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6.「よみじや」
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母と最後に会ったのは病室だった。
真っ白なベッドの上に細枯れた腕に点滴を繋がれ、最後に会った時と面影が全くないほど病に侵された別人の母親がそこに横たわっていた。
大学卒業後、東京に就職した美奈の元に突然届いた母に死が迫っているという医師からの知らせ。
慌てて故郷に飛んで帰った時にはもうすでに、彼女は起き上がることはできなくなっていた。呆然としながら、何故教えてくれなかったのかと問いかければ、彼女は何も気づかずにのうのうと過ごしていた娘に怒るでもなく悲しむでもなく――。
『ごめんね。美奈に迷惑かけちゃった』
そう、悲しそうに笑ったのだった。
「……そんなに母さん一人残して東京に行ったのが駄目だった? お母さん具合悪いのに全然気づかなくて……何回も電話したのに、気づかなかったあたしが駄目だった? ねぇ、なんで教えてくれなかったの」
母に突き放された気がした。
今まで母の異変に気付かなかった自分を恨んだ。こんなことになるならずっと母の元にいればよかったと、何度も何度も悔やんだ。
『なにもいう気がないなら、黙って一人で死ねばいいんだ!』
そしてそんな思いが重なり、思わず口をついてしまった最低な言葉を恥じた。
何度も謝ろうとして病院に足を運んだが、病室に入れることはなく引き返してしまう。そうしている内に、母は帰らぬ人となり亡骸と対面して、何度も何度も謝った。
そうして今、こうして本物の母と対面できた。あの時言えなかった言葉を、紡ごうとする度に状況は悪いものへと変わる。
こんな風に喧嘩するつもりはなかった。唯、昔のように笑って話したかっただけなのに。悔しさに涙が滲み、癇癪に震える娘の言葉を娘は何も言わずに穏やかな瞳で黙って受け止めた。
「なんか答えてよ! いつまで黙ってるつもりなんだよ! 今しか……もう、一回しか会えないんだよ! あたしはもう後悔したくない! 母さんは、このまま別れていいの!」
千代はすぐ側で息を飲んで見守っていた。
今まで彼女がどんな思いでこの店を開いていたのかは美奈は知る由がない。けれど、閉じていた店を再び開けてくれた彼女の為にも、もう最悪な別れは見せたくない。そして、美奈自身もこれ以上重いものを背負って生きて行きたくはない。
美奈の思いに母の手は僅かに動いた。
このまま彼女が黙っていれば、もう何も口を聞かず別れるつもりでいた。どうか、どうか、何か話してほしいと祈るように目の前の母を美奈は見つめた。
「伝えようとしたわよ。何度も。そのために電話をしてたんだから……」
美奈の手をそっと掴むと、座るように目配せした。
そして娘の暖かな手を自身の膝上に乗せ、何度も何度も優しく撫でた。
夫とは娘が幼い頃に離婚をし、女手一つで彼女を育て上げた。大学を卒業し東京に就職した娘を見送った。これで母としての役目は終え、自由に好きなことをして遊んでいけると思った。
けれど、ずっと二人で過ごしていた家の中はやけに広く感じ、人一人消えただけでこんなにも寒くなるのかと途端に寂しくなった。
その矢先、大きな病が見つかった。治そうにももう手遅れで、大人しく死を待つしかできなかった。自分が頼れるのは一人娘しかいない。だから、すぐに告げようと思ったのだ。
「なら、なんで話してくれなかったの」
「美奈ちゃんがあまりにも楽しそうに話すから。話をしているのが楽しくて、ついいえなくなっちゃったの」
「そんな……」
「お母さんが死ぬなんていったら、悲しい顔になっちゃうでしょ。美奈にはずっと笑っていて欲しかったの」
申し訳なさそうに、母は美奈の手を握りしめた。
決して頼らなかったわけではない。言えなかったのだ。
重い病気がある。もうすぐ死ぬ。そんな現実を娘に叩きつけて、ようやく一人で歩き始めた娘の幸せな日々を奪うことなんて母にはできなかった。
「でも、それが結局美奈を悲しませることになってしまったこと……とても後悔してるわ。一人で死んで当然の報いだと思ったもの」
母は、誰にも看取られずに死んだ。
今まで育ててもらったのに親孝行もできず、あまつさえ酷い言葉を吐き、逃げ出した娘を母は一切責めることはなかった。
「……なんで、そんなこというんだよ。一人で死んで欲しいなんて……思ってなかった。あたしは、なにもできなかった……」
「そんなことないよ」
母の手に額をつけるように深々と頭を下げ、美奈はぽろぽろと涙を流した。母はそんな娘の頭を慰めるように優しく撫でた。
「東京遊びに行って、色んなところ行って美味しいもの食べたりしようっていったじゃん。結局なにもできないままで……あたし、お母さんが遊びに来るのずっと、ずーっと楽しみにしてたのに。なんでなにもいってくれなかったの」
いいたいことは川のように流れていく。 支離滅裂に、思いつくまま母に言葉を投げつけた。
「……ごめんね」
母がぽつりと言葉を漏らした。
「もう、子供じゃないのに……もっと頼って欲しかった」
「ごめんね」
泣き崩れる美奈に母は何度も謝りながら、その体を優しく抱きしめた。
「死んじゃえなんて思ってなかった。ずっと元気で生きてて欲しかったよ」
そういいながら、美奈の背中を摩る様はまるで幼子を宥めている母親そのものだった。
それでも美奈はようやく溜めていたことを吐き出せたのか、安心したように涙が次から次へと溢れだす。少しずつ緩やかになっていく空気に、千代はほっと安堵したように息をついてカウンターの中に戻った。
「正直いうとね、寂しかったのはお母さんの方なの。一度会ったら離れるのが寂しくなるから、だから電話で我慢してたの」
「え……なんだよ、それ」
唐突に零された本音に、思わず美奈は小さく吹き出した。
寂しかったなら寂しかったといってくれればよかったのに、と母を見た。
「お母さんさ、美奈と一緒に原宿とか渋谷とか……おしゃれなカフェで美味しいもの食べたかったなぁ」
母は慰めるように美奈の頭を撫でながら、ひた隠しにしていた自分の望みを口にした。
「もっと早くくればよかったんだよ。お母さんはいつも先延ばしにするから、美味しいものも食いっぱぐれるし、旅行にも行けなかったし……だから病院も――」
鼻をすすりながら顔を上げた美奈は口を閉じた。それ以上になるとまた話を蒸し返してしまうから。
しかし母はそういう人なのだ。自分よりも他人のこと。美奈が病気になった時はすぐ病院に行けというくせに自分のことには無頓着なのだ。
真っ白なベッドの上に細枯れた腕に点滴を繋がれ、最後に会った時と面影が全くないほど病に侵された別人の母親がそこに横たわっていた。
大学卒業後、東京に就職した美奈の元に突然届いた母に死が迫っているという医師からの知らせ。
慌てて故郷に飛んで帰った時にはもうすでに、彼女は起き上がることはできなくなっていた。呆然としながら、何故教えてくれなかったのかと問いかければ、彼女は何も気づかずにのうのうと過ごしていた娘に怒るでもなく悲しむでもなく――。
『ごめんね。美奈に迷惑かけちゃった』
そう、悲しそうに笑ったのだった。
「……そんなに母さん一人残して東京に行ったのが駄目だった? お母さん具合悪いのに全然気づかなくて……何回も電話したのに、気づかなかったあたしが駄目だった? ねぇ、なんで教えてくれなかったの」
母に突き放された気がした。
今まで母の異変に気付かなかった自分を恨んだ。こんなことになるならずっと母の元にいればよかったと、何度も何度も悔やんだ。
『なにもいう気がないなら、黙って一人で死ねばいいんだ!』
そしてそんな思いが重なり、思わず口をついてしまった最低な言葉を恥じた。
何度も謝ろうとして病院に足を運んだが、病室に入れることはなく引き返してしまう。そうしている内に、母は帰らぬ人となり亡骸と対面して、何度も何度も謝った。
そうして今、こうして本物の母と対面できた。あの時言えなかった言葉を、紡ごうとする度に状況は悪いものへと変わる。
こんな風に喧嘩するつもりはなかった。唯、昔のように笑って話したかっただけなのに。悔しさに涙が滲み、癇癪に震える娘の言葉を娘は何も言わずに穏やかな瞳で黙って受け止めた。
「なんか答えてよ! いつまで黙ってるつもりなんだよ! 今しか……もう、一回しか会えないんだよ! あたしはもう後悔したくない! 母さんは、このまま別れていいの!」
千代はすぐ側で息を飲んで見守っていた。
今まで彼女がどんな思いでこの店を開いていたのかは美奈は知る由がない。けれど、閉じていた店を再び開けてくれた彼女の為にも、もう最悪な別れは見せたくない。そして、美奈自身もこれ以上重いものを背負って生きて行きたくはない。
美奈の思いに母の手は僅かに動いた。
このまま彼女が黙っていれば、もう何も口を聞かず別れるつもりでいた。どうか、どうか、何か話してほしいと祈るように目の前の母を美奈は見つめた。
「伝えようとしたわよ。何度も。そのために電話をしてたんだから……」
美奈の手をそっと掴むと、座るように目配せした。
そして娘の暖かな手を自身の膝上に乗せ、何度も何度も優しく撫でた。
夫とは娘が幼い頃に離婚をし、女手一つで彼女を育て上げた。大学を卒業し東京に就職した娘を見送った。これで母としての役目は終え、自由に好きなことをして遊んでいけると思った。
けれど、ずっと二人で過ごしていた家の中はやけに広く感じ、人一人消えただけでこんなにも寒くなるのかと途端に寂しくなった。
その矢先、大きな病が見つかった。治そうにももう手遅れで、大人しく死を待つしかできなかった。自分が頼れるのは一人娘しかいない。だから、すぐに告げようと思ったのだ。
「なら、なんで話してくれなかったの」
「美奈ちゃんがあまりにも楽しそうに話すから。話をしているのが楽しくて、ついいえなくなっちゃったの」
「そんな……」
「お母さんが死ぬなんていったら、悲しい顔になっちゃうでしょ。美奈にはずっと笑っていて欲しかったの」
申し訳なさそうに、母は美奈の手を握りしめた。
決して頼らなかったわけではない。言えなかったのだ。
重い病気がある。もうすぐ死ぬ。そんな現実を娘に叩きつけて、ようやく一人で歩き始めた娘の幸せな日々を奪うことなんて母にはできなかった。
「でも、それが結局美奈を悲しませることになってしまったこと……とても後悔してるわ。一人で死んで当然の報いだと思ったもの」
母は、誰にも看取られずに死んだ。
今まで育ててもらったのに親孝行もできず、あまつさえ酷い言葉を吐き、逃げ出した娘を母は一切責めることはなかった。
「……なんで、そんなこというんだよ。一人で死んで欲しいなんて……思ってなかった。あたしは、なにもできなかった……」
「そんなことないよ」
母の手に額をつけるように深々と頭を下げ、美奈はぽろぽろと涙を流した。母はそんな娘の頭を慰めるように優しく撫でた。
「東京遊びに行って、色んなところ行って美味しいもの食べたりしようっていったじゃん。結局なにもできないままで……あたし、お母さんが遊びに来るのずっと、ずーっと楽しみにしてたのに。なんでなにもいってくれなかったの」
いいたいことは川のように流れていく。 支離滅裂に、思いつくまま母に言葉を投げつけた。
「……ごめんね」
母がぽつりと言葉を漏らした。
「もう、子供じゃないのに……もっと頼って欲しかった」
「ごめんね」
泣き崩れる美奈に母は何度も謝りながら、その体を優しく抱きしめた。
「死んじゃえなんて思ってなかった。ずっと元気で生きてて欲しかったよ」
そういいながら、美奈の背中を摩る様はまるで幼子を宥めている母親そのものだった。
それでも美奈はようやく溜めていたことを吐き出せたのか、安心したように涙が次から次へと溢れだす。少しずつ緩やかになっていく空気に、千代はほっと安堵したように息をついてカウンターの中に戻った。
「正直いうとね、寂しかったのはお母さんの方なの。一度会ったら離れるのが寂しくなるから、だから電話で我慢してたの」
「え……なんだよ、それ」
唐突に零された本音に、思わず美奈は小さく吹き出した。
寂しかったなら寂しかったといってくれればよかったのに、と母を見た。
「お母さんさ、美奈と一緒に原宿とか渋谷とか……おしゃれなカフェで美味しいもの食べたかったなぁ」
母は慰めるように美奈の頭を撫でながら、ひた隠しにしていた自分の望みを口にした。
「もっと早くくればよかったんだよ。お母さんはいつも先延ばしにするから、美味しいものも食いっぱぐれるし、旅行にも行けなかったし……だから病院も――」
鼻をすすりながら顔を上げた美奈は口を閉じた。それ以上になるとまた話を蒸し返してしまうから。
しかし母はそういう人なのだ。自分よりも他人のこと。美奈が病気になった時はすぐ病院に行けというくせに自分のことには無頓着なのだ。
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