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唇と舌に抱かれる

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 描けない日は、気が滅入る。そんな日は、描けるようになるまで、描く。実際問題、描けないからといってペンを置いていたのでは掛け持ち連載は務まらない。
 あれから二か月が過ぎ、光子が眠っていることが日常になってしまった。俺は淡々と漫画を描き、時に病室を訪れ彼女が息をしているのを確認する。奏多は俺の生活の一部のように、居るような居ないような存在感で常に傍にある。描けない日は、確かに気が滅入る。なのに俺は今までになく落ち着いていた。
「奏多君、珈琲を一杯頼める?」
「はい、いま」
 リビングに入って来た俺を見るなり、奏多はささと身なりを整えた。そんなことをしなくても小奇麗に整えてここに来ているくせにと、俺は自分の女を甘く詰るような心地で目を細めた。
「せんせい」
 珈琲の香りもしない内に呼ばれ、俺はソファーに座ったまま彼に視線をやる。
「光子さんから、先生は紅茶がお好きだと聞いていて。だから、珈琲については……。どう淹れるのがよろしいですか?お気に入りの銘柄がおありですか?」
 奏多は俺が傍に寄るといつも緊張している。俺の方では二人で居ることに慣れて、奏多の表情や身体、仕種の隅々まで観察するようになっていた。肩が触れるほど近づくと、彼はまず一歩俺から離れる。触れるか触れないかの肩の先が力み、頬はじんわりと桃色になる。
 ああ、この子は、本当に俺がすきなのだな。
 そう思うと妙に呆れた心地になる。吾妻リョウがすき、という領域から彼の感情がはみ出しかかっているのが手に取るように分かる。恋する人間はこうやってイニシアチブをとられていくのかと、俺は目の覚めるような心地で奏多を見つめた。
「俺はね、珈琲は安っぽい味の方が好きなんだ。どこにでも売っているインスタントコーヒーの粉を濃い目に入れて、後で牛乳をたっぷり、砂糖はティースプーンに一杯ほど入れる。珈琲は光子の方が詳しいくらいだ」
「ああ、それでこんなにいろんな豆が置いてあるんですね。光子さん、僕の前ではあまり飲んでなかったなあ。僕の淹れ方が下手だったのかもしれない……」
 この一言で、俺の知らない二人が彼の家で会っていたことを知る。「彼女にはお気に入りのカップがあるから。それでじゃないかな。気にすることはないよ」若い男の一人暮らしの部屋、小さな台所に並んで立つ二人を想像する。俺は一瞬、誰に嫉妬したいのだか分からなくなった。飼い猫二匹が寄り添うのを見つめているような心地になり、瞬きを繰り返す。
 温めた牛乳をたっぷり入れた珈琲を飲んでそのままソファーで横になる。頭を冴えさせたくてカフェインを摂取したつもりが、温かくこっくりとした飲み物が胃に落ちて先に眠気がやって来た。
 ――リョウ君、描いて。
 二十代後半のことだったろうか、明後日が締切日という時にインフルエンザに罹り、俺はぜいぜい言いながら机にへばりついていた。ちょうど担当の反対を押し切ってアシスタントを全員解雇したばかりの時で、ここで仕上げなければまたアシスタントを雇うことになってしまうと、俺はペン先をインクに浸した。ペンを持つ手は悪寒で震え、身体は鉛にでもなったのかと思うほど重かった。
 あの頃は今よりも古く狭いアパートに住んでいたが、光子とはすでに半同棲状態にあった。Gペンの先が動かないのを見て、台所で粥を作っていた光子が俺の傍に寄った。後にも先にも、彼女が俺の原稿に触れたのは、この時だけだった。
 ――ここで負けちゃダメ。腕が折れても、脚がもがれても、たとえ心臓が今にも止まりそうでも、あなたは描くの。死ぬときはペンを持って前を向いたまま死んで。私はそういうあなたをすきになったの。
 言われなくてもそうするさ。
 言い返す代わりに、俺はペンを動かした。彼女は俺の手の震えを制すように腕に手を添え、反対の手で原稿を抑えた。
 ――リョウ君は描けるんだよ。どんな状況になったって、どんなあなたになったって、あなたは描ける。描くのを止めるなんて、この私が許さない。あなたはあなたである前に吾妻リョウなの。
 暴力的なまでの叱咤に、俺は笑うしかなかった。あの時の光子の言葉は今も俺の胸の中にある。あの言葉にどれだけ励まされたか。なのに今の光子の身体の中は、空っぽだ。あの時、あの言葉をかけてくれた光子は彼女の身体から出て行ってしまった。
 戻って来てくれ。
 俺と光子しか居ない夢の中で、俺は強く願った。点滴の雫は絶え間なく彼女の身体に染み渡り、ベッドの下の透明なパックの中へ尿となって排出されている。彼女はちゃんと生きている。なのに、ここには居ない。彼女の魂はどこかで迷子になって一人歩きしている。
 光子。
 両手を振り回し霞となった彼女を掴もうとするが腕は空を切るだけ。光子、光子!光の奥に叫んでも、彼女は振り向かなかった。
「先生」
 意識が身体へ吸い戻される。「先生」瞼を上げれば、青ざめた顔をした奏多と視線が重なった。長いこと眠っていたような気がしたのに、時計ではまだ三十分しか経っていなかった。
「先生、ごめんなさい」
 潤んだ瞳を見開いた彼の声は震えていた。ソファーに横になった俺の傍にしがみつくように寄り添っている彼。薄い肩はひどく力んでいる。
「先生、苦しそうにされていて、僕、光子さんのことを思い出してしまって、眠っているだけだって分かっていたのに、またあんなことになったらどうしようって……」
 光子が倒れた際に彼がどんな思いをしたのか、俺は考えたこともなかった。噛みしめた唇まで真っ青にして恐怖を拒絶するように瞼を堅く下ろしている奏多は、俺にはとてもかわいそうな生き物に見えた。
 俺や光子にとって彼は救世主なのだが、彼にとって彼はそうでないのかもしれない。もしかしたら、光子が眠ったままなのは自分のせいだと思っているのかもしれない。
「奏多君」
 彼の肩に触れようと上半身を起こしてから身体にブランケットが掛けられていることを知る。俺は俯いたままの彼の旋毛にそうと触れた。
「大丈夫。俺は生きてる。ここに居る」
 念を押すように言い含めると、彼の面がゆっくりと上がった。「本当に?」今にもそう問いそうに薄く開いた唇。太い眉は力なく下がっている。
 今まで他人に「大丈夫」なんて言葉を掛けたことがあっただろうか。誰かを支えられるような俺でないことは、俺自身が一番よく分かっている。けれどいま、彼にそう言えるのは俺だけなのだ。この世界でたった一人、俺だけ。
 繰り返し頭を撫でると、彼は次第に緊張をほどいた。俺は、光子にするように俺を心配する彼をいじらしく思った。奏多はしばらく俺に身を委ねていたけれど、そのうちに俺の手をそっと両手に取り、包み込んだ。
「先生の手は、魔法の手です」
 水仕事の後なのかひんやりと冷たい奏多の手。思えば彼の眼差しをこれほど真っ直ぐに見つめたのは初めてのことだった。透明感のある胡桃色の光彩の真ん中に漆黒の瞳孔が浮いている。柔らかな光が浮かんでは消え、結んでは途切れ、彼の大きな瞳の中で躍っている。
「先生は、僕を何度も救ってくれる」
 両手で包んだ上から手に頬を寄せられ、俺は呆然とその様子を見つめた。奏多ときたら、容貌だけでなく身体の様子や仕種まで観音様なのだ。柔らかく、優美で、光に溶けてしまいそうなほど儚い。彼は人の想像の産物なのではないかと疑ってしまえるほど繊細な線を描いていた。
 人の温もりをこの手に感じるのはいつぶりだろうか。
 俺と光子の間には、肉体的な触れ合いはほとんどなかった。俺たちは愛し合っていたけれど、肌を合わせることには互いに抵抗を感じていた。
 自分より十も若く美しい彼女に気が引けた俺は、光子のみを対象にしたオープンマリッジを提案した。「リョウ君の負担が軽くなるのなら」光子はそう言って了承した。
この家では常に吾妻リョウの為にと気を張っていた光子。そんな彼女を見ているとありがたい反面、つらかった。こんな場所でずっと燻らせるのなら、帰って来ることを約束させて解き放った方がいい。籠から出した蝶は羽ばたいて、奏多という止まり木を見つけた。
「せんせい」
 俺は恥じた。自分の股座にあるものがブランケットを押し上げるまでに反っている。
 手を握られただけで、こんな……。
 自慰はほとんどしない。勃つこと自体、あまりない。漫画で全てが間に合っているからだろうと、そんなことを考えていた。だのに、いま、俺は……。
「お疲れなんですね」
 言い訳も出来ずに奏多の表情を確かめれば、彼はいつものように微笑んでいる。俺の手を包んでいた手のひらは、ブランケットの下に潜り、スウェット越しに熱をそうと撫でた。
「せんせい、お嫌でなければ、僕が……」
 言う間にも両手でするすると形をなぞられ、俺は背筋を震わせた。普段そういうことをしないから耐性もない。奏多に触れられ、性感が出口を求めて鈴口まで駆け上がる。
 返事をしないのを了承と取ったのだろう。ブランケットをゆっくりと剥ぎ、俺のスウェットを下げて下着を露にする奏多の手。桜色の爪のついた健やかな指先が却って淫靡だった。
「せんせい、お嫌だったら、気持ち悪かったら、すぐにおっしゃってください」
 下着を下げると固く反ったものがまろび出た。真昼のリビングで自分の性器が露になり、俺は額まで熱くした。奏多は両手でものを包み込み、小さな生き物の様子でも窺うかのように優しく触れた。思わず下ろした瞼のせいで与えられる性感がより膨れ上がり俺の理性を吞んでいく。
 熱く湿った空間が性器の先端を包む。ハッとして瞼を上げると、奏多が俺の股座に顔を埋めていた。
「待って、待ってくれ」
 声は裏返り、脚は緊張で強張った。奏多は上目づかいで俺を一度見つめ、そのままものを咥内の粘膜で愛し始めた。暴力的なほどの熱を抱えたそれは、彼の咥内で柔らかな舌に抱かれた。添えられた手は扱くというよりも宥めるように陰茎に触れていて、唇は時に遠慮がちにすぼみ俺のものを啜った。慈愛に満ちた心で愛撫されているのがはっきりと分かる。俺は喉を何度も鳴らした。
「う、あ、かなたくん」
 上ずった声を出すと、彼はコクコクと頷いた。彼の唇がすぼみ瞳が閉じられた次の瞬間、俺のものは呆気なく彼の咥内でしぶきを散らした。
「ん、んふ」
 奏多の眉根が寄る。彼は俺の股座で喉を小刻みに鳴らし、出たものを必死に飲み込んだ。こんなことしなくたっていい。そんな気持ちで彼の喉元に触れたが逆に取られたらしかった。彼は親指と人差し指で輪を作り、俺のものを根元から緩く扱き上げる。唇で先端を吸い中に残ったものを飲み込んでから、彼は俺の陰茎から唇を離した。先ほどまで紫色だったそこは擦れてぽってりと赤く膨らんでいた。
「ミネラルウォーターか何か、喉を潤せるものをお持ちしますね」
 彼はなぜ俺の喉の様子まで分かってしまうのだろうか。元通りに整えられたスウェットのズボンを見下ろし項垂れる。一度は大人しくなったはずのそれは、もうすでにじわじわと頭を擡げ始めていた。奏多が戻ってくる前にと、俺はリビングを離れ自室に籠った。彼の言う通り、しばらくは喉が渇いて仕方なかった。
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