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不貞の君の献身と慈愛

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 光子と出会ったのは都内のホテルで催された謝恩会だった。ゲストとして招待されていた光子は俺を見るなり号泣した。
「ブレイブで連載していた頃からすきでした。吾妻先生は私の神様です」
 俺の漫画は、キャラクターデザインや舞台設定などのパッケージは普遍的な少年漫画、だのに人間模様を描くと一転してケレン味が強くなる。倫理観の乏しい描写に笑っていいのか分からないギャグ、いかにも少年漫画らしい戦闘シーンからのリアルな負傷描写、読者の淡い希望を喰い尽くすようなストーリー展開……。とっつき易いパッケージに惹きつけられた少年たちが俺の漫画でトラウマを負うことも少なくない。けれどその一方で深く刺さる読者が存在するのも事実。俺のシグナルに一度でも惹かれた読者は、もう吾妻リョウから離れられない。
 漫画一色の人生だった俺が初めて好意を寄せた女性が光子だった。お嬢様育ちで品の良い光子は男の理想を詰め込んだような女性で、俺はそんな彼女と結ばれたことが誇らしかった。けれど、彼女が結婚したのは篠田航大ではなかった。病める時も健やかなる時も、彼女は身を削いでまで吾妻リョウに尽くす。彼女と誓いのキスを交わしたのは、うだつの上がらない中年男ではなく、ヒットメーカーの漫画家だ。
「先生、お邪魔します」
 来客用のスリッパさえどこにあるのか分からない俺を彼は知っているらしい。奏多は持参した薄いスリッパを履き篠田家の敷居を跨いだ。
 心から信頼していたアシスタントを失った俺の生活は見る間に崩壊した。光子がどれだけ注意深く吾妻リョウの生活を守っていてくれたのか、俺は今更になって思い知ることになった。俺は漫画以外のことが全く処理できない。足元に入ったヒビが漫画にまで伸びて来るのを感じた俺は、一枚の紙に縋るしかなかった。俺を理解し、崇め、尽くすと宣言する人間しか、この一室には入れない。
「まず台所を掃除して、それから何かお腹に入れられるものを作りますね」
 五年の付き合いがある担当でさえ来ることの許されない一室。俺は台所に立っている奏多を打ち見した。立ち姿の綺麗な子だ。すっと伸びた背筋に撫で肩がよく似合っていた。人間を家に迎えるという慣れないことをした俺は、片頭痛を抱えて寝室のベッドに横になった。
 妻の不倫相手に自分の世話を頼むことになるなんて。
 やむを得ない。俺は光子の笑顔を思い浮かべ自分にそう言い聞かせる。いま俺が彼女の為に出来ること、捧げられるものは、漫画しかない。
 俺はアシスタントをつけない。つけていた頃もあったけれど、一人で描ける量が増えてからは必要なくなった。俺は漫画を、俺の世界を、一人で描きたい。ペンと紙の世界で、俺は他人を信用しない。
 奏多の描いたファンブックの一頁、夜の砂漠に一人佇むスーファンが瞼の裏に浮かぶ。俺もあんなカラー扉を描けばよかった。俺は久しぶりに、他人の描いた世界を羨ましく思った。
「せんせい」
 ドアの向こうからあの甘ったるい声。「昼食、どちらにご用意しましょうか?」まるで彼が今までもこの家に居たかのような錯覚に陥り、俺は頭を緩く振った。
「リビングに置いておいて。後で取りに行くから」
「分かりました」
 お膳に置かれていたのは、一口サイズの梅とじゃこのおにぎりと、漆塗りの小さなお椀に入ったうどんだった。甘く煮つけた油揚げの香りが湯気と共に立ち上る。「すみません、近くのスーパーはなめこが切れていて」お椀を覗き込んでいる俺に、奏多はすまなそうに頭を下げた。
 麺だと原稿に散るかな。そう思って、俺はお膳の置かれたローテーブルの前に腰を下ろした。光子と食事をとる際はもっぱらダイニングテーブルで、このローテーブルで食事をするのは一人暮らしをしていた頃以来だった。
 みじん切りにされたカリカリ梅とごま油で炒ったじゃこのおにぎりは、光子の作ったものと大差なかった。光子はこのおにぎりを彼にも食べさせたのだろうか。そう考えたりもしたが、不快には感じなかった。
うどんの汁を一口飲んで、思わず息を吐く。まともなものを食べたのは久しぶりだった。作る人間が違っても使っている調味料や出汁は変わらず、小さなきつねうどんは俺の胃に不思議なほど馴染んだ。
 瞬く間に食べ終わり、自分が空腹だったのだと知る。緑茶を傾けながら、台所でペットボトルの分別をしている彼を盗み見る。ひよこの頭は短髪で、剝きたてのゆで卵のような額が露になっていた。太い眉にまんまるの猫目。ちょんとついた唇は、もしかしたら光子の唇よりも小さいのかもしれなかった。
 男にしてはずいぶん可憐な顔立ちだ。漫画に出せるかもしれない。俺はテーブルの上に常備しているメモとペンを引き寄せ、彼にばれないように彼を描いた。
 寝室に戻りひと眠りして自室に籠る。食べて、眠って、やっと創作意欲が戻って来る。描きたい。椅子に座ってペンを握ると途端にアドレナリンじみた脳内物質が身体を駆け巡った。……次にペンを置く頃には、カーテンの向こうが真っ暗になっていた。
「君」
 リビングで拭き掃除をしている奏多を呼び止める。彼ははたと顔を上げ、目を細めた。まだ居たのか。そんな言葉を飲み込み、けれどなんと声を掛ければいいのかも分からず、俺は彼の前に立ち尽くした。
「すみません、鍵も閉めずに出ていいのか分からなくて。夜ごはんは冷蔵庫にしまっていますから、お好きな時に温めて召し上がってください。……僕はこれで」
 大きなゴミ袋を三つ持ち、彼はそそくさと暗い廊下へ出て行った。「奏多君」名前を呼ぶと、彼はハッとした面持ちで俺を見つめた。
「突然に頼んだのに、ありがとう」
 光子が倒れて一か月が経った。彼女の病室にある花瓶は、週に一度、花の彩りを変える。髪は梳かれ、身に纏っている寝間着は清潔そのもの。光子もまた、今日の俺のように彼の施しを受けている。
「先生のお役に立てて嬉しいです。また、いつでも呼んでください」
 体の小さな彼は両手をふさぐゴミ袋に振り回されるようにして玄関を出た。
 彼が夕食にと用意したのは鰆のムニエルと豆ご飯、根菜の煮物とすまし汁だった。にんじんの飾り切りを箸に取り蛍光灯にかざす。ねじり梅を描いたそれを見つめると、光子が彼を愛した理由が分かるような気がした。光子が信用した彼だから、愛した彼だから、俺は彼を自分の傍へと引き入れた。吾妻リョウは光子の神様だが、光子もまた篠田航大の神様だ。俺は暗くなった病室で横たえる彼女を想いながら夕食を平らげた。



 俺と光子と彼とが生活の中で混じり合う。奏多は相変わらず眠ったままの光子の世話を焼き、俺が呼べば俺の世話も焼く。そんな奇妙な生活の中で、俺は漫画を描いていた。
「君は仕事をしていないの?」
 昼も夜もなく呼び出している張本人にそう尋ねられていい気はしないだろう。言ってからそのことに気が付き、俺は口元を摩った。奏多は静かに微笑んで洗濯物を畳んでいる手を止めた。
「先生と光子さん以上に大切なものはありませんから」
 それを聞いて俺はぎくりした。彼の蒸してくれたシュウマイが喉の奥でまごつく。彼がこの一室に来るようになってから、俺はリビングで食事をとるようになっていた。
「仕事はしてます。朝五時から夜七時までの間に在宅で七時間。ここへはちゃんと仕事を終わらせてから来ているので、僕のことは気にせずいつでも呼んでください」
 ふうわり微笑む彼は、青年というよりも少女だった。
「光子とはどこで出会ったの?」
「……僕はお答えしたいんですけど、光子さんはどうだろう、うーん……」
 小首を傾げ曖昧に微笑む奏多。言いにくい出会い方とはどのような?表情に怪訝を滲ませ始めた俺を見て、奏多は慌てて身体ごとこちらに向き直った。
「マッチングアプリです。僕、全然異性にもてなくて、経験もなくて。趣味が合う人なら話がはずむかもしれないって思って登録していたんです。そこに連絡をくれたのが光子さんでした。会ってみたら、吾妻先生の作品の話ですごく盛り上がって。……光子さんが先生の奥様だと知ったのはそれから半年後のことでした。それまでは、既婚者だとも、知らなくて……」
 膝の上の洗濯物に視線を落とした彼はすまなそうに身を縮めた。
 俯瞰してみれば、彼は俺と妻の思いつきに振り回された被害者だ。光子も光子だ、話が合うからといって若く経験のない彼を選ぶ必要があったのだろうか。今になって光子を責めるような気持ちになり、俺は彼から視線を外した。
「光子さんは聡明で美しい女性ですよね。僕、光子さんの隣に居るだけで誇らしくて。でも光子さんからすれば、僕は恋人というよりも友達や弟みたいな感覚だったんだと思います。二人で居ても男女の雰囲気になることはあまりありませんでした」
 嘘を吐け。やることはやっているんだろう。
 俺ははたとする。光子を責めたり、彼を詰ったり、責任転嫁もいいところだ。
 光子がオープンマリッジを選択したのは性行為に苦手意識を持つ俺の為を思ってのこと。だとすれば、この子を苦しめたのは光子でなく、この自分。しかもそれは、吾妻リョウではない。篠田航大が彼を苦しめたのだ。
「僕、光子さんが先生の奥様だと知って、嬉しかったんです。吾妻先生はこんな素敵な女性に愛されて大切にしてもらっているんだって、僕はますます光子さんと先生がすきになりました。公認の不倫だというのは、光子さんから聞いてすごく驚きましたけど……」
 照れたように笑った彼は「あ、いけない、ミートソースを煮込んでいたんだった」と洗濯物をしまい台所へ向かった。
 俺は頬を熱くした。心のどこかで、彼が俺目当てに光子に近づいたのではないかと勘繰っていたからだ。光子は愛されていた。篠田光子としても、吾妻リョウの妻としても。奏多に出会い、彼女はどれだけ満たされたことだろう。
「奏多君」
 俺は台所に立つ彼の傍まで行って背中に声を掛けた。奏多は鍋をかき混ぜていた木べらを上げてまんまるの瞳に俺を映した。
「俺も、君のような人が光子の相手になってくれて嬉しいよ。……夫として、こう思うのはおかしいのかもしれないけど」
 奏多は瞳を瞬かせ、そして細めた。心のどこかに火が灯る。奏多の存在が俺の感情を吸って膨らんでいく。
 彼の用意したラザニアは美味しかった。幾重にもなった薄いシートパスタとミートソースの層。フォークを立てるときつね色になった表面がパリリと音を立てた。パスタの断面から粗挽き肉とソースがこぼれ、俺は戦闘シーンで主人公の肉が削がれている場面を想像した。
 俺の脳裏で光子が笑う。「ほらねリョウ君、とてもいい子でしょう。私、この子が大すきなのよ。あなたもきっと大すきになるわ」綺麗に巻いたセミロングを揺らして得意気にする彼女は、明るい木陰に揺れる菫の花のようだった。
 俺は奏多を一日おきに……その二週間後には毎日呼び出すようになった。彼は可能な限り俺の傍に、光子の傍に居た。俺と光子を見つめる彼の瞳は、まるで観音様のように慈愛に満ちている。大きな手のひらに優しく抱かれているような心地になり、俺は光子にするように、もしかするとそれ以上に、彼に甘えるようになった。
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