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5.「まちぼうけ」
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しかし、待てど暮らせど川に変化はなかった。
時間が経つほどに上に乗ったアイスクリームは徐々に溶けはじめ、グラスの上の方から薄緑色へと変わり底の方に白い線を落としていく。綺麗に飾り付けされていたアイスは徐々に形を崩れさせていった。
そしてついにアイスの側に寄り添っていたチェリーがゆっくりとグラスの底に沈んでいった。既に不透明となりかけていたグラスの底に、チェリーがぽとりと落ちたと同時に提灯の蝋燭が消えた。
その瞬間、夜が明け朝日が昇るように眩しい夕陽が目に刺さる。
――結局、寺田の前に智代が再び姿を表すことはなく、元の河川敷へと戻ってきてしまったのだ。
「……なんで」
鉛を吐くように寺田は重く言葉を吐き出しながら頭を抱えた。
何故。昨日確かに約束したというのに。彼女は約束を破ったことなんて一度もなかった。クリームソーダを飲みたいといったじゃないか。
疑問だけが頭を埋め尽していく中で、項垂れる寺田はアイスが溶け酷い姿になったクリームソーダをじっと見つめた。
「……すみません」
零されるように呟かれた言葉に寺田は顔を上げると、女がまるで自分の責任のように申し訳なさそうに肩を落としていた。
「君が謝ることじゃない。俺のわがままに付き合ってくれたんだから……寧ろ礼をいわなければならない。ありがとう」
そう。誰のせいでもない。
そもそも死者と一緒に食事をしたいといった自分が悪いのだ。彼女は自分の我儘に親切に付き合ってくれただけなのだ。
寺田にどんな言葉をかければ良いのかもわからないのだろう。彼女の姿からはただ悲しみと悔しさが滲み出ていた。
「……なぁ」
絞り出すように寺田が声をかけると、彼女はゆっくりと寺田と目を合わせた。
「昨日のあれは……俺の夢じゃないよな?」
独り言のように呟かれた寺田の言葉に女はゆっくりと瞬きをした。
「智代は、昨日確かに俺の隣にいたよな? 一緒に話していたよな」
寺田は自分の両手を見つめた。あの柔らかな感触は、何十年と嫌という程見てきたあの顔は確かに妻の智代だった。
だが、あの光景は、あの夢のようなひと時は幻想だったのではないのかとも思ってしまう自分もいた。もしかしたら今、この瞬間も夢なのかもしれない。
もしかしたら醒めない夢の中で自分は彷徨っているだけなのかもしれないと、寺田は縋るような瞳で女を見た。
「……はい」
女はまっすぐ寺田を見つめ返したままゆっくりと頷いた。
「確かに奥さんは傍にいました。とても、とても楽しそうに笑っていたのを私はずっとみていました。お二人とも、とても……幸せそうでした」
彼女は笑顔というよりははにかみに近いけれど、とても柔らかな表情をその時初めて寺田に見せた。
どこか羨ましそうにも見えるその表情を見て寺田は少しだけ罪悪感が湧き上がった。自分に付き合ってくれたということは彼女だって会いたい人がいたのかもしれない。けれど、今その謝罪を述べるのは彼女を傷つけてしまいそうで喉元まで出かかった謝罪の言葉を飲み込んだ。
「……そっか。それなら、いいんだ」
しかし、寺田は彼女の表情とその言葉に確かに救われたのだ。
あれは自分の思い込みではなく確かに現実だったと目の前の彼女が証言してくれた。この世のものではない人間にそう何度も会えるという奇跡が起こるはずもない。きっと、一度しか起こり得ない奇跡なのだと何も語らずとも二人はただ、納得して、小さく頷いた。
「なぁ……一緒に食べないか?」
「いいんですか?」
「ああ。どれだけ美味しい食事も一人で食べると不味くなるからな」
それは智代がいなくなってわかったことだ。
時折手抜き料理だと智代がスーパーの惣菜を買い込んで来たことがあった。普通に料理を作るより値は張ってしまうけれど、たまには楽しいねと二人で楽しく食べていた。
それがほぼ毎日スーパーのお惣菜にお世話になっている今、一人で食べても胃に物を詰め込んでいるだけで味気なく美味しくないのだ。
「……それ、新しいの作りますよ」
「いや、いいよ」
すっかり溶けてしまったクリームソーダを見て寺田は小さく首を横に振った。
何度か押し問答が続いたが、寺田は引くことはなかった。仕方なく千代は二つクリームソーダを作り、一つを自分で、もう一つを誰も座っていない寺田の隣の席に置いた。
「智代はいないよ」
「……奥さんも、クリームソーダ、楽しみそうにしていましたから。見えないだけで、そこにいるかもしれないし」
彼女の気遣いはありがたかった。ありがとう、というと女は再び小さくはにかんだ。
氷とアイスが溶け、妙に甘ったるいクリームソーダを背中をまあるくしてちびちびと飲んでいく。お世辞にも美味しいとはいえなかった。
「はは……あの時と逆じゃないか」
懐かしそうに男はぽつりと言葉をこぼした。
「あの時?」
「ああ。何十年も前。智代との初デートの時の話さ。俺が時間を間違えて大遅刻しちゃってさ。あいつを待たせちゃったんだよ。喫茶店の角の席で、あいつはずっと俺を待ってたんだ。俺と同じように頼んだクリームソーダに一口も口をつけずに……アイスも氷も殆ど溶けかかって、今みたいにドロドロだった」
瞼を閉じるとあの時の記憶が映画のように鮮明に蘇ってくる。まだ若々し互いの姿を思い返し、ストローから口を離し思わずくすりと笑み浮かべた。
「どうして頼んだのに飲まなかったんだ、って聞いたらさ、あいつこう答えたんだよ。頼んだものが運ばれてくる間に貴方がくると思っていたの。結局こっちが先に来たけれど、貴方と一緒に飲みたかったから待ってしまったのよ。あたしもバカね、ってさ」
「似た者夫婦、ですね」
女がそういうと、寺田は肩を竦めながら悲しそうに笑った。
「……素直じゃないけどさ、可愛いやつだったんだよ。はたから見たら可愛くないかもしれないけれど……俺にとっては可愛い女でさ。愛していたよ」
乾いた笑みを浮かべていると、つうっと頬に暖かい涙が伝い落ちていった。
涙の雫はぽたぽたと落ち、カウンターに染みを落としていく。涙を流すなんて一年ぶりだ。
「愛していたんだよ。もっと一緒にいたかった。俺の方が先に逝くと思ってたら、まさか先に置いてかれるなんてさぁ……」
目元を手で覆ったが、その手の間から涙は止めどなく溢れ続けた。
女からハンカチを差し出され、それを拭いながら男は舌にねっとりとこびりつくような甘い甘いクリームソーダを啜った。
時間が経つほどに上に乗ったアイスクリームは徐々に溶けはじめ、グラスの上の方から薄緑色へと変わり底の方に白い線を落としていく。綺麗に飾り付けされていたアイスは徐々に形を崩れさせていった。
そしてついにアイスの側に寄り添っていたチェリーがゆっくりとグラスの底に沈んでいった。既に不透明となりかけていたグラスの底に、チェリーがぽとりと落ちたと同時に提灯の蝋燭が消えた。
その瞬間、夜が明け朝日が昇るように眩しい夕陽が目に刺さる。
――結局、寺田の前に智代が再び姿を表すことはなく、元の河川敷へと戻ってきてしまったのだ。
「……なんで」
鉛を吐くように寺田は重く言葉を吐き出しながら頭を抱えた。
何故。昨日確かに約束したというのに。彼女は約束を破ったことなんて一度もなかった。クリームソーダを飲みたいといったじゃないか。
疑問だけが頭を埋め尽していく中で、項垂れる寺田はアイスが溶け酷い姿になったクリームソーダをじっと見つめた。
「……すみません」
零されるように呟かれた言葉に寺田は顔を上げると、女がまるで自分の責任のように申し訳なさそうに肩を落としていた。
「君が謝ることじゃない。俺のわがままに付き合ってくれたんだから……寧ろ礼をいわなければならない。ありがとう」
そう。誰のせいでもない。
そもそも死者と一緒に食事をしたいといった自分が悪いのだ。彼女は自分の我儘に親切に付き合ってくれただけなのだ。
寺田にどんな言葉をかければ良いのかもわからないのだろう。彼女の姿からはただ悲しみと悔しさが滲み出ていた。
「……なぁ」
絞り出すように寺田が声をかけると、彼女はゆっくりと寺田と目を合わせた。
「昨日のあれは……俺の夢じゃないよな?」
独り言のように呟かれた寺田の言葉に女はゆっくりと瞬きをした。
「智代は、昨日確かに俺の隣にいたよな? 一緒に話していたよな」
寺田は自分の両手を見つめた。あの柔らかな感触は、何十年と嫌という程見てきたあの顔は確かに妻の智代だった。
だが、あの光景は、あの夢のようなひと時は幻想だったのではないのかとも思ってしまう自分もいた。もしかしたら今、この瞬間も夢なのかもしれない。
もしかしたら醒めない夢の中で自分は彷徨っているだけなのかもしれないと、寺田は縋るような瞳で女を見た。
「……はい」
女はまっすぐ寺田を見つめ返したままゆっくりと頷いた。
「確かに奥さんは傍にいました。とても、とても楽しそうに笑っていたのを私はずっとみていました。お二人とも、とても……幸せそうでした」
彼女は笑顔というよりははにかみに近いけれど、とても柔らかな表情をその時初めて寺田に見せた。
どこか羨ましそうにも見えるその表情を見て寺田は少しだけ罪悪感が湧き上がった。自分に付き合ってくれたということは彼女だって会いたい人がいたのかもしれない。けれど、今その謝罪を述べるのは彼女を傷つけてしまいそうで喉元まで出かかった謝罪の言葉を飲み込んだ。
「……そっか。それなら、いいんだ」
しかし、寺田は彼女の表情とその言葉に確かに救われたのだ。
あれは自分の思い込みではなく確かに現実だったと目の前の彼女が証言してくれた。この世のものではない人間にそう何度も会えるという奇跡が起こるはずもない。きっと、一度しか起こり得ない奇跡なのだと何も語らずとも二人はただ、納得して、小さく頷いた。
「なぁ……一緒に食べないか?」
「いいんですか?」
「ああ。どれだけ美味しい食事も一人で食べると不味くなるからな」
それは智代がいなくなってわかったことだ。
時折手抜き料理だと智代がスーパーの惣菜を買い込んで来たことがあった。普通に料理を作るより値は張ってしまうけれど、たまには楽しいねと二人で楽しく食べていた。
それがほぼ毎日スーパーのお惣菜にお世話になっている今、一人で食べても胃に物を詰め込んでいるだけで味気なく美味しくないのだ。
「……それ、新しいの作りますよ」
「いや、いいよ」
すっかり溶けてしまったクリームソーダを見て寺田は小さく首を横に振った。
何度か押し問答が続いたが、寺田は引くことはなかった。仕方なく千代は二つクリームソーダを作り、一つを自分で、もう一つを誰も座っていない寺田の隣の席に置いた。
「智代はいないよ」
「……奥さんも、クリームソーダ、楽しみそうにしていましたから。見えないだけで、そこにいるかもしれないし」
彼女の気遣いはありがたかった。ありがとう、というと女は再び小さくはにかんだ。
氷とアイスが溶け、妙に甘ったるいクリームソーダを背中をまあるくしてちびちびと飲んでいく。お世辞にも美味しいとはいえなかった。
「はは……あの時と逆じゃないか」
懐かしそうに男はぽつりと言葉をこぼした。
「あの時?」
「ああ。何十年も前。智代との初デートの時の話さ。俺が時間を間違えて大遅刻しちゃってさ。あいつを待たせちゃったんだよ。喫茶店の角の席で、あいつはずっと俺を待ってたんだ。俺と同じように頼んだクリームソーダに一口も口をつけずに……アイスも氷も殆ど溶けかかって、今みたいにドロドロだった」
瞼を閉じるとあの時の記憶が映画のように鮮明に蘇ってくる。まだ若々し互いの姿を思い返し、ストローから口を離し思わずくすりと笑み浮かべた。
「どうして頼んだのに飲まなかったんだ、って聞いたらさ、あいつこう答えたんだよ。頼んだものが運ばれてくる間に貴方がくると思っていたの。結局こっちが先に来たけれど、貴方と一緒に飲みたかったから待ってしまったのよ。あたしもバカね、ってさ」
「似た者夫婦、ですね」
女がそういうと、寺田は肩を竦めながら悲しそうに笑った。
「……素直じゃないけどさ、可愛いやつだったんだよ。はたから見たら可愛くないかもしれないけれど……俺にとっては可愛い女でさ。愛していたよ」
乾いた笑みを浮かべていると、つうっと頬に暖かい涙が伝い落ちていった。
涙の雫はぽたぽたと落ち、カウンターに染みを落としていく。涙を流すなんて一年ぶりだ。
「愛していたんだよ。もっと一緒にいたかった。俺の方が先に逝くと思ってたら、まさか先に置いてかれるなんてさぁ……」
目元を手で覆ったが、その手の間から涙は止めどなく溢れ続けた。
女からハンカチを差し出され、それを拭いながら男は舌にねっとりとこびりつくような甘い甘いクリームソーダを啜った。
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