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最終話.指輪物語

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 それにしても――。
 あの神秘的で厳然とした竜の前で、風吹はよくもまあマイペースに振る舞えるものだ。いくら見えていないとはいえ、あんなにも大きく、しかも七色にピカピカ派手に光っているのに。
 気配すら感じないなんて、ある意味すごい。幻燈も大祐もモモも、呆れつつ、感心した。

「あ。あった」

 風吹はカバンからなにか取り出した。幻燈たちからは暗くてよく分からないが、さほど大きいものではなさそうだ。

「ねえ、イズー、こっち向いて」
「……………………」

 風吹の呼びかけに、イズーは沈黙をもって応えている。ふうと大きく息を吐いてから、風吹は再び口を開いた。
 ――が。

「ほーら、イズー、いい子いい子。いい子だねー。おいでー。こっち見て見て、ほらー、おいでおいでー」

 時折ピィピィと口笛を吹いたり、甲高い作り声を出したりして、風吹はイズーの気を引こうとしている。
 幻燈たち三人は、眉を顰めた。

「なんだ、あれは。あの女は、イズー様をバカにしているのか!?」
「うーーーーーーーーーーーん」

 風吹の不真面目としか思えない態度に、モモは大いに立腹している。意図が読めず、幻燈は首を捻った。
 そんな中、大祐だけは掛けているメガネの位置を直し、食い入るように風吹を見詰めている。

「いや……。いい。すごく、いい……。あの、犬っころでも相手にするかのような仕草は、斬新だ。俺たちにとっては、ご褒美だ……」

 さすがというべきか、大祐は鋭い。ただし先ほどの奇抜な見解は、旧魔王という経歴ではなく、「ややM」という彼の性質が語らせたものだろう。
 犬。そう、風吹はここにきて、かつての愛犬とイズーの姿を重ねていた。
 普段はしつこいくらいまとわりついてくるのに、一度機嫌を損ねると、どんなに呼んでも来ない。
 ――セバスチャン。
 真っ白な毛並みのあの犬も、お風呂に入れたあとや注射を打ちにいったときなどはへそを曲げ、なかなか風吹を許してくれなかった。そういうときは下手に出て、おやつで釣るしかなかったのだ。

「ほーら、イズー。いいものあるよー。おいでおいで~」

 風吹が二、三回誘ったところで、イズーは音が出そうなほど重々しく、ゆっくり振り返った。
 眉は吊り上がり、青い瞳には憎しみと怒りの炎が灯っている。
 大祐から継いだ魔王の証である赤い靄は、未だイズーの全身を覆っており、風吹と目が合った瞬間、一層高く波立った。靄は今や、イズーの怨念そのものと化している。
 並の人間ならば、睨まれただけで全身が凍りつく――魔王。しかし風吹はその魔王様と対峙して、むしろ安堵していた。

「やっとこっち見てくれた! あのね、イズー……」

 はしゃぐ風吹を遮り、イズーは尋ねた。

「ひとつ聞きたい。――お前はなぜ急に、俺を拒んだ?」
「えっ!? 分からないの?」
「分からんから、聞いている」
「ええーーー! イズーって、めちゃくちゃ鈍いなあ!」

「鈍い」。
 ――それを、お前が、あなたが、主任が、言うのか。

 傍観するしかない三人組は、せめて心でツッコミを入れた。
 目を丸くしていた風吹は、やがてもじもじし始めた。

「もしかして、意地悪で言ってるの? だってさー……。おばさんかもしれないけど、私だって女だよ。ヤキモチだってやくよ……」
「や。………………………………………やきもち?」

 やきもち。
 あまりに予想外の真相を告白されて、イズーの頭の中は真っ白になった。失われたはずの古代の魔法文字を発見したときだって、ここまで驚かなかったかもしれない。
 風吹はイズーの変化に気づかず、ちらっと自分たちの後ろにいるモモに目をやった。

「あんなに若くて可愛くて、イズーと同じ趣味の女の子を家に連れ込んで……。嫉妬もするし、誤解するなっていうほうが無理だと思うんだけど」
「……………………」
「やっぱりイズーは、単に私に寄生したいだけだったんだーとか、嫌なこと色々考えちゃって……」

 イズーはショックから回復せず、身動きひとつできずにいる。風吹はここぞとばかりに畳み掛けた。
 何の話かさっぱり分からないが、風吹優勢のこの戦いに、幻燈たちは見入っている。
 風吹は正直に言えば、イズーからどれだけ好きだとか愛してるとか囁かれても、これまで半信半疑だった。だが先ほど自宅の台所で、イズーが使っている料理本を見つけ、その中身を読んだとき、ようやく彼の想いが伝わってきたのだ。
 イズーは本当に、自分のことを愛してくれている、と。

 ――だったら私も、真正面から受けて立つ。

 ギャラリーがいるのが、少し恥ずかしかった。しかし世の中にはフラッシュモブだとか、公衆の面前で踊り歌いながら堂々とやってのける輩もいる。それに比べれば、自分がしようとしていることなんて、可愛いものだろう。
 ここが勝負どころである。今を逃したら、イズーは二度と帰ってこない気がした。

 ――なんとなくだけど。

 それは選ばれし者のみが有する、人智を超えた第六感にほかならない。
 風吹はイズーに向かって、腕を差し出した。上を向いた手のひらには、先ほどカバンから取り出したなにかが乗っている。

「仕事が早く終わったから、取りに行って来たんだ」

 風吹が持っていたのは、ケースだ。上側の蓋に手を掛けると、貝のように開く。中にはクッションに収まった、二つの指輪が入っていた。

「結婚しよう、イズー!」

 満面の笑みで、風吹は言った。
 ――誰の足も、指も、髪も、一本足りとも動かず、夜の川に沈黙が流れた。











「あ、えーと。ダメでもOKでも、なにか言って欲しいな……」

 重い雰囲気に耐えられなくなった風吹がつけ足すと、彼女の前で微動だにしなかったイズーが、ふるふると震え出した。無表情だった顔は、仮面がひび割れるかのように歪み始め、青い瞳から一粒、涙がこぼれ落ちる。

「風吹の……バカあ……」

 そのあとは堰を切ったようにべそべそ泣きながら、イズーは思いの丈をぶち撒けた。

「やきもちなんて……! 俺がっ、風吹以外のっ、女を……っ! 欲しがるわけないじゃないかっ! お前だけがいればいいのにっ! お前だけが欲しいのに……っ!」
「あー……」

 一旦指輪のケースを閉じると、風吹はカバンから今度はポケットティッシュを取り出し、イズーの横に寄り添うように立った。風吹が側に来ても威嚇することもなく、逃げることもなく、イズーは嗚咽を漏らしている。

「ほら、泣かないで」

 イズーは泣くのと怒鳴るのとで忙しく、呼吸がおかしくなっている。彼の目や鼻を、風吹はティッシュで拭いてやった。

「風吹のバカ、バカあ……! 鬼! 悪魔! お前は、魔王なんかより、ひどい奴だ!」
「うんうん、ごめんね」
「もう、出て行けって言わないか……っ!? 絶対言わないかっ!?」
「言わない、言わない」

 ひととおり顔を綺麗にしてやると、風吹はにっこり笑って、イズーを見上げた。

「で、結婚してくれる?」
「――する!」

 今度は即答すると、イズーは風吹を力いっぱい抱き締めた。
 風吹に触れた瞬間、イズーの周りに浮き立っていた赤い靄は、蒸発するかのようにしゅっと消えてしまった。――単純なものである。

「じゃあ、これ……」

 雑誌等で吟味を重ねて、風吹が買った指輪は、プラチナ製だ。イズーは頬を赤らめ、手を差し出した。だが彼の左手の薬指には、別の指輪が嵌っている。

「あれ?」
「あっ!」

 イズーは大祐から奪ったマジックリングを素早く抜き取ると、ぽいっと投げ捨てた。慌ててそれをモモが拾う。
 改めて風吹は、イズーに指輪を嵌めてやった。

「ちょっと大きいかな……。休みの日に、サイズを直してもらいに行こうね」
「うん。うん……!」

 泣きやんだはずのイズーの瞳が、また潤む。魔王の指を飾った白金の指輪は、月光を浴び、キラキラと輝き出した。
 すると世界を滅ぼさんと準備を整え、出撃のときを待っていた竜は――高く昇ったかと思うと、くるりと宙返りし、突如弾けてしまった。
 竜の体を形作っていた全ては粒に戻り、元あった場所へ還っていく。夜空に広がった七色の光のシャワーは、幻想的で美しかった。

「きれい……!」
「花火みたいだな」

 うっとりと頭上の光景に見惚れていた大祐とモモを、幻燈がつつく。幻燈は髭の生えた口元に人差し指を立てると、退場を促した。

「俺、頑張るからっ! 金は稼げないけど! 料理も掃除ももっと頑張って、風吹を幸せにするからっ!」
「今のままで充分だよ、イズー。大好きだよ」
「俺も! 俺も愛してる! 風吹、ああ、風吹、風吹、ふぶきふぶきふぶき……!」

 幻燈たち三人は、固く抱き合ったイズーたちに気づかれぬよう、そろりそろりと足音を消して、土手を去った。

「いったい、なんだったんだ……。私たちはカップルのケンカに巻き込まれただけなのか? バカバカしい!」

 モモは小声でぶうぶう文句を言っている。大祐も狐につままれたような表情だ。
 幻燈だけが一人、したり顔である。

「結局は、定められたとおりの者が、役目を果たしたってことですかねえ……」

 こうして、二つの世界の破滅は、無事回避された。
 空には月と星々が煌々と輝く。
 終わってみれば、いい夜であった。








 そのあとの話を、少し、しよう。

 早水 大祐は魔王の座を失った翌日、会社に辞表を提出した。
 一ヶ月間きっちり仕事の引き継ぎを行い、立つ鳥跡を濁さず、異界へ旅立っていった。
 その後、大祐は異界で艱難辛苦の戦いを繰り広げたのち、魔物と人間が共存できる世を築いた。プライベートではモモと結ばれ、六人の子に恵まれた。
 魔王に返り咲くこともなく、勇者にもなれず、ハーレムも作れなかったが、愛妻とたくさんの子供たちに囲まれた晩年の大祐は、まんざらでもなさそうだったという。
 彼はもう二度と、元の世界に戻ることはなかった。

 海月 幻燈は、早水 大祐に後始末を頼まれた。
 幻燈は大祐の生家や不要品を処分し、そこで得た金を、イズーが風吹と共に生きていくための、最低限の準備に使った。残りは、福祉団体に寄付したという。これらは全て、大祐の意思に従ったものだ。
 大祐いわく、「これから世界を平和にしようというのに、滅ぼされたらかなわんし」とのことである。

 幻燈とクララ夫妻の第一子は、女の子であった。その後、更に二人の子宝に恵まれた彼らは、風呂が自慢の豪邸で仲良く暮らしている。

 イズーと風吹は、イズーの戸籍が正式に整ってからすぐ、入籍した。二人の間には、一男一女が生まれた。
 ちょうど女性社員についての人事を、今一度見直す時機に来ていた会社が、モデルケースにしようと目をかけてくれたおかげで、風吹は順調にキャリアを積むことができた。自身も最大限努力した結果、風吹は将来、親会社の役員にまで出世することになる。
 イズーは幻燈のところで細々と仕事をしつつ、家事と育児の大半を受け持った。
 家を完璧に守り、子供を立派に育て上げた彼は、風吹とずっと仲が良く、地味ながらも充実した毎日を送った。
 これから先も、魔導師イズーは表舞台に出ることはないのだろう。しかし魔導師は、なににも変えがたい幸せを手に入れることができた。
 イズーが永遠の眠りに就くとき、魔王もまた静かに滅ぶことになる。
 そのときこそ真実、予言は外れ、そして世界は続いていくのだ。








 さて、時間は巻き戻り、大祐が異界へ旅立った翌日、そしてイズーと風吹が入籍する三ヶ月ほど前のことだ。
 区役所に取りに行った戸籍抄本を手に、イズーはにまにま笑っている。イズーが持っているのは、今度こそ正真正銘、彼自身の戸籍だ。以前、風吹に大祐のものを見せてしまった手前、名前は「早水 大祐」となっているが、それ以外は微妙に異なる、「同姓同名の別人」ということにしてある。この戸籍は、幻燈がコネを利用し、親切にも作ってくれたものだ。

「このまま風吹さんと結婚できなければ、またもや魔導師殿の中の魔王が目覚めて、世界の終末が訪れるかもしれませんからね……」

 なんでもスポンサーは、「絶対零度の死神」だそうな。
 ともかくこれで結婚もできるし、念願だった携帯電話だって買える。どの機種にしようか、イズーがスマートフォンのパンフレットをうきうきと眺めていると、家の電話が鳴り、風吹が出た。

「あ、お父さん? えっ、えー? そんな急に、もー。まあいいや、会わせたい人がいるの。お母さんから聞いてる?」

 受話器に向かって話しながら、風吹はちらっとイズーを見て、微笑んだ。――なんだろう。
 風吹が電話を切ったあと、イズーは尋ねた。

「誰からだ?」
「お父さん。近くに来てるんだって。今から、寄るって」
「な、なんだと!?」

 イズーは洗面所に駆け込むと、髪を整え、髭を剃り直した。また居間に戻ってくると、おろおろと風吹に意見を乞う。

「もっとちゃんとした服を着たほうがいいか!?」
「えー、いいよ、別に」

 風吹は笑いながらソファから立つと、台所へ向かった。そのあとをイズーは、親ガモについて行く子ガモのように追う。

「やっぱりスーツ、買っておけば良かった……!」
「だから、平気だってば。うちのお父さんだって、いっつもラフな格好なんだから」

 そんなことを言い合っていると、チャイムが鳴った。
 イズーは飛び上がると、玄関に走った。風吹はくすくす笑いながら、お茶の準備を始める。ガスコンロに乗せたケトルの上で、両手鍋の付喪神も笑みを浮かべていた。

「はい! はいはいはい!」

 イズーがドアを開けると、そこには厳しい面構えをした男性が、一人立っていた。

「……風吹の父だ」

 両脇にたくさんの荷物を抱えた男は、そう名乗った。
 風吹の父だというその人は真っ黒に日焼けしており、背は高くないが、手足は太く逞しく、胸周りも厚い。だいぶ歳はいっていたが、腕っ節では負けそうだ。

「お前が、うちの風吹と結婚したいという男か?」

 風吹の父は、イズーの顔をじろじろ眺め回した。
 不躾な視線を向けられても、愛する人の父君からならば、甘んじて受けねばなるまい。イズーは直立不動で、なんとか笑顔を作った。

「は、はじめまして、お父様……! ぼくは、はやみず だいすけといいます。頭文字を取って、イズーと呼んでください」

 どこの頭文字をどのように取っても、「イズー」とはならないので、騙されてはいけない。
 男は大きなため息をついた。

「まったく。よりによって、なんでお前なんだ」
「え?」

 どこかで会っただろうか。
 必死に記憶を辿るイズーを押し退け、風吹の父は部屋に入り込んだ。そして振り返り、むすっとした顔のまま言った。

「歳を食ったこの俺が、何十年も前のことを覚えているっていうのに、まだ若いお前がなんで忘れてるんだ。お前からしたら、どうせまだ数ヶ月しか経ってないんだろ?」
「えーと……」

 あなたは誰ですか?
 問う前に、風吹の父は吐き捨てるように答えた。

「勇者だよ」
「ええええええええ!?」

 イズーが大声を上げると、台所にいた風吹が不思議そうにひょいと姿を現した。

「風吹、ぶどうを持ってきたぞ。あとな、水ようかん! この店のは、最高に美味いんだ!」

 驚愕に慄くイズーをほったらかしに、風吹の父はデレデレと相好を崩し、持ってきた大量の荷物――お土産を、得意気に娘に献上するのだった。




~ 終 ~



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