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14. 王宮の桜

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 サラサラと流れていく小川の横に整然と立ち並ぶ満開の桜並木。その壮観としか言いようのない光景に咲玖は思わず感嘆の声を漏らした。
「すごい……お庭に川が流れてる……」
 そう、そこは今咲玖がいる部屋の窓から見えるまぎれもない庭。
 ただし、いつものオスマンサス公爵邸ではなく、このベラーブル王国の王族たちが住まうベラーブル王宮の庭園である。


 数日前、予定通りバーデルンを訪れたウィロー家の面々と共にラインハルトも王宮に参内することになり、そのタイミングに合わせて『世界樹の客人』である咲玖も王族に挨拶を済ませることになった。
 この世界で『世界樹の客人』は貴重な存在で、その持ちえる知識や、世界樹から授かった能力により国益をもたらすとして王宮に召し上げられることが多いらしい。
 だが、咲玖がこちらに訪れてすぐにその存在を王宮に報告した際、咲玖の体調などを理由にしてオスマンサス公爵家で保護をするとラインハルトが主張したそうだ。
 やはり王宮からは難色を示されたが、オスマンサス公爵家が王族の血族であり、三大貴族と称されるだけの力を持っているからこそ許可が下りたのだという。
『旦那様はどうしてもサク様を他にお渡ししたくなかったのですよ』とこっそりオットーが教えてくれた。
 とは言え、顔も出さぬままと言うわけにもいかず、今回の訪問と相成ったのだ。

 そうしてやってきたベラーブル王宮。一泊二日の日程で先ほど着いたばかりということもあり、まずは王族への挨拶を済ませた後、滞在する客間へと通され、束の間の休憩時間を過ごしていた。
 これから少し時間を置いて、夜には舞踏会に出席する。
 正直、慣れないことばかりで咲玖はすでにお疲れモードである。
 なんといっても到着してすぐにまさか王族へ挨拶をするとは思っていなかったし、この“王宮”自体がすごすぎて、全然気が休まらない。
 到着するまでは某テーマパークの中心にあるようなお城――もちろんその場合でも落ち着きはしなかっただろうが――を想像していたが、それとはまったく違った。
 まず出くわしたのは、とにかく荘厳な門。
 王家の家樹だという桜をモチーフとしたレリーフが取り付けられ、よくわからない動物っぽいものを象った彫像に囲まれた見上げるほど高い鉄作の門が開かれたときには、咲玖の口も同じようにあんぐりと開き切っていた。
 そしてそこから見えた建物までの距離の長いことといったらない。見えているのに全然たどりつかないのだ。
 延々と続くかのような桜並木を抜けた先にあったその建物は、当然のように視界に収まらないほど横に長い。その正面にはこれまたよくわからない像がたくさん飾られた、プールかな? と思うほど大きな噴水が高らかに水を吹き上げている。
 当然ここまで咲玖の口は開きっぱなしだ。
 でも、馬車から降りてラインハルトに手を引かれるままに入った建物の中でもその口を閉じるタイミングは一切なかった。
 まず床が絨毯張りでふっかふかなのだ。そこを靴で歩いて行くもんだから、根っからの庶民である咲玖はお掃除大変そう……なんて思ってしまった。
 そのまま連れていかれたさらにふかふかの真っ赤な絨毯が敷かれた部屋は謁見の間というらしく、王族にご挨拶するための部屋とのこと。
 そのあまりに非現実な雰囲気に気圧されながら緊張した面持ちでいると、ラインハルトが隣でくすりと笑った。
「なんで笑うの」
「強張った顔もかわいいから」
 つい、と溶けたように柔らかい笑顔を咲玖に向けるラインハルトはどこか楽しげだ。
「そう緊張しなくても大丈夫だ。皆気さくな人達だよ」
 ラインハルトの祖父は先王の弟にあたり、いとこ同士だったラインハルトの父と現国王は年が近かったこともあって交流も多かったらしい。
 だからラインハルトからすれば王宮はいわば“ホーム”で、完全な“アウェイ”である咲玖とはそもそもの心持が違う。
 何度も言うが咲玖は完全なる庶民。
 公爵家にだっていまだに慣れないところがあるのに、王宮、王族、なんて場違い甚だしくて落ち着いていられるはずがない。
 でも、それよりも何よりも、
「ライの親戚なんだもん……。緊張するに決まってるじゃん……」
 そう、『恋人の親戚にご挨拶をする』なんてイベント、生まれて初めてなのだ。
 もし、がっかりされてしまったら、ふさわしくないと言われたら、なんて悪い想像がどうしても浮かぶ。
 もちろん反対されたからと言ってラインハルトと別れるなんて選択肢はないが、できるならば良い印象を持ってもらいたい。そのためには失礼のないようふるまわねば! と変に気負ってしまっても仕方がないじゃないか、と口を尖らせた。
「あぁサク、きみは本当に愛らしい。こんなにも愛らしいひとを歓迎しないはずがないだろう?」
 咲玖をそっと抱き寄せ、髪に頬擦りをするラインハルトには、多分恋人フィルターの効果で他の人より五割り増しくらいで咲玖がよく見えるのだろうと思うことにしている。
 恋人からの甘言はありがたく受け取り、自分の中だけにしまっておくのが一番だ。
「あぁ、だが、」
 何かラインハルトが言いかけたところで、謁見の間の扉が開いた。そうして、国王夫妻、王太子夫妻、そして第二王子、総勢五名の王族の方々が一同に咲玖の前へと並び立った。

 部屋に入るなり中央にあった椅子に腰を掛けた国王は、先ほど見た咲き誇る桜を思わせるようなピンクブロンドの髪を後ろになでつけ、その濃緑の瞳には重厚さが宿っている。
 王太子は短く切りそろえられた王と同じ色の髪と逞しい体格がいかにも騎士然としているが、実際にこの王国の騎士団長を務めているのはその隣にいる第二王子だという。
 その第二王子も髪色は同じだが、長く伸ばしたその髪を後ろで束ね、騎士としてはやや痩身に見える。まさに“王子様”という雰囲気だ。その上、王国随一と言われる剣の腕を誇るらしい。
 ところが、咲玖への好意的な雰囲気を感じ取れる他の王族とは違い、第二王子だけはその美しい面立ちを険しくしかめている。これはもしかしてあまり歓迎されていないのでは? とラインハルトをチラリと見ると、少し眉を下げ困った顔で微笑まれた。何かあるんだ、と察したが、それは後でととりあえず置いておくことにする。
 だって、これから“ご挨拶”という大仕事が待っているのだから。

「オスマンサス公爵、そして世界樹の客人。よく来てくれた。私がこの国の王、マティアス・フォン・キルシェだ」
 その威厳に満ちた低音に思わず背筋がピンと伸びる。これが大国の王の迫力、と思わずゴクリとつばを呑み込んだ。
「陛下におかれましてはますますご隆冒のこととお喜び申し上げます。また、このようにご挨拶をさせていただくお時間を割いてくださいましたこと、誠に痛み入ります」
 硬直していた咲玖とは対照的に、ラインハルトは流れるように礼の姿勢をとり、口上を述べた。その姿に思わず『うわぁ、かっこいい…!』と声を上げかけてまた呑み込む。
 これまでラインハルトの客人として紹介された貴族に咲玖も何度か挨拶をしたことはあったが、基本的には“公爵”であるラインハルトの方が身分が高いため、ここまで畏まった姿は見たことがなかった。
 その恭しさの中にあっても媚びや諂いのない姿は、一言“かっこいい”に尽きる。きゅんとしないはずがない。
「そう畏まらずともよい。それよりも早くお前の“婚約者”を紹介しなさい」
「ありがとうございます。サク、ご挨拶を」
 そう、これも咲玖が緊張していた理由の一つ。
 今日、咲玖はラインハルトの“婚約者”としてこの場に立っているのだ

 それは王宮への参内が決まってすぐのこと。
 いつものように寝支度を済ませてラインハルトの部屋へと訪れたときに請われた。
「サクを国王陛下に婚約者として紹介させてほしい」
 そう跪くラインハルトにNoという理由などなかった。
 二つ返事で頷くと、ラインハルトはもう少し考えなくてもよいのか、なんて逆に戸惑っていたが、考えても答えが変わるはずがない。
 素直に嬉しい、と伝えると、いつもの優しくてとろけそうな笑顔で指先にキスをしてくれた。
 深い愛情と敬意を表す指先へのキス。ラインハルトが咲玖を愛し、尊重してくれていることの証だ。
 それ以上の気持ちを返すようにラインハルトの唇へとキスを落とし、その日は何度も愛し合った。
 なんて思い出すだけで体が火照りそうだが今はそれどころじゃない。なんと言ったって王族を目の前にしているのだから。
「初めてお目にかかります。蓮見 咲玖と申します」



 眼下に広がるスケールの違う“お庭”を眺めながら、咲玖はふうっとため息をこぼした。
 挨拶は練習通りちゃんとできたと思う。国王夫妻も、王太子夫妻も歓迎しれくれて、その場は和やかに進んでいった。
 ただ、第二王子だけがずっと不機嫌さを隠さなかった。それだけが咲玖の心に少々おりとして沈んだ。
「サク、疲れたかい?」
 窓の外をぼーっと眺めていた咲玖を後ろから囲うように抱きしめたラインハルトはそのまま髪へとキスを降らせている。体を重ねるようになってからというもの、こういったスキンシップも多分に増えた。まだ慣れないところもあって身も心もくすぐったくはあるが、ラインハルトからのストレートな愛情表現は咲玖の心をいつも満たしてくれる。そして、甘えさせてくれる。だから、素直にもなれるのだ。
「うん、ちょっとだけ。それに、第二王子様の様子も気になって……」
「あぁ、あれはサクのせいではないよ。私が嫌われているんだ」
 正確な理由はわからないけど、とラインハルトは付け加える。
 第二王子であり、王国騎士団の団長も務めるアーデベルトは、ラインハルトにとっては爵位を継ぐ前に所属していた騎士団の後輩にあたるらしい。
 アーデベルトはあまり慣れ合うタイプではなかったため、その当時から付き合いという付き合いはなかったが、ラインハルトが退団を決めると途端に嫌悪を向けるようになったという。
「私が爵位を継ぐことで、騎士の職務から逃げたと思ったのかもしれないね」
 王国を守る騎士団は当然のように訓練も過酷で、肉体的な負荷も高い。
 熱病を患った後、味覚を失ったラインハルトは徐々に食事量が落ち、騎士として十分な体力を維持できなくなっていったという。
 その当時、騎士団最強とも言われた剣の腕と卓越した統率力をもって次期騎士団長にとの声が上がる中、ラインハルトは己に限界を感じ、騎士を辞して爵位を継いだ。
 そこには当然諦めもあったが、逃げたわけではない。選んだのだ、とラインハルトは言った。
「私の矜持として満足に剣も振るえないものが団長を名乗るなど到底許せなかった」
 いずれは継がなければならなかったものではあるが、その時に騎士としての道は捨て、公爵として生きる覚悟をしたのだと話すラインハルトには一片の後悔も見えなかった。

 強い眼差しを湛えるその端正な面貌に手を伸ばし、そっと頬を指先で撫でると、ラインハルトは甘えるように目を閉じ、自身の手のひらを重ねた。
 顔を寄せればそっと唇が重なる。何度も角度を変え、重ねるだけのキスを繰り返していると、確かに服の上から背をなぞっていたラインハルトの指先が、今はなぜか素肌に触れている。その指先の熱にゾクリと背が震えた。
 でも、ここは王宮。よそ様のおうちでをするのはさすがに抵抗がある。
「ライ、手ダメ」
 堪えきれず咎めるように唇を離すが、ラインハルトは気にする様子もない。
「かわいい婚約者に触れたいと言って聞かないんだ」
 困ってしまうね、と楽しげに微笑む顔もなんとも美しくてずるい。抗えるはずがないじゃないか。
 再び重ねられた唇から顔を出した舌が咲玖の唇を割り開くと、あっという間に中に入り込んできた。舌を絡めとられ、上あご、歯列の裏まですべて舐めつくすその動きはまさに“味わっている”と言わんばかりだ。
 食べられてしまう、と怯えるケーキの本能は興奮へと姿を変え、咲玖の体の熱を高めていく。きっと、今の咲玖からはラインハルトフォークを誘う甘い香りを発しているだろう。
「ライ、もっと、」

 ――食べて。

 ところが、その言葉が口から出る前に『バーン』と大きな音を立てて部屋の扉が開いた。

「ラインハルト! 久々に手合わせをしよう!!」

 入ってきたのは王太子、マティアスだ。
 咄嗟にラインハルトから身を離したが、まぁバレバレだっただろう。
 マティアスはおや、と言う顔をしてから豪快に笑った。
「邪魔をしたようだな!」
「殿下、部屋に入るときはせめてノックをしてからにしてください」
 はぁっとため息を吐きながらも咲玖をその背に隠すように前に立つラインハルトを見てマティアスは先ほどの豪快さとは打って変わって柔らかく微笑んだ。
「次回からは気を付けよう。おまえのかわいい婚約者に嫌われたくはないからな」
 そう、パチンと見事なウインクを送られれば、もう何も言えない。「では、いくぞ!」と有無を言わさずラインハルトは修練場へと連行されて行った。
 マティアスはラインハルトと同い年で、騎士団でも同期に当たるらしい。きっとさっきのように強引なマティアスにラインハルトがやれやれと言いながらも共に鍛錬に励んでいたのだろう。
 王宮に来てからというもの、公爵邸では見ることのできないラインハルトの様子が垣間見えて、それだけでも来たかいがあったと思える。
 咲玖はふふっと自分でも気づかないうちに笑みをこぼした。

 ちなみに咲玖も一緒に修練場へと誘われたが、丁重に辞退させていただいた。
 剣を振るうラインハルトは公爵邸で何度か見たことがあるし、その姿はため息が出るほどかっこいい。でも、訓練で他者と剣を交える姿はケガをしないかという心配の方が先に立ってしまいとても見ていられなかった。
 だって、防具も何もつけず真剣を交えるのだ。もちろん訓練なのだから大きなケガはないように加減はしているらしいが、おおむね平和な日本で育った咲玖には恐怖でしかない。
 ほんの少し話しただけでもマティアスは豪放磊落な気性であることが手に取るようにわかる。そんな人の剣をラインハルトが受けているところを見たら、絶対に泣く。下手したら倒れる。そんなことになってはこちらの人からすれば興ざめどころではないだろう。
 ということで、咲玖は平和に小川がサラサラと流れるお庭を散策させていただくことにした。
 部屋からは“眼下”に桜並木とその横を流れる小川があるように見えた。だから一人で気軽に部屋を出たのだが、それが間違いだった。

「広すぎだよ…!」
 
 まず、庭に出るという初歩からから躓いた。当たりを付けて開いたドアの先にはさっき“眼下”に見てた景色がない。違うのかと、次に開いたドアの先にはまた違う景色。
 全然目的にたどり着かない。
 言い訳にはなるが、咲玖は決して方向音痴ではない。ただただ王宮が広すぎるのだ。
 オスマンサス公爵邸も十分に広く、贅沢だと思っていたが、その非ではない。
 完全に迷子になっていたところを王宮勤めのメイドさんに救われ、教えてもらったドア――そこだって思っていた景色とは違った――から数分歩き、ようやく目的地へとたどり着いた頃には相当に体力も気力も消耗してしまっていた。
 やっとのことでたどり着いた小川に向かって疲れた足を投げ出し、咲き誇る満開の桜の下にゴロンと横になった。
 見上げ先の空には風に吹かれた無数の花びらが舞い上がっている。その光景は、遠く離れた生まれ故郷を思い出させた。

 ――まさかこっちにも桜があるとは思わなかったなぁ。

 前に住んでいたアパートからバイト先に行く途中までの道には小学校があった。
 生きるのに精いっぱいで季節のイベントなんてものにはほとんど縁がなかったが、咲き誇る桜の木はいつも春がやってきたことを優しく教えてくれた。
 とは言え、いつも横を通り過ぎるだけでこんな風にゆっくりと見上げたのは初めてだ。
 サラサラと流れる小川のせせらぎと、木々を揺らす音。暖かな日差しの中にある穏やかな時間は今までずっとぴんと張っていた気持ちを緩ませていく。
 慣れない旅に、王族への挨拶。さらに迷子にまでなり、体はもうぐったりと重い。心地よい空間に身を任せれば、意識はあっという間にうとうととまどろんでいく。
 そのまま夢の世界へと足を踏み入れようとした、その時だった。

「何をしている」

 まるで暖かな空気を切り裂くような冷たい声に驚いて飛び起きると、そこにいたのは第二王子、アーデベルトだった。
 声と同じように、いや、それ以上に冷えた視線で咲玖を見下ろしている。それは咲玖の背をかすめ、ゾッと悪寒を走らせた。
 アーデベルトはこの国の第二王子で騎士団長だ。多分、咲玖に危害を加えるようなことはしない。それなのに、なぜかその視線に心が「怖い」と怯えている。
 落ち着けと心の中で唱えながらぐっと息を呑み、咲玖を見据えるアーデベルトに向けて何とか笑顔を作った。
「桜を見ていたら、暖かくてついウトウトとしてしまいました」
 冷静を装いながら急いで立ち上がろうと足に力を入れる。ところが、焦りでもつれた足は、小川に向かって少し斜面になった地面で容易にバランスを崩した。

 ――あっ落ちる。

 人間は危機に瀕した時、目に映る景色がまるでスローモーションのように感じることがあるという。
 小川に向かって倒れていく咲玖の体と驚いたようなアーデベルトの顔。そして伸ばされた手。
 その一瞬の景色が時間を取り戻したのは、倒れ込んだ衝撃が体に走ったときだった。

「いたたたっ……」

 確かに倒れ込んだ。でも、濡れてはいないし、冷たくもない。それに後ろへとバランスを崩したはずなのに、体は正面に向けて倒れている。そのせいで膝を擦りむいたようだが、衝撃自体は柔らかいものだった。
 それもそのはず、咲玖の身体の下にはアーデベルトがいるではないか。
「わあぁぁごめんなさい……!!!」
 絶対に怒られる、と慌てて体を離したが、見下ろした先にあった濃緑の瞳は、さっきまでの鋭さを無くし、混乱と困惑に満ちたように揺れている。
 どうしたのだろうと思うと同時に、早く離れなければ、という意識に急かされ、咲玖は飛びのくように後ろへと下がろうとした。
 一国の王子様を下敷きにするなどありえない。いや、それよりも何よりも、

 ――怖い…。

 何が怖いのかわからない。
 でも、確かに“怖い”。
 心臓が頭の中でなっているのではないかと思うほどバクバクと音を立てている。
 早く離れたい、そんな思いは咲玖の腕を掴んだままでいたアーデベルトによって即座に阻まれた。
「は、離してください」
 まだ戸惑いが残る濃緑の瞳は、咲玖の言葉など無視したまま何かを探すようにさ迷っている。
 ところが、

か」

 低く響いたその声と共にその視線が定まった時には、戸惑いの色など一瞬にして消え去っていた。
 残されたのはただ一点を見つめる鋭い視線。その視線に咲玖の心臓が一際大きく鳴った。

 咲玖はこの“目”を知っている。

「そこから、甘い香りがする」

 これは、ケーキを見つめるフォークの目だ。
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