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優しい「きょーちゃん」、怖い「けいくん」。

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 三月六日午後五時。古賀真緒こがまおはノートパソコンの前で受験票を握りしめ、頬を上気させた。92810。合格者受験番号一覧と題された数字の羅列と受験票を大きな猫目で何度も見比べ、真緒は相好を崩した。
「う、受かってる……!」
 手汗でくしゃくしゃになった受験票を手に、上着も羽織らずに部屋を飛び出す。
 玄関を開け門柱を抜け、すぐに急カーブ。潤朱の屋根の自宅から藍色の屋根の隣家へ突っ込んでいく真緒。
「おばちゃん!おじゃまします!」
「あらあ、真緒君、いらっしゃい」
 勝手知ったる他人の家。リビングで洗濯物を畳んでいる鈴村のおばちゃんに一礼し、真緒は階段を駆け上がった。
 やっと!やっと言える……!
 真緒の脳裏に鈴村京一すずむらきょういちこと「きょーちゃん」との思い出が走馬灯となって巡った。
 六歳年上の京一は真緒のお隣さんで兄貴肌の幼馴染。泣き虫で引っ込み思案だった幼い真緒の隣には、いつも彼が居てくれた。真緒が泣けば励まし、動けなくなれば手を引いて、本当の弟にするように温かく接してくれた。
 彼は常に太陽を浴びているような活発なたちで、だから刈り上げられた短髪は赤茶けている。太陽の光に透けてきらめく彼の髪を眺めると、真緒はいつもうっとりしてしまう。
「きょーちゃん!」
 半開きのドアをノックもせずに開け放つと、ゲームのコントローラーを手にした京一が瞳をまん丸にして真緒を振り返った。髪と同じ色の太眉にくっきりとした二重、小動物のような愛らしさのあるくりくりの瞳。香色の瞳に映り込んでいる自分を見つめ、真緒は胸を熱くした。
「真緒。どうした?そんなに慌てて」
 京一は対戦中のゲームを切り上げ真緒に向き直った。彼の口角はいつだってほのかに上がっている。真緒は京一に膝を突き合わせ「大学、受かってた!」と声を張り上げた。京一の瞳が再び見開かれ、それからきゅっと細められる。
「やっぱりな!お前なら大丈夫だって、言っただろ!」
 潤んだ瞳に高揚で上ずった声。真緒の大学合格を自分のことのように喜ぶ彼は、年下の幼馴染の肩をきつく抱いた。
「きょーちゃんのおかげだって!きょーちゃんが俺の勉強見てくれたから……!」
「数学と物理だけだろ?お前の実力だよ。おめでとう、真緒」
 伸びっぱなしの黒髪をぐりぐりと撫でられると勝手に相好が崩れる。
 泣いている真緒に「どうした?」と聞いてくれるのは、決まって彼だった。優しくて、純粋で、まじめで、ほんの少し抜けたところのある京一が、真緒は昔から大好きだった。
 五歳の春。怪我をした脚に痛くなくなるおまじないをかけてくれた。
 九歳の秋。熱の出た真緒をおぶって家まで送ってくれた。
 十一歳の夏。キャンプ場で迷子になった真緒を助けに来てくれた。
 十五歳からの一年間。不良のパシリにされていた真緒の弱音をいつも受け止めてくれた。
 十八歳の夏から冬。仕事で忙しいのに、休みには勉強を見てくれた。
 こんなの、すきにならない方がおかしい。真緒は京一を見つめ胸を高鳴らせた。
身体が大きくなって、手を繋ぐ必要もなくなって。この手を引いてくれた彼の手の温みを何度思い出そうとしただろうか。何度この想いを打ち明けようとしただろうか。
 きょーちゃんがすき。密かに温めてきたこの気持ちを伝えたい。今日こそは、絶対に……!
「きょ、きょーちゃん、俺っ……!」
 京一のパーカーの袖を掴み、にじり寄る。「うん?」笑みを深めて言葉の続きを促す彼。震える唇に「す」の形を取らせたところで、彼の眼差しが真緒を通り抜けてしまった。
「圭司!どこ行くんだよ!こっち来いって!真緒が大学受かったって!」
 圭司。真緒はその名を聞いてがくがくとドアの方を振り返った。
 林圭司はやしけいじこと「けい君」はたっぷりの皺を眉間に集めて溜息を吐いた。
まさか、けい君が来るなんて。
 真緒は京一の傍から飛び退き後方へ回った。元々の猫目が更にきゅっと尻を上げ、肩は緊張で竦んだ。真緒は圭司が苦手だ。はっきり言えば、怖い。
 二歳年上の幼馴染である圭司も真緒のお隣さんだ。古賀家を挟み、向かって右手が鈴村家、左手が林家となっている。京一、圭司、真緒。性格も年齢も異なるこの三人は真緒が物心ついた頃から兄弟のようにして過ごしている。
 センター分けの黒の前髪から覗く垂れ目。平常でも膨らんでいる下瞼も相まって、その眼差しは何を考えているのか分からない。薄い唇は京一のそれとは違い、いつも不機嫌そうな“へ”の字を描いている。耳にはいくつものピアスが並んでおり、右の目尻の黒子もその一種のように彼の容貌を飾っていた。
 京一の温みのある外見とは違い、圭司のそれは冷たく険がある。人は見た目が九割と言うが、全くその通りだと真緒は思っている。
 五歳の春。圭司に突き飛ばされて躓き、膝を派手に擦りむいた。
 九歳の秋。熱が出ている真緒の顔面に圭司が氷嚢の中身をぶちまけた。
 十一歳の夏。迷子のすえ京一とコテージに戻るなり、圭司は頭ごなしに真緒を怒鳴りつけた。
 十五歳からの一年間。不良グループの中心となっていた圭司専用の舎弟として昼食のおつかいや荷物持ちをさせられた。
 真緒は圭司が怖い。「真緒は俺のおもちゃ」と言ってニヒルに笑う彼が怖い。
「へえ。真緒、大学受かったんだ?何学部?」
「……人文学部の社会学科」
「あー……なんかお前っぽいわ……」
「なんか文句あんのっ。俺がどの学科行こうが俺の勝手じゃん!」
「いや?頭の中でグツグツ考え事すんのが得意なお前っぽいなって」
 冷ややかに笑われ、真緒はますます京一の背中に張り付いた。「そうやって真緒をからかうな。本当に嫌われるぞ?」気持ちを代弁してくれる京一の背にしがみつき、真緒は圭司を睨んだ。圭司はしばらく真緒と視線をかち合わせていたけれど、「めんど」と一言吐き捨てドアノブに手を掛けた。
「邪魔者はこれで退散するんで。後は二人っきりでどうぞ?こっちも叶うといーね?」
 意味ありげな視線を真緒に向け、圭司はひらりと手を振った。口に出して確認したりはしないが、圭司は真緒の片思いに気付いている。秘めた想いを揶揄され、真緒は額まで熱くして眉間に力を込めた。……と、去ろうとする圭司を京一が阻む。
「圭司!ちょっと待て!俺も二人に報告がある!」
 瞳をぱちくりさせている真緒と再び眉間に皺を寄せた圭司とを並ばせ、二人の前に改まる京一。口元は緩み、頬は紅潮している。
「聞いて驚くなよ。……俺、彼女ができたんだ」
 かのじょ?
 真緒は思わず口の中で呟いた。けれど京一は気付かない。
 初めてできた彼女とどのように出会い、どこがいいと感じて、どう結ばれたか。まるで恋愛小説の一節のように朗々と語る京一。年上の料理上手な彼女は保護猫を三匹飼っているという。猫の名前はモコとミケとネネ……。ネネは京一を嫌っているらしい。彼は笑いながらネネに引っ掻かれたという腕の傷を見せてくれた。
 俺だったら、きょーちゃんを引っ掻いたりなんてしないのに。
 真緒は瞳に涙を貯めながらそんなことを思った。目尻で涙が盛り上がりふるふると震え始めてしまう。
きょーちゃんに彼女ができちゃった。もうこの気持ちは差し出せない。
「そーなんだ。おめでと。よかったね。他人の惚気ほどウザいもんはないからその辺にしといたら?」
 弛みきった視界の隅で圭司が乾いた拍手をする。こういった圭司の応酬に慣れっこの京一はにっこりと笑って「うん!ありがとうって言ってくれてありがとう!今日はこの辺にしとこうかな。真緒が主役の日だしな」と真緒の頭を再び撫でた。
 長かった初めての恋の終焉。……と同時に迎える初めての失恋。心臓を二回り大きく囲った部分がずきずきと疼く。心って、こんなに大きいんだ。真緒はふらふらと立ち上がり、ドアノブをきつく握った。
「真緒?どうした?」
 この声は昔から変わらない。真緒の宝物だ。京一の優しさにしなだれて涙を流したい。けれどもう手は離れてしまっている。この身体にはもう、あの頃の幼さはない。
「きょーちゃんごめん。昨日は緊張して眠れなくって。安心したら眠くなっちゃった。……今日は帰るね」
 京一の顔を振り返ることも出来ず、真緒は階段を駆け下りた。
 変わらないでいられたらよかったのに。小さくて泣き虫で、手を引かれないと歩き出せないような自分のままでいられたらよかったのに……。
 玄関を出た時にはすでに、溢れた涙が真緒の頬をしとどに濡らしていた。自宅の門柱の裏に膝を抱えて蹲る。悲しくて寂しくて、誰よりも大好きだった京一を知らない誰かに盗られて悔しくて、真緒は唇を噛んだ。
「あーあ。失恋しちゃったね」
 京一はあんなに優しく旋毛に触れてくれたのに、圭司はこんな言葉を旋毛にふりかける。真緒は眉を吊り上げて圭司を睨め上げた。
「けい君に関係ないだろ!あっち行って!」
 涙に溺れた瞳では威嚇の効果もないのか、圭司は真緒の傍を離れない。真緒は肩をいからせて全身で圭司を拒絶した。失恋が発火剤となり真緒の怒りが火の粉を上げて燃え盛る。
「なに。可愛くねーな。慰めてあげようと思ったのに」
「俺をからかいたいだけだろ!ほっといてよ!」
 圭司には小さな頃から散々いじめられてきた。幼い頃など、つねられたり叩かれたりは日常茶飯事で、時には痣が出来るほどだった。小学校に上がると言葉や態度でも強く当たられるようになり、中学校に上がって一転して無視されるようになったかと思えば、高校では専属のパシリ生活。ただただ圭司が怖くて怯えていた真緒は、このところ彼に反発するようになった。圭司のちょっかいに対して過敏に神経を尖らせ、同じだけの強さで突っぱねる。もう、いじめられていた頃の俺じゃない。真緒は圭司を視界に入れるまいとそっぽを向いた。
「俺ってさあ、京一と背の高さ同じなんだよね」
 こつん。飛び石のアプローチを踏む足音。圭司は真緒の傍にしゃがみ視線を重ねた。……つねられる!こちらに伸びて来る圭司の手に気が付いた瞬間、そう感じて肩が跳ねた。
 圭司は京一とは違う匂いがした。お日様の匂いのする京一に対し、圭司は夜霧のような甘く重い香りがした。
 圭司の肩口に自身の鼻先が埋もれて、真緒は瞳を瞬かせた。頬をつねるとばかり思っていた彼の手は真緒の背中に回り、冷たい風で冷え切った身体を抱き寄せている。
 え?なんで?なんで俺、けい君に抱きしめられてるの?
「体重もさ、一キロしか変わんない。意外じゃない?」
 耳殻が圭司の声で痺れる。かすかに肌に触れた他人の唇の熱に、真緒は手足をばたつかせた。「止めて、離して、離してってば!」そんな真緒を咎めるように腕の力がきつくなっていく。百九十センチ近い長身に抱きすくめられて、真緒は乾いた咳をこぼした。
「長い片思い、ごくろーさま。かわいそうだから俺が慰めてあげる」
 かわいそうだから。そんな言葉が真緒の鼓膜と脳天を串刺しにした。怒りでぴりぴりとこめかみが震え、真緒は圭司を思い切り振り払った。
「そんなこと言って、また俺をおもちゃにして遊ぶつもりだろ!」
声を上げてから真緒はハッとした。指先が圭司の頬を掠ってしまったようで、彼は手のひらで頬を抑え顔を顰めていた。
「痛ってー……」
 薄氷の上に居るような心地になり、真緒は圭司の前で固まった。「おもちゃのくせに生意気」そう吐き捨てた口元は綺麗な三日月を描いている。
「次の土曜日の午前十時、俺んちに集合ね。来なかったら、京一に全部バラすから」
 おもちゃに言いつける時、圭司は薄ら寒いほど綺麗に笑うのだ。真緒は唇の先まで紫色にして砂利を握りしめた。俺はやっぱり、けい君には逆らえない。


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