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はじまる、三人の日々

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 熱が引いて一日経ち、ようやくゲストルームから出て来られるようになった理人は今、どんぶりの中を覗き込んでいる。小雪はエプロンを脱ぎながら微笑んだ。
「具が色々入ってるのが珍しい?しっぽくうどんって言うんだよ。おれの祖母がよく作ってくれて」
 油揚げ、かまぼこ、ニンジン、ダイコン、ネギ、豆腐、鶏肉。色とりどりの具材が入ったうどんを見つめ、理人は箸を手に取った。「いただきます」綺麗な姿勢で手を合わせた理人を打見し、小雪も自分の為にうどんをよそった。理人の向かいに座って手を合わせれば、ダイニングがいつもより温かいような気がした。
「あの」
 理人から話し掛けられ、小雪は慌てて麺を咀嚼した。喉を潤し表情と心を整えてから「なにかな」と話を促す。
「ご迷惑おかけして、すみませんでした」
 頭まで下げられ、小雪は「謝らないで!」と理人の肩に触れた。瞬間、理人の肩がピクンと跳ねた。小雪は手を引っ込め、改めて「謝らないでいいんだよ」と伝えた。
「一気に身の回りのことが変化して、季節の変わり目も重なって、疲れが出ただけ。誰も悪くない。ぶり返すといけないから安静にね」
 両手を膝の上にしまい穏やかに言えば、理人は「あの、色々、ありがとうございました」とぎこちなくお礼を言ってくれた。
「あのね、理人君。おれも君に謝らなきゃ。出会った日、ひどいこと言っちゃって、ごめんなさい」
 理人がしたように頭を下げ、おずおずと理人の表情を確かめる。視線が今日初めて触れ合って、小雪は思わず相好を崩した。
「二人でディナー?仲間外れは寂しいな」
 空気が緩んだかと見えたダイニングへ、台風の目が現れる。
 小雪は帰宅した都に無言で睨みを利かせた。都はそれぞれにハグと頬へのキスを送り、「おいしそうなうどん」と小雪に向かって目尻を下げた。
「おれ、小雪の作る料理が好きなんだ。理人、小雪の料理はおいしいだろう?」
 都の夕食を用意しながら、その問いはどうかとモヤモヤしていると、理人は案外素直に頷いた。理人の纏う空気が柔らかくなっているところを見ると、どうやら小雪の知らない間に“ヒト対ヒトのコミュニケーション”が成されたらしかった。
「あれ?おれはうどんじゃないの?」
「うどんは理人君にって作ったんです。都君、包み焼きのハンバーグ好きでしょう」
「好きだけど、おれだけメニューが違うなんて寂しい。敬語も寂しいよ。こゆ、まさかまだ怒ってるのか」
「わがまま言わないで、残さず食べてください」
 素気無く言いつければ、都は肩を落として手を合わせた。落ち込んでいたのも束の間、都は夕飯を平らげる頃にはすっかり調子が戻って、「こうやって三人で食卓を囲むのもいいな」と二人のΩを眺め頬を緩めた。
「そうだ。週末には三人でどこかに出かけよう。理人の部屋の家具を――、あ、いや、ゲストルームの模様替えをしたいと思っていたから、買い物でもどう?」
 そうか、ゲストルームはこれから理人の部屋になるのか。小雪は今になって気が付いて、けれど不思議と嫌ではなかった。
「いや、僕は、」
 理人が声を上げると、都は理人の唇を指先で塞ぎ、首を振った。
「理人、一宿一飯の恩義に家具の手配を手伝ってくれたっていいだろう?……込み入った話はそれからでも遅くない」
 戸惑い気味の理人が視線を向けたのは、都でなく小雪だった。小雪は理人を安心させたくて、「理人君が嫌でなければ」と言葉を添えた。理人にそういった視線を向けられると、胸がくすぐったくなった。


「ああ、それ、わたしにも覚えがあるわ」
 西崎さんは千代紙を破りながら微笑んだ。
「夫の弟は兄弟で一人だけ歳が離れててね。三十を過ぎてからお嫁さんをもらったんだけど、その子は義弟より八つも若くて。彼女、おぼこくて、一生懸命で、好奇心旺盛で。なんだか子猫拾ったみたいに可愛くって。兄弟の嫁同士で奪い合うように可愛がってね……」
 ああ、なんだか、分かるような気がする。小雪は頷きながら和紙を破き箱に入れていった。
「息子が成人してからは、彼女と遊ぶ方が楽しくて。日帰りのバス旅行でいろんなところへ行ったわ。富士山にだって登ったの。息子たちとじゃ絶対に登らなかったわ」
 西崎さんは千代紙を貼る手を止め、潤んだ瞳を誤魔化すように微笑んだ。
「あの子、今どこにいるのかしらね。わたしもボケちゃって、あの子もボケちゃって、もう、何がなんだか分かんないわね」
 しんみりした空気に隣のおじいさんが「ここにいるヤツらは皆ボケとる、俺なんぞ孫の名前も思い出せん」と明るく振舞った。西崎さんは「あらまあ」と口元を抑え、隣のおじいさんを見つめた。
「アンタは西崎さんっていうんか。えらい別嬪さんじゃのぉ。俺は何人も女泣かしてきたが、アンタじゃったら俺も忘れられんかもしれん」
「お上手ね。あなたみたいな方、ここにいたかしら」
 おじいさんは頭を掻き、「いたよ、三年も」と眉を上げた。目の前で繰り広げられるナンパに笑みを誘われつつ、小雪は理人を想った。ああ今日は、あの子の為に何を作ろうか。
 健康記録を書き上げ、定時きっかりに職場を出る。ツバメが軒先の巣を忙しく行き来しているのを見て、小雪は自転車のペダルを強く踏み込んだ。


「クーラーつけててよかったのに。暑かったでしょう」
 透かした掃き出し窓の傍で座り込んでいた理人に駆け寄れば、彼は首を振った。理人のもみあげに汗が光り、小雪は慌ててクーラーを稼働させた。「空調のリモコンはここね。テレビのリモコンはここ。床暖房のスイッチは……」言いかけ、今の関係では理人の負担になるかもしれないと口を噤む。
「お風呂沸かすから、沸いたら先に入って。その間にご飯作るから」
 まんまるに太った買い物袋から材料を取り出す。理人がいると思うと、ついつい買い込んでしまった。冷蔵庫と作業スペースを行ったり来たりしていると、いつの間にか理人がキッチンまで来て小雪を見つめていた。
「どうしたの?着替えとタオルは脱衣所に置いてあるから好きに、」
「僕も手伝います」
 出会った日に着ていたシャツの袖を捲り、理人は手を洗った。
「今日は何を作るんですか?」
「ああ、ええと、がんもどきと、キュウリの酢の物と、お吸い物でも作ろうかなって……」
「がんもどき?手作りで?」
やりとりをするほどに小雪の胸が温かくなっていく。小雪はタブレットを立て掛け、「このレシピが簡単で美味しいんだよ」と理人を手招きした。
「確かに家でも作れそうですね」
「余ったのを煮物にしても美味しいんだ」
 水切りしていた豆腐を冷蔵庫から取り出せば、「これを切ればいいですか」と理人がキュウリを手に取る。小雪はまな板と包丁を取り出し、「じゃあ、お言葉に甘えて」と理人に差し出した。
 一人で作れば時間のかかる献立も、二人で作ればあっという間だった。見る間におかずが出来上がり、シンクの洗い物が減っていく。
「理人君、料理が好き?すごく手際がいい」
 がんもどきを油から引き上げながら話しかければ、理人は「僕が中学に上がってからは、年の離れた兄と二人で家に居ることが多かったので」と抑揚のない声で答えた。
「ああ、料理は理人君、洗濯はお兄さんって、役割分担してたの?」
「……まあ、そうですね」
 理人の声がどこか曇ってしまい、小雪は油の中を気持ち良さそうに泳ぐがんもどきを見つめた。
「おれもね、長いこと祖母と二人で暮らしてたから、料理は子どもの頃からしてたよ」
「……あのうどんもその頃に?」
「そう。祖母が香川の人で。こっちに出て来るまで知らなかったけど、香川の郷土料理だったみたい」
 揚げ立てのがんもどきに生姜醤油を添え、「食べてみて」と理人に差し出す。「揚げ立ては格別。ほら、理人君、早く」小雪が急かすと、理人は躊躇いがちに箸を取った。
「ん、あつ、」
 理人がふと見せた年相応の表情に小雪の表情が蕩ける。「どう?おいしい?」前のめって尋ねれば、理人はコクコク頷いた。
「また仲間外れか」
 思わぬ声に二人でリビングの入り口を見やれば、いつの間に帰っていたのか、腕を組んだ都が壁にもたれていた。
「都君、帰って来たならただいまって言ってよ!」
「君たちがあまりにも仲睦まじくしているから、出るタイミングを失って」
 小雪と理人は顔を見合わせ恥じ入った。都は上機嫌で「ほら、こゆの好きなラ・ポールのケーキだよ。食事の後に食べよう」とケーキまで登場させた。
「おれも手伝うよ。こゆ、どの皿にしようか?」
 男三人でキッチンと食卓を行き来し、夕餉の支度をする。明日は祝日で、いつもであれば缶ビールの出番だけれど、小雪はそれらを冷蔵庫に閉じ込めたままにした。
「今も十分に美味しいけど、“揚げたては格別”だっただろうな」
 都に冷やかされ、小雪は妙な汗を掻いた。ちろりと理人を確かめれば、理人の瞳もまた小雪を確かめていて、二人は慌てて視線を逸らした。
 食事の後片付けをする際にも、理人は小雪を手伝ってくれた。「理人君、ありがとう」「いえ」素気無いようにも取れる返事にはほんのりと温みが乗っていて、それが小雪の胸を擽った。
「理人君、お風呂入っておいで。日中暑かったでしょう」
 理人はまたコクリと頷いた。なんだか今日はそんな小さなことが嬉しくて、小雪は理人が脱衣所に入るまでその後ろ姿を見つめ続けた。
「理人は可愛いだろ」
 背中に投げかけられ、小雪は不機嫌な顔で都を振り返った。近づいて来た都が小雪の頬を人差し指でつんと突く。
「理人が可愛くてたまらないって顔だ」
「十個近く年下なんだもん、可愛くなきゃ嘘でしょう」
「……おれの番になるかもしれなくても?」
 急に意地悪く問われ、小雪はますます眉間の影を濃くした。「そのつもりで呼んだんじゃないの?あの子は都君の運命の番なんでしょう?ちゃんと話し合って、その上で番に、」夫を諭そうとした小雪の唇を都の唇が塞ぐ。驚いているうちに唇が離れ、小雪の瞳へ甘い微笑みが注がれた。
「嫉妬してるこゆはとっても可愛かったんだけど。どうやらそのフェーズを過ぎちゃったみたいだな」
 同じ屋根の下に理人がいると思うと今まで通りには応えられず、小雪は都の胸を押し返した。都は小雪の両手首を掴み、抵抗が緩んだ瞬間に小雪を抱き寄せた。
「こゆ。今夜、おれの部屋に来て」
 耳元で囁かれ胸が高鳴る。「朝まで愛しても足りないよ」都の吐息と声音が耳朶に掛かり、小雪は背を震わせた。
理人君に悪い。そう思いながらも、都を欲してしまう。小雪は一番最後に風呂に入り、理人が眠っていることを願って都の部屋を訪れた。
「こゆ、おいで」
 求められると、抗えない。小雪は都に組み敷かれながら、理人も同じ光景を見たのだろうかと、天井から吊るされたシェードを見つめた。
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