よみじや

松田 詩依

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1.「だいこうぶつ」

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 それから、信司が高校に入学して一ヶ月も立たない頃、父が体調を崩し入院した。
 父は末期の癌に侵されていた。酷く窶れていたのはそのせいだったのだ。
 父の変化に気付いた母が無理矢理病院に連れて行った時には、急性胃ガンのステージ四。
 既に体のあちこちに癌が転移しており、摘出しようにも最早手遅れだったそうだ。
 突然家にいるようになったのは、会社の計らいで病気療養の長期休暇を取っていたのだった。
 父親が余命半年と宣告されたことを、信司はよく受け止められずにいた。

「ああ……信司。よく来てくれたね。ありがとう」

 最初のうちは信司は母に連れられて週何度か父親の病室を訪れた。
 病室に入ると父親は信司を見て嬉しそうに微笑んだ。元気そうにはにかむその父親が後半年で死ぬなんて思わなかった。
 きっと死ぬわけがない。今は癌だって治る時代になったのだ。なんて、大した知識もない癖にそんな風に勝手に思い込んでいた。結局は父から逃げていただけかもしれない。

「……信司、久し振り、だね。高校は、楽しいか?」

 そうして数週間間が開いて、一人で父の病室に顔を出した時言葉を失った。
 抗がん剤の副作用で髪がごっそりと抜け落ち、頬が痩け、点滴が繋がれた腕は細くなっている変わり果てた父の姿。
 その姿に驚いて、掠れた声で投げかけられた質問に答えられずに思わず目を逸らし、すぐに逃げるように病室を後にした。
 なんて言葉をかけていいのかわからなかった。弱り果てた父の姿を見る度に、居た堪れなくなった。

「…………わざわざ時間を使わせてしまって、ごめんな。父さんは会えて嬉しかったよ。また、いつでもおいで」

 信司が帰る時にその背中に寂しそうに掠れた声で言葉をかけてくれた。
 その度に胸が締め付けられた。いっそのこと怒鳴って、殴ってくれれば気持ちも晴れるというのに。
 どこまでも優しい父が怖くて、少しずつ、確実に、信司の足は病院から遠のいていった。


 そのまま信司は父とまともに顔を合わせることはなかった。父の目を見るのが怖かったのだ。
 そして、ようやく父の顔を見ることができたのは夏のこと。棺に入って永遠の眠りについた、父の死に顔だった。
 棺で眠る父の顔はまるで別人のように痩せこけていた。
 恐る恐るそっとその顔に触れると人間に触れているとは思えないほど、無機質のように冷たかった。
 父の会社の部下や上司が泣いている。母も、父の友人も、祖父母も泣いている。
 どれだけ父が慕われていたのか。何でそんなに慕われているのか。彼がどんな人間だったのか、あまりにも関わる時間が少なすぎて信司には理解できなかった。
 最後に父とどんな話をしたのかさえも思い出せない。顔も、声も少しずつ消えていく。
 坂平信という男のことを理解できぬまま、深い溝が埋まらぬまま、親子に永遠の別れが訪れてしまったのだった。 


 父親が死んで四年が経った今でも、信司はそのことを酷く後悔していた。
 胸の奥深くに、頭が折れて抜けない釘が刺さっているかのようだった。徐々に錆びついていくそれが一生抜けないと思うだけで心が重く押しつぶされそうになってしまう時もあった。
 そんな時、ふとネットサーフィンをしているとあの都市伝説に行き着いた。
 死者と会える屋台。なんて馬鹿馬鹿しい話だと思っていたのに――あの都市伝説を耳にしてから父の顔が頭に散らついて離れない。そうして気がついた時にはハガキを用意していたのだ。

 父との楽しい思い出は少ないけれど、一緒に食べたい物と尋ねられたら、古ぼけた記憶が頭の中を過った。

 食欲をそそる匂い。母に近くにいると危ないからといわれ、少し離れた場所で背伸びをして揚がるのを今か今かと待っていた。信司と父の好物だ、と母がいつにも増して張り切って料理を作る日があった。
 ざくりと心地よい心地よい衣の音。噛むとじゅわりと溢れる肉汁。ニンニクと醤油が効いた、ご飯が進む、大好きな――唐揚げ。

 うん。もし父と一緒に食べられるとしたら、これを食べたい。
 どうせなにも起こらないとは思うけれど。
 都市伝説に踊らされるなんて、あまりにも滑稽だけれども。
 抜けない釘が少しでも動くような気がして、信司はそんな願いを込めて、手紙をポストに投函した。
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