53 / 54
最終話.指輪物語
6
しおりを挟む
それにしても――。
あの神秘的で厳然とした竜の前で、風吹はよくもまあマイペースに振る舞えるものだ。いくら見えていないとはいえ、あんなにも大きく、しかも七色にピカピカ派手に光っているのに。
気配すら感じないなんて、ある意味すごい。幻燈も大祐もモモも、呆れつつ、感心した。
「あ。あった」
風吹はカバンからなにか取り出した。幻燈たちからは暗くてよく分からないが、さほど大きいものではなさそうだ。
「ねえ、イズー、こっち向いて」
「……………………」
風吹の呼びかけに、イズーは沈黙をもって応えている。ふうと大きく息を吐いてから、風吹は再び口を開いた。
――が。
「ほーら、イズー、いい子いい子。いい子だねー。おいでー。こっち見て見て、ほらー、おいでおいでー」
時折ピィピィと口笛を吹いたり、甲高い作り声を出したりして、風吹はイズーの気を引こうとしている。
幻燈たち三人は、眉を顰めた。
「なんだ、あれは。あの女は、イズー様をバカにしているのか!?」
「うーーーーーーーーーーーん」
風吹の不真面目としか思えない態度に、モモは大いに立腹している。意図が読めず、幻燈は首を捻った。
そんな中、大祐だけは掛けているメガネの位置を直し、食い入るように風吹を見詰めている。
「いや……。いい。すごく、いい……。あの、犬っころでも相手にするかのような仕草は、斬新だ。俺たちにとっては、ご褒美だ……」
さすがというべきか、大祐は鋭い。ただし先ほどの奇抜な見解は、旧魔王という経歴ではなく、「ややM」という彼の性質が語らせたものだろう。
犬。そう、風吹はここにきて、かつての愛犬とイズーの姿を重ねていた。
普段はしつこいくらいまとわりついてくるのに、一度機嫌を損ねると、どんなに呼んでも来ない。
――セバスチャン。
真っ白な毛並みのあの犬も、お風呂に入れたあとや注射を打ちにいったときなどはへそを曲げ、なかなか風吹を許してくれなかった。そういうときは下手に出て、おやつで釣るしかなかったのだ。
「ほーら、イズー。いいものあるよー。おいでおいで~」
風吹が二、三回誘ったところで、イズーは音が出そうなほど重々しく、ゆっくり振り返った。
眉は吊り上がり、青い瞳には憎しみと怒りの炎が灯っている。
大祐から継いだ魔王の証である赤い靄は、未だイズーの全身を覆っており、風吹と目が合った瞬間、一層高く波立った。靄は今や、イズーの怨念そのものと化している。
並の人間ならば、睨まれただけで全身が凍りつく――魔王。しかし風吹はその魔王様と対峙して、むしろ安堵していた。
「やっとこっち見てくれた! あのね、イズー……」
はしゃぐ風吹を遮り、イズーは尋ねた。
「ひとつ聞きたい。――お前はなぜ急に、俺を拒んだ?」
「えっ!? 分からないの?」
「分からんから、聞いている」
「ええーーー! イズーって、めちゃくちゃ鈍いなあ!」
「鈍い」。
――それを、お前が、あなたが、主任が、言うのか。
傍観するしかない三人組は、せめて心でツッコミを入れた。
目を丸くしていた風吹は、やがてもじもじし始めた。
「もしかして、意地悪で言ってるの? だってさー……。おばさんかもしれないけど、私だって女だよ。ヤキモチだってやくよ……」
「や。………………………………………やきもち?」
やきもち。
あまりに予想外の真相を告白されて、イズーの頭の中は真っ白になった。失われたはずの古代の魔法文字を発見したときだって、ここまで驚かなかったかもしれない。
風吹はイズーの変化に気づかず、ちらっと自分たちの後ろにいるモモに目をやった。
「あんなに若くて可愛くて、イズーと同じ趣味の女の子を家に連れ込んで……。嫉妬もするし、誤解するなっていうほうが無理だと思うんだけど」
「……………………」
「やっぱりイズーは、単に私に寄生したいだけだったんだーとか、嫌なこと色々考えちゃって……」
イズーはショックから回復せず、身動きひとつできずにいる。風吹はここぞとばかりに畳み掛けた。
何の話かさっぱり分からないが、風吹優勢のこの戦いに、幻燈たちは見入っている。
風吹は正直に言えば、イズーからどれだけ好きだとか愛してるとか囁かれても、これまで半信半疑だった。だが先ほど自宅の台所で、イズーが使っている料理本を見つけ、その中身を読んだとき、ようやく彼の想いが伝わってきたのだ。
イズーは本当に、自分のことを愛してくれている、と。
――だったら私も、真正面から受けて立つ。
ギャラリーがいるのが、少し恥ずかしかった。しかし世の中にはフラッシュモブだとか、公衆の面前で踊り歌いながら堂々とやってのける輩もいる。それに比べれば、自分がしようとしていることなんて、可愛いものだろう。
ここが勝負どころである。今を逃したら、イズーは二度と帰ってこない気がした。
――なんとなくだけど。
それは選ばれし者のみが有する、人智を超えた第六感にほかならない。
風吹はイズーに向かって、腕を差し出した。上を向いた手のひらには、先ほどカバンから取り出したなにかが乗っている。
「仕事が早く終わったから、取りに行って来たんだ」
風吹が持っていたのは、ケースだ。上側の蓋に手を掛けると、貝のように開く。中にはクッションに収まった、二つの指輪が入っていた。
「結婚しよう、イズー!」
満面の笑みで、風吹は言った。
――誰の足も、指も、髪も、一本足りとも動かず、夜の川に沈黙が流れた。
「あ、えーと。ダメでもOKでも、なにか言って欲しいな……」
重い雰囲気に耐えられなくなった風吹がつけ足すと、彼女の前で微動だにしなかったイズーが、ふるふると震え出した。無表情だった顔は、仮面がひび割れるかのように歪み始め、青い瞳から一粒、涙がこぼれ落ちる。
「風吹の……バカあ……」
そのあとは堰を切ったようにべそべそ泣きながら、イズーは思いの丈をぶち撒けた。
「やきもちなんて……! 俺がっ、風吹以外のっ、女を……っ! 欲しがるわけないじゃないかっ! お前だけがいればいいのにっ! お前だけが欲しいのに……っ!」
「あー……」
一旦指輪のケースを閉じると、風吹はカバンから今度はポケットティッシュを取り出し、イズーの横に寄り添うように立った。風吹が側に来ても威嚇することもなく、逃げることもなく、イズーは嗚咽を漏らしている。
「ほら、泣かないで」
イズーは泣くのと怒鳴るのとで忙しく、呼吸がおかしくなっている。彼の目や鼻を、風吹はティッシュで拭いてやった。
「風吹のバカ、バカあ……! 鬼! 悪魔! お前は、魔王なんかより、ひどい奴だ!」
「うんうん、ごめんね」
「もう、出て行けって言わないか……っ!? 絶対言わないかっ!?」
「言わない、言わない」
ひととおり顔を綺麗にしてやると、風吹はにっこり笑って、イズーを見上げた。
「で、結婚してくれる?」
「――する!」
今度は即答すると、イズーは風吹を力いっぱい抱き締めた。
風吹に触れた瞬間、イズーの周りに浮き立っていた赤い靄は、蒸発するかのようにしゅっと消えてしまった。――単純なものである。
「じゃあ、これ……」
雑誌等で吟味を重ねて、風吹が買った指輪は、プラチナ製だ。イズーは頬を赤らめ、手を差し出した。だが彼の左手の薬指には、別の指輪が嵌っている。
「あれ?」
「あっ!」
イズーは大祐から奪ったマジックリングを素早く抜き取ると、ぽいっと投げ捨てた。慌ててそれをモモが拾う。
改めて風吹は、イズーに指輪を嵌めてやった。
「ちょっと大きいかな……。休みの日に、サイズを直してもらいに行こうね」
「うん。うん……!」
泣きやんだはずのイズーの瞳が、また潤む。魔王の指を飾った白金の指輪は、月光を浴び、キラキラと輝き出した。
すると世界を滅ぼさんと準備を整え、出撃のときを待っていた竜は――高く昇ったかと思うと、くるりと宙返りし、突如弾けてしまった。
竜の体を形作っていた全ては粒に戻り、元あった場所へ還っていく。夜空に広がった七色の光のシャワーは、幻想的で美しかった。
「きれい……!」
「花火みたいだな」
うっとりと頭上の光景に見惚れていた大祐とモモを、幻燈がつつく。幻燈は髭の生えた口元に人差し指を立てると、退場を促した。
「俺、頑張るからっ! 金は稼げないけど! 料理も掃除ももっと頑張って、風吹を幸せにするからっ!」
「今のままで充分だよ、イズー。大好きだよ」
「俺も! 俺も愛してる! 風吹、ああ、風吹、風吹、ふぶきふぶきふぶき……!」
幻燈たち三人は、固く抱き合ったイズーたちに気づかれぬよう、そろりそろりと足音を消して、土手を去った。
「いったい、なんだったんだ……。私たちはカップルのケンカに巻き込まれただけなのか? バカバカしい!」
モモは小声でぶうぶう文句を言っている。大祐も狐につままれたような表情だ。
幻燈だけが一人、したり顔である。
「結局は、定められたとおりの者が、役目を果たしたってことですかねえ……」
こうして、二つの世界の破滅は、無事回避された。
空には月と星々が煌々と輝く。
終わってみれば、いい夜であった。
そのあとの話を、少し、しよう。
早水 大祐は魔王の座を失った翌日、会社に辞表を提出した。
一ヶ月間きっちり仕事の引き継ぎを行い、立つ鳥跡を濁さず、異界へ旅立っていった。
その後、大祐は異界で艱難辛苦の戦いを繰り広げたのち、魔物と人間が共存できる世を築いた。プライベートではモモと結ばれ、六人の子に恵まれた。
魔王に返り咲くこともなく、勇者にもなれず、ハーレムも作れなかったが、愛妻とたくさんの子供たちに囲まれた晩年の大祐は、まんざらでもなさそうだったという。
彼はもう二度と、元の世界に戻ることはなかった。
海月 幻燈は、早水 大祐に後始末を頼まれた。
幻燈は大祐の生家や不要品を処分し、そこで得た金を、イズーが風吹と共に生きていくための、最低限の準備に使った。残りは、福祉団体に寄付したという。これらは全て、大祐の意思に従ったものだ。
大祐いわく、「これから世界を平和にしようというのに、滅ぼされたらかなわんし」とのことである。
幻燈とクララ夫妻の第一子は、女の子であった。その後、更に二人の子宝に恵まれた彼らは、風呂が自慢の豪邸で仲良く暮らしている。
イズーと風吹は、イズーの戸籍が正式に整ってからすぐ、入籍した。二人の間には、一男一女が生まれた。
ちょうど女性社員についての人事を、今一度見直す時機に来ていた会社が、モデルケースにしようと目をかけてくれたおかげで、風吹は順調にキャリアを積むことができた。自身も最大限努力した結果、風吹は将来、親会社の役員にまで出世することになる。
イズーは幻燈のところで細々と仕事をしつつ、家事と育児の大半を受け持った。
家を完璧に守り、子供を立派に育て上げた彼は、風吹とずっと仲が良く、地味ながらも充実した毎日を送った。
これから先も、魔導師イズーは表舞台に出ることはないのだろう。しかし魔導師は、なににも変えがたい幸せを手に入れることができた。
イズーが永遠の眠りに就くとき、魔王もまた静かに滅ぶことになる。
そのときこそ真実、予言は外れ、そして世界は続いていくのだ。
さて、時間は巻き戻り、大祐が異界へ旅立った翌日、そしてイズーと風吹が入籍する三ヶ月ほど前のことだ。
区役所に取りに行った戸籍抄本を手に、イズーはにまにま笑っている。イズーが持っているのは、今度こそ正真正銘、彼自身の戸籍だ。以前、風吹に大祐のものを見せてしまった手前、名前は「早水 大祐」となっているが、それ以外は微妙に異なる、「同姓同名の別人」ということにしてある。この戸籍は、幻燈がコネを利用し、親切にも作ってくれたものだ。
「このまま風吹さんと結婚できなければ、またもや魔導師殿の中の魔王が目覚めて、世界の終末が訪れるかもしれませんからね……」
なんでもスポンサーは、「絶対零度の死神」だそうな。
ともかくこれで結婚もできるし、念願だった携帯電話だって買える。どの機種にしようか、イズーがスマートフォンのパンフレットをうきうきと眺めていると、家の電話が鳴り、風吹が出た。
「あ、お父さん? えっ、えー? そんな急に、もー。まあいいや、会わせたい人がいるの。お母さんから聞いてる?」
受話器に向かって話しながら、風吹はちらっとイズーを見て、微笑んだ。――なんだろう。
風吹が電話を切ったあと、イズーは尋ねた。
「誰からだ?」
「お父さん。近くに来てるんだって。今から、寄るって」
「な、なんだと!?」
イズーは洗面所に駆け込むと、髪を整え、髭を剃り直した。また居間に戻ってくると、おろおろと風吹に意見を乞う。
「もっとちゃんとした服を着たほうがいいか!?」
「えー、いいよ、別に」
風吹は笑いながらソファから立つと、台所へ向かった。そのあとをイズーは、親ガモについて行く子ガモのように追う。
「やっぱりスーツ、買っておけば良かった……!」
「だから、平気だってば。うちのお父さんだって、いっつもラフな格好なんだから」
そんなことを言い合っていると、チャイムが鳴った。
イズーは飛び上がると、玄関に走った。風吹はくすくす笑いながら、お茶の準備を始める。ガスコンロに乗せたケトルの上で、両手鍋の付喪神も笑みを浮かべていた。
「はい! はいはいはい!」
イズーがドアを開けると、そこには厳しい面構えをした男性が、一人立っていた。
「……風吹の父だ」
両脇にたくさんの荷物を抱えた男は、そう名乗った。
風吹の父だというその人は真っ黒に日焼けしており、背は高くないが、手足は太く逞しく、胸周りも厚い。だいぶ歳はいっていたが、腕っ節では負けそうだ。
「お前が、うちの風吹と結婚したいという男か?」
風吹の父は、イズーの顔をじろじろ眺め回した。
不躾な視線を向けられても、愛する人の父君からならば、甘んじて受けねばなるまい。イズーは直立不動で、なんとか笑顔を作った。
「は、はじめまして、お父様……! ぼくは、はやみず だいすけといいます。頭文字を取って、イズーと呼んでください」
どこの頭文字をどのように取っても、「イズー」とはならないので、騙されてはいけない。
男は大きなため息をついた。
「まったく。よりによって、なんでお前なんだ」
「え?」
どこかで会っただろうか。
必死に記憶を辿るイズーを押し退け、風吹の父は部屋に入り込んだ。そして振り返り、むすっとした顔のまま言った。
「歳を食ったこの俺が、何十年も前のことを覚えているっていうのに、まだ若いお前がなんで忘れてるんだ。お前からしたら、どうせまだ数ヶ月しか経ってないんだろ?」
「えーと……」
あなたは誰ですか?
問う前に、風吹の父は吐き捨てるように答えた。
「勇者だよ」
「ええええええええ!?」
イズーが大声を上げると、台所にいた風吹が不思議そうにひょいと姿を現した。
「風吹、ぶどうを持ってきたぞ。あとな、水ようかん! この店のは、最高に美味いんだ!」
驚愕に慄くイズーをほったらかしに、風吹の父はデレデレと相好を崩し、持ってきた大量の荷物――お土産を、得意気に娘に献上するのだった。
~ 終 ~
あの神秘的で厳然とした竜の前で、風吹はよくもまあマイペースに振る舞えるものだ。いくら見えていないとはいえ、あんなにも大きく、しかも七色にピカピカ派手に光っているのに。
気配すら感じないなんて、ある意味すごい。幻燈も大祐もモモも、呆れつつ、感心した。
「あ。あった」
風吹はカバンからなにか取り出した。幻燈たちからは暗くてよく分からないが、さほど大きいものではなさそうだ。
「ねえ、イズー、こっち向いて」
「……………………」
風吹の呼びかけに、イズーは沈黙をもって応えている。ふうと大きく息を吐いてから、風吹は再び口を開いた。
――が。
「ほーら、イズー、いい子いい子。いい子だねー。おいでー。こっち見て見て、ほらー、おいでおいでー」
時折ピィピィと口笛を吹いたり、甲高い作り声を出したりして、風吹はイズーの気を引こうとしている。
幻燈たち三人は、眉を顰めた。
「なんだ、あれは。あの女は、イズー様をバカにしているのか!?」
「うーーーーーーーーーーーん」
風吹の不真面目としか思えない態度に、モモは大いに立腹している。意図が読めず、幻燈は首を捻った。
そんな中、大祐だけは掛けているメガネの位置を直し、食い入るように風吹を見詰めている。
「いや……。いい。すごく、いい……。あの、犬っころでも相手にするかのような仕草は、斬新だ。俺たちにとっては、ご褒美だ……」
さすがというべきか、大祐は鋭い。ただし先ほどの奇抜な見解は、旧魔王という経歴ではなく、「ややM」という彼の性質が語らせたものだろう。
犬。そう、風吹はここにきて、かつての愛犬とイズーの姿を重ねていた。
普段はしつこいくらいまとわりついてくるのに、一度機嫌を損ねると、どんなに呼んでも来ない。
――セバスチャン。
真っ白な毛並みのあの犬も、お風呂に入れたあとや注射を打ちにいったときなどはへそを曲げ、なかなか風吹を許してくれなかった。そういうときは下手に出て、おやつで釣るしかなかったのだ。
「ほーら、イズー。いいものあるよー。おいでおいで~」
風吹が二、三回誘ったところで、イズーは音が出そうなほど重々しく、ゆっくり振り返った。
眉は吊り上がり、青い瞳には憎しみと怒りの炎が灯っている。
大祐から継いだ魔王の証である赤い靄は、未だイズーの全身を覆っており、風吹と目が合った瞬間、一層高く波立った。靄は今や、イズーの怨念そのものと化している。
並の人間ならば、睨まれただけで全身が凍りつく――魔王。しかし風吹はその魔王様と対峙して、むしろ安堵していた。
「やっとこっち見てくれた! あのね、イズー……」
はしゃぐ風吹を遮り、イズーは尋ねた。
「ひとつ聞きたい。――お前はなぜ急に、俺を拒んだ?」
「えっ!? 分からないの?」
「分からんから、聞いている」
「ええーーー! イズーって、めちゃくちゃ鈍いなあ!」
「鈍い」。
――それを、お前が、あなたが、主任が、言うのか。
傍観するしかない三人組は、せめて心でツッコミを入れた。
目を丸くしていた風吹は、やがてもじもじし始めた。
「もしかして、意地悪で言ってるの? だってさー……。おばさんかもしれないけど、私だって女だよ。ヤキモチだってやくよ……」
「や。………………………………………やきもち?」
やきもち。
あまりに予想外の真相を告白されて、イズーの頭の中は真っ白になった。失われたはずの古代の魔法文字を発見したときだって、ここまで驚かなかったかもしれない。
風吹はイズーの変化に気づかず、ちらっと自分たちの後ろにいるモモに目をやった。
「あんなに若くて可愛くて、イズーと同じ趣味の女の子を家に連れ込んで……。嫉妬もするし、誤解するなっていうほうが無理だと思うんだけど」
「……………………」
「やっぱりイズーは、単に私に寄生したいだけだったんだーとか、嫌なこと色々考えちゃって……」
イズーはショックから回復せず、身動きひとつできずにいる。風吹はここぞとばかりに畳み掛けた。
何の話かさっぱり分からないが、風吹優勢のこの戦いに、幻燈たちは見入っている。
風吹は正直に言えば、イズーからどれだけ好きだとか愛してるとか囁かれても、これまで半信半疑だった。だが先ほど自宅の台所で、イズーが使っている料理本を見つけ、その中身を読んだとき、ようやく彼の想いが伝わってきたのだ。
イズーは本当に、自分のことを愛してくれている、と。
――だったら私も、真正面から受けて立つ。
ギャラリーがいるのが、少し恥ずかしかった。しかし世の中にはフラッシュモブだとか、公衆の面前で踊り歌いながら堂々とやってのける輩もいる。それに比べれば、自分がしようとしていることなんて、可愛いものだろう。
ここが勝負どころである。今を逃したら、イズーは二度と帰ってこない気がした。
――なんとなくだけど。
それは選ばれし者のみが有する、人智を超えた第六感にほかならない。
風吹はイズーに向かって、腕を差し出した。上を向いた手のひらには、先ほどカバンから取り出したなにかが乗っている。
「仕事が早く終わったから、取りに行って来たんだ」
風吹が持っていたのは、ケースだ。上側の蓋に手を掛けると、貝のように開く。中にはクッションに収まった、二つの指輪が入っていた。
「結婚しよう、イズー!」
満面の笑みで、風吹は言った。
――誰の足も、指も、髪も、一本足りとも動かず、夜の川に沈黙が流れた。
「あ、えーと。ダメでもOKでも、なにか言って欲しいな……」
重い雰囲気に耐えられなくなった風吹がつけ足すと、彼女の前で微動だにしなかったイズーが、ふるふると震え出した。無表情だった顔は、仮面がひび割れるかのように歪み始め、青い瞳から一粒、涙がこぼれ落ちる。
「風吹の……バカあ……」
そのあとは堰を切ったようにべそべそ泣きながら、イズーは思いの丈をぶち撒けた。
「やきもちなんて……! 俺がっ、風吹以外のっ、女を……っ! 欲しがるわけないじゃないかっ! お前だけがいればいいのにっ! お前だけが欲しいのに……っ!」
「あー……」
一旦指輪のケースを閉じると、風吹はカバンから今度はポケットティッシュを取り出し、イズーの横に寄り添うように立った。風吹が側に来ても威嚇することもなく、逃げることもなく、イズーは嗚咽を漏らしている。
「ほら、泣かないで」
イズーは泣くのと怒鳴るのとで忙しく、呼吸がおかしくなっている。彼の目や鼻を、風吹はティッシュで拭いてやった。
「風吹のバカ、バカあ……! 鬼! 悪魔! お前は、魔王なんかより、ひどい奴だ!」
「うんうん、ごめんね」
「もう、出て行けって言わないか……っ!? 絶対言わないかっ!?」
「言わない、言わない」
ひととおり顔を綺麗にしてやると、風吹はにっこり笑って、イズーを見上げた。
「で、結婚してくれる?」
「――する!」
今度は即答すると、イズーは風吹を力いっぱい抱き締めた。
風吹に触れた瞬間、イズーの周りに浮き立っていた赤い靄は、蒸発するかのようにしゅっと消えてしまった。――単純なものである。
「じゃあ、これ……」
雑誌等で吟味を重ねて、風吹が買った指輪は、プラチナ製だ。イズーは頬を赤らめ、手を差し出した。だが彼の左手の薬指には、別の指輪が嵌っている。
「あれ?」
「あっ!」
イズーは大祐から奪ったマジックリングを素早く抜き取ると、ぽいっと投げ捨てた。慌ててそれをモモが拾う。
改めて風吹は、イズーに指輪を嵌めてやった。
「ちょっと大きいかな……。休みの日に、サイズを直してもらいに行こうね」
「うん。うん……!」
泣きやんだはずのイズーの瞳が、また潤む。魔王の指を飾った白金の指輪は、月光を浴び、キラキラと輝き出した。
すると世界を滅ぼさんと準備を整え、出撃のときを待っていた竜は――高く昇ったかと思うと、くるりと宙返りし、突如弾けてしまった。
竜の体を形作っていた全ては粒に戻り、元あった場所へ還っていく。夜空に広がった七色の光のシャワーは、幻想的で美しかった。
「きれい……!」
「花火みたいだな」
うっとりと頭上の光景に見惚れていた大祐とモモを、幻燈がつつく。幻燈は髭の生えた口元に人差し指を立てると、退場を促した。
「俺、頑張るからっ! 金は稼げないけど! 料理も掃除ももっと頑張って、風吹を幸せにするからっ!」
「今のままで充分だよ、イズー。大好きだよ」
「俺も! 俺も愛してる! 風吹、ああ、風吹、風吹、ふぶきふぶきふぶき……!」
幻燈たち三人は、固く抱き合ったイズーたちに気づかれぬよう、そろりそろりと足音を消して、土手を去った。
「いったい、なんだったんだ……。私たちはカップルのケンカに巻き込まれただけなのか? バカバカしい!」
モモは小声でぶうぶう文句を言っている。大祐も狐につままれたような表情だ。
幻燈だけが一人、したり顔である。
「結局は、定められたとおりの者が、役目を果たしたってことですかねえ……」
こうして、二つの世界の破滅は、無事回避された。
空には月と星々が煌々と輝く。
終わってみれば、いい夜であった。
そのあとの話を、少し、しよう。
早水 大祐は魔王の座を失った翌日、会社に辞表を提出した。
一ヶ月間きっちり仕事の引き継ぎを行い、立つ鳥跡を濁さず、異界へ旅立っていった。
その後、大祐は異界で艱難辛苦の戦いを繰り広げたのち、魔物と人間が共存できる世を築いた。プライベートではモモと結ばれ、六人の子に恵まれた。
魔王に返り咲くこともなく、勇者にもなれず、ハーレムも作れなかったが、愛妻とたくさんの子供たちに囲まれた晩年の大祐は、まんざらでもなさそうだったという。
彼はもう二度と、元の世界に戻ることはなかった。
海月 幻燈は、早水 大祐に後始末を頼まれた。
幻燈は大祐の生家や不要品を処分し、そこで得た金を、イズーが風吹と共に生きていくための、最低限の準備に使った。残りは、福祉団体に寄付したという。これらは全て、大祐の意思に従ったものだ。
大祐いわく、「これから世界を平和にしようというのに、滅ぼされたらかなわんし」とのことである。
幻燈とクララ夫妻の第一子は、女の子であった。その後、更に二人の子宝に恵まれた彼らは、風呂が自慢の豪邸で仲良く暮らしている。
イズーと風吹は、イズーの戸籍が正式に整ってからすぐ、入籍した。二人の間には、一男一女が生まれた。
ちょうど女性社員についての人事を、今一度見直す時機に来ていた会社が、モデルケースにしようと目をかけてくれたおかげで、風吹は順調にキャリアを積むことができた。自身も最大限努力した結果、風吹は将来、親会社の役員にまで出世することになる。
イズーは幻燈のところで細々と仕事をしつつ、家事と育児の大半を受け持った。
家を完璧に守り、子供を立派に育て上げた彼は、風吹とずっと仲が良く、地味ながらも充実した毎日を送った。
これから先も、魔導師イズーは表舞台に出ることはないのだろう。しかし魔導師は、なににも変えがたい幸せを手に入れることができた。
イズーが永遠の眠りに就くとき、魔王もまた静かに滅ぶことになる。
そのときこそ真実、予言は外れ、そして世界は続いていくのだ。
さて、時間は巻き戻り、大祐が異界へ旅立った翌日、そしてイズーと風吹が入籍する三ヶ月ほど前のことだ。
区役所に取りに行った戸籍抄本を手に、イズーはにまにま笑っている。イズーが持っているのは、今度こそ正真正銘、彼自身の戸籍だ。以前、風吹に大祐のものを見せてしまった手前、名前は「早水 大祐」となっているが、それ以外は微妙に異なる、「同姓同名の別人」ということにしてある。この戸籍は、幻燈がコネを利用し、親切にも作ってくれたものだ。
「このまま風吹さんと結婚できなければ、またもや魔導師殿の中の魔王が目覚めて、世界の終末が訪れるかもしれませんからね……」
なんでもスポンサーは、「絶対零度の死神」だそうな。
ともかくこれで結婚もできるし、念願だった携帯電話だって買える。どの機種にしようか、イズーがスマートフォンのパンフレットをうきうきと眺めていると、家の電話が鳴り、風吹が出た。
「あ、お父さん? えっ、えー? そんな急に、もー。まあいいや、会わせたい人がいるの。お母さんから聞いてる?」
受話器に向かって話しながら、風吹はちらっとイズーを見て、微笑んだ。――なんだろう。
風吹が電話を切ったあと、イズーは尋ねた。
「誰からだ?」
「お父さん。近くに来てるんだって。今から、寄るって」
「な、なんだと!?」
イズーは洗面所に駆け込むと、髪を整え、髭を剃り直した。また居間に戻ってくると、おろおろと風吹に意見を乞う。
「もっとちゃんとした服を着たほうがいいか!?」
「えー、いいよ、別に」
風吹は笑いながらソファから立つと、台所へ向かった。そのあとをイズーは、親ガモについて行く子ガモのように追う。
「やっぱりスーツ、買っておけば良かった……!」
「だから、平気だってば。うちのお父さんだって、いっつもラフな格好なんだから」
そんなことを言い合っていると、チャイムが鳴った。
イズーは飛び上がると、玄関に走った。風吹はくすくす笑いながら、お茶の準備を始める。ガスコンロに乗せたケトルの上で、両手鍋の付喪神も笑みを浮かべていた。
「はい! はいはいはい!」
イズーがドアを開けると、そこには厳しい面構えをした男性が、一人立っていた。
「……風吹の父だ」
両脇にたくさんの荷物を抱えた男は、そう名乗った。
風吹の父だというその人は真っ黒に日焼けしており、背は高くないが、手足は太く逞しく、胸周りも厚い。だいぶ歳はいっていたが、腕っ節では負けそうだ。
「お前が、うちの風吹と結婚したいという男か?」
風吹の父は、イズーの顔をじろじろ眺め回した。
不躾な視線を向けられても、愛する人の父君からならば、甘んじて受けねばなるまい。イズーは直立不動で、なんとか笑顔を作った。
「は、はじめまして、お父様……! ぼくは、はやみず だいすけといいます。頭文字を取って、イズーと呼んでください」
どこの頭文字をどのように取っても、「イズー」とはならないので、騙されてはいけない。
男は大きなため息をついた。
「まったく。よりによって、なんでお前なんだ」
「え?」
どこかで会っただろうか。
必死に記憶を辿るイズーを押し退け、風吹の父は部屋に入り込んだ。そして振り返り、むすっとした顔のまま言った。
「歳を食ったこの俺が、何十年も前のことを覚えているっていうのに、まだ若いお前がなんで忘れてるんだ。お前からしたら、どうせまだ数ヶ月しか経ってないんだろ?」
「えーと……」
あなたは誰ですか?
問う前に、風吹の父は吐き捨てるように答えた。
「勇者だよ」
「ええええええええ!?」
イズーが大声を上げると、台所にいた風吹が不思議そうにひょいと姿を現した。
「風吹、ぶどうを持ってきたぞ。あとな、水ようかん! この店のは、最高に美味いんだ!」
驚愕に慄くイズーをほったらかしに、風吹の父はデレデレと相好を崩し、持ってきた大量の荷物――お土産を、得意気に娘に献上するのだった。
~ 終 ~
0
お気に入りに追加
455
あなたにおすすめの小説
どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします
文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。
夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。
エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。
「ゲルハルトさま、愛しています」
ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。
「エレーヌ、俺はあなたが憎い」
エレーヌは凍り付いた。
極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~
恵喜 どうこ
恋愛
「高校合格のお礼をくれない?」
そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。
私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。
葵は私のことを本当はどう思ってるの?
私は葵のことをどう思ってるの?
意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。
こうなったら確かめなくちゃ!
葵の気持ちも、自分の気持ちも!
だけど甘い誘惑が多すぎて――
ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。
わたしは婚約者の不倫の隠れ蓑
岡暁舟
恋愛
第一王子スミスと婚約した公爵令嬢のマリア。ところが、スミスが魅力された女は他にいた。同じく公爵令嬢のエリーゼ。マリアはスミスとエリーゼの密会に気が付いて……。
もう終わりにするしかない。そう確信したマリアだった。
本編終了しました。
騎士団寮のシングルマザー
古森きり
恋愛
夫と離婚し、実家へ帰る駅への道。
突然突っ込んできた車に死を覚悟した歩美。
しかし、目を覚ますとそこは森の中。
異世界に聖女として召喚された幼い娘、真美の為に、歩美の奮闘が今、始まる!
……と、意気込んだものの全く家事が出来ない歩美の明日はどっちだ!?
※ノベルアップ+様(読み直し改稿ナッシング先行公開)にも掲載しましたが、カクヨムさん(は改稿・完結済みです)、小説家になろうさん、アルファポリスさんは改稿したものを掲載しています。
※割と鬱展開多いのでご注意ください。作者はあんまり鬱展開だと思ってませんけども。
エリート警察官の溺愛は甘く切ない
日下奈緒
恋愛
親が警察官の紗良は、30歳にもなって独身なんてと親に責められる。
両親の勧めで、警察官とお見合いする事になったのだが、それは跡継ぎを産んで欲しいという、政略結婚で⁉
妹に正妻の座を奪われた公爵令嬢
岡暁舟
恋愛
妹に正妻の座を奪われた公爵令嬢マリアは、それでも婚約者を憎むことはなかった。なぜか?
「すまない、マリア。ソフィアを正式な妻として迎え入れることにしたんだ」
「どうぞどうぞ。私は何も気にしませんから……」
マリアは妹のソフィアを祝福した。だが当然、不気味な未来の陰が少しずつ歩み寄っていた。
絶対に間違えないから
mahiro
恋愛
あれは事故だった。
けれど、その場には彼女と仲の悪かった私がおり、日頃の行いの悪さのせいで彼女を階段から突き落とした犯人は私だと誰もが思ったーーー私の初恋であった貴方さえも。
だから、貴方は彼女を失うことになった私を許さず、私を死へ追いやった………はずだった。
何故か私はあのときの記憶を持ったまま6歳の頃の私に戻ってきたのだ。
どうして戻ってこれたのか分からないが、このチャンスを逃すわけにはいかない。
私はもう彼らとは出会わず、日頃の行いの悪さを見直し、平穏な生活を目指す!そう決めたはずなのに...……。
この度、皆さんの予想通り婚約者候補から外れることになりました。ですが、すぐに結婚することになりました。
鶯埜 餡
恋愛
ある事件のせいでいろいろ言われながらも国王夫妻の働きかけで王太子の婚約者候補となったシャルロッテ。
しかし当の王太子ルドウィックはアリアナという男爵令嬢にべったり。噂好きな貴族たちはシャルロッテに婚約者候補から外れるのではないかと言っていたが
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる