負っていたのが嘘のようだった。
だが、確かに見た。
黒紫色をした筋繊維を。
「ヒャッヒャッヒャッ、うまく操れんのう」
「うむ、黒肉が再生したな。それより、もっと上手く操らんか、脳無しがッ!」
「ワシは上手いぞ。凄いじゃろ、貴様ら」
「牛畜生なぞ使い潰せ! これっぽちも傑作の性能が見れんぞ」
望んでいたものが見られなかったのか、魔族たちが騒ぎ出す。
「お前ら俺に何をしたッ!!!」
闘技場に響き渡る怒声。
魔族たちは面を食らったような顔になり、こちらに視線を向ける。
「黙ってないで答えろッ!! 俺に何をしたッ!!」
激情の赴くまま鬼の形相で睨みつけるが、魔族たちは何の反応も返してこない。
無反応がより一層、感情を昂らせた。
「何したかって聞いてんだろッ!!!」
何度も怒声を上げると、ようやく魔族たちが反応を見せる。ただし、それはこちらが望むものではなかった。
寧ろ、逆。
閉ざした口を今まで以上に吊り上げ、醜悪な笑みを作った。
「ッ!」
笑みを見た瞬間、我を失う。
闘技場を駆け、壁の上にいる魔族たちの元へ肉迫せんとする。
――ところが、
頭の中で何かが響いたと思うと、意識が薄れ始める。
(クソッ、暗闇に戻すつもりかッ! ふざけるなッ! 俺は……)
意識が覚醒をする。
「……暗闇に戻されたんじゃないのか?」
まだ自分が、闘技場にいることに驚く。しかしそれも束の間、すぐに意識を失う前のことを思い出す。
「ヒャッヒャッヒャッ、少しは冷静になったか。これで畜生に打ち込めるのぉ」
「くっちゃべってないで、手を動かせッ! 痴呆がッ!」
「貴様ら、ワシがいないと本当にダメじゃのう」
「やっと、やっとだ! ワシの傑作の性能がやっと見れる!」
意識を取り戻したことに気が付いたのか、騒ぎ出す魔族たち。
視線を向けると、いくつか変化が起こっていた。
まず、魔族たちが立っている壁。そこだけが化け物と同じ高さになっている。さらに、化け物が魔族たちの前に移動しており、生気の無い顔をこちらに向けて座っていた。
「お前ら俺に何をしたッ!!!」
ただ、そんなことはどうでもよかった。それよりも、魔族たちが体に何をしたのか聞き出す方が重要だった。
「答えろッ!!!」
先ほどの繰り返し。いくら怒声を浴びせても、魔族たちは楽し気に嗤うだけだった。
(あいつ等ッ!)
再燃する怒り。 しかし、首の皮一枚のところで踏み止まる。
(ダメだ、落ち着け。今また突っ込めば、さっきと同じにことになる)
歯を食いしばり、心を落ち着かせるように努める。
(隙を見せた時に、一気に近づく。それまで堪えろ……)
神経を研ぎ澄まし、魔族たちの一挙手一投足を見据える。
「ん?」
ごく僅かではあるが冷静になったことで、魔族が赤黒い液体の入った注射器を持っていることに気付いた。
(なんだ……?)
魔族が、その注射器を化け物に打ち込む。
注射器の中身を全て打ち込み終えると、壁がせり上がり出した。
(逃げられるッ!)
壁が元の高さに戻れば、手が出せなくなる。また意識を失わされるかもしれないが、今を逃すと二度と好機は訪れないかもしれない。
全速力で疾走し、一体でもいいから捕らえる。
(これしかないッ!!!)
そう思い、駆け出そうとした。が――、
全身に、また電流が走った。
(これってッ!?)
慌てて、視線を魔族から化け物へ移す。 しかし、化け物は石像のように固まったままだった。
(ならッ!)
振り返って何もないことを確認した後、直ぐに上と下と続けざまに視線を向ける。が、闘技場には何もいなかった。
(勘違いだったの――……ん?)
極々小さな音に気付いた。
それは、まるで脈打っているような音だった。
(何の音だ?)
耳を澄ますと、音は魔族たちの方から聞こえる。
音のする方へ顔を向ける最中、二つの影が目に入った。
一つは自分の影。もう一つは化け物の影。
(化け物の影が……)
自分の影は普段と変わらないが、化け物の影だけが幽かに揺らいでいた。
「なッ!?」
化け物へ視線を向け、思わず息を吞む。
化け物の顔に、無数の血管が浮き上がっていたのだ。
血管が一本、また一本と浮き上がり、音を鳴らしながら激しく脈打つ。さらによく見ると、首筋の血管も浮き上がり脈打っていた。
(全身の血管が脈打っているのか? ――……ッ!)
「さっきの注射かッ!」
化け物に打ち込んだ注射器のことを思い出す。
「ヒャッヒャッヒャッ、さあ第二ラウンドの始まりじゃッ」
「喧しいわ、黙ってろ老いぼれッ!!!!」
「今からワシの実験体が貴様らを楽しませてくれるわい、よお見ておけい」
「さあ傑作よッ! ワシにその性能を美を見せてくれ!!!!」
そして、壁が元の高さに戻ったタイミングで――、
「グォオオオオオオオオオ!!!」
闘技場を震撼させるほどの雄叫びが上がった。
「あッ?!」
咆哮を一身に浴び、体が竦む。
その隙に、化け物が迫って来た。
視界が徐々に、黒色で埋め尽くされる。
「あ――」
化け物の突進を食らい、体が凄まじい勢いで後方へ吹き飛ぶ。数メートル程吹き飛ばされ、地面の上を何度も転がり、ようやく体が止まった。
土に塗れた上体を起こすと、眼前には追撃を加えようと既に化け物が迫っていた。
「グォオオオオオオオオオ!」
拳を横向きに倒し、払うように振るわれる左腕。
荒々しい暴力が迫ってくる中、躱すことも、防ぐこともせず、あろうことか傍観した。
固い感触と共に、胸部に衝撃が走る。
次の瞬間、目に映る光景が物凄い速度で流れていく。
激しい風切り音を鳴らしながら、先ほどと同じように体が吹き飛ぶ。
化け物の猛攻は止まらない。
巨体とは思えぬ程の跳躍をみせ、全体重をかけて踏み潰さんとする。
「グゥ、オ、オォオオオオオオオオオオオオ!!!」
飛来した化け物が降り立つと、地面を砕く轟音と地響きが闘技場に鳴り響く。
土煙が立ち上る。
化け物の猛攻は続く。
左腕を限界まで振りかぶると、渾身の力を込めて振り下ろす。
何度も、何度も。
やがて体力の限界を超えたのか、化け物の動きを止めた。
闘技場に、静寂が訪れる。
(……血の匂い?)
陥没した地面。その中心で土を払いながら立ち上がると、化け物の気配を探る。
「……」
自分でも信じられない程に、心が平静だった。
雄叫びを聞いた時は、確かに驚いた。 しかし、化け物に吹き飛ばされたことでその緊張は解かれた。
そして、体の異変。
通常であれば、最初の一撃を食らった時点で死んでいただろう。
だが今は、何も感じることはなかった。
化け物は俺を殺せない。
そのことを理解した途端、化け物に抱いていた感情が霧散した。
それだけではない。
魔族たちに向けていた激情も収まった。
消えたわけではない。今尚、心の底で燻っている。それでも、激情に駆られて行動を起こさない程度には冷静さを取り戻せた。
(まさか、殴られたことを感謝するとはな)
自身の心境に驚きながら、土煙が晴れるのを待つ。
「グゥ、グルルルルル」
化け物もこちらの気配を感じ取ったのか、息苦しそうにしながら唸り声を上げた。
やがて土煙が晴れ、化け物と相対する。
「な……」
化け物の体が、緑色の液体に塗れていた。
「なんだ? 血なのか……?」
色は緑色だが、確かに血の匂いがする。よく見れば、緑色の液体は浮き上がった血管から流れ出ていた。
(この世界だと、緑色が普通なのか? それとも、化け物だからか? ……ん?)
化け物の呼吸がおかしい。
始めはただ息が上がっていると思っていたが、違う。
いつまで経っても呼吸は整わず、むしろ、時間が経つほどに酷くなっていく。
(こいつ……)
化け物に意識を向ける。すると轟々と燃え盛っていた大火が、魔族たち並みに弱弱しくなっていた。
「グォ、オ、オォオオオオオオオ、グォォォォォ!!!」
振り絞るような雄叫びを上げ、化け物が再び攻撃を仕掛けてきた。
「……」
振り降ろされる拳を、他人事のように眺める。
(遅いな……)
拳が頭部に触れる直前、後に飛び退いて躱す。
振り降ろされた拳は、止まらずにそのまま地面を殴った。
「グギャァァァァァァァァァァァ!!!」
化け物が地面を殴ると、血管から勢い良く血が噴き出す。
「グ……グゥ、ガァアア……」
化け物が、地面に倒れ込んだ。
「……」
いつの間にか足元には、緑色の血溜まりが出来ていた。
巨体が浸かれる程の大きな血溜まり。その中で、血に塗れながら化け物が藻掻く。
「もう動くな……」
口を衝いて出た言葉。
「ガ……、グゥル、ルル……」
しかし言葉が通じる筈もなく、化け物は藻掻き続ける。ひどく緩慢な動作で腕を地面に付き、支えにして起き上がろうとした。
その瞬間、血管が裂け、おびただしい量の血を噴出す。
再び、化け物が血溜まりに崩れ落ちる。
「……ガ、……ァ……」
やがて、身動ぎ一つしなくなった。数秒後、水の入った袋が破裂するような音が化け物の体内で鳴り、青い火が消えた。
「ヒャッヒャッヒャッ、時間切れじゃな」
「役立たずのゴミめッ! もう少しやれたじゃろッ!」
「ワシが造ったばかりに格が違い過ぎたか、悪いのう貴様ら」
「何故じゃッ! 何故ワシが授けた力を使わんのじゃッ!」
一部始終を眺めていた魔族たち。
「「「「次じゃッ!!!」」」」
魔族たちがそう言った直後、壁の奥から複数の大火を感じ取った。
彼はここ最近、この場所にやって来た。
来たばかりの頃は、叫び声を上げたり、暴れたりしてた。だけど、日を追うごとに大人しくなっていって、今では虚空を見つめるだけ。抜け殻のようになった。
(……あ)
彼に異変が起こる。
不自然な動作で立ち上がると、迷ない足取りで暗闇の中を歩み出したのだ。
(また弄られるんだ……)
これまでに彼がされたことを思い出すと、身震いがする。
暗闇を進む、彼を追った。
◇◇◇◇◇
意識が覚醒すると、地面の上に一人で立っていた。
「ここは……」
いつもの場所ではない。
拘束もされていない。
「どこだ?」
見知らぬ場所だったが、一先ず、自分の体を確認する。
連れて来られた時に着替えさせられた、一枚の布で作られた簡易的な衣服。袖や丈が短いせいで肌が剥き出しになっているが、傷は無く、異常も感じられない。
何もされていないと判断し、周囲に意識を向ける。
(……ちッ、やっぱり居やがった)
周囲に意識を向けてすぐに、見つけた。
「……」
見たくないと、本心から思う。だが同時に、そのまま無視し続けるのも気味が悪い。
嫌悪感を隠すことなく顔に出し、見つけた方へ顔を向ける。
――すると、
「ヒャッヒャッヒャッ、直ぐに居場所を把握できたようじゃな」
低く、割れた濁声が木霊する。
不愉快極まりないが、今は気にしていられない。すぐに視線を切って、周囲を見回す。
(クソッ)
視線を切りはしたが、決して気は緩めない。常に存在を意識し、何かあれば瞬時に動けるように備えておく。
(ここは?)
見知らぬ場所は、野球のグラウンド程の広さ。剥き出しの地面には、石一つ落ちていない。周囲には高い壁が聳え立ち、中からは逃げられないようになっている。
まるで、古代ローマの円形闘技場のようだった。
壁の外側は暗闇に包まれているが、内側は煌々とした光に照らされていて明るい。そのため、壁の上に居る魔族の姿も鮮明に確認できた。
皮膚は黒紫色をしており、髪は皮膚とは真逆に白色。背が低く、手足は枯れ枝のように細い。黄色く濁った目を見開き、遠くにいても分かるほどの悪臭を放っている。
「当り前じゃ、ワシが造ったんじゃぞ! 馬鹿がッ!」
「ワシのおかげじゃな! 感謝せい、貴様ら!」
「さすがは、ワシの傑作じゃ!」
魔族。それが、四体いる。
「ヒャッヒャッヒャッ、混乱しとる、混乱しとる」
「さっさと始めんか! うすのろがッ!」
「ワシの成果を貴様らに拝ませてやる!」
「傑作の性能と機能美を早くワシに見せるのじゃ!」
魔族たちは各々が好き勝手に喋り、会話は成立していない。それでも、今から何かをさせられるという事は分かった。
身構えていると、魔族がいる場所とは違う方向から以外なものを感じ取る。
(……熱?)
不思議な感覚だった。
例えるなら、遠くに置かれた暖房の熱が伝わってくるような感覚。
壁の向こう側から熱を感じ取るなど、本来あり得ない。
実際、壁で完全に遮断されていているのか、匂いも音も一切感じられないでいた。 だが、熱だけは壁を通過して感じ取れる。
(なんだ?)
感じ取った熱の正体を探るため、目を閉じて意識を研ぎ澄ます。直感的に、この方法が正しいと思ったからだ。
(……これ、か?)
壁の奥を辿っていくと、熱の正体が頭の中に浮ぶ。
それは、燃える火。
青く、轟々と燃え盛る大火だった。
(なんなんだ、これ?)
火は、ゆっくりとこちらへ近づいて来ている。
(もしかして、生き物か?)
絶え間なく揺らぐ大火を眺めていると、ふと生き物の鼓動のように思えた。
自分の考えが正しいのかを確かめるべく、魔族の方へ意識を向ける。
(やっぱり、生き物の気配だ)
壁の奥から感じ取った火よりも遥かに弱弱しいが、四体の魔族からも同じ青い火が感じ取れた。
(待てよ、火がデカいってことは……)
魔族よりも強大な力を持った生き物が、こちらに近づいて来ているということになる。そのことを理解した途端、一気に緊張感が高まった。
(一体、何が近づいてるんだッ?!)
険しい表情をさせたまま、固唾を呑んで壁を見つめる。
一歩、また一歩と青い火は近づき、とうとう壁の前に辿り着いた。 すると、地響きを鳴らしながら壁が割れ始める。
「う」
壁が割れた瞬間、獣臭に血の匂いが混ざった悪臭が流れ込んで来た。鼻を押さえながら目を向け続けると、壁が完全に開き、生き物の全貌が明らかになった。
「なッ」
全身の産毛が逆立つ。
現れたのは、六メートルは有りそうな牛の化け物。筋骨隆々な体に黒毛を生やし、肉食獣を彷彿とさせる牙を剥き出しながら低い唸り声を上げている。
異形。この世の生き物とは思えない化け物。
「うわぁああああああああ!!!」
数秒先の未来を想像し、叫んだ。
――が、
「あ?」
想像した未来は、訪れなかった。それどころか、信じられない出来事に思わず気の抜けた声を漏らす。
化け物はこちらに顔を向けた途端、脱兎の如く逃げ出したのだ。 そして、闘技場の壁際まで駆けると、腹這いに寝そべってしまった。
「な、なんなんだ……?」
化け物の行動が理解できず呆然と立ち尽くしていると、魔族はさも当然かのような声を上げる。
「ヒャッヒャッヒャッ、さすがは畜生。格の違いを察したか」
「当然じゃ、ボケがッ! ワシが造った最強の生物じゃぞ!」
「ワシが造ったんじゃからな、格が違うわい! 感謝せい貴様ら!」
「牛畜生と一緒にするでない! ワシが造った傑作じゃぞ!」
声に釣られて魔族に目を向けるが、言っていることの意味が分からなかった。
(格が違う? 俺と、あの化け物が?)
再び化け物に視線を向けるが、腹這いに寝そべったまま動こうとしない。
(……あいつ等、俺に何をした?)
異形の姿をした化け物が自分を見ただけで逃亡し、地に伏した。
信じられない。
両の掌を見つめ、自問自答を行う。自分はどうなってしまったのか、と。
「ヒャッヒャッヒャッ、実験にならんのう」
「それが分かっとるなら、さっさとせい! 愚図がっ!」
「貴様らも猿畜生の真似をせい! そうすればワシがやってやらんでもないぞぉ?」
「とっととあの牛畜生を操れ! ワシの傑作の動きが見れんだろ!」
喧しい魔族たち。その一切を無視して続けていた自問自答は、突然の爆発音によって中断させられた。
(今度は一体、なん――)
音がした方へ顔を向けようとした瞬間、全身に電流が走る。
それは先ほど感じ取った気配とは別。より明確で、より切迫した感覚だった。
(ヤバいっ!)
振り向くことを中断し、その場から飛び退く。すると、入れ替わるように巨大な塊が飛び込んできた。
「うわぁッ!」
塊が地面に着弾すると同時に、闘技場を揺るがすほどの轟音と衝撃が起こる。その衝撃は凄まじく、躱したにもかかわらず体が吹き飛ばされた。
天地がひっくり返る。
(クソッ!)
手足を動かし、体勢を立て直す。
「はぁ……はぁ……」
間一髪、片膝立ちの姿勢で着地することができた。そのことに一瞬安堵したが、すぐに数秒動くのが遅れていたら直撃していたという事実に戦慄し、鼓動が高鳴る。
(何が起こった?)
土煙に目をやる。
濛々と立ち込める土煙の中心、陥没した地面に巨影が佇んでいた。
(なんだ、あれ?)
土煙に佇む巨影を注視していると、巨影が僅かに動いた。
咄嗟に、後ろへ飛ぶ。
「ッ!?」
直後、巨影が再びこちらに向かって突っ込んできた。
(速いッ!)
巨影は、弾丸のような速度で迫ってくる。
「クソッ!」
それに比べ、こちらは片膝立ちの状態から跳躍したせいで大して勢いが付いていない。
(ギリギリ間に合う!)
だが自棄にならず、差し迫る巨影を躱す猶予があるかを見極める。
少しでも早く地面に降りようと、足先を延ばす。そして足先が地面に触れた瞬間、そのまま足先を軸に九十度体を回転させ、射線から外れるように横へ飛んだ。
(これならッ)
巨影は横へ逸れたことに反応し、腕を伸ばしてきた。
(なッ!? 腕が伸び――)
追撃されるだろうとは予想していた。そのため、巨影では届かないように、低く、地を這うように飛んだ。しかし――、
(長いッ?!)
伸びたと錯覚してしまう程に、化け物の腕は長かった。それに加え、腕は地面を抉りながら迫ってきたのだ。想定外の長さ、そして動きに対応できず、腹部を掴まれてしまう。
「クソッ! 離せッ!」
大声を上げるが、巨影は何の反応も返さぬままゆっくりと腕を持ち上げる。
両足が地面から離れると、タイミング良く土煙が晴れて巨影の正体が露わになった。
「ッ!? こいつッ!?」
巨影の正体は、壁際で腹這いに寝そべっていた牛の化け物だった。
(格が違うんじゃなかったのかよッ!)
魔族たちを信用しているわけではないが、化け物が自分を避けたのは事実。それが、何の前触れのなしに自分へ襲い掛かって来た。
化け物の不自然な行動に、疑問を抱く。
(何でだ? アレは油断させるためだったのか? ……ん? こいつ?)
思考を巡らせていると、化け物の様子がおかしいことに気が付く。
化け物は、目に光が無く、唸り声の一つも発していないのだ。
(生気が無くなった……。クソっ! 今は兎に角、腕を振り解くのが先かッ! 強く握られてない今なら、振り解け――)
「は?」
化け物の顔を見た後、右腕を辿って掴まれている腹部を見た。
黒毛が生えていない掌は岩肌のようであり、指は女性の腕のように太い。その内の一本。一際太く、歪に尖った親指の爪が腹部に深く突き刺さっていた。
「あぁああああああああああ!!!」
満身の力を込めた左拳を、化け物の腕へ振り落とす。
拳を通して、骨の折れる感触が伝わる。すると、化け物の腕がこと切れたように地面へ落ち、体が解放された。
「……」
本来ならば、化け物から距離を取っただろう。 しかし、とある異変を前にして身動き一つ取れなかった。
腹部に大穴が空いたのにもかかわらず、痛みを感じないのだ。
(なんで何も感じない……)
狼狽えながら腹部を見ていると、更なる異変が起こる。
「あ」
爪が刺さっていた腹部は、化け物の腕を力づくで外したせいで肉が抉れていた。
その箇所に、芋虫が群がっている。
(なッ)
急いで小虫を払おうとしたが、寸でのところで手が止まった。
「……」
虫など、一匹もいない。
動いていたのは虫ではなく、自分の筋繊維が絡み合い、再生をしていたのだ。
「うッ、おえぇ」
吐き気が込上げ、堪らず嘔吐する。
腹部は、瞬く間に再生を終えた。傷跡は残っておらず、痛みを感じなかったせいで怪我を負っていたのが嘘のようだった。
だが、確かに見た。
黒紫色をした筋繊維を。
「ヒャッヒャッヒャッ、うまく操れんのう」
「うむ、黒肉が再生したな。それより、もっと上手く操らんか、脳無しがッ!」
「ワシは上手いぞ。凄いじゃろ、貴様ら」
「牛畜生なぞ使い潰せ! これっぽちも傑作の性能が見れんぞ」
望んでいたものが見られなかったのか、魔族たちが騒ぎ出す。
「お前ら俺に何をしたッ!!!」
闘技場に響き渡る怒声。
魔族たちは面を食らったような顔になり、こちらに視線を向ける。
「黙ってないで答えろッ!! 俺に何をしたッ!!」
激情の赴くまま鬼の形相で睨みつけるが、魔族たちは何の反応も返してこない。
無反応がより一層、感情を昂らせた。
「何したかって聞いてんだろッ!!!」
何度も怒声を上げると、ようやく魔族たちが反応を見せる。ただし、それはこちらが望むものではなかった。
寧ろ、逆。
閉ざした口を今まで以上に吊り上げ、醜悪な笑みを作った。
「ッ!」
笑みを見た瞬間、我を失う。
闘技場を駆け、壁の上にいる魔族たちの元へ肉迫せんとする。
――ところが、
頭の中で何かが響いたと思うと、意識が薄れ始める。
(クソッ、暗闇に戻すつもりかッ! ふざけるなッ! 俺は……)
意識が覚醒をする。
「……暗闇に戻されたんじゃないのか?」
まだ自分が、闘技場にいることに驚く。しかしそれも束の間、すぐに意識を失う前のことを思い出す。
「ヒャッヒャッヒャッ、少しは冷静になったか。これで畜生に打ち込めるのぉ」
「くっちゃべってないで、手を動かせッ! 痴呆がッ!」
「貴様ら、ワシがいないと本当にダメじゃのう」
「やっと、やっとだ! ワシの傑作の性能がやっと見れる!」
意識を取り戻したことに気が付いたのか、騒ぎ出す魔族たち。
視線を向けると、いくつか変化が起こっていた。
まず、魔族たちが立っている壁。そこだけが化け物と同じ高さになっている。さらに、化け物が魔族たちの前に移動しており、生気の無い顔をこちらに向けて座っていた。
「お前ら俺に何をしたッ!!!」
ただ、そんなことはどうでもよかった。それよりも、魔族たちが体に何をしたのか聞き出す方が重要だった。
「答えろッ!!!」
先ほどの繰り返し。いくら怒声を浴びせても、魔族たちは楽し気に嗤うだけだった。
(あいつ等ッ!)
再燃する怒り。 しかし、首の皮一枚のところで踏み止まる。
(ダメだ、落ち着け。今また突っ込めば、さっきと同じにことになる)
歯を食いしばり、心を落ち着かせるように努める。
(隙を見せた時に、一気に近づく。それまで堪えろ……)
神経を研ぎ澄まし、魔族たちの一挙手一投足を見据える。
「ん?」
ごく僅かではあるが冷静になったことで、魔族が赤黒い液体の入った注射器を持っていることに気付いた。
(なんだ……?)
魔族が、その注射器を化け物に打ち込む。
注射器の中身を全て打ち込み終えると、壁がせり上がり出した。
(逃げられるッ!)
壁が元の高さに戻れば、手が出せなくなる。また意識を失わされるかもしれないが、今を逃すと二度と好機は訪れないかもしれない。
全速力で疾走し、一体でもいいから捕らえる。
(これしかないッ!!!)
そう思い、駆け出そうとした。が――、
全身に、また電流が走った。
(これってッ!?)
慌てて、視線を魔族から化け物へ移す。 しかし、化け物は石像のように固まったままだった。
(ならッ!)
振り返って何もないことを確認した後、直ぐに上と下と続けざまに視線を向ける。が、闘技場には何もいなかった。
(勘違いだったの――……ん?)
極々小さな音に気付いた。
それは、まるで脈打っているような音だった。
(何の音だ?)
耳を澄ますと、音は魔族たちの方から聞こえる。
音のする方へ顔を向ける最中、二つの影が目に入った。
一つは自分の影。もう一つは化け物の影。
(化け物の影が……)
自分の影は普段と変わらないが、化け物の影だけが幽かに揺らいでいた。
「なッ!?」
化け物へ視線を向け、思わず息を吞む。
化け物の顔に、無数の血管が浮き上がっていたのだ。
血管が一本、また一本と浮き上がり、音を鳴らしながら激しく脈打つ。さらによく見ると、首筋の血管も浮き上がり脈打っていた。
(全身の血管が脈打っているのか? ――……ッ!)
「さっきの注射かッ!」
化け物に打ち込んだ注射器のことを思い出す。
「ヒャッヒャッヒャッ、さあ第二ラウンドの始まりじゃッ」
「喧しいわ、黙ってろ老いぼれッ!!!!」
「今からワシの実験体が貴様らを楽しませてくれるわい、よお見ておけい」
「さあ傑作よッ! ワシにその性能を美を見せてくれ!!!!」
そして、壁が元の高さに戻ったタイミングで――、
「グォオオオオオオオオオ!!!」
闘技場を震撼させるほどの雄叫びが上がった。
「あッ?!」
咆哮を一身に浴び、体が竦む。
その隙に、化け物が迫って来た。
視界が徐々に、黒色で埋め尽くされる。
「あ――」
化け物の突進を食らい、体が凄まじい勢いで後方へ吹き飛ぶ。数メートル程吹き飛ばされ、地面の上を何度も転がり、ようやく体が止まった。
土に塗れた上体を起こすと、眼前には追撃を加えようと既に化け物が迫っていた。
「グォオオオオオオオオオ!」
拳を横向きに倒し、払うように振るわれる左腕。
荒々しい暴力が迫ってくる中、躱すことも、防ぐこともせず、あろうことか傍観した。
固い感触と共に、胸部に衝撃が走る。
次の瞬間、目に映る光景が物凄い速度で流れていく。
激しい風切り音を鳴らしながら、先ほどと同じように体が吹き飛ぶ。
化け物の猛攻は止まらない。
巨体とは思えぬ程の跳躍をみせ、全体重をかけて踏み潰さんとする。
「グゥ、オ、オォオオオオオオオオオオオオ!!!」
飛来した化け物が降り立つと、地面を砕く轟音と地響きが闘技場に鳴り響く。
土煙が立ち上る。
化け物の猛攻は続く。
左腕を限界まで振りかぶると、渾身の力を込めて振り下ろす。
何度も、何度も。
やがて体力の限界を超えたのか、化け物の動きを止めた。
闘技場に、静寂が訪れる。
(……血の匂い?)
陥没した地面。その中心で土を払いながら立ち上がると、化け物の気配を探る。
「……」
自分でも信じられない程に、心が平静だった。
雄叫びを聞いた時は、確かに驚いた。 しかし、化け物に吹き飛ばされたことでその緊張は解かれた。
そして、体の異変。
通常であれば、最初の一撃を食らった時点で死んでいただろう。
だが今は、何も感じることはなかった。
化け物は俺を殺せない。
そのことを理解した途端、化け物に抱いていた感情が霧散した。
それだけではない。
魔族たちに向けていた激情も収まった。
消えたわけではない。今尚、心の底で燻っている。それでも、激情に駆られて行動を起こさない程度には冷静さを取り戻せた。
(まさか、殴られたことを感謝するとはな)
自身の心境に驚きながら、土煙が晴れるのを待つ。
「グゥ、グルルルルル」
化け物もこちらの気配を感じ取ったのか、息苦しそうにしながら唸り声を上げた。
やがて土煙が晴れ、化け物と相対する。
「な……」
化け物の体が、緑色の液体に塗れていた。
「なんだ? 血なのか……?」
色は緑色だが、確かに血の匂いがする。よく見れば、緑色の液体は浮き上がった血管から流れ出ていた。
(この世界だと、緑色が普通なのか? それとも、化け物だからか? ……ん?)
化け物の呼吸がおかしい。
始めはただ息が上がっていると思っていたが、違う。
いつまで経っても呼吸は整わず、むしろ、時間が経つほどに酷くなっていく。
(こいつ……)
化け物に意識を向ける。すると轟々と燃え盛っていた大火が、魔族たち並みに弱弱しくなっていた。
「グォ、オ、オォオオオオオオオ、グォォォォォ!!!」
振り絞るような雄叫びを上げ、化け物が再び攻撃を仕掛けてきた。
「……」
振り降ろされる拳を、他人事のように眺める。
(遅いな……)
拳が頭部に触れる直前、後に飛び退いて躱す。
振り降ろされた拳は、止まらずにそのまま地面を殴った。
「グギャァァァァァァァァァァァ!!!」
化け物が地面を殴ると、血管から勢い良く血が噴き出す。
「グ……グゥ、ガァアア……」
化け物が、地面に倒れ込んだ。
「……」
いつの間にか足元には、緑色の血溜まりが出来ていた。
巨体が浸かれる程の大きな血溜まり。その中で、血に塗れながら化け物が藻掻く。
「もう動くな……」
口を衝いて出た言葉。
「ガ……、グゥル、ルル……」
しかし言葉が通じる筈もなく、化け物は藻掻き続ける。ひどく緩慢な動作で腕を地面に付き、支えにして起き上がろうとした。
その瞬間、血管が裂け、おびただしい量の血を噴出す。
再び、化け物が血溜まりに崩れ落ちる。
「……ガ、……ァ……」
やがて、身動ぎ一つしなくなった。数秒後、水の入った袋が破裂するような音が化け物の体内で鳴り、青い火が消えた。
「ヒャッヒャッヒャッ、時間切れじゃな」
「役立たずのゴミめッ! もう少しやれたじゃろッ!」
「ワシが造ったばかりに格が違い過ぎたか、悪いのう貴様ら」
「何故じゃッ! 何故ワシが授けた力を使わんのじゃッ!」
一部始終を眺めていた魔族たち。
「「「「次じゃッ!!!」」」」
魔族たちがそう言った直後、壁の奥から複数の大火を感じ取った。
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