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君の愛で、ひとになる

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 担当からは連絡が来なくなり、連載していた漫画は二作共に無期限の休載に入った。俺は漫画を失った。何も持てない、何も持っていない俺は、少しずつ自意識から解き放たれ、世の中に馴染んでいった。
「航大さん、何を描いているんですか?」
 洗濯物を取り込んでいた奏多がベランダからこちらに戻って来る。季節は夏の盛りを迎えていた。
「ん?ああ、ちょっとね」
 君の後ろ姿を描いていたんだよ、なんて気障なことを言えるわけもなく、俺はスケッチブックを一枚捲った。奏多は話題を深追いせず、俺の目元にかかった前髪を指先で払ってくれた。
「前髪伸びましたね。僕、切りましょうか?」
「え?ああ、どうしようか。……そうだね、昼からは光子のところへも行くし……ちょっと整えてもらうか」
 浴室に男二人で入り、頭が出るようにくりぬいたゴミ袋を被される。
「奏多、いつも思うが、大げさじゃないか、前髪を切るだけなのに」
「襟足だって伸びていますよ。この際に切ってしまいましょう。さあ、前髪から切りますからちょっと視線を下げてください」
 銀色のハサミを無心に動かす奏多は薄っすらと汗を掻いている。印税などの収入はいくらかあるものの、未来に計画を立てられるほどの展望はない。省ける出費は省こうと、嫌がる彼にハサミを握らせたのはこの俺だ。今では彼の方から「伸びましたね」と声を掛けて来る。日常を彼と共につつがなく過ごせる安心感が俺をこれ以上なく穏やかにした。現実を受け止めてそれ相応の生活が出来る自分が、なんだか誇らしかった。
 リリリリリ、リリリリリ……。
 ずっと鳴らなかった固定電話が鳴り響く。「あれ、電話だ、どうしたのかな」髪を切り終えハサミの手入れをしていた奏多が顔を上げる。俺は短くなった襟足を摩りながら麦茶を傾けていた。
「はい、篠田です。……はい、はい……。……えっ、」
 受話器を持つ彼の背がぴくりと震えた。俺はその背を凝視した。めったに鳴らないこの電話が鳴るときは、事態が好転するか暗転するか、どちらかの時だけだということを、俺は知っている。彼はしきりに俺を振り返りながら受話器の向こうの相手に相槌を打った。
「せんせい」
 興奮の為に受話器を置くのにまごつき、それでも彼は俺の傍へと駆け寄った。ずっと呼ばれていなかった「せんせい」に、俺の胸が切なくしめつけられた。
「光子さんが、意識が戻ったって。目を覚まして、声を出してるって」
 熱い手が俺の腕を揺する。次第に熱く潤んでいく彼の瞳を見つめ、俺はこくりと頷いた。
「病院に行こう、今すぐに」
 喜びと不安で気の急いている奏多を助手席に乗り込ませ、俺は車を病院へと走らせた。ハンドルを持つ手が震えた。この時を待ち焦がれ、同時に、恐れていた。それは奏多も俺も同じことだった。
「光子さん、僕です、奏多です」
 光子の瞳が奏多へと向き、二度瞬く。思うよりもずっと緩慢な動作。奏多はそれでも穏やかな面持ちを崩さずに、そうと彼女の腕に触れた。奏多が毎日のように彼女の世話を焼いたからか、意識が半分戻ったような彼女は倒れる前とほんの少ししか変わらないように見えた。
 光子と奏多が蜜月の時を過ごす中、俺は医師から宣告を受けていた。
 意識レベルが低下していた期間が長いこと、おそらく多くの後遺症が残っていること、回復の見込みのある六か月を過ぎると回復は停滞期に向かうこと、それでもリハビリは早ければ早い方がいいということ、五年後に彼女が生きている可能性は健常の人のそれよりも低いこと。
 俺はそれらを受け止めて、奏多に共有した。奏多はただ黙ってこっくりと頷いた。俺も彼も同じ気持ちだった。どんな彼女になっても、受け止める。一人では受け止められなかったかもしれない、けれど、二人なら受け止められる。今の彼女を支えられる。
「先生、お弁当お持ちしましたよ」
「ありがとう。奏多は何か食べた?」
「僕はおにぎりを握って来ました。懐かしいでしょう。カリカリ梅とじゃこのおにぎりです」
 面会時間の始まる朝の十時から奏多が仕事をしている二時までは、俺が光子の傍に居るようにした。奏多は俺からバトンを受けて二時から夕方の七時まで彼女の面倒を見る。弁当とスープジャーを俺に手渡し、奏多は別の保冷バックからおにぎりを出して俺に微笑みかけた。
「本当、懐かしいな。少し前のことのはずなのに」
「明日の昼にでも作りましょうか。先生、お好きでしょう。……あ、光子さん見てる。光子さん、これ、覚えてますか?先生が好きな組み合わせだって教えてもらったおにぎりですよ」
 光子はそっと微笑み、ふうー、と長い息を吐いた。四か月近く眠っていたせいで筋力が落ち、半身には痺れや麻痺がまだらに残っている。運動障害、構音障害、感覚障害……。彼女に残った後遺症を細かく数えればきりがない。寝たきりだった時間が長く、病院でリハビリを受けられる期間は限られている。退院後のリハビリについても医師やケアマネージャーと相談しつつ、光子がストレスなく過ごせるような環境をこことは別に整えなくてはならない。
「光子さん、どうかな、あーん……」
 絶妙な角度でベッドに傾斜をつけ、頭はほんの少し俯かせ、座位の固定が難しい光子の口元へスプーンを持っていく奏多。普段介助をしている看護師がいろいろと教えてくれるらしい。このところ夜の食事の介助は奏多に任されているようだ。
「篠田さん、いいね、こんなイケメンにご飯食べさせてもらって」
 看護師に冷やかされ、光子はまんざらでもなさそうに笑った。食べることが好きな彼女に重い嚥下障害が残らなくてよかった。俺は心から神様に感謝した。彼女に癒しの一匙を与えている観音様にも、もちろん感謝した。
 日常に光子が戻り、俺たちの生活は余計に穏やかになった。ともすれば老夫婦のような静かな生活に、しきりに身体を結んでいたあの頃は幻だったのかと疑いたくなるほどだ。俺たちは肌を重ねなくなった。その代わりに、言葉と態度を幾重にも重ねるようになった。時に抱きしめ合い、寄り添って光子のことや他愛もないことを話す。もうそれだけで十分だった。
 光子が若かったからだろうか、俺たちが慣れたからだろうか。リハビリを開始して一か月が経つと彼女のおしゃべりも少しづつ聞き取れるようになった。
「かなた」
 俺は彼女が奏多を「かなた」と呼ぶのを初めて聞いた。正直に言うと動揺した。心の底から嬉しそうに光子に駆け寄る奏多にも、慈しむように彼の名を呼ぶ光子の甘い声にも。「リョウ君」と言えないのに「かなた」とはっきり発音してしまえる辺りはいかにも光子だなあと半ば感心してしまう。
「まんがは」
 いつの日か、奏多の居ない病室で彼女は俺に尋ねた。あまりに鋭い目つきだったので、俺は恐縮しきって「休載してる」と真実を隠さずに述べた。彼女はあからさまに溜息を吐いた。俺は更に縮こまる。脳梗塞を起こしてベッドに横たわっている妻が健常の夫を詰問する異常事態に、光子という女性のしたたかさを思い知った。
「ごめん。奏多に熱を上げて、手を付けられなくなった。でも、奏多のせいじゃない。俺の問題だ。俺はこれでよかったと思ってる。漫画ばかり描いてきて、俺はそれで満足してたけど、地に足がついてないことは分かっていたから。今はちゃんとゴミ出しもしてるよ。ペットボトルの分別だって、トイレ掃除だって、通帳記入だってしてる。前よりもずっと人間してるよ、今の俺は」
 光子は俺を睨んでいたけれど、口元をほぐして微笑んだ。
「もったいない」
 そうとだけ呟くと、彼女はレースカーテンの向こうに視線をやった。彼女の精一杯の強がりだということは、付き合いの長い俺だからこそ分かったことだと思う。密やかに愛してきた奏多を取られて、尽くしてきた夫は漫画家を辞めただの人間に戻って。彼女は悔しがった。不自由な体で、全身全霊で悔しがった。俺はそういう彼女を愛おしく思った。
 光子が自分でベッドから起き上がりポータブルトイレまで行けるようになったところで、病院でのリハビリは終了した。三人で話し合い、俺たちは在宅介護に切り替えてデイサービスやリハビリ施設に通うことを決めた。俺と奏多は慌ただしく今の光子に必要なものを買い揃え、寝室を彼女の為の部屋に作り替えた。俺は金を惜しまなかった。ヒット作を持つ自分を、この時ばかりは褒めたかった。
 ケアマネージャーと相談を重ね訪問介護のための手続きを済ませた日、俺と奏多は仕事部屋に敷布団を並べて長い息を吐いた。俺たちの閨となっていたあの大きなベッドは、光子の生活を整える為に粗大ごみになったのだ。
「せんせい」
 奏多は時折、家でも俺をそう呼ぶ。
「うん」
俺は、「航大さん」と呼ばれても「せんせい」と呼ばれても彼の声に応える。
「ねえ、せんせい」
 甘い声で呼ばれると、瞳が熱くなった。「奏多」俺の声も、存外甘ったるかった。
「僕、先生と光子さんに出会えてよかった。こんなに大切な人たちに出会うことは、僕が百歳になるまで生きてもきっとないと思います」
「……そう言われると、照れるな」
「せんせい」
 あの柔らかく白い手が俺の指を手繰り寄せる。頬に吹きかけるように囁かれて、俺はそうと彼の唇に自分の唇を寄せた。
「抱いてください」
 目を見て乞われ、俺は返事の代わりに深く頷いた。
 一人で頑なにペンを執っていた部屋で、愛おしい男を抱く。
 ああ、奏多、君はいなくなってしまうんだな。けれど俺もいつ君を手放せばいいのだろうと気を揉んでいたのは確かなんだ。光子もきっとそうだった。
 俺は大人だよ。こんなのでも大人だ。だから君を縛り付けるのはよくないって分かってる。けれど今の今まで手放せなかった。君が愛おしくて、君に傍に居て欲しくて、君のいなかった日常が思い出せなくて、決断出来なかった。
 どうしてこんなに君が愛おしいのだろう。俺の描いていたスケッチは君ばかりだ。君がどれだけ傍に居ても、俺は一瞬だって君を忘れられない。
「航大さん、愛してます、あなたのこと、ずっと、これからも」
 キスの合間に囁かれ、俺は唇を離して彼を見つめた。
「……かなた」
 俺は愛しい彼の名を呼ぶだけで、その気持ちに応えられなかった。彼は悲しく、けれどほっとしたように微笑んで「あいしてる」ともう一度囁いた。
 愛してる。俺も、愛してるよ。
 そう言わなかったのは、俺の最初で最後の誠実だったと思う。
「航大さん」
 俺はどれだけ君に救われただろう。君の素肌に触れて温もりを知って、人を知った。俺は君に我儘をたくさん言ったね。けれど君は全部受け止めてくれた。最後まで俺は、与えられる側だったね。それが寂しくて、悔しいよ。奏多、君には、敵わない。
 優しい色合いのパジャマのボタンを一つ一つ外して、リネンの奥から月影の落ちた肌を露にする。俺は可能な限りその肌にそうと触れる。温もりに頬を寄せ、彼の鼓動に耳を澄ませる。奏多も同じように、俺のTシャツの下に指先を忍ばせ、温もりを確かめた。
「航大さん、あったかい」
「……奏多は熱いくらいだ」
 唇を重ね、互いの舌も重ねる。愛撫というよりも、動物同士の毛づくろいに似た仕種で互いの舌を慈しむ。「航大さんの舌って、大きい。息が止まってしまいそう」そんなことを今更になって言う君を、俺はいつまでもこの腕の中で愛したかった。
「奏多、今日は、俺がするよ」
 ハッとして上半身を起こす奏多を制すように手を握り、俺は彼のパジャマのゴムに手を掛けた。パンツの中で固くなっている陰茎は俺のものより臆病で、外気にさらすと少し柔くなってしまった。
「せん、せい、だめ、きたないです」
「汚くなんかないよ」
 迷わず口に含み、俺はあの時の奏多の心に想いを重ねた。この臆病で小さな生き物をどう愛そうかと、舌が勝手に動き始める。どうにか気持ちよく、しあわせになってほしい。そんな思いを込めて触れ、唇で敏感な部分を優しく包み込む。
「あ、う、ああ、ああっ、せんせい」
 上ずった声と固くなっていくそれに嬉しくなって、俺は奏多がしてくれたように奥深くまで彼を迎えた。「あ、せんせ、せんせえ、せんせえ……!」航大って、呼んでよ。俺はものを口で扱きながら彼を見上げた。
「でる、でます、こ、こうだいさん、いっちゃう……!」
 心で結ばれるとテレパシーまで使えるのだろうか。俺はふふと笑って、それからぴたりと隙間なく唇をすぼませた。彼の欲が俺の口の中に溢れる。俺はそれをゆっくりと飲み下した。
「航大さん、僕も……」
「うん、おいで」
 俺のものを唇の奥へと迎えた奏多の頭を撫でる。彼はうっとりとした瞳で俺を見上げ、陰茎の根元から先へと何度も丁寧に舐め上げた。「奏多、気持ちいいよ。久しぶりだから、すぐ出てしいまいそう」正直に言えば、奏多は微笑んで先を口に含んだ。
 優しく緩い愛撫が続く。彼は長く俺を愛したいのだと気が付いて、俺は彼の髪を指で梳いたり撫でたりして過ぎ行く時間を惜しんだ。奏多は赤くなった唇を陰茎から離し、俺の胸に頬を寄せた。
「今日は、僕の中だけに、出してほしいです」
「うん、いいよ。じゃあ、俺が慣らしてもいい?」
「すぐに挿れられるように、準備は……」
「ありがとう、嬉しいよ。でも、今日は俺がそうしたい。構わない?」
 奏多はずいぶんと迷って、それから小さく頷いた。敷布団の上に白い身体を寝かせ、自身の指を唾液で潤す。指先で触れただけで、そこはきゅんとすぼんで性感を走らせた。あてがった指先を突き立てたまま押しつけると、固く閉じているはずのそこが淫らに崩れていく。
「ん、んう、ん、んっ」
 中はもうぐずぐずだった。熱く、湿って、絡みついてくる。こんな場所に挿れていたのかと、俺はますます高ぶった。二、三度抜き差ししたところで奥から潤いが滴って来る。俺の指は仕込まれていたもので濡れそぼち、中が締まる度に雫が手首へと伝った。
「だ、だめ、こうだいさん、こすらないで、もう、だいじょうぶなのに」
「いいよ。このままいって」
「だめ、せんせいの指で、いきたくない。それだけは……」
 神聖なる吾妻リョウの利き手では達したくないということか。俺は彼の切実な願いを聞き入れなかった。自分に嫉妬するなんて、彼に出会う前は思いもしなかった。
「今の俺は、先生じゃない」
 二本の指で中を入り口から奥へと抜き挿しする。「ああ……っ!」彼の前から緩慢に雫が伝い、ぼたぼたと音を立ててシーツに模様を描いた。俺の指を喰い締め、桃色になった胸を反らして涙をこぼす彼は、淫らでいたいけで可愛い。
 彼とするセックスは気持ちいい。性器で繋がっていなくても、愛の海を漂っているように、気持ちいい。
「航大さん、もう、僕、」
 奏多の両足の間に割って入り、自身の熱を擦れて膨らんだすぼまりへと押しつける。中はきつくうねって俺のものに絡みついた。
 俺は彼の中に入るといつも、普段の彼の穏やかさとその中の様子の差に眩暈がする。
俺の手元を離れたら、他の男がこの子に寄って来るのだろうか。その男はこの身体を俺がするように愛するのだろうか。考えるだけで背筋が戦慄いた。この子は俺のものだ。俺だけのもの。俺の手を離れても、俺のものだ。そういう口には出せない我儘を、何度も何度も頭の中で喚き散らす。
「奏多、どこへ、どこへ行くんだ、いつここを……」
 情けない男のうわ言を、奏多は微笑みだけで受け止めた。奏多の愛に応えられなかった俺への、神様からの罰だった。
 胸は引き裂かれ、けれど俺は、彼の行く先が温かなもので満ちた未来でありますようにと心から願った。
「愛してる、航大さん、僕っ、あなたを、あいしてる」
「かなた、かなた、かなた……!」
「僕の、傍にいて。僕の、手を握って。ずっとずっと、ずっと、僕の……、」
 後は嗚咽で言葉にならない。緩く浅い律動の中で、奏多は何度も達した。俺も彼の中へ何度も注ぎ、何度も掻き出した。夜空が白む頃まで身体を繋いで、互いの素肌に触れた。何度繋がっても、何度口づけを交わしても、足りなかった。
 ふと浅い眠りに落ち、俺ははたと瞼を上げた。……もう隣には、奏多はいなかった。
「奏多」
 分かっているのに呼び掛ける。シーツに残った温もりを探しても、もうすでにそこは冷たくなっていた。自室を出てリビングを見渡すが、奏多はいない。
「奏多、奏多」
 分かっているのに、もう彼はいないと、戻って来ないと分かっているのに、俺は家の中の扉を全て開け放ち、その度に奏多を呼んだ。
 リビングにもう一度戻り、ダイニングテーブルに飾られたままになっていたスノードームを見下ろす。降り積もったままの雪を見ていると、涙がこぼれた。
「最後まで、何も与えさせてくれない子だったな、あの子は」
 朝日が昇る。俺は自室に戻り、ペンを握った。散ったインクをホワイトで消せば、その原稿用紙は新品同様に、朝の光を受けて輝いた。
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